外伝1 勉強は大変
宿屋の一階で美味しい夕飯を食べ終わった後。
私とニット君、セレスさん、マックスさんの四人で三階の今夜宿泊する部屋に戻って来た。
マックスさんは、大剣の『ドラゴンバスター』を鞘から抜き放って手入れをしている。
セレスさんは、椅子に座ってテーブルに広げた古代文字が書かれた魔導書に目を通しながら、時折、頷いたりしていた。
ニット君は、部屋の中を見回ったり、窓際に椅子を運んでその上に立って窓の外の喧騒を眺めたりしていた。
各々、寝るまでの間の時間を自由に過ごしていた。
私は、ベッドに腰かけながら、背負い鞄から皮袋を取り出した。
かねてから用意していたものだ。
「ニット君。こっちに来てくれるかな?」
私が、窓の外を楽しそうに眺めていた彼の背に声をかけると「なあに?」と声を上げながら、駆け寄って来た。
「これをニット君に渡しておくわね」
皮袋をニット君の手の上に乗せる。
彼は不思議そうな顔をして皮袋を見つめている。
「中を開けてごらん」
私の指示に従って、彼はベッドの上に皮袋を置くと、口を閉じている紐をほどく。
「これって…お金?」
皮袋の中身を見て、上目遣いで私を見てくる。
「そうよ。お金よ。これをニット君に渡しておくわね」
「なんで?」
ニット君は、なぜ私がお金をくれるんだろうと不思議に思ったみたい。
「冒険者ギルドで何度かお仕事をしたでしょう?」
セレスさんとマックスさんが陰ながら協力してくれて依頼を達成した際にもらった報奨金だ。
「ニット君に分けてあげないとと思っていたから、今渡しておくわね。無駄遣いしちゃだめよ」
彼の頭を撫でながら、私は微笑んだ。
けれど、ニット君は困惑した表情をしている。
渡した金額が少なかったのかしら?
あまりにもたくさん渡してもと思って、多すぎない程度に渡したのだけれど。
「僕が貰っていいの?」
「もちろんよ。一緒に依頼を達成させたじゃない。だから、それはニット君が自由に使っていいお金よ。何かあったときに使っていいんだからね」
「何かあったときって?」
「う~ん…例えば…私たちとはぐれてしまって、お腹が空いたときとか、そのお金があれば何か食べることができるでしょう?何も持っていなかったら途方に暮れてしまうだろうから…」
私の言葉を遮り、彼は「いらない。絶対にはぐれたりしないもん」と叫んで、私に抱きついてきた。
「もしもの時のことを言っただけよ。それはニット君が持っていていいのよ」
私は、皮袋の口を紐で縛ると、長い紐を括り付けて、ニット君の首にかけた。
そして、その皮袋を服の中に隠すようにしまう。
「お金は持っていて困ることはないわ。それにこれはニット君の取り分なんだから、君がしっかりと持っていてね」
服の上から皮袋に手を添える。
ニット君は恐る恐る私の手の上に小さな手を重ねてきた。
「でも…僕…お金の使い方わからないよ…」
小さな呟きが漏れる。
「それなら、私が使い方を教えてあげるわよ。心配しないで」
「でも…」
「そういえば…ニット君は文字が書けなかったわね?ってことは文字も読めないのかしら?」
私の問いに、小さく首を縦に振っていた。
「そう…じゃあ、数字は数えられる?」
「数字?…え~と…1…2…」
指を折りながら、ニット君は数字を数えていく。
「6…7……え~と…う~んと…」
七つまで数えたところで、詰まってしまった。
「7の次は、8よ。その次が、9。そして、10ね」
私が教えてあげると、「あう~」と小さな悲鳴にも似た声を漏らしていた。
「わからなくても、気にすることはないわ。私が、数字も計算もお金の使い方も、そして、文字の読み書きもできるように教えてあげるわ」
「できるようになるかな?」
