少年Aは孤独だけ 後
・19
「レストランから外を眺めるとボンネビルに乗った誰かが海上を走り去っていった。比喩でもなんでもなく水平線を横切っていく。満潮で沈んでしまう道がその場所に沈んでいて、バイクはそこを走っていた。真っ赤な車体があっという間に沖に出ている船に重なって追い越していく。港でやすむ全ての水夫にその存在をひけらかすように、秋の陽光を反射し、岬へと渡っていった。秋晴れの空にその赤はよく映えていた。その姿を見たことで初めて『ああ、夏が遠くに行ってしまったんだな』と、そう思った」
初老の青年はそう言って目の前にある骨付きリブステーキの解体に取り掛かった。
その日に彼が自分から伝えたかったことはそれで全てだった。
「季節なんていつもあいまいだから、自分が感じたものがそうだとしか思わなから、なくなったと思っても夏はきっとすぐに帰ってくるよ。カレンダーの中で24つに区切ったとしても。朝起きて、窓を開けて、そこに飛び込んでくる風のにおいを嗅げば自分が一体どこにいるのかすぐにわかる」
「そうだね、でもそうじゃない時もあるだろう? 今、自分が感じているものが全てじゃない時もある。一日の中で変わるにおいやら、いつかの風景を想起するような出来事がそこにあったのなら……単純に季節ってものを感じるだけじゃ足りないってことがあるだろう?」
存外、骨についた肉をそぐのが難しく悪戦苦闘しながらステーキ肉を切り分けてゆく。
「それだけで物足りない時なんかないよ? いつでも、ふと季節を感じるたびに私は幸せだってそう思う」
「僕にはあるんだ、過ぎた夏のことを思わなければならなかったり、もっとずっと昔のことも思い出さなければならなかったり、ふと香ってくる懐かしいにおいのせいで思い出したくないことまで思い出してしまうってことが」初老の青年はそういうと、どうにか切り終わったステーキの肉をソースに付け込み、口へと運ぶ「おいしい」
「季節を感じるだけでそんなこと思うなんていやだな。ずっと過去に囚われ続けることになりそう」
「いや、そんなことはないよ。こうして食べる食事はおいしいし、君と話しをするのも楽しい。今ある涼しげで歩くたびに甘い香りのする今の季節が好きだけれど」少女は食事の手を止めて、彼の顔を見ていた。続きがあって当然だといわんばかりに「でもね、そのどれもがとても新鮮なことでもね。それでは足りないんだ。その時に感じる思いがどれだけ色鮮やかでもその場だけのもの。物事は過去になってようやく深みを増す。肉が熟成されるように、もしくは何度も噛みしめている間に中から味が染み出てくるみたいに。いつしか深みが増してくると、何度も思い返すことになる。向き合わずに逃げたことなんかがあれば余計にそうだ。だからこそね、思い出すたびに後悔するようなそうした物事にちゃんと答えが出せたならきっとそれはいい思い出になるはずだし、それができたなら、夏のことを今より好きになれるはずなんだ」
「日本人には何か向き合わずに逃げたことがあったの?」
「そうだよ、大人になるとそういう物事の一つや二つ持っているものだからね。後悔していることがある。負けず嫌いな性格のせいで忘れるに忘れられなくて何度思い出しても悔しいと思ってしまうこともある。まあ、そういうのは大概自分が悪いんだ」
「じゃあ、私が逃がしてあげるよ」そう言って笑った少女に、僕は救われた「この町はそういうところでもあるからね。成り立ちからして移民の町と言おうか国から逃れてたどり着いた旅人たちが、その罪を時々思い出しながら祈り続けた場所でもあったから、だから平気だよ。付き合ってあげるから街を回りましょう? 今の時期は欅の街路樹がきれいだし海もただ眺めるには一番いい時期だよ。今は見られないけれど、干潮になったらさっき日本人が言っていた海の上の道も歩こう」
町を回っていれば、それだけで平気だとあの日少女はそう言っていた。
それこそが一つの巡礼なのだと。
・20
腹が立つのは、さも当然だというような態度で彼がそこに座っていたことだ。どれだけ私が幻想的だと思う風景の中あっても、自信に満ちた表情でつまらなそうにそこにいるのだから腹が立つ。私にとっての特別をさも当然だととらえているようなその態度が才能をひけらかしているようにも傲慢なようにも見える。そのくせこちらに気が付きすらしないのだから、つい文句を言いたくなる。積もった雪が地表を隠しているせいで開けたその節減は燎原が消えた後の大地のように何もない。雪に埋もれ切らなかった火成岩だけが転がっていて、日本人はそのぶつぶつと穴の開いた岩の一つに腰掛け、ぼんやり、どこか遠く一点を見つめていた。
「あら日本人、いったいここで何しているの?」
記憶の中と全く変わらないどころか、いくらか若返っているのではないか、と思わせるようなその顔の前に立って問いかける。
「やあ、リサ、君がどこかにいるのだろうとは思っていたけれど」
こちらとしてはサプライズのつもりでいるのに一つも表情を崩さず。笑顔を作り上げる。
つくりなれたような老練とした笑顔がまた気に食わない。随分と久しぶりに会って、盛大に喜びたい気分なのに、そんな平然と挨拶をされては、なんて言っていいのかわからなくなってしまう。
「私は予想外だったけどね。なんでこんなところにいるの? 死んだの?」
「いや、まだ死んではいないよ。ここにいるのは君に会いに来たようなものでもある。相変わらず君は小さいな」彼は首を小さく横に振った。
「もう大きくなれないもの、ここは一体どこなの?」
「どこと言われても正確な場所は僕にもわからないんだよな。ずっと歩き回っているから、大まかな場所をいえば日本の甲信越っていう地方の山奥だけれど、一体どこのなんという山なんだろう」日本人は除雪作業員のように分厚いジャケットを羽織って、座ったまま動こうとはせず、私の姿を眺めている。
「なにさ、そんなにみつめて」私は居心地の悪さに身もだえしながら、その目をにらみ返した。その目は優しさに満ちていて、なんだかいたたまれない。
「いや、なんだろうね。ただこうして君と話すのをひどく懐かしいことに感じてしまってさ。もう二度とかなわないものだと、捕まえようとしても、夏の逃げ水のように逃げて捕まえられないんだとずっとそう思っていたから、感慨深いとそんなことを思ってね」
以前、同じことを感じたことがある。私の故郷で。
彼の外見は私の知っている姿と何も変わらないのに、ひどく弱ってしまっているように見えた。
「確かにこうして話せるなんて、不思議よね。なんだって私はここにいるんだろうね?」
何が彼をそんな風にさせたのか? それが時間の経過だというのならクソクラエだと思う。
「なぜかはわからないけれど、僕は懐かしい人に会いたかったし故郷に帰りたかった。それが僕にとっての最後の願いだったから、誰かがそれをかなえてくれたんじゃないか?」
「そう、ここが日本人の故郷?」
「いや、違うよ。僕の故郷はもっと暖かい場所の海沿いにあるんだ」
「海がどこかはわからないけど、故郷に帰ろうとしたんじゃないの? 帰っている途中中?」
彼の腰掛けている岩は遠目で見たよりもずっと背が高く見えて、そこに腰掛ける彼と話しているとなんだか見下されているような気がしてきた。私は話しながら岩の周りをまわって登れるところはないかと探した。
「まあ、帰っている途中だな。今は自分の作った舞台作品を終わらせようとしているんだ」彼が何を言っているのかまるで分らなかった「でもさ、君とここでこうして話しているのも、結局は自分が書いた話の中、劇中劇でしかないと思うと虚しいよな」
「何を言っているのかよくわからないけど、それで日本人が何かを納得できるならいいんじゃないかな」
登れそうな場所を見つけて足をかけると、日本人が引き上げようと手を伸ばしてきたので、私はその手を握った。
「少しだけ話に付き合ってくれるか?」
「いいよ、時間もたっぷりあるし」
「お前ならそう言ってくれると思ったよ」
「それにほら、いつだったか今度は私が旅行に連れて行ってやるって約束をしたじゃない? その機会がないまま会えなくなってしまったから、いいです。付き合ってあげる」
「ありがとう」
「その舞台ってやつはあなたの予定ではどうなるの? どんな結末を迎えるの?」
「さあ、どこに向かっているのか、基本はアドリブだし、登場人物たちが全て思い通りになるわけでもないから僕にもわからないな」
「なるほどコメディア・デラルッテみたいね」
「コメンディア・デッラルテか、僕の役は何になるんだ?」
「パンタローネ」
「僕ほど清く正しい生き方をした、老人も珍しいと思うけれどね。君から見たらそうなのか」その言葉を聞いてどこかさみしくなった。私としてはそのほうが……彼が老いてなお衰えず自分の欲を満たすことだけに一生懸命だったのなら、そのほうがよかったのかもしれない。全てをなかったことにして自分勝手に生きていてくれたほうがどこか救われたというものだ。そうでないから、私は約束を守ることができなかったのだなと、そう思ってしまう。
