11話 見え隠れする裏面
頭の中が焦りで埋め尽くされる。さっきまで腰にあった凛奈の体温は夏の暑さで上書きされていた。
なのに撫でる感触はビジネスホテルを出た今でも鮮明に残っている。
あたしはそれをかき消したくて近くにあった小さな公園に向かった。
「はぁっ、はぁ…っ」
逃げるような早歩きでここまで来たから息が上がっている。
公園の中にある水飲み場に行くと、蛇口を逆さにして水を吹き出させた。
顔が濡れるとか、髪が乱れるとか関係ない。ただ今は自分自身の中にある恐怖と熱い体温を0にしたかった。
「ぷはっ」
苦しくなったら水を止めて首を振る。水滴が周りに飛び散って土へと落ちていった。
そのまま俯いていればポタポタと水受けに垂れていく。まるで何かのドラマみたいだ。
やるせない気持ちを水で流すようにする青春みたいな。
「はは…」
しかしあたしにはそんな青春には程遠い。
乾いた笑いは一旦沈んだ恐怖を湧き上がらせる材料となってしまった。またあたしは蛇口を捻って水を出す。
誰かに見られたら引いた眼差しを向けられるだろう。でもこればかりは仕方ない。
こうするしか方法が浮かばないのだから。
「………」
水を当て、止めて、また苦しくなって水を当てる。今日は日差しが強いはずなのにあたしの体温は下がりつつあった。
ふと、自分の腰に手を当ててみる。凛奈に触られた時とは違って何も感じない。
そのまま手を移動させて脇腹に触れるとズキリとした痛みが上半身に走った。
「ぃだっ…」
ちゃんと見てないけど、昨日新しくアザを付けられてしまったらしい。
痛みに目を瞑れば2人の顔が蘇る。父親と母親の悲痛な顔が浮かんできた。
悲しくて痛いのはあたしなのに2人は涙目になりながら罵声と暴行を繰り返す。その姿はまるで獣。
あたしの両親は自我を失い始めていた。
そんなフラッシュバックにトドメを刺すかのようにスマホの通知が1回鳴る。
最初は凛奈かなと思ったけどロック画面を見た瞬間、あたしの顔は青ざめた。
【どこいるの】
母親からのメッセージはとてつもなく冷たい。
想いも込められておらず、無機質な感情で送っているのを知っているから余計に怖く感じた。
【ねえ】
【どこ】
【バイト?】
立て続けに通知が鳴って背中に冷や汗が滲んでくる。
【バイト終わったら酒買ってきて。ママとパパの分】
【貴方そろそろ給料日だからお金あるでしょ?】
【学費はパパとママが出してるんだからよろしくね。世奈ちゃん】
公園に来た時よりも呼吸が荒くなって肩で息をする。髪の毛の水が頬を伝って服へと落ちた。
あたしは震える手でスマホのロックを解除する。赤く染まる7件の通知バッジはあたしにとって地獄の知らせのようなものだった。
「へ、返事、返さな、きゃ…」
片手でスマホを持っていると落としてしまいそうだ。それくらい震える手をもう片方の手で押さえつけてメッセージアプリを開く。
膝の力が抜けそうになってあたしは水道へ寄りかかった。
母親とのトークを押そうとすると、また1件のメッセージが届く。
「……凛奈?」
早く母親に返事を返さなきゃと思っていた。なのにあたしは無意識に凛奈のトーク欄を開いてしまう。
【今日はありがとう。さっきは急に触ってごめんなさい。多分熱は明日には下がっていると思う。花火大会、楽しみにしているわね】
「凛奈……」
怖かったのが一気に無くなったように体が軽くなる。震える手も、力が抜けた膝も一瞬で元に戻った。
【こちらこそ、すぐに帰ってすみませんでした。また何かあれば連絡ください。あたしも花火大会楽しみにしています】
推しの力は凄い。まるで魔法だ。心拍数も落ち着いて気持ちも安定してくる。
あたしは寄りかかる水道から身を離し、頬に垂れる水を拭う。髪の毛の水分が目に入ったのか滲んで画面がよく見えない。
凛奈からの「ありがとう」のスタンプに既読を付けて、あたしは母親のトーク画面を開く。
「今に始まったことじゃない……でしょ」
そう自分に言い聞かせてスマホに水滴を落としながら返信した。
大丈夫。あたしにはまだ支えがある。普通なら手に届かない支えが目の前にあるのだ。怖がる必要はまだ無い。
あたしはスマホを閉じてポケットに放り込む。バッグを掛け直した後、ゆっくりと公園を出て行った。
【今バイトが終わりました。お酒買ってきます】