第36話 風邪
ほどなくして、私たちは街に辿り着くことができた。
激しく吹き荒れる雨風により、家の外に出る者などいるはずがない。
メインストリートには、人っ子一人いなかった。
私たちは、宿屋を探して走る。
街の門をくぐって、街の中心へと向かっていると、宿屋や食堂などが連なるエリアがあった。
私たちは、その中の一つの宿屋に飛び込んでいた。
「おやおや、旅の方ですか?こんな豪雨の中を大変でしたね」
宿屋の主人が、ずぶ濡れになっている私たちの姿を見て、温かく迎えてくれた。
タオルを渡されたので、濡れた身体を拭く。
けれど、床に滴るほど濡れた私たちは、タオルの一枚程度では拭いきれなかった。
「お風呂はいつでも入れますので、温まってください」
部屋の鍵を渡され、私たちは足早に部屋へと向かった。
「街が近くて良かったねぇ~」
「ああ、そうでなければ、ずぶ濡れのまま過ごさなきゃならなかったからな」
セレスさんもマックスさんもタオルで濡れた服ごと身体を拭いている。
「でも、濡れたままだと風邪をひいてしまいますね」
私も濡れた服ごと身体を拭いているけれど、濡れた服は重く、肌にべったりとまとわりついてくる。
「クシュン!」
可愛らしいくしゃみをニット君がした。
「大丈夫?ニット君」
彼の身体をタオルで拭いてあげる。
「アテナ様……寒いよ……」
ニット君は、自らの両手で身体を抱きかかえるようにし、身を縮こまらせて小刻みに震えていた。
「風邪をひいたら大変ね。お風呂に行って温まりましょう」
私は、ニット君の濡れた服ごと身体を抱き上げる。
私自身も濡れているので、気にすることはない。
私は、ニット君を連れてお風呂場へと向かった。
宿屋の地下にある入浴施設。
ニット君とともに女湯に入り、脱衣場で濡れた洋服を脱ぎ捨て、早々にお風呂場へと向かう。
数人の女性が、お風呂場にはいた。
多分、私たちと同じように雨に濡れたので、身体を温めに来た人たちだと思う。
私は、洗い場でニット君の身体を洗い終えると、自分の身体と髪を手早く洗った。
かなり長い時間、雨に打たれた身体は芯から冷え切っていた。
なので、湯船に浸かる際は、ものすごく熱く感じだ。
「熱っ……熱っ……」
湯船に身体を沈めていくと、ニット君は熱がって身体を震わせていた。
それでも、我慢してゆっくりと湯船に身を沈めていくと、「はぁ~……生き返る~……」と言葉が自然と漏れていた。
「温かいね。ニット君」
「うん、僕、お風呂大好き」
私に抱き着きながら、ニット君は言った。
ニット君を抱えたまま、しばらく湯船に浸かった後、私は彼を湯船内の円柱の上に乗せた。
お風呂場は、かなり広い。
洗い場には十二か所ほど壁から生え出た突起……固定式のシャワーが備え付けてあり、壁に設置された取っ手を押したり引いたりすることでお湯や水を出すことができる。
湯船は、四十人くらいが一度に入れるほど大きかった。
その湯船は入り口側の端から階段状になっていて、腰の辺りまで湯につかると緩やかな下り傾斜になっていた。
傾斜になっている底は、滑りにくいようにざらざらとした感触になっていて、一種の滑り止めのような機能を果たしている。
慎重に湯船の底を確かめながら下り、私の肩辺りまでが湯に浸かる深さになると、そこからは平坦な状態になっていた。
ここの宿屋の湯船は、そんなにも深くはないみたい。
だいたいのつくりはどこの宿屋も同じだけれど、湯船の深さとお湯が垂れ流しになっている物体だけは各宿屋によって多少の違いがあった。
湯船を並々と満たすお湯は、湯船の入り口から見ると奥の壁際に設置されたオブジェから出てきている。