「パンタローネみたいにはなれなかったのね。でも、舞台に出ている人が、舞台を作った人が結末を知らないなんて変な話ね」
「そういうこともあるよ。結末がわからないほうが作っていて楽しいってこともある。誰もがどこに行きつくかわからない中、一人の天才の思い付きで予想外の結末を迎えることもあれば、主催者に送り込まれたデウス・エクス・マキナによって無理やりに終わることもある。視聴する側でも初めから決められたものをいかにも演技しているという風な俳優によって見せられることに飽きたときには、そういう舞台なりネットの動画なりのほうが楽しめる時もある。最低限のプロットだけは用意してあるよ」
「そう、それじゃあこのあとはどうするの?」
「君と話して、それがひと段落したら旅に出るだろうな。そのための迎えがくるのかどうかはわからないけれど」
「そのための迎えね、雪原でゴドーが来るのを待つの?」
「ゴドーは待たないな自分の意志で進む。ゴドーは君がいなくなった時点でもう来ないとわかっているんだ。もし、そんなものがどこかにいるんだとしても、僕は待ちもせずに逃げるね、自分で頭の中に用意したいくつかの最低限のプロットすら無視して、今すぐにでも君を連れ出して物語を終わらせにかかる。ゴドーはもう待たない。どちらかというと『わが町』かな、何もおきやしない」
「『わが町』ソーントン・ワイルダーね、確かに二人とも死んでしまっていて、ここはおあつらえ向きに高台だわ、のんびり故郷の話をするにはいいかもしれないね。これだけ綺麗な場所だと迎えに来るのはトトロかもしれないわね、都市伝説的な話があるのだとしら」
「僕はまだ死んでいないよ。トトロはダメだな。リサが思っているよりもあれはアクティブな物語の生き物だから、待っているだけではトトロは来てくれない、追いかけて、必死に妹を探してそうしてやっと助けてくれる。彼はヒーローなんだ」と彼がいうのを聞いて『そこまでした人間に最後のどうしても足りない部分を補ってくれるだけで、人助けで、ヒーローでそれが出来るだけでそれは奇跡のようなことなんだよ。ジェス?君は俺にそうしてくれたんだ』夕暮れの海岸線、男同士で語り合うその暑苦しい風景を思い出した。私は、それを少し遠くから眺めていて、どこか除け者にでもなってしまったかのような喪失感を覚えたのだった。
「じゃあ、くすみ割り人形は? ジェス」
(ジェスというあだ名を彼女は知るはずがないはずなのに、この時の僕は目の前にいるこのリサという愛称の女の子が完全に僕の妄想の産物で、だからこそ僕の昔のあだ名を知っているものだと気にも留めなかった。自分の話す登場人物が勝手な人格を持ち始めて、言いたいことを勝手に言い始める。そんなことが度々あったものだから、幻覚をみながら一人二役を演じているものだと、僕は思い込んでいたのだが、あとになってその時のことを彼女に尋ねると「見ていたから」と彼女は教えてくれた「夢がかなった瞬間だったわ。いつか呼んでやろうと思っていたのよ」といたずらに笑みを浮かべながら。そうだと知っていればもっと大げさに反応して相手をしてやるべきだったとそこでも彼女はまた僕を後悔させた)。
「なるほど、くるみ割り人形ってのはいいかもな。そうしたら、君は名前を忘れてしまったけれどあの女の子で、僕はネズミの王様か。これから人形が君を迎えに来るってそう思えたら調度いいのかもしれない」
「違うよ、あなたが私のことを助けてくれたんだから。あなたがくるみ割り人形なのよ」
そんな私の小さく呟いた言葉が彼に届く前に、風にさらわれてどこか遠くへと降ってゆくように消えてゆく。
一度伝え損ねた言葉をもう一度言おうなんて、どうにも野暮な気がして声が小さくなってしまった。けれど、私が何かを口ごもったのを日本人は見ていたようで、言葉を待つように私の顔を見ていて。そんな風に顔を見られることに慣れていない肝心なところが少女のままの私は顔を逸らした。訪れた沈黙の中、二人で見ている雪原のずっと向こう樹氷の根本で真っ白な四足動物がはねた。
「低温な夏のサーフショップ
大人たちの不埒な目
少年Aは孤独だけ抱えて
そっと未来を待っている」
伝え損ねた言葉の代わりに歌を口ずさんだ。気象台で流れてうた日本のロックナンバーだ。あっけないほどすぐに終わってしまう主旋律に乗る歌詞が私のお気に入りだった。
雪原を見ながら体を寄せる。寒さは感じないけれど、ぬくもりが恋しかった。
十数年の生涯の中、もっと母に甘えておけばよかったと今更ながらにそう思う。
気象台に流れていた曲が頭の中でリフレインして、顔も知らない日本のギタリストが私の頭の中でギターソロを鳴らす。目の前に広がる雪原のむこうにいつか二人で話した白鯨のいる海の話を思い出す。銀世界を舞う風がまだ柔らかい雪の表面をさらってきらきらと光った。同年代の子供たちともろくに遊ぶことのできなかった私の初めての友達とその風景を眺めていた。
・21
ボンネビルT100は当時間借りしている家の持ち主のものだった。町にたどり着く前にそこから車で二時間ほどの場所にある漁港で下働きをしていて、そこで出会った男が家を貸してくれた。毎日漁港で働いているせいで体つきの大きく肌の赤さが抜けなくなった背の高い男で、何かと豪快な人物だった。私と同じくバイクが好きで、時々仕事の終わったあとでバイクと私の故郷の話をした。
「カギは出るときに、海沿いの教会がある丘を登ったところに白い小屋みたいのがあるから、そこにいる爺さんかその孫に渡してくれ。顔なじみなんだ。仕事でほとんど年中そこにいるから」
「わかった。なんだかここを出るのも寂しいな」
「別れを寂しがるなよ。別れは船出だ。だから俺たちはどれだけ派手に船出を祝えるかを競うんだ。それがどれだけ上手かったかで人の記憶に遺れるんだ。スポーツみたいだろ?その通算成績みたいなものが人生の最後の評価なんだ。違うところと言えば金にはならない部分だし、それを大事にしている間は裕福になれない。でもそれがあるから楽しいってお前がこれから行くのはそんな町だ」
「楽しそうな町だね」
『花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ』と彼のいった言葉は頭の中に浮かんだそれとは真逆にあるような気がして、酔い始めたその気分のなか、私はなんだか幸福感だった。
「なんだろう、今の言葉で旅の前に感じていたはずの不安なんか初めからこの世になかった気分になった」
「そんなんで消えるくらいなら。初めから不安なんかお前の中にはなかったんだよ。俺が子供ころに気が付いたことだぜ?」
彼がそう言うまで、店に入ってから約二十分で私たちはジョググラス三杯ずつエールを飲み干していた。
「そうだな、タカ、家を貸すんだからなん日本のもくれよ、いらないものでいいから」
「いいよ。でも今は何も持ってないな、明日でいい?」
「いや明日は見送りに行けそうにないんだよな、さっき言った小屋、気象台にいる爺さんに預けてくれよ。そしたら故郷に帰った時にもらえるわけだろ? 帰る楽しみが一つ増えるぜ」
「あんまり期待されても、大したものは持ってないよ。荷物が重くなるのがいやだったんだ。服とかCDとか本とか後は金にノートと文房具」
「その中ならCDがいいな、日本の音楽が聞きたい。お前のことも思い出すし」
「そうなの? それならすぐにでもデータで渡せるよ?」
「データとかサブスクリプションで聞くのも悪くはないけど、CDで持つっていうのがまたいいじゃないか、他の国のCDなんて自分で買うことないだろうし」
「かまわないよ。データの方が便利かと思ったけど、君がそう言うなら、その人に預けておく」
「よろしく頼んだ」
そういうと、彼は荒れた海流がしぶきを上げるみたいに豪快に笑った。
・22
海岸線で一人打ちひしがれていた僕の前で赤色のバイクが止まった。
たいして広くもない町だから、何度もすれ違う車両や人物がいれば自然と覚えてしまうもので、そのバイクのことも三週間ほど前からたびたび見かけていた。昼のたるみ切った空気を切り裂くようにして、私の前を駆け抜け、夏を懐かしむように、海上をスライドするように駆け抜け、風を切り裂いて、丘を一気に駆け上がってこの町のシンボルである協会に向かって行くその赤いタンクが町に空に海によく映えていた。
「ボンネビル」少女がいつだったかそうしたように、僕はつぶやいた。トライアンフのネイキッドバイクのボンネビルだ。バイクから降りたライダーは、サイドスタンドを軽やかにけり下ろし、ヘルメットを外した。
サマーコートのような薄手のベージュ色の上着をTシャツの上に肩から掛けただけのような洋服に身を包んだ彼の顔にはどこか見覚えがあるような気がした。
「君は日本人か?」
なんの飾り気もない黒い髪と茶色い瞳、そしてその立ち振る舞いのせいか、言葉を話す前から彼の国籍がどこか透けて見える。だが、そういう久しぶりに同じ文化を共有する人間とあったという事とは別に、彼の姿それ自体をどこか懐かしく感じた。