不安そうな表情で見上げてくる。
「大丈夫よ。覚えるのに時間はかかると思うけれど、ちゃんと教えてあげるから心配しないで。それに文字が書けたり読めたりすると、世界の見え方が変わるわよ。楽しくなっちゃうんだから」
私は、彼にウインクして見せた。
ポケ~とそんな私をニット君は見上げていた。
「お金の使い方も覚えれば、お買い物もできるようになるわ。そうすれば、ニット君の生きていく術が増えるわよ」
「お嬢ちゃん、いいじゃないかい。しっかりと教えてやりなよ」
セレスさんが、微笑ましそうな表情をしながら私の方を見ていた。
「世界の見え方が変わるとは大きく出たな。だが、その言葉はあながち嘘じゃないかもしれんな。知っていて損することはないし、できた方がいい」
マックスさんもニット君の背中を押してくれている。
「セレスさんもマックスさんもこう言ってくれているわよ。お勉強を頑張りましょう?」
私は、ニット君の頭に手を乗せて優しく撫でながら微笑んだ。
「うっ…うん。じゃあ、覚えるよ」
控えめにニット君は頷いてくれた。
「じゃあ、早速。数字のお勉強をしに、お風呂に行きましょうか?」
私の突然の提案にニット君は困惑している。
なぜ数字のお勉強でお風呂に行くことになるのかわからないみたいだ。
「お風呂でお勉強するの?」
「そうよ。お勉強なんて、どこででもできるのよ。ほら、行きましょう」
私は少し強引に彼の手を握ると部屋を出て宿屋のお風呂場へと歩いていった。
宿屋の一階には、食堂と男女別の大浴場がある。
私はニット君とともに女湯にやって来た。
今の時間帯は食事をする人たちでごった返していて混雑しているけれど、お風呂場はほとんど人がいない。
多少、騒いでも迷惑にはならないはずだ。
脱衣場で服を脱ぐ。
ニット君が見ていない間に、素早くバスタオルを身体に巻く。
彼が小さな男の子であっても、裸を見られるのは恥ずかしい。
だから、しっかりとバスタオルでガードする。
私とニット君の脱いだ洋服の上に『聖剣エクスカリバー』をそっと置く。
エクスカリバーは、私以外の人は誰も持ち運ぶことができないので、重石代わりに置いておく。
盗難防止にはもってこいだけれど、こんな使い方をしていたら『女神ブレーディア』はどう思うだろうか。
ニット君の手を取り、一緒にお風呂場に入っていく。
お風呂場は、かなりの広さがある。
十人以上が一度に身体を洗えるほど広い。
壁に固定されたシャワーからお湯を出してニット君の身体を濡らす。
タオルに泡立てた石鹸をつけて、身体をゴシゴシと擦って汚れを落としていく。
お風呂には何度も一緒に入っているので慣れたものだ。
「はい、後ろ向いて、お股開いて」
私の指示に彼は素直に従う。
ゴシゴシと私は手際よく洗っていく。
身体を洗い終えた後、「頭も洗うから、お目め瞑っていてね」と声をかけてから頭に泡をつけて洗う。
ニット君の全身は、泡塗れになった。
「お湯をかけるわよ」
シャワーから適度のお湯を出して、泡を洗い流す。
「ふぃ~…」
さっぱりとしたと言わんばかりの大きな溜め息をニット君は吐いた。
「今度は、僕がアテナ様のお背中洗ってあげる」
そう言ってくれるので、泡のついたタオルを渡してお願いする。
バスタオルを取って、前は自分で洗い、背中はニット君に任せる。
彼は一生懸命に洗ってくれる。
私は手早く身体を洗うと、髪も泡をつけて洗う。
「綺麗に洗えたかな?」
「うん、洗えたよ」
「じゃあ、流すから、ちょっと向こうを向いて待っていてくれるかな?」
ニット君に後ろを向いているように指示をすると、彼は大人しく従ってくれた。
その間にシャワーで泡を綺麗に洗い流す。