豪華なほどに無数のお花が刺さった花瓶のようなオブジェからお湯が溢れ出ている。
結構大きなオブジェで、あそこから垂れ流しにされているお湯はかなり熱い。
なので、オブジェのそばには誰も近寄ろうとはしない。
熱いお湯を好む人だけが、オブジェのそばに陣取ることはあるけれど、あまりそんな光景を目の当たりにしたことはなかった。
だって、本当に熱くて湯船に浸かっていられないくらいだもの。
その湯船内には、不規則に円柱がいくつも立っている。
円柱は湯船から飛び出しているものもあれば、湯船内に沈んでいるものもある。
湯船の中は最大で立った状態の私の喉元までが湯につかるほど深いので、小さな子供は足が着かず溺れてしまう。
そのため、湯船内にある円柱の上に立たせたり、座らせたりして子供とともに入れるようになっている。
他にも、その円柱に大人は立ったまま寄りかかって、湯船に浸かることができる。
どこかの国では、湯船が非常に浅く作られていて座って入るということを聞いたことがあるけれど、私は今まで立った状態でお風呂に入るスタイルしか知らない。
これが私たちの間では普通だからだ。
座った状態で湯船に浸かるというスタイルは、想像ができなかった。
「ふぅ~……温まるわねぇ~」
円柱に背中を預けながら、湯船で冷え切った身体をじっくりと温める。
「ふぃ~……」
ニット君も円柱の上に座り込んで胸元までを湯船に浸しながら息を吐いていた。
「クシュン!」
ニット君は、くしゃみをして鼻をすする。
「大丈夫?ニット君?風邪でもひいたのかしら?」
私は、ニット君の額に私の額を押し当ててみる。
う~ん……お風呂に入りながら温まっている状態だから、熱があるのかどうかはわからなかった。
「大丈夫だよ、アテナ様。ちょっと寒かっただけだよ」
そう呟きながら、ニット君は湯船に肩まで浸かって身体を温めていた。
「お嬢ちゃん、ボーヤ。身体は温まったかい?」
不意に、私たちに声がかけられた。
見れば、いつの間にかセレスさんが湯船に入ってきていた。
「セレスさんもお風呂に入りに来たんですね?」
「ああ、さすがに身体が冷え切っちまったからねぇ~。風呂で温まって、ゆっくりしたいからねぇ~」
セレスさんは、身体にタオルを巻いてはいなかった。
にもかかわらず、堂々としていて、目の前にニット君がいるにもかかわらず隠そうともしていなかった。
生白く、きめ細かで弾力と張りのある肌は、とても綺麗で美しかった。
私とは比べ物にならないくらいの豊満な肉体美は、同性の私でも羨ましいと思うくらいだ。
私は、身体にバスタオルを巻いて誰にも裸を見られないように完全ガードしている。
やはり、スタイルに自信があると隠す必要がないのかしら?
いえ、羞恥心と言うものがないのかしら?
さすがに、ニット君にそんなセレスさんの一糸纏わぬ姿を見せるわけにはいかないので、私は大慌てでニット君の目元を手で覆い隠す。
「ニット君は見ちゃだめよ。それに、セレスさんは隠してください」
「んっ?別に見られたって減るもんじゃないからねぇ~」
あっけらかんと言い切るセレスさん。
くっくっくっ……と喉を鳴らして笑っていた。
ニット君がどんな反応をするのか、いえ、私の方がどんな反応をするのかを見たいがために面白がってやっているような気がするわ。
ちなみにニット君は無反応でした。
「そういう問題ではないと思いますけど……」
スタイルが良ければ私もそんなことを言ってみたい……とは思わないかな?
やっぱり恥ずかしい。
そういう反応が普通だと思うけれど……私の偏見かしら?