「どうも、ジェスさんですよね。こんなところで何しているんですか?」
彼は旧友が僕を呼ぶのと同じあだ名で僕を呼ぶ。目の奥に燃える強い意志のようなものをもっている『いい表情をする少年だな』と心の中でそんなことを思う。
「僕のことをジェスとは呼ばないでくれ」
その呼称に心が揺れた。十代の終わり、自分自身のことを信じていたころの、故郷での日々と一年前にいなくなってしまったもう一人の友人のことを思い出してしまった。
「ああ、すみません。私の一番古い友人が貴方のことをそう呼んでいたものだから、烏丸という人です。映画を撮りながら私が通っている大学で教員をしていて、あなたのことをよく話していました。知っていますか?」
目の前の少年が誰のことを話しているのかすぐに分かったし、僕がこの町に来たのもきっかけをたどればその男の死が原因だ。
「烏丸か、よく知っているよ」
烏丸は高校の同級生で密に交流のある相手だった。
学生時代も大人になってからも酒のあるなしに限らずよく語り合ったし、何かあると互いに一方通行の相談を相手にぶつけた。周りの関係が目まぐるしく変わる中で、腐れ縁と呼べる数少ない相手だった。
「あいつがもういないなんてな」
高校3年生になったばかりの5月、僕と彼は校舎の3階にあるルーフバルコニーで自身の将来とそれに伴う選択とそのうえでの障害の話をした。その場所で僕は様々な人物と覚えきれないほどの話をしたが、誰かと将来の話をするのは決まって台風の来る前だった。彼は『だんだんと早くなる雲の流れを見て、サッカーの練習なんかするのが馬鹿らしくなった』と言いながら僕の隣に腰掛ける。彼はその頃から、僕が彼自身の将来に関してなんら興味がないという問題に対しては無頓着だった。
『小学生からずっと続けてきたけれど、ここでやめるべきなんだよな、サッカーを続けることで推薦をもらっていい大学に入るって道も確かにあるけど、その先にある物に興味が持てないんだ』その前年、僕の高校のサッカー部は創立から何度目かの全国大会へと進んだ。彼は二年生ながら5ゴールと4アシストという記録を残し活躍したが、チームは優勝することができなかった。
『みんなが俺にボールを蹴るようになってしまったよ、ジェス』台風9号の来る4日前に彼はそう言っていた『俺がグラウンドで見たいものを見るにはそれじゃダメなんだ。感覚的なものでうまく言葉にできないんだけれど。高校に入ってから何か考え方が変わった。サッカーを楽しいと思う瞬間が増えたんだけれど、それに反比例するみたいに勝ちとかゴールに必死になる機会ってものが減っていった。今年3年生になってそれが顕著になったんだ、最近は天気がいい日に試合をしているとかその程度で楽しくて仕方ないんだよ』彼も僕もまだ世間を知らないただの子供だった。ただ青臭い希望だけを持って日々を生きていた『なんだろうな、俺は真剣に球技をやるのに向はいていないんだよ』
その時の僕は思いつくままに適当な返事をした『お前の言いたいことはわかるよ。僕は野球でセンターを守るときに敵の打ったホームランを見送ることがあるけど、その瞬間ってのが野球をやっている中で一番好きなんだ。自分が打ったり投げたりするのももちろん嫌いではないけれど、グランドにいながら色々なことを見て肌で感じるのがそれ以上に好きなんだ。勝とうという努力を怠るべきじゃないっていうのはあるけど、そのために必死に頭と体を使って戦う以外の楽しみがあるなんて当たり前だろ、そうじゃなきゃこの年まで続けてない。何もおかしいことじゃねえ。人それぞれの感じ方があって当たり前だし、お前が球技に向いていないとは僕は思わないし、続けるもやめるもお前の自由だ勝手にすればいい』僕がそう言った時、なぜか彼がとてもうれしそうに笑ったのを覚えている。その次の日、彼がインターハイの予選が終わったら三年生の最後に選手権には出ずに引退すると監督に話をしただとかそんな内容のことが学内で少しだけ話題になっていた。
「烏丸か、あいつは昔から勝ち逃げをよくするんだ」
「何かあったのかジェスさん? 今こうして目の前にいる貴方は私が話に聞いていた人物と比べて覇気が……というより何か随分気落ちしているように見える」
あいつがここにいてくれたらと、いくら思ったところで烏丸はもうどこにもいない。
「ああ、探し物をしていたんだけれど探し当てられなかったんだ。言ってしまえばそれだけで、そう珍しいことでもないけれど今回ばかりは落ち込んでいていてね。
なるほど君は烏丸の知り合いか、それはまた妙なところで会ったな、何だ、どこか懐かしいと思ったが、そういう目で見てみれば君はどこかあいつの若いころに似ているな。あいつは熱意と才気と機知に富んでいた。それが少し他の部分よりも勝ちすぎているせいで何でもないところによく躓いては悩んでいた」
「似ているかな。あの人に似ているって言われるのは少し複雑な気がしますね。
なんでしょう? この先どれだけ走ろうとも俺はあの人に追いつくことができないんですよ。もし、追いつく可能性があったのだとしても、その機会は失われてしまったんですよ。死者ってものは越えられない」どうあがいたってもう遅い。と、彼はどこか遠くを見つめた「でも教授とは関係なしに、ジェスさん、あなたとは一度会って話がしてみたいと思っていたんですよ」
「そいつは光栄だな、見も知らない若者にそう思ってもらえるとは、僕もまだまだ捨てたものじゃない。でもタイミングがよくないな、普段なら含蓄のある言葉の1つ2つでっち上げることもできるけれど、今の僕には余裕も何にもないし、頭もろくにはたらかない。
君は今日のところは無視して帰るべきだったんだよ。こんなところでバイクをとめて来て僕と話すなんて、若さを無為に消費することになってしまう」
「何日か前から姿を見かけていたのですがね、なぜだかここを通りすぎるタイミングで話すなら今日だって思ったんですよ」
「それは残念だったね。でも、変な縁を感じるな。君はなんでこんな古臭い町に来たんだ? デンマークかノルウェーにでも行けばよかったものを、また君はどうしてこんな港町なんかに」
「なぜかと聞かれるといろんな理由がありますがね。旅の最後に多くの移民難民が救いを求めた時に決められた道筋をたどるように、本国に存在しない文化に触れて、その根源が何なのかを少しでも知りたいとかそんなことを思ったとか言えば恰好もつくんでしょうが、単純な話、来てみたくなってしまったから来ただけですね。深い理由なんかありませんよ」
「そうか、僕もそうだったよ。どこ静かでのんびりできる場所を探してここに来た」
「それはまた偶然ですね。烏丸さんが亡くなったのがきっかけで出た先であなたに会うってのはなかなか奇妙な巡り合わせのようなものを感じますね。それだけで、私がここに来た意味はあったように思います」
「僕とあったところで何もないと思うがね、ただ烏丸に関しては惜しい奴をなくした。生きていれば、きっといつか誰もが想像できないような大きな成果を上げることができただろうに、その可能性が一瞬で消えてしまった。もう戻らないものの1つに数えるには僕にとってあいつの存在は大きすぎる」なら彼女はどうだろう? この町で知り合って1年も一緒にいることができなかったただの他人である彼女の死は何だろう?「いろんなものはすぐに過去になって消えていく。変わらないものなんてありはしないんだから、見たいものは見れる間に見るべきで、やるべきことはできるうちにするべきだ。君の故郷はどこだい?」
「故郷ですか? 清水ですよ。教授、烏丸さんの実家の近くで生まれ育って、小さいころによく一緒に遊んでもらいました」
「清水か、僕と同じだな。変わっていくのは故郷でも例外ではないよ。旅の目的を果たしたら一度帰ってみるといい。あいつの教え子ってことは学生か? それともこっちには働きにきているのか?」
「大学生です。今は休学をしています」
「休学か、なら今すぐにでも君はあそこのドックから貿易船へと忍び込んででも一度清水に帰るべきだな。あのひどく古ぼけた町と港に立つコンテナクレーンが完全に過去の物になる前に、もう一度目に焼き付けて、それからすぐにでも大学へと戻るか国外で正式に仕事を始めるなりしたほうがいい」
「そうですね、そうしたほうがいいっていうのは薄々わかってはいたのですがね、だらだらと旅を続けてしまったんですよ。私が悩んでいたことはもうないので、大学には近いうちに戻るつもりですが」
「そうだ、君は正しい場所で若さを燃やせ。もう当分は故郷に帰らないのだと、覚悟を持って何か1つのことに臨め。時々、喫茶店の窓際の席か、東京に向かうひかりと名付けられた新幹線の車窓を眺めながら故郷の太平洋沿岸の日差しの暖かさを思い出して生きればいい。旅やなんやは老いてからいくらでもできるのだから、できることを1つでも増やして、将来君のもとにやってくる火の粉を1つでも多く払えるようにしたほうがいい。ありきたりでつまらない忠告だけれど、僕はいまそれで後悔しているのだから、失敗からくる実体験としてそれを君に伝えておくよ」
