第35話 降り出した雨
「ううっ……寒い……」
冷たく澄んだ空気の流れが頬を撫でるようにすり抜けていき、微睡みの中にいた私の意識は強制的に眠りの中から呼び起こされた。
街道から少し外れた場所に立ち並ぶ、十数本の木々の根元に私とニット君は毛布に包まり、抱き合いながら寝ていた。
固い土くれの上で寝ることにも慣れてきたとはいえ、宿屋のベッドと比べるとその寝心地は最悪である。
寝返りを打った際に石などがあって、身体に当たって痛い思いをすることも稀にあるからだ。
けれど、こんな荒野の真ん中で快適に過ごせる環境は皆無なのはわかっている。
それを承知で、私は昨晩、この場所で眠りについたのだ。
昨日は、街道をひたすら歩いたけれど街までは辿り着けなかったので、薄暗くなり始めた頃合いを目処に野宿を決めてこの場所で一夜を明かしていた。
「おはようございます。セレスさん。マックスさん」
ニット君を抱きかかえたまま上体を起こし、すでに起きていた二人に挨拶をした。
「起きたかい。お嬢ちゃん、おはよう」
セレスさんは朝食の準備をしているようだった。
私がこうやってのんびりと眠っていられるのは、この人たちのおかげでもある。
無防備に野宿などしていたら、野良狼や魔物に襲われることがある。
でも、セレスさんとマックスさんが見張りをしてくれているので、こんな荒野の真ん中でも安心して眠ることができた。
そのことに対しては、いつも感謝している。
時々は、私も見張り役をすると声を上げるけれど、それは二人にやんわりと断られていた。
セレスさんとマックスさんの二人と比べると、私は冒険者となって日はまだ浅い。
近づいてくる魔物や獣の気配を敏感に感じ取ることができない。
危険を察知することが遅れれば、致命的な状況に陥ることは必至だ。
冒険者としての経験が長く、Bランクと言うそれなりの実力を持った二人だからこそ、寝ている間の警戒は重要だということを良く知っていた。
二人と出会う前は、私は一人で旅をしていて、そんな危険性のことなど何も考えずに野宿をしていた。
今思えば、運が良かったのだろう。
よく魔物などに襲われなかったものだと思う。
無知とは、恐ろしいものだ。
「おう、おはよう。ボーズは寝坊助だな」
私の胸の中で幸せそうな顔をしながら安らかな寝息を立てているニット君の姿を見て、マックスさんが笑っていた。
昨日は街を目指して頑張って歩いたので、かなり疲れたはず。
もう少し寝かせてあげていたいけれど、起こさなければならない。
先ほどから冷たい風が私の身体に体当たりするかのように、ぶつかっては通り過ぎて行く。
その風は、徐々に強さを増しているように感じる。
見上げた空は灰色の雲一色に覆いつくされ、天気が良くなるような感じはしなかった。
「ニット君、朝よ。起きて」
声を掛けながら、優しく身体を揺り動かす。
「あう?……おはよう……アテナ様……」
微かに目を開けたニット君は、寝ぼけ眼で挨拶をしてきた。
「おはよう、ニット君。朝ご飯にするわよ」
身体を包んでいた毛布を引き剥がすと「寒い」とニット君は声を上げて身を震わせていた。
可哀想だけれど、これで目は覚めるはず。
「目は覚めたかな?」
「うん、覚めたよ……」
ブルル……と寒風を受けて身を震わせ、温かさを求めて私に抱き着いて来た。
それほど、今朝の吹きすさぶ風は非常に冷たかった。
黒く空を覆いつくす雲。
私が目を覚ました時と比べると、どんよりと曇り始めた空模様は悪い方へと変わってきている。
今では黒く厚い雲が空一面を埋め尽くしていた。
「こりゃあ、一雨来そうだな」
朝食を取りながら、空を見上げてマックスさんが呟いた。
「この先に街があるようだから、そこまでは何とか降らないでほしいもんだねぇ~」
天気が荒れる予感がしている。
明らかに雨雲が広がってきている。
「それなら、早めに出発した方がいいですね」
私は、ちびちびと齧っていた干し肉を口の中にねじ込んで、慌てて咀嚼する。