「私たちは、先に上がりますね」
ニット君を抱え上げて、私は湯船からそそくさと出る。
その際にチラッとセレスさんの方を見ると、一切恥ずかしげもなく湯船の中で大の字になってぷかぷかと仰向けで浮いていた。
他にもお客さんはいるけれど、ガラガラだから迷惑にはならないだろうけれど、ものすごく大胆な人だなと私は思った。
さすがに真似はできないわね。
お風呂から上がった私たちは、宿の割り当てられた部屋に戻ってきた。
部屋の中には、マックスさんはいなかった。
マックスさんも雨に濡れたので、お風呂に入りに行ったのかもしれない。
窓のそばに歩み寄り、外を見ると真っ黒い雲に覆われた空から降り注ぐ雨風が猛烈な勢いで吹き付けていた。
バチバチと音を立てて、宿屋の外壁や窓に大きな雨粒が叩きつけられている。
壁や窓が壊れてしまうのではないかと言うくらい大きな音を立てているし、風に煽られて壁や窓のきしむ音が非常に不安を掻き立ててくる。
バケツをひっくり返した所ではない。
バケツを振り回して、水を撒き散らしたという表現が合うような、類まれに見る大荒れの天気だった。
この調子だと、しばらくはこの雨風は止むことはないと思う。
まあ、先を急ぐ旅ではないので、のんびりとしていてもいいかもしれない。
「クシュン!」
窓の外を眺めていた私の足元で、ニット君がくしゃみをした。
もう何度目だろう。
ズズズ……と音を立てて鼻をすすっている。
「さっきからくしゃみをしているけれど、大丈夫?」
ニット君に声を掛けるけれど、「大丈夫だよ」と彼は返事を返してくる。
でも、何だか顔が赤い。
私は、ニット君の額に自分の額を押し当ててみる。
「あれ?熱い?」
お風呂から出たばかりだからかもしれないけれど、それにしても額が熱を帯びていた。
何だか、ニット君は元気がなく、だるそうにしていた。
街まで走ったから疲れたのかもしれないけれど、それにしても何だか様子がおかしい。
おとなしすぎる。
「クシュン!」
再び、ニット君はくしゃみをして鼻をすする。
「ニット君、本当に大丈夫?」
彼は、ぼ~とした様子で、首だけ上下に揺らして頷くだけだった。
「あぁ~……やっぱ、風呂は良いねぇ~」
上機嫌で、セレスさんがお風呂から戻って来た。
「あっ?セレスさん、ニット君の様子が変なんですけれど…」
ニット君が先ほどからくしゃみを連発していることを話した。
セレスさんは、手をニット君の額に当てながら、彼の様子を観察している。
「熱があるようだねぇ~。風邪をひいたのかもしれないねぇ~」
やっぱり、そうかもしれない。
「重くなる前に、医者に見せた方がいいかもしれないねぇ~」
「やっぱり、そうなんですね。お医者様に見てもらうことにします」
私は顔を赤くして、ぼ~としているニット君の身体を抱き上げた。
「一緒について行こうか?」
「いえ、大丈夫です」
私は、ニット君を抱えたまま部屋を飛び出して一階に駆け降りて行った。
宿屋の入り口にいた主人に事情を話してお医者様の場所を尋ねた。
すぐ近くにあるという。
悪天候なので、近くにあるのは非常に助かる。
「これをお使いください」
宿屋の主人は、雨避けの外套を貸してくれた。
私は外套を頭からかぶる。
ゆったりとした外套は、頭から足元までを十分に覆い隠してくれているので、これならば濡れる心配はなさそうだった。
ニット君も濡れないように外套で覆い、抱きかかえた。
外は大荒れの豪雨だけれど、この外套で雨は防げる。
「クシュン!」
ニット君はくしゃみをすると、ブルブルと身体を震わせていた。
「すぐにお医者様に連れて行ってあげるからね」
私の声が届いているかは、わからない。
ニット君は身体を震わせるだけだった。
宿屋の入り口の戸を開ける。
雨と風が一気に吹き付けてきた。
雨風の強さに一瞬怯んでしまったけれど、ぐずぐずはしていられない。
意を決して、私は宿屋を飛び出した。