静岡の文化ホールで控え室として用意された場所で公演の準備をしていると烏丸が入ってきた。スーツを身にまとって、どこで手に入れてきたのか経験からくる自身に満ちた鼻につく表情をしていた。仕事にやりがいを感じている男の顔だ。あいつはいつも呼んでもいないのに勝手に表れて、勝手な話をしていく。
『言わせてもらうならだよ、ジェス。俺はこの荒廃してゆく町を愛しているんだ。愛していてなおのこと、もう救いようのないことも知っている。これからどう発展していったとしてそこに独自の輝きが戻らないことを俺は知っているんだよ、ただ形骸化していくしかないんだ、中途半端に残った昭和やら平成の遺物に価値があるんだと誰も気が付かないのが悪いんだ。今のうちから保護しておけば後になってまた価値が生まれるかもしれないのに、そうはならないだろう。あの古びたレール付きのコンテナクレーンと、その横に立つ映画館の入った商業施設がきっと象徴になってしまう。彼らはいろんなことから目を背けてきた。シーチキンが値上がりを続けることも、清水エスパルスがJ2に一度落ちたことも。三保の松原が世界遺産になった直後のPRに失敗したことも。ジェス、君は知っているのかい? 俺たちは愛していたんだ。岡崎慎司選手が毎試合ボールに飛び込み、長谷川健太監督が指揮をとりJリーグでトップの争いに挑んでいたエスパルスを。母親が特売のたびに食べきれないくらいに揚げる黒はんぺんのフライを。まだ若いころ、誰もいない三保の海岸で焚火に興じたことだとか、海沿いの潰れてしまった商業プールだとか、体裁だけととのえられた野球場だとか、400円で乗れる水上バスだとか、地域の集会があるたびに大声で海の歌を歌うたくさんの老人たちをいつだって愛していたんだ。わかるかい? ジェス。それが全部裏切られてしまった気がするんだ。だから俺は映画を撮ることにした』
町は姿形を変え、時代とともに消えていく。
それは平成の大合併で市の名前が地図上から消えたとかそんな表面上だけのものではなく時間とともに来る文化の消失や町の変遷の話だ。
「イエスタデイ・ワンスモアだな」と僕はつぶやいた。
「なんですか急に、イエスタデイ・ワンスモア?」
「昔、何がきっかけだったか高校3年生の年に烏丸とアニメ映画を見に行ったんだ。その映画の敵役の組織の名前がイエスタデイ・ワンスモアだった。高校3年間、僕らの関係のほとんどが3階にあるルーフバルコニーの上での出来事だったけれど、一度だけ彼と映画に行ったことがある。そんなことそれっきりだったけれどね。今もテレビで放送されているシリーズの古いアニメ映画で。理由はわからなかったけれど。彼はそれを僕と一緒に観に行きたがった。勧善懲悪とも違う独特な映画だったのだけれど、そこに出で来る企業だったか、法人だったか。その映画における敵役がイエスタデイ・ワンスモアを名乗っていた」
高校を卒業する前にも彼は同じような話をしていた。高校三年生の自由登校の期間、あの年は二月の中頃、東海地方に春一番が吹いたのだというニュースの出た日に、彼は僕を訪ねて教室へとやってきた。
『ジェス、君はいろいろと文句を言うけれど、きっと一生忘れることはできないよ。俺も含めたこの学校で出会った、取るに足りない人間たちことは忘れるかもしれないけど、この町のことを君はどうやったってきっと忘れない。18年もここで生きたんだ。その記憶がなくなるわけがないだろう』
長さではないんだろう。忘れることのできない思い出なんていくつもある。もう両手では足りないほどの人数を見送ってきた。いまだに馴れはない。
『いくら君がそうやってここを田舎だなんだとさげすんで、ずっと出ていきたかったのだと言葉で言ったところで、意識しているいないに限らず俺たちは故郷ってものを無条件に愛してしまっているんだよ。今はただここを出るって変化をうれしく思っているのかもしれないけれど。君はいつか僕の言葉の意味を知るだろう。どころか、きっと年を重ねるごとに想いは強くなる。卒業したって、一時的に離れたってここを捨てるわけじゃないんだ。君はいつも物事を極端に考えすぎる。好きであればあるほどに想いは君を苛める。ただ、どんな思いも一方通行でしかない、自己満足でしかないっていうは覚悟をしておくべきだな、いくら君が思ったところで相手がそれを返してくれるとは限らない。そのことに今のうちから気が付いていたほうが、この先いくらも策に生きられるってものだぜ? 2001年の映画に出る大人たちは20世紀に囚われたんだ。イエスタデイ・ワンスモアって、その思いは自分の胸にしまい込むべきだ。誰かに強要するものじゃない誰にも言わずに心の支えにすればそれでいいじゃないか。未来を夢見て生きろ。ただまっすぐに、自分らにとって一番いい未来をつかむのだと信じて先に進んでいけばそれでいいんだ。
別れは必ず来る。船出は楽しいものだ、振り返ったって過去はやってこない。港を振り返るな、行きつくべき大陸を夢見て生きろ。それでも本当に疲れた時だけ思い出せばいいんだ故郷も俺もいつだって君の中にある。君にとってどうかはわからないけれどね、俺にとっての君はそんなかけがえのない思い出の一つだよ』
教室からルーフバルコニーへ出た僕らは、春風にさらされる町を眺めながら最後の話をした。
「別れは船出で前に進むべきものだってこの町で出会った友達からそう教えられたのにな、そう思うべきなのに、人に対しても町に対しても」
リサは、あの子はずっと未来だけを信じて生きていたのに、誰も救うことさえできなかったのに、それでも何も恨まなかったあの子の想いを僕は一体どう消化すればいいというのか。
烏丸は卒業式の終わったあと、ベニー=グッドマンの楽団による『Sing、Sing、Sing』を大音量で校内に流した。若気の至りとしか見られない行為だ。校門付近やすでに敷地外にいた生徒にも音楽は聞こえていた。それが彼なりの別れのあいさつなのか、最後に少し羽目を外してみたくなったのか僕は事実を知らない。最後まで流れた音楽は誰の賞賛も得ることはなく、近所からの苦情の電話が職員室で鳴り響いて終わった。
つまらない形骸化された式典の内容は誰もが忘れてしまっているのに、その音楽が流れたことだけは卒業式に参加したみんなが覚えていた。2001年度の卒業生にとってその曲は青春の象徴だった
「さまよう間にいろんなものを見つけたのだけれどね、今回も一番探していたものは見つからなかった。いつも一番欲しいものだけ手に入らないんだよな」
「簡単に見つかるようなものならそもそも探そうとも思わないでしょう? そう思えばいくらか気持ちが楽になるかもしれませんよ?」
「まあ一理あるが、やってはみたけれどやっぱり駄目だったかとは言いたくないな。初めから諦めてしまっているような気がして嫌なんだ。まあ、あきらめなかったとしても結果が出せなければ、やったことに何の意味もないんだよ」
「ジェスさんが自分で抱え込もうとしているなら、私が何か言うべきではないのでしょうね」
「抱え込みたいと思っているわけではないんだ、まあ、無理に励まそうとはしてくれるなよ。そんなことをしなくても君とは話せてよかったと思っているよ。君が連れてきてくれた懐かしい人の気配や、君が連れてきてくれた僕の過去の面影のおかげで少しだけましな気分なんだ」
「それはよかった。話しかけた甲斐がありましたよ。私としても教授の話を貴方から聞くことができてよかったです。おかげでこの旅が報われた気がします」
「君がなんのために旅をしていたのかは知れないけれどそんなことで報われたのならよかったよ」
「なんのためって言われるとなんのためでもなかった気がしてきますが」
「そんなもんだ、旅行に出るのに大義名分なんか必要ないだろ」
「そうですね、単純に疲れたんですよ。毎日学校に行くっていうのが、それで、気分転換をしたくなったのかもしれません」
「そうか、僕も一緒だよ。今は旅先で会者定離なんてものについて考えている。別れるってわかっているんだから初めから真剣に向き合えばいいのに、人付き合いってやつがどうも苦手だ。これも教訓として君に伝えておくよ。年を取ってから感傷に浸ることなんかに時間を費やしたところで得るものなんてほとんどないから、そうならないために一期一会を大事にするんだな、人とは真剣に向き合うようにしておけ、そうすれば酒を飲む量が増えずにすむ」
「あんまり自分の理解の及ばない相手とは向き合いたくないです」
「そりゃそうだ。どうやったって関わることのできない奴は別だ。出会う人間全てじゃなく、自分がもてなすべき相手とか関わりたい相手に対してだけは全力で向き合うべきだっていう話だ。それ以外の人間には無関心でいい。納得いかないことがあったとして説教する必要もない」
「その点は平気ですよ。納得いかないことがあってもひとまず向き合わずに逃げる質です」
「そうか、そりゃナイスだが、関わりたい相手とか人生において必要だと思えるような相手がいたときには遠慮せず言いたいことは言っておけ」
