16話 受け入れられない身体
「ここでならこんな繋ぎ方だって出来るのよ」
2人分の指は隙間なく重ねられる。恋人繋ぎは握手会でもやったことが無い。
もしかしたら他のファンの人はやっているのかもしれないけど、あたしは凛奈を前にすると恥ずかしくなって普通の握手だけで終わっていた。
しかし今、やってみたいなと密かに思っていたことが叶っている。
「嬉しい…です」
絡められている手はとても愛おしくて自然と言葉が漏れた。例え凛奈の本心で手を繋いでなくても勝手に胸が温かくなる。
本当にあたしは凛奈のことになると普通では居られなくなるらしい。
この後の展開は頭が馬鹿になっているあたしには予測出来なかった。
ずっと凛奈と手を繋いでいたい。こうやって手を離さなければあたしの前から居なくならないかな?
そうすれば凛奈が“消えてしまう”という心配もなくなるかもしれない。この手を掴んでいたい。凛奈が側に居てくれればあたしは生きられる。
そう思って凛奈の手に力を込めた瞬間だった。
「……っ!」
あたしの服の中に細い手が滑り込まれる。さっきまで頬から首を伝っていたはずだ。
けれど気付けば凛奈の手は下へと降りている。あたしは目が覚めたように頭を起こす。
まだ肌は見られていない。
すると凛奈は急に起き上がったあたしに首を傾げた。
「どうしたの?」
「あのこれ以上は」
「ダメ?」
「ダメ、です…」
「何で?」
「ダメなものはダメなんです…」
「貴方は私のこと好きじゃない?」
「好きです。好きですけど」
「なら受け入れて。今は自分の欲求に従いたいのよ。お願い、世奈ちゃん」
庭園でも見た光のない目はあたしを捉える。凛奈は怪しい手つきで脇腹を撫でてきた。
ピリッとした鈍い痛みがあたしの意識を引き戻す。このまま服を捲られたら、凛奈はどんな顔になるのだろう。
笑う?泣く?それとも引かれる?
……どれも違う。多分、感情を失った顔になる。
そんなことを考えている間も、凛奈の手はあたしの気持ちも知らずに上へと登っていく。
服が捲れそうになる一歩手前。
あたしは絡めていた手を離して両手で凛奈の肩を押した。
「世奈ちゃん?」
「ダメです」
「またそれ?」
「本当に。本当の本当にダメなんです」
「………」
「手を抜いてください…。お願いします」
「嫌と言ったら貴方はどうするの?」
「つ、突き飛ばします」
弱々しく声を震わせながらあたしは凛奈に警告を出す。それでも凛奈の表情は変わらず、眉を下げるあたしを眺めていた。
「推しを突き飛ばすことなんて出来るの?」
「………」
「はい」と言ってくれ。そう心の中で自分に願っても声は出てくれない。
あたしは元アイドルとファンの関係が崩れるのを恐れているのではない。ただこの身体を見て嫌われたくないのだ。
痛々しいアザや切り傷は凛奈が見ていいものではない。獣から与えられた傷をあたしは貴方に見せられない。
「あたしは」
誰もこうなることはわからなかった。それはあたしもだ。
凛奈の弱い部分を知って、キスをされて、押し倒される。未だに信じられないけど全部起こっている事実。
そしてあたしの身体が汚いのも夢ではなかった。
「あたしは凛奈が思っているほど綺麗じゃない…」
止まっていた凛奈の手が微かに動く。あたしは凛奈の肩を弱い力で遠ざけた。
そうすれば今までの力が嘘だったかのように凛奈は離れていく。服の中にあった手もゆっくりと抜けた。
「ごめんなさい」
凛奈はあたしの上から退いて、あたしは凛奈の横から抜け出す。服を整えたあたしは凛奈に背を向けて立った。
嫌われただろうか。空気を読めない奴だと思われただろうか。吐き出せない気持ちで服の裾を強く掴む。
すると後ろから何かの音が聞こえたと思えば、凛奈は立ち上がってテーブルの上に封筒を置いた。
「……これ、前のコンビニ代。お釣りとかは気にしないで良いから受け取って」
あたしは凛奈と目を合わせずに首を縦に振る。置かれた封筒を取ったあたしは、言葉を交わすことなくビジネスホテルの部屋から出た。
全てが一瞬の出来事のようだ。
速く歩く気にもなれずにゆっくりと廊下を踏み締める。ふと、廊下の電気が持っていた封筒を照らして中身が薄っすらと透けた。
「………多いですよ」
立ち止まって中身を見ると1万円札が顔を覗かせる。これが元アイドルの金銭感覚なのか。
あたしには理解出来ない。
封筒を閉じてビジネスホテルを後にしたあたしは、蒸し暑い夏の夜空の下に身を置いた。
花火の音はもう聞こえない。その代わり、駅前の道路にはいつもより多い数の車が行き来している。
「凛奈」
ポツリと呟いた名前は車の音で消えてしまう。
もし、身体の傷が無かったらあのまま受け入れられていたのだろうか。
でも傷をつけられる原因を作ったのは紛れもなくあたし自身だ。辿れない未来を想像する権利なんて持ってない。
夢のような時間はあっという間に終わってしまった。もう唇の感触も触れられた手の感覚も思い出せなくなっている。
あたしは、自分の手の体温を確かめながら夜の市街へ足を向けた。