流し終えた私は、再びバスタオルを身体に巻き付けた。
「それじゃあ、湯船に入りましょう」
ニット君の手を取って湯船に向かう。
湯船は、洗い場よりもはるかに広い。
湯船の壁際にはドラゴンの顔を模したオブジェがドンと置いてあり、その口からお湯がとめどなく流れ出ている。
オブジェがある辺りは、お湯の温度が高く、深くなっている。
なので、私はオブジェがある反対側から湯船に入っていく。
湯船の入り口は、階段状になっていて、徐々に深くなっていく。
ニット君を抱え上げて、私は階段を下りながら湯船に身体を沈めていく。
腰のあたりまで湯船につかると、階段はなくなり、そこからは緩やかに下って深くなっていく。
オブジェがある辺りは、150センチくらいの身長の人が頭まで隠れてしまうほどの深さがある。
私は、歩いて湯船の中を進み、肩が隠れるくらいの深さの場所までやってくる。
湯船の中には、いくつもの円柱の柱が立っている。
円柱の高さはまちまちで、その円柱の上に座ってお風呂に入ることができる。
また、円柱には寄りかかりながら入浴することもできる。
ニット君のように背の小さい子供は、円柱の柱の上に立たせたり、座らせたりしてお風呂に入らせる。
「ここはどう?」
円柱の柱の上にニット君を立たせて、座るように促す。
柱の上に座ってみると、ニット君のお腹辺りまでしか湯船に浸かれない。
「こっちはどうかしら?」
近くの別の柱に抱き上げて移動させる。
今度は肩のあたりくらいまでが湯船に浸かれた。
ここでいいかもしれない。
私は、ニット君が座っている円柱の柱に背中を預けて寄りかかる。
「それじゃあ、お勉強をしましょうか?」
ニット君に声をかける。
「どうやってするの?」
「まずは、数字を覚えましょう。私が数字を言っていくから、ニット君は私に続いて復唱すればいいだけよ。じゃあ、行くわね。1…」
私は、指を折り曲げながら数を数えていく。
「1…」
ニット君が私に続いて声を上げる。
「2…」
「…2…」
二人で数を数えていき、「10」まで数えた。
「10…」
「じゃあ、もう一度、同じことをするからね」
そう声をかけて私は1から10までを順に数えていく。
ニット君も私の声に続いて数字を数えていく。
これを湯船に浸かりながら何度か繰り返した。
反復練習をすれば、いつかは覚えられるはず。
私がそうだった。
何度も何度も同じことを繰り返して覚えていった。
だから、同じことをニット君にもやってみる。
「ふぃ~…アテナ様…熱くなってきた…」
ニット君が顔を少し赤くしながら、溜め息を吐いた。
ちょっと数字のお勉強をしてたから、長く入りすぎてしまったかもしれない。
「そうね。そろそろお風呂から上がりましょうか」
私は、ニット君の身体を持ち上げて円柱の柱から降ろすと、抱きかかえた。
そのまま傾斜している湯船を登って行き、階段を上がって湯船から出た。
「ちょっと、長湯してしまったわね。ごめんね、ニット君」
「ううん、大丈夫だよ」
私とニット君は、脱衣場に戻ると、バスタオルで身体を拭いて服に着替えた。
大浴場を出て、三階の部屋に戻って来た。
「おっ!戻ってきたかい。お風呂場でお勉強はできたかい?」
部屋に戻るなり、セレスさんが声をかけてきた。
「1から10までは言えるようになりましたよ」
私がそういうと「じゃあ、数えてもらおうかねぇ~」とセレスさんはニット君に向かって言った。
「ええっ?」
と、戸惑った声を彼は上げたけれど、「間違えてもいいから、1から言ってごらん」と私が促すと彼は数え始めた。
指を折りながら数えていく。
「1…2…」
もともと、7までは数えられたから、そこまでは何も問題はない。