「ジェスさんがそう言うのなら次に関わってみたい相手に巡り合ったらそうしてみますよ」
「この町にはいつまでいるんだ?」
「きっちりとは決めていませんがね」
「そうか、町を出たあとでどこへ行くかは? それは決めているのか?」
「故郷に一度帰ろうかと思います。ここが最後の目的地だったんですよ。行ってみたいと思う場所はあたりにいくつもありますが、行く理由を探そうとなると、もうどこにも行く必要はないんですよね。ジェスさんはいつまでいるんですか?」
「僕も特に予定は決めてはいないが、もうしばらくいるつもりだ。一週間か長くても二週間したら日本に帰るつもりだよ。帰って、一本だけ映画を撮ろうと思っているんだ」
「映画ですか? 前にも撮っていましたよね」
「よく知っているな、あんな全国上映もデジタルでの販売もしていないものを」
「前に教授が大学の講義で使っていましたよ」
「なんか私的な鑑賞会で使いたいからって言われてデータを渡しはしたがな、そんなことに使われているとは思わなかった」
「学生たちには好評でしたよ。教授が個人的に見たかっただけだからって理由での鑑賞だったので大学の講義としてよかったかどうかは別問題ですが」
「あいつは何のために大学で教授なんかしていたんだろうな、金に困っていたわけでもなし、本職もそれなりに忙しかったろうに」
「ただ自分のためだけに仕事をしていると視野が狭くなるからとそんなことを言っていましたよ。何か別に職でも作っておかないと、積極的に外に出るという事もしないだろうと」
「それで別の仕事を選ぶってあたりがな、酒を飲むなり旅に出るなりを日常的にすればよかったのに、目的のためにそんなことをしている余裕はないとかなんとか言って、いつも働いていた」
「目的ですか、何だったんでしょうか?」
「いくつか思い当たることはあるけれど、どれにも確信はないな、本当のところは本人にしかわからんだろうし」
「そうですよね」
「あいつはいつでも活気と自信に満ちていたよ」
「私から見たらそれはジェスさんも一緒でしたよ。小学生の時に舞台に上がるあなたの姿を、そこでしていた話を今でもずっと覚えています」
「それはありがたいがな、今は素直に喜べないな」
「今のあなたを見ていると中学の同級生を思い出します。夏休み登山に行くと家を出て二度と戻らなかった彼を最後に見た終業式の日のことを。今のあなたはあの時の彼にどこか似ています。見るからに疲れているのに、どこか悟ったような様子でひどく落ち着いていて、何かをあきらめてしまったような、冬の雪山にでも入り込んで二度と戻らないようなそんな印象を受けます。
白銀の世界の中をホッキョクグマやホッキョクギツネのようにノソノソとその中をさまよいそうだ、誰にも出会うことなく吹雪の向こうに消えていきそうだ」
「君の話を聞くと、案外その終わり方は悪くないと思っちまうな。でも生憎と僕は自ら死にに行くような真似はしないよ」
「それはなりよりです」
「今は少し前向きだ、烏丸のことを思い出したせいでまた映画を撮ろうと思えた」
「こんなところで貴方に出会うなんて、あの教授に陥れられている気がしてきますね、あの人ならやりかねないとかそんなことを思うせいで、あの人が死んでしまったことは嘘なのではないかと思えてきてしまう」
「あいつならやりかねないけどな、本当にそうだったらどんなにいいことか」
なら少しばかり救いがあったかもしれないと、そんなことを考えて笑う。
笑ったことに気が付いて、皮肉を込めて祈った。
「そうですね」
「僕と君を会わせたかったのかもな、神様とか運命だなんてものを信じようとは一向に思わないけれど、アイツがそうしようとしたって言うのなら、ここに来たことにも何か意味があったのだと思えるよ」
『そうかもしれないジェス。それを知ることで君は初めて君の懐かしいものもとに帰る。だから、ジェス。君の今の悲しみはいつか報われる時が来るだろう』
そうだな、せめて彼女のことを忘れないようにしよう。
「ここには何をしに来たんですか? その探し物のために」
「いいや、探し物はここにきてからできたんだ。ここに来たのは単に観光のためだな、それ以上でも以下でもない」
「そうなんですか、探し物っていうのは? いったい何をそんなに探していたんですか?」
「子供の心臓だよ、右心房と左心房のしっかりしたものをさがしていたんだ」
「……ジェスさんは悪魔信仰でもしているのか?」彼は顔を引きつらせながら聞いた。
「悪魔信仰なんてものはしていないけれど、神なんてものは信じないことにしているんだ、こんなところに来ておいて説得力はないかもしれないが」でも彼女が生まれたのがこの町でなければ多少なりとも状況は違ったのかもしれない。臓器移植の制度が整えられている国ですら順番待ちが発生するというのに、ましてやそれがこんな辺境の地で小児臓器移植のドナーを探すとなっては困難に決まっている。見つかるまで彼女の体はもたなかった。多少の金を積んだところで時間が縮まるはずもなかった。もう少し内陸にあったのなら、そんなことをどうしても思ってしまう。何か変わっていたのではないかとそんな考えに救いがあったのではとすがりたくなってきてしまう。もし、彼女が初めからベルギーやフランスなんかにいたのなら何か変わっていたのかもしれないとそんなことを考えずにはいられない。初めからどこかあきらめたような彼女の顔が嫌だった。あきらめるしかなかったのだと、素直に泣くことのできなかった彼女の母親の様子に納得ができなかった。なにか方法はあったはずなのに時間が足りなかった。
母のことを思い出した。息災のためにと食べさせられた春の七草の苦みを思いだした。
そんな昔の記憶を懐かしいと思い出すこともなく、彼女は遠くへ行ってしまった。
「そうだな、その程度で済むことだったのに」
「何がですか?」
「なんでもないさ、それより帰ったら僕のところでアルバイトをしないか? いろいろとやりたいことがあるんだが、自分で自由に使える部下っていうものを持っていないんだ」
「いいんですか?」
「いいよ。これからよろしくな」そこで僕とタカは最初の握手を交わした「君の名前は?」
「柳葉隆人です。よろしくお願いしますジェスさん」
「ああ、ジェスと呼ぶのはやめてほしいが、まあいいか。そうだな、なんだか、黒はんぺんのフライが食べたいな」
『別れは、船出だ』そう言われても、急には無理だ。祝えそうにない。
・23
彼から差し伸べられた手を取ったその少年が、ぬけぬけと私の不在となった舞台に上がったことに私は嫉妬していた。
「なんでか許せなかったのよね。急にのけ者にされたみたいな気分になって、男同士で語り合ったりして、それにしてもあの時の貴方はなんだってあんなに落ち込んでいたんだっけ?」私がそう尋ねると、胡散臭い日本の芸人は応える。
「さあ、なんでだったかな、もう忘れちまった。なんせずいぶん昔のことだ」
「日本人自身も覚えてないのね。なにかあったかしら?」結局そこを思い出すことができなかった。二人で旅行をした数日後だった「あれは、たしか白い街に二人で行った後よ」
奇妙な関係性だったと思う。なんと呼べばいいのかわからない感情だった。恋とも友情とも違う。私の家には生まれたときから父親がいなかったから、その代わりの感情を彼に対して持ったのかもしれない。もし、父親がいたというのならこうだったのかなと。
「そうだね、なぜか二人で近くの町までドライブに行った」
「そうそう、日本人が仕事に行くって言って連れて行ってくれたんだよ。覚えている。後にも先にも旅行なんかしたのはあの時くらいだから」
母は私のことをかわいそうだと思ったのか、単に慣れてしまったのか、私が年を重ねるにつれ、一人で家を抜け出すことを強くは止めなくなっていった。行ってもいい場所は決められていたが、過度な心配をすることは少なくなっていた。
小さいころには退院しても家にいる間はずっと母がそばにいてくれたけれど、そのことにはどこか負い目があったら、放っておいてくれるほうがいくらか気持ちが楽だった。
「旅行というほどの距離でもなかったけれどな、君はひどく静かだった」
「いろいろと複雑な感情を抱えていたのよ。今まで自分の生まれた町の外に出たことなんてなかったから、嬉しいけれどどう振舞っていいのかわからなくて、手放しにはしゃぐことのできる年でもなかったからどうすればいいのか」
「そうなのか、僕にとっては普通の子どもの反応というか、借りてきた猫みたいで面白かった」
「ひどいなあ、でも結局大人になるっているのがどういうことなのか、今でもわかっていないのよね」
勉強が好きだった。知らないことを知ることが楽しいと思っていた。学校に継続して通うことはできなかったけれど、周りにいる大人やたまに病室に来てくれる学校の先生が勉強を見てくれた。母は『ちゃんと勉強してちゃんと大人になるんだよ』と言って、私が勉強しているのを見ると嬉しそうにしていた。