その様子を見たニット君も同じように慌てていた。
私たちは簡単に食事を摂り、片づけを済ませると、即座に出発した。
街道を早足に進んでいく。
荒れ果てた荒野に所々申し訳なさげに点々と木々が立ち並ぶ光景が続いていた。
「街が見えてきたねぇ~」
セレスさんが突如、声を上げた。
反射的に顔を上げ、見つめる先には、街を覆う高い塀が見える。
急げば、お昼前には辿り着けるくらいの距離だと思う。
けれど、それまで雨が降らなければいいのだけれど。
雲行きは、かなり怪しい。
どんどん雲は厚みを増していき、黒く空を蹂躙していく。
いつ雨が降り出してもおかしくはない。
「ちょっと大変かもしれないけれど、急ぎましょう」
ニット君と手を繋ぎながら速足で歩く。
ニット君の歩幅は小さいので、やや駆け足気味になっていた。
それでも必死になって彼は着いてくる。
置いて行かれまいと、頑張って歩いてくれていた。
「あっ!?……雨が……」
私の頬に天から雨粒がポタリと落ちた。
口から洩れたその言葉に、みんなの足が一瞬止まった。
ポツ……ポツ……と暗雲に覆われた空が悲しみを現したかのように涙が零れ落ちてくる。
「街に着くまで、持たなかったみたいだねぇ~」
降り始めた雨を恨めしそうに見上げてセレスさんがぼやいた。
「だが、街までは目と鼻の先だ。走れば、大降りになる前には辿り着けるかもしれん」
「お嬢ちゃん、ボーヤ。走るよ」
セレスさんは、私とニット君に声を掛けると駆け出した。
マックスさんも、その後に続く。
「はい」
私は返事をして走り出す。
ニット君もつられて駆け出していた。
雨足は徐々に強くなって私たちに降り注いでくる。
打ち付ける雫が肌に当たる。
冷たい感触が、私たちの身体を徐々に濡らしていく。
痛みを覚えるほど雨粒は大きく、激しく天から降り落ちては身体を容赦なく打ち据えてくる。
「あうっ!」
私の後ろを必死の形相で追いかけるように走るニット君は、ややぬかるんだ地面に足を取られて転んでしまった。
「ニット君、大丈夫?」
私は足を止めると振り返り、彼の身体を抱き起す。
洋服は雨に濡れて肌にぴったりと貼りついていた。
それに加えて転んだことで、ニット君の洋服は泥だらけになってしまっていた。
顔も泥が飛び、ぺっぺっと口に入った泥を吐き出していた。
「もうちょっとで街だから、頑張ろうね」
私は、躊躇いもなくニット君を抱き上げる。
「あっ!……アテナ様の服が汚れちゃうよ」
泥だらけの洋服のニット君を抱きかかえたので、私の服にもその泥がついてしまった。
けれど、すでに雨に濡れて服は湿っている。
「気にすることはないわ。汚れたら洗えばいいんだもの」
私は彼を不安にさせないように微笑んだ。
小さな身体を抱え上げながら、私はセレスさんとマックスさんを追いかけて走り出した。
雨は本降りになり、すでに私もニット君もずぶ濡れになっていた。
当然、前を行くセレスさんとマックスさんも、ずぶ濡れだ。
「もう少しで街に辿り着くから、あと一息だよ」
セレスさんが、振り返って私に声を掛けてきた。
「はい」
私は声を上げて返事をし、ひた走った。
風も暴れるように吹き荒れ出し、進行方向から雨が吹きつけてくる。
バチバチと顔や身体に打ち付ける雨粒は、まるで石礫を浴びているかのようだった。
それほどに激しい豪雨だった。
雨に打たれて濡れた身体の体温がじわりと奪われていく。
雨のしみ込んだ服が肌にまとわりついて気持ち悪い。
転んだときに汚れたニット君の顔や服は、いつの間にか激しい雨によって泥がある程度流れ落ちていっていた。
それほど激しい雨だった。
私たちが走る街道は、周りには何もない。
荒れ地が続くのみ。
雨宿りする場所もない。
立ち止まっていたら、どんどん激しくなっていく風雨に身体が晒されるだけだ。
けれども、あと少しで街に辿り着ける。
負けるものかと気力を振るい起して、私はセレスさんたちの後を追いかけた。