「…えっと…8…9…う~んと……10?」
最後は不安げな顔をしながら、10まで数え切った。
「ほう、すごいじゃねえかボーズ」
「10まで数えられるようになったんだねぇ~」
マックスさんとセレスさんからお褒めの言葉が出る。
「よく頑張ったわね。えらい、えらい」
私も頭を撫でながら笑顔で褒めてあげる。
ニット君は嬉しそうな顔をしながら、照れていた。
こんな感じで、お風呂に入るときは湯船に浸かりながら数を数え、私は根気よく数字を教えていった。
別にお風呂に入っている時ではなくても数は数えられる。
街道を歩きながら、ニット君と二人で数を数えながら歩いたりもした。
そんなことを繰り返し、100まで数えられるようになるのには、そんなに日にちはかからなかった。
ニット君は、思ったよりも賢い子なのかもしれない。
ただ、自信がないみたいで不安に思ってしまうことがあるみたい。
それが、彼の成長を妨げる要因であることもわかった気がする。
だから、うまい事不安を取り除いてあげながら教えてあげることで、思ったよりも早くいろいろなことを覚えてくれた。
文字を覚える練習は、まずは私が紙に文字を書いてそれを覚えさせた。
宿屋には、手紙を書くための紙が備え付けてある。
自由に使っていい紙だ。
しかも、羽ペンとインクまで用意されている。
それを拝借して、紙に文字を書いていく。
読み方さえ覚えてしまえば、あとは文字を書けるようになるだけだ。
宿屋に宿泊した際は、紙を使用させてもらって、ニット君に文字を書く練習をさせた。
紙が真っ黒になるまで、文字を書かせて覚えさせた。
これで、数字を数えられるのと文字の読み書きができるようになった。
ここまで、二か月くらいかかった。
けれど、その成果はすぐに発揮された。
街の中を歩いていると「アテナ様、あれは武器屋って書いてあるよね?」と看板を指さしながら、ニット君は尋ねてくる。
「そうよ。あっているわ。向こうの看板には何が書いてあるかしら?」
「え~と…雑貨屋さん?」
「正解よ。すごいじゃない、ニット君」
ニット君の成長ぶりに、私は嬉しくなってしまった。
「ほう~。嬢ちゃんの教え方がいいんだな」
「結構な短期間で覚えたもんだねぇ~。ボーヤ、すごいじゃないかい」
マックスさんもセレスさんもニット君の成長に驚きの声を上げている。
「ニット君が努力をした結果ですよ」
私が、彼の頭を優しく撫でると、嬉しそうな顔をして私の顔を見上げてきた。
だから、微笑んであげると、ニット君も笑顔になった。
あとは、計算ができるようになれば、お買い物の仕方やお金の使い方も教えてあげられる。
ニット君がいろいろと覚えてくれるので、教える私も楽しい。
ニット君も楽しそうにお勉強をしてくれている。
「それじゃあ、今日は計算を教えてあげるわね。今まで以上に難しいかもしれないけれど、諦めずに頑張ってね。間違えても気にしなくていいからね」
そう前置きしてから計算の仕方を教えてあげた。
足し算、引き算、掛け算、割り算。
どれも初めてのことで、ニット君には難しかったみたい。
唯一、早く覚えたのは掛け算だった。
組み合わせを覚えてしまえばいいのだから、これが一番早く覚えられたので意外だった。
続いて足し算ができるようになり、引き算ができるようになった。
最後の割り算はかなり苦戦していたけれど、彼は諦めずに頑張ってくれた。
割り算の計算では間違いが続き、少し諦めかけた時もあったけれど、無理にお勉強をさせず、気分転換をしたりして気長にお勉強を続けた。
無理やり詰め込んでも、ニット君にやる気がなくなってしまったら、教えても無駄になってしまうと私は思ったからだ。