「大人も子供もそうかわらないよ。幼児を抜きにしたら、果たさなくてはいけない義務が置かれた状況や環境によって違うだけだから、目の前にあることを一つずつ片付けてけばいつか大人になっている。目の前にあることを楽しんで、勉強をして、進学をして、仕事を見つけて、甘えられる相手には甘えておけばいいんだ」
いろんな物語を見るのが好きだった。自分の見たことのない世界をいくつも見せてくれる小説や映画に触れるのが好きで病院にいる間は暇さえあれば本や動画を見ていた。
それでも自分の目では見ることができないのだとあきらめていて、だからこそ人一倍憧れが強かったのかもしれない。
出会った日本人と話しているときに聞いた外国の話にワクワクして色々なことを聞いた。
「あの時すっかり秋めいてきたのに、あの町は夏だったね、今となっては陽炎の中に思い出を映すみたいに実感のなくなってしまった思い出だけれど、あの時私にはいつまでも夏の終わりが来ないように思えて、想像なんかよりずっと素敵な町だった」
素敵な旅だった。半島と大陸の境にある場所で、私の町と違ってどこか一方を山でふさがれているわけでもないから空がどこまでも広く映ったのを覚えている。私の町にある伝統的な組積造の建物とは違う白い壁面の建物が並ぶ海岸と、少し遠くに見える高層ビルと、人であふれる近代的なショッピングモール。とても賑やかな町だった。
もう絶対に私は生まれ故郷を出ることができないと思っていたから。たったの一度だけでもよかった。いや、一日一日をとても大切に生きていたから、どこに出なくてもきっと後悔はしなかったと思う。私は自分の生まれたあの町が大好きだった。
でも、そうだ、あの旅に連れて行ってくれたのは目の前にいるこの男だった。
・24
雪はやむことなくしんしんと降り続けています。何の音もしない中で老人の声だけがどこまでも遠くへと広がってゆきました。雪原かける子狐のように、その音はいつしか母親のもとへと、誰か愛すべき者の元へと帰ることができたのでしょうか? 疑問はいつだってついて回ります。
「面白さも、つまらなさも全て聴衆のためのものです、観客が何を感じてくれようとそれはその個人のためのものです。持ち帰ってよく考えてくれればそれでよいのです。僕はそれ以上の責任をお客に対して持つことができません。
同じ感想を持つ人間が幾人かいてくれるのはいいですけれど、それ以上になってしまうと私の手に負えなくなってしまいますから、そこからはどんどん本来の形との齟齬が生まれてしまいます。群衆には一貫性のようなものは保ちきれませんから。だからこんなにも閉じられてしまった舞台になってしまいました。きわめて閉鎖的ですね。昨今は問題らしいですよ、中高年の引きこもりってやつも。そんな彼らの部屋にでも招かれたと思って僕の話を聞いてくれればこちらも気楽で可です。
しかしどうですよ、見事という他ないでしょう? これだけ平坦な場所なんて太平洋にでも漕ぎ出さないと無いと思っていましたけどね、ありましたよ、隣の県に。意外で仕方がございませんね。これだけの景色を他に探そうってなればそれだけで製作費もかさみますので、きわめて経済的。各々ここに思い描くのがいつかの海やら、海岸線だとよいと思います。何もないこの雪原が貴方の原風景を呼び起こす手伝いになればと。
ただ場所はどうであれ語る内容はすべて私の思い出でありますから、聞いてもなんの得にもならないかと思いますよ。客前でそんなことを語るのも、私の思い出を誤解されてしまうのも嫌でこんな山奥まで来立っていうのに、それをわざわざ聞いてくれる人間がいるとは思わなかったものでね。まあ、身にも貝にもならないだろうけど、もう少しだけお付き合いくださいな。酒の何杯かも出すからもう少し。投げかけたところで返事がないだろうとは思ってはいましたが、切ないものですね。
さて、旅で見た海というものはもう一つございます。白く美しい街でした」。
一人で語り続けている老人のその姿はひどく楽しそうだった。街中でなら通りかかったきわめて善良な(それも近所の肉屋で鳥の胸肉でも買ってしまうような飛び切りの)主婦に通報されかねないそれも、この山奥では、狂気のかけらも感じさせることなく。もしその傍らにたたずむ少女の姿がなければ、ひどく寂し気でしかなかったのかもしれない。だが、ここから見えた彼の姿は誰がどう見ても、孫に自分の武勇伝を延々と聞かせ続ける、打算も何もない無邪気な姿だった。
「終了時間は未定ですけど迎えはこちらで手配してありますのでご心配なさらず。
最期のわがままなんだ。もう少し付き合っていけ。老人は敬うもののだろう?
いいえ、お礼なんて言いませんよ、これが終わればもう帰りますから今しばらく待ってください。ずっと帰らずに申し訳ありませんでした(故郷の家族へと)。忘れたふりをしていて申し訳ありませんでした(異国の少女の母親へと)。結局最後になるまで語らずに申し訳ありませんでした(ずっと自分を気にかけてくれた友人へと)。無理なお願いをして申し訳ありませんでした(自分のただ一人の弟子へと)。あの時、最期まで一緒にいることが出来ずに申し訳ありませんでした(女の子へと)。どうか許してくださいな、逃げてばかりな人生でした。こずるく大人になってしまいました。何に抗わずに人生を終えることを、どうか許してくださいな。向き合うべき人たちに背を向けるようにして、最期に語ることをどうか許してくださいな」。
・25
「綺麗だね」ずっと静かにしていた少女がポツリとつぶやくのを聞いた。
今まで行った土地では見なかった西洋漆喰の白さが妙に印象的だった。とても綺麗で硬そうで、それでいながら砂糖菓子のように目を離したすきに。夏の太陽が放つ熱のせいで解けていってしまいそうな。そんな、白さだった。
消えていった夏のようだった。よく晴れた日に散歩するその町を眺めていると、打たれた瞬間にあきらめるしかないような完璧な放物線を描いて飛ぶホームランボールを見送る時のような心地よさを覚えた。それは『ああもう届かないんだな』と、全力で追う必要が無いその打球をぼんやりと眺めて『野球って楽しいな』と無邪気に思いながら体を動かした高校時代の夏の気候を思い出した。
「なんでか昔のことを思い出すな」
むこう側に消えてゆく白球の記憶ははかなくも綺麗だった。
高校の同級生といつだったか、そんな話をした。
うろ覚えだがあの日は確か嵐の来る前で、雲の流れがすごく早かった。
「そういえば、前に日本人も港町で育ったって言っていたけれど、どんなところなの?」
海岸線まで降りて背後を振り返ると、隣街に向かってだんだんと高くなる坂の途中に軒を連ねて白い家が並ぶその様は、色こそ違えども清水の海岸線にある日本平の茶畑によく似ていて
「こんな町だったよ」と振り返りながら、初老の青年は少女にそう教え込むのでした。
部活の練習を抜け出して、町を見下ろしながら同級生たちと話した。
「時々さ、私がいないほうがお母さんは幸せだったんじゃないかって思うんだよね」
「彼女がそういったのか?」
「そうじゃないけど、私が勝手に思っているだけ、私がいなければもっと自由に旅とか恋とかしていたんじゃないかなって」
「きっとそんなこと思っていないんじゃないかと思うけどな、本人に聞いてみればいい」
「聞けないよ」
「あの人はお前のことを愛しているよ。それも飛び切りに」
「わかっているよ。わかっている。幸せだから、余計に怖いんだ」
「まあ、答えはそのうちにわかるだろうよ、ちゃんと生きればいいんだ。ちゃんと生きて大人になったらわかる」
「今日だって一緒に来ればよかったのに」
「確かに、店なんか休めばいいのに、僕に預けて安心とかよくわからないな」
「本当だね」
故郷を発つ前の一年間、いつも誰かの話を聞いていた。
春に上る白昼の満月が好きだった。今がどの時間でもない気分にさせる、眺めるだけであらゆるものから独立しているようそんな気分にさせられ。心だけが宇宙へと向かう。
「普通に生きるってどうすればいいのかな、難しい」
「なにも難しいことなんてないだろう。やるべきことをやっていればいいだけだ。なれれば簡単だ」
「前にも聞いたけれど、日本人って何の仕事をしているの?」
「仕事もなにもまともに働いたことがないんだ。リサは将来やりたいは仕事あるのか?」
「まともに働いたことがない大人なんているのね、将来はわからないわ、15歳になったらお母さんのパン屋さんで働きたいけれど、それより先のことは考えたことがないから」
「パン屋か、いいじゃないか、次遊びに来るときに店で会えるかもな」
「どっか行くの?」
「そろそろ日本に帰ろうと思うんだよ。いつまでもだらだらしているわけにもいかないからな」
「いいな、将来の夢はわからないけれど、私も旅がしたいな。生まれた町を出て国内の都市を巡って、海を渡ってアメリカとかアジアとかアフリカとか、色んな所に行っていろんな風景を見てみたい」
「いいんじゃないか、大抵のものは物語とか映像なんかより自分の目で見たほうが美しい」
「日本人が見た中で一番美しかった場所ってどこ?」
「それは難しい質問だな、僕の友達なら迷いなく清水、僕らの故郷の町だって答えるんだろうが、見てきた場所に優劣なんかつけられないからな。富士山頂、鳥羽、岐阜から高山、奥飛騨、キュランダ、キングスキャニオン、バンコク、シムラー、ヌーク、トロント、シアトル。どこもここやお前の町と同じように綺麗だったよ。どこも少しずつ違っていて、新鮮で、美しかった。知らない町に行くのはいつでも楽しい」
「へえ、でもその友達にとってはあなた達の故郷が一番きれいなんでしょ? そんなにいいところなの?」
「悪いところじゃないけれど、僕はきれいだとは思わないな、そいつがそう言うのは思い出があるからだ。数字としてじゃなくて体感としての長い時間をすごしてきたからってのと、その思い出がもう変わることのない過去だからだ」
「どういうこと?」
「昔のことってのはどうしたって良く思えてくるんだよ。リサも大人になって故郷を離れることになったらわかるさ。まあ、あいつは広義でのマザコンなんだ」
「マザコン?」
「常に安らぎを与えてくれる存在を求める男のことだよ」
「信徒みたいなものか、それはいいことだね」
「そうだな、まあ悪いことじゃないけど、悪口になるから他人に面と向かってマザコンって言ったらだめだぞ」
烏丸の撮った映画のラストシーンが頭の中に浮かんだ。死者としてよみがえった男は故郷に帰って空を見上げる。世界には彼ひとりだけで、あたりはひどく静かで空は澄み切っていた。浮かぶ昼の月は満月のように真ん丸で、地表に近いのかとても大きく写る。こちらを見つめているかのような白い衛星がどこか不気味だった。男の耳に遠くで響く波の音が届いて空から視線を下すと、彼は町の向こうに広がる太平洋を見つめた。
・26
『その少女を僕が初めて見たのは、渡航してから何度かパンを買いに訪れた街角のベーカリーでのことだった。いつも通りにバゲットを買いに行くと買い物の度に話をしてくれる女性の店員からそこに居合わせた彼女のことを娘だと紹介された。その時は何か会話をしたわけではなく、形式的な挨拶をしただけで彼女は外へと出ていってしまった。
次に彼女と会ったのは丘の上にある公園でのことで、教会で執り行われている誰かの葬式を眺めていると気が付いたら彼女が後ろに立っていた。目の前で起きる物事に集中していたせいで、近づいてきた彼女の存在に気が付かず、急に声をかけられて驚いてしまった。
緑地の端にあるベンチに腰掛けながら緑地を挟んで向かい側の教会では誰かの葬式が行われており(途中までそこで行われていた行事が葬式なのだと、僕は気が付いていなかった)僕がそれを眺めていると彼女はいきなり背後に現れた。丘を登ってくる石畳の道は眼前にある一本のみで、背後には古ぼけた気象台があるだけだったので、突然女の子が現れたことにひどく驚いた。
見ていたもののせいで、幽霊かグリムリーパーの類にでも声をかけられたのかとそんな考えが一瞬頭をよぎった。すぐに声をかけられた相手がパン屋で紹介された女の子だと気が付いたのだが、腰を浮かせるほど驚いてしまったせいでどうにもバツが悪く、互いに挨拶もしないまましばらく見つめあっていた』。
何冊目かもわからないノートブックを開いた。黄色いハードカバーのB5サイズリングノート。自分自身が何を探しているのかもわからないほどに先生の書いた文章を読んだ。ノートを開いてすぐにそのパラグラフに目が留まった。そんな風に書き出されているものは今まで一つもなかった。
・初老の男と少女が隣り合ってベンチに座る。石灰石のように柔らかい乳白色をした清潔なベンチ。石畳の道と切り添えられた新緑の芝生の隣にあるそのベンチは風景によくなじんでいた。
少女 「説明が難しい。綺麗だと思うべきだってそう教えられたよ。でも、それは自然な感情になるんだよ。結婚する娘を見送るとするでしょ。その娘がどれだけあなたと仲が悪かったとしても。ずっと育ててきた娘なのだから、ある日突然結婚していなくなる彼女のことを、結婚するときになってあなたを育ての親だからと結婚式に呼んだその娘の姿を、どうあがいたって綺麗だとそう思うように。
関係に蟠りがあるせいで親族席に着いても、素直に祝えずにいるのだとしても、式場の扉が開いて娘さんが入ってきたとき、その時、結婚して遠くに行く娘を見て今までのわだかまりを全部超えて、ただ綺麗だって思うその瞬間のように、その人の生をしっかりと祝福して送り出してあげなさいと、終わった後に、ああ、いい葬式だったと空を見上げられるようにって。そう教わったよ」
初老 「娘に嫁に行かれた経験なんてないから君にそう教えた誰かの本当の想いまではわからないけどな。そんな思いで誰かの葬式に臨めたことなんてないな。そうだな、大往生を迎えたのだとか、あらかじめある程度の心構えができている相手の葬式だったのなら前向きに送り出すことももしかしたらできるのかもしれないけれど、僕には難しい考え方だな」
少女 「そう? 簡単だと思うけどな。それにもし、私が送り出される側なのだとしたらそのほうが嬉しいよ。もちろん死因にもよるだろうけど。そうだね、泣き続けられるよりずっと嬉しい。喜ばれるのは違うと思うけれど笑顔で送り出してほしいな」
初老 「子どものうちから、そんな気持ちまで考えられるなんてすごいな。まあ、言っていることもわかるけれど、僕にはそんな風に誰かを送り出すのは無理だ。さっきまでは何も知らないから平然と眺めていられたけれど、亡くなったのがまだ若い女の子の式だって聞いただけでやるせなくなってしまう。多分、参列していたら悔しい思いでいっぱいになっちまうだろうな」
少女 「あなたが悔しがる必要なんてないじゃない。それは偽善よ。私はあそこで運ばれてくる人と深い知り合いではなかったから、同情するなんて失礼だと思ってしまうわ。あの子の両親を励ますのはきっとあの式にいる彼らと関係の深い誰かがすることで、たまたま居合わせただけの私たちには彼女がしっかりと神様の下へと行けるように祈ることしかできないし、それ以外はする必要なんてないのよ。どんな別れも新しい場所へ行くための船出なのだから、船出を祝うのよ」
初老 「新しい場所へ行くための船出か、いい考え方だな」
少女 「勿論、皆がいつだってそう思えるわけではないっていうのは私もわかるけれど、子供たちはそうやって教えられるわ。現実をありのままで理解することのできない子供に対して体のいいことを言っているだけとも思えるけれど、私はその考え方が好きだよ。送りの鐘が鳴るたびに、町のみんなが家から出て教会に運ばれていく誰かのために祈るの、手を合わせても合わせなくてもその心の中で彼らが無事に神様の下へとたどり着けるようにって」
初老 「船出か、そうだよな、僕も次に誰かと別れるときにはそう思ってみることにするよ。そしたら友人が交通事故で死んだところで気持ちの切り替えのために旅なんかに出なくて済む」
少女 「そうするべきよ。多分その考え方が誰か身近な人がいなくなっても、なるべく前向きに生きようって教えなのだと思うわ」
初老 「君は式を見に来たのか?」
少女 「いいえ、自由研究のために近くまで来ていたの」
初老 「なんの自由研究をしているかわからないけれどもうすぐ夕方だ、学校もよく言わないだろうし、そろそろ帰った方がいいんじゃないか?」
少女 「平気よ。もし私の研究のバックグラウンドに学校があったら、私の研究は自由ではなくなるから、学校の先生に何かを言われることはないわ」
初老 「そうか、じゃあ僕はそろそろ行くよ。帰りに君のお母さんのとこでパンでも買っていこうかな、早くいかないと店じまいの時間に間に合わなそうだ」
少女 「……私もそろそろ帰らないとだ、帰るついでに私の町を案内してあげる」
初老 「自由研究はいいのか?」
少女 「いいのよ。いつもと変わらない私の場所に面白そうなものが転がっていたから」
初老 「そうだな、海辺の生物と街道の植物よりは人間のほうが研究のしがいはあるだろうな、じゃあお願いしようかな、商店街まで」
少女 「何を言っているのかわからないけれど。いいから、私についてきな、そしてアイスをおごってよ。」
初老 「安いガイド料だ」
初老 「気が付けばもう、日が傾きかけていました。ちょっとした散歩のつもりでホテルを出てきたはずが随分と長い時間がたってしまっていたようです。世間的には週の始まりである月曜日で、昼間に通った住宅街の一角が明るく照らされているのにひどく静まり返っていたのをよく覚えています。
そこで出会った少女は僕にとっての変化になりました。異国の地で停滞した時間を過ごしていた僕が再び何かをしようというきっかけになったのは彼女と出会ったからだと、町を出た今はそう思っています。
丘の上の公園で彼女と出会ったときには3ヶ月ほど滞在してはいたものの知らない場所がほとんどでしたので、なにか面白い店や町の文化の話でも聞ければとそれだけを思っていて、何かしらの形でかかわることになるとはまるで考えていませんでした。