宿屋でも、野宿の時でも教える時間があるときは少しでもニット君に計算の仕方を教えていった。
街道を歩きながら、山道を歩きながら、森の中を歩きながら、お勉強はどこでもできた。
歩きながら計算問題を出し、ニット君は考えながら答えていた。
そんなことを毎日少しづつだったけれど、根気よく続けていった。
時間はかかったけれど、割り算までできるようにはなった。
「よく頑張ったわね。えらいわよ。ここまでできるようになるとは思わなかったわ」
頑張ってくれたニット君を労い、褒めてあげる。
嬉しそうに満面の笑みを浮かべていた。
数字の数え方、文字の読み書き、計算ができるようになったので、あとは買い物の仕方とお金の使い方を教えるだけだった。
これは実際にお金を使って品物を購入するのが手っ取り早い。
「ニット君、今日はお買い物をするわよ」
そう声をかけて、彼の小さな手を握る。
そのまま宿の部屋から飛び出して街に繰り出した。
宿からほど近い場所に広場がある。
そこには多くの人が集まっていた。
露店が多く出店している。
動物の毛皮や武器や防具、薬草や薬、生活に必要なお皿や壺など様々な物を売っている。
私のお目当ては、屋台の食べ物だった。
屋台の食べ物は比較的安い。
それにニット君ともしもはぐれてしまった場合、お腹がすいたらお世話になるだろう屋台での食べ物の購入を経験させておく必要があると私は思ったからだった。
いろいろな屋台からいい匂いがしてくる。
「お肉のいい匂いがするわね」
「お腹空くね」
「じゃあ、あそこで串肉を購入してみましょう。私が購入して見せるから、見ていてね」
私は、ニット君の手を引っ張って屋台の前まで行く。
「いらっしゃい。可愛いお嬢さん。美味しいよ。一本どうだい?」
店主の男性がそう声をかけてきた。
「じゃあ、二本ください」
「あいよ。毎度あり」
私はお金を払い、店主の人から串肉を二本受け取った。
「やり取りは簡単でしょう?あそこで座って食べましょう」
私は広場の中心にある噴水のそばのベンチに腰掛けた。
ニット君も私の横に腰掛ける。
「はい、お食べ」
串肉を一本手渡す。
「ありがとう、アテナ様」
お礼を言って、彼は嬉しそうに串肉を頬張った。
二人で串肉を食べ終わった後。
「じゃあ、今度はニット君に購入してもらおうかしら」
「ええっ!僕にできるかな?」
「心配しないで。私も付いて行くから、大丈夫よ。ニット君が注文して、お金を払えばいいだけだから」
私は何か購入できるものがないか見渡す。
ちょうどパンや果物を売っているお店が目についた。
「ニット君。あそこでパンを一つ購入しましょう。これは渡すお金よ」
ニット君にお金を渡して、お店の前まで一緒に行く。
「あら、可愛い坊やだね。何か用かい?」
お店のおばさんがニット君に声をかけてきた。
ニット君は、緊張のためかオロオロしてる。
私は、ニット君の背後に立って背中を突く。
「あのね…お姉さん…パンを…一つ欲しいの」
たどたどしい口調でニット君は注文する。
「あら、やだ。こんなおばさん相手にお姉さんだなんて…」
何だか、このパン屋のお姉さん…もといおばさんはニット君の言葉を真に受けているみたいで恥ずかしがっている。
「パンを一つだね。はいよ」
おばさんは、紙で包んだパンをニット君に手渡す。
代わりにニット君がお金を渡した。
「これで足りる?」
不安げに上目遣いで尋ねると「ああ、十分足りるよ。ありがとうね」と、おばさんは笑顔で答えてくれた。
ニット君が『やったよ!』と、ばかりに私の方に振り返る。
私は満足顔で頷いた。
「ああ、ちょっとお待ち。これを持ってお行き。サービスだよ」
おばさんは、気を良くしたのか店の棚に並んでいたリンゴを一個、ニット君に手渡した。
「貰っていいの?」
不安そうに尋ねると「ああ、持ってお行き。また来ておくれよ」とおばさんは言って手を振って見送ってくれた。
「貰っちゃった」
嬉しそうにリンゴを眺めながら呟く。
「良かったわね。サービスしてもらえて。たまにだけれど、こういうこともあるから。サービスしてもらえた時には遠慮なくもらっておくといいわよ」
「うん」
これもいい経験ができたと私は思った。
これ以上は、お金を無駄には使えないので、私はニット君の手を握って宿屋に戻っていった。
「ほう~…今日は買い物をしたのかい?」
「うん、リンゴをもらったよ」
セレスさんにサービスでもらったリンゴをニット君は見せている。
「旨そうなリンゴだな」
マックスさんが食べたそうな顔をしている。
「じゃあ、皮を剝きますね。みんなでつまんで食べましょう」と私が言うと、ニット君は私にリンゴを手渡してきた。
ナイフで皮を剥き、四等分に切り分けた。
一人ひとつづつリンゴに齧りつく。
甘くておいしいリンゴだった。
「ボーヤが勉強を始めてどれくらい経ったんだい?」
「大体…半年くらいだと思います。もっと、時間かかるかな?と思ったんですけれど、ニット君が頑張ったから、もうお買い物までできるようになりました」
私は、頑張ったニット君の頭を撫でてあげた。
「半年で文字も読み書き出来て、計算もできて金の使い方まで覚えたのか」
「優秀じゃないかい、ボーヤ」
「えへへへへへ」
マックスさんとセレスさんに褒められて、ニット君はご満悦だ。
「だけど、世の中にはまだまだ学ばなければならないことは多々あるからねぇ~。探求心は持った方がいいとあたいは思うよ」
「知ることは大切だ。だけど、覚えたことを忘れちまったら意味がない。せっかく嬢ちゃんがいろいろと教えてくれたんだ。忘れないようにするんだぞ」
「うん。アテナ様が教えてくれたことは忘れないよ。絶対に」
ニット君は力強く言い放った。
何だか、恥ずかしいんだけれど。
忘れても、何度でも教えてあげるつもりだから。
「さて、明日は街を出るから、そろそろ寝るよ」
セレスさんの言葉を合図にしたように、それぞれがベッドに入る。
ニット君と一緒のベッドに私は横たわる。
「あのね…アテナ様…」
ニット君は、ベッドの中でモジモジし出す。
「色々教えてくれてありがとう。アテナ様が色々教えてくれたから、僕はいろんなこと覚えられたよ。本当にありがとう」
ニット君にじっと見つめられながら、そう言われて「ニット君が頑張ったからよ。私もニット君にいろいろと教えることができて楽しかったわ」とそう答えた。
「もっと、いろんなことを教えてほしいな」
「私が教えられることなら、どんなことでも教えてあげるわよ。今日は、もうお休み。ニット君」
私は、彼の頭をそっと撫でた後、額に唇を軽く押し当てた。
ニット君は、驚いたような顔をしていた。
私が「ふふふ」と意地悪く笑うと、「おやすみなさい。アテナ様」と呟いてお返しとばかりに、私の頬にキスをしてきた。
突拍子もない返しに、私は面食らった。
ニット君は、してやったりと笑みを浮かべている。
二人でしばらく見つめ合い、「ふふふふふ…」と笑いあった後、私たちは目を閉じた。
何だか幸せな気分になれた。
そんな気がしたのは、久しぶりだとふと思った。
私は、一人じゃないと実感できた。
『私は、今日も元気です』と誰に話しかけるでもなく心の中で呟きながら、眠りに落ちていった。
本編のストーリーに直接かかわらないことや本編を補助する内容を『外伝』と称して書いていこうと思います。なので、本編と外伝では時系列が前後する場合がありますが、外伝は別物と思って気にしないでください。