その時の僕にとって彼女の申し出はただ都合がよかったのです。ホテルまでの正しい道順すらわかっておらず、適当に歩いて行き当たった大きな道に沿ってただ坂をのぼってきただけのその場所から、スマートフォンの地図を見ながら帰るよりも、自分の知らない話を聞きながら誰かと並んで帰れる方がいいとそう思い、彼女と連れ立って町へと戻ることにしました」
少女 「日本人は何の仕事をしているの?大人たちはまだみんな働いているのに」
初老 「難しい質問だ。しばらくはこうしてフラフラするのが仕事みたいなものだし」
少女 「ダメな大人なんだね」
初老 「まあ、そうだな」
少女 「アイスでも食べようかと思っていたけれど、日が暮れると少し寒いね」
初老 「夜になるとやっぱり少し冷えるな、もうこっちは秋か?」
少女 「あなたの国は違う季節なの?」
初老 「いや日本は、今はどうだろう、もうわからないな。台風が来ているかどうかによるな、過ぎる前か後かで変わるんだ。夏か秋かのどっちかだな」
少女 「わからないんだね」
初老 「君の名前は何だったっけ?」
少女 「変な質問」
初老 「へんだな、確かに」
少女 「みんなはリサって呼ぶ」
初老 「リサね」
少女 「気の向くままに呼べばいいよ」
初老 「それは難しい問題だ、略称じゃない名前がわからなと」
少女 「確かに、でも教えないでおこうかな」
初老 「じゃあリサって呼ぶしかないな」
少女 「知らない人相手にはそうした方がいいかなって」
初老 「前に一度会っただろう」
少女 「本当だね、あなたの名前は?」
・少女の案内で夕闇の坂の中をゆっくりと下る。
初老 「早くおうちに帰りなよ。君のお母さんもそう言っていたじゃないか」
少女 「暗くなったなら帰ってあげる。子供らしく夕闇に溶けるみたいに、だんだんと影が伸びるみたいにいつの間にか消えて溶けていってあげる」
初老 「子どもらしくはないな、それに消えられたら僕が困る。ガイドを頼んだ以上はしっかりと元の場所に帰さなければいけないから、住まいはどこなの?」
少女 「私なんだか図書館の本みたいだね。あっちよ、商店街のほう。日本人は私の家を知っているんじゃないの?私のお母さん、よくあなたの話をするわよ?」
初老 「店にすんでいるのか? だったら来た道を戻らないとだな」
少女 「家はお店とは別だよ、お店から歩いて5分ぐらいのところ」
初老 「そうか、どちらにせよ戻らないとだな、それにしても僕の話ね、まあバカンスにしては長く居ついているし、最近は観光地じゃないこっち側を一人でうろついていることが多いし、地元の人たちには不審に思われていそうだな」
少女 「それはどうかな? 週に二回貴方と会うのが最近の楽しみだってそんな話をしているよ。町の人たちとはまた違う感じで明るくて面白いって、もの珍しいんじゃない?」
初老 「君は僕を誰かと勘違いしていないか?」
少女 「してないよ。正真正銘あなたの話だよ」それが邂逅だった。
・27
「倒れ込むように海面に落ちた少女を、初老の男は必死で助けた。彼女は以前から泳がないようにしていると言っており、自ら水の中に飛び込むわけがないと、何か異常が起きたのだと瞬時に理解をした。男は緊急事態だとすぐ近くにいた漁師に助けを求めて車に乗せてもらい病院へと向けてひた走る車の中で、早くなる自身の鼓動の音が今でも忘れないものとして男の耳の奥に残っている。
ほかで感じたことがないようなその時の焦りや鼓動の音は鮮明に思い出せるのに、その風景が現実に見たのか単なる空想として自分が思い描いた物語の中での出来事なのか、それとも単に夢として見ただけなのか、男はそれをずっと思い出すことが出来ずにおります。頭が真っ白になるような感覚に襲われて、ひどく現実味のない夢の中にいるような感覚に襲われてはっきりと風景を思い出すことができないのです」
「なあ、烏丸よ。あの子はお前みたいに突然の交通事故で誰かもわからないほどの損傷を受けて無様に死んだわけでも、長い付き合いがあっったわけでもないのに、あの時の喪失感は一体何だったんだろうな? あれ以来、いろんなことが平気になっちまった。
大抵のことでは動じなくなったし、何を辛いと思うこともなくなった。
恩師や昔食えない時に世話になった人がなくなってしまった時にはそんな思いは起きなかった。仕方のないことだと静かに手を合わせて送り出して、昔のことを心の中で感謝してそれで終わりだったのに、あの子に対してはそれで終わらなかった。町や公園を歩いていて同じくらいの年の子どもが楽しそうに遊んでいるのを見るとさ、あいつのことを思い出すんだよ」
「俺は君じゃないから君がどういう想いを抱えていたのかなんて何もわかりやしない。けれどもね、ジェス、聖人が没したというあの町を離れてからの君はどこか感じる必要のない使命感に駆られていたように見えたよ」
「どうだろうな。少なくともどこにもいなかったはずのお前にそんなこと言われことになるとは思ってはいなかったな」
「君は自分の行いが正しかったのかどうかを確かめるために、はるばるこんなところまで来たんだろう?」
「いいや、そんなことを確かめに来たわけじゃない。もう一度会えるなら会って話してみたいと、そう思っただけだ。あれから随分と年を取った今の僕なら、彼女になんて言えるのか、それを確かめたくなっただけだ」
「なあ、ジェス、若かった自分の行いを間違いだと決めつけるなよ。君は確かに頑張って生きて、沢山の物語を世の中に残してはきたけれど、その本質は高校の時からずっと変わっちゃいないんだよ。高校のバルコニーで俺や毎度のように訪ねてくる誰かと話していた時の君とちっとも変っちゃいないんだ。あの町で出会った時点で君は彼女のことを救っていたんだよ。そのことをまるで君がわかっていないから、俺らはこんなところで君を待つ羽目になってしまったんだ。君は君の噺をしっかり聞いて、次に進まなくてはならないんだ。俺は君をちゃんと送りだすそのために、ここでこうして君の噺をしているんだ」。
・28
私は息が詰まって意識が薄れてゆく中、目の前にいる壮年の男の影が回るように動いて、空へと延びてゆく、そこないはずの白い壁の町並がを見えた。
一緒にベンチに座っている時、通りかかる白い服の一団を見ながら、男は自分も白いのだとそんなことを言っていた「もう白秋なんだ」と、どういう意味だと私が訊ねると「白い秋だ」と彼はそう答えた。
「アジア人は人生を四つに区切るんだ。青春、朱夏、白秋、玄冬、その中の白秋という時期に僕はいるのだと思う」と続けた。それがどういう意味かは分からなかったけれど彼がこの国の人間ではないということをその問答の中で知ることができた。
「あなたは中国人?」中国人はよく見た、別段珍しいものでもなく、よく隣町の人間とビジネスに来ては私の町に寄る。ツアーの計画をたて、ホテルや物件の話をしに来る。彼もきっとその限りだろうとその時のわたしは考えたのだ。
「いいや、日本人だよ。中国人やインド人よりは数も少ないし珍しいかな、まあ、国籍はともかく、どこにでもいるアジア人だよ」とゆっくりと男は首を振った。
「日本人」その音の並びを私は愉快に感じた。
その頃の町の気象台では、どこからか手に入れたという日本のCDが毎日のように再生されていて、病院にいる際に何度か日本のアニメ作品を観たことがあった上に、ちょうど日系の作家が書いたという小説を読んでいた。そのせいで物語や空想の中でだけ名前を聞いた、どこか遠くにあるんだという事しか知らないその国から人が来ていることをどこかおかしく感じたのだ。
すっかり日差しの熱をなくした。海風はこの街から大陸へと入って地熱をどんどん奪って反対側の海に消えて行ってしまう。その港に着いた風の行方を眺めるように風に顔を当てるアジアから来た壮年の男の横顔を眺めていた。
私はまた夕暮れの町に歩みだす。
「そうか、私はもうどこにもいないのか」そんな折、少女は雪原の中で短くそう呟いた。
・29
「やあ、日本人。今日はなんだか肌寒いね」
傾きかけた太陽が建物の反対側に長い影をつくる町の中、すれ違いざまに声をかけられた
「こんばんはリサ、急に声をかけられるから何かと思ったよ。こどもが一人で何しているんだ? もう家に帰るところか?」
「帰ろうかどうか悩んでいたところ。この町はあなたが思っているよりも安全だから、日が出ている間なら子どもが一人でいても平気よ。あなたこそこんな路地裏の海岸で何しているの?」
「この間と一緒だよ、何か新しい発見でもないかなと目についた道を進んでいたんだ。ここは面白いね」
「面白いかな? あっちのホテルが並んでいるビーチのほうが綺麗だし屋台もレストランもパブもたくさんあるし、楽しいと思うけれど」
「こういうのがいいんだよ。ここらのレストランの裏口から出てきたコックが不貞腐れながら海を眺めて煙草を吸うようなところが、見ていて楽しいんだ」
「楽しいなら何よりだけれど、何か得るものはあった?」
「何にもないな、湾に面している向こうのビーチと違って、水路として整備されているこっち側は波が少ないってぼんやり思っていただけ」
「泳いでみたら? 何か面白いことが見つかるかも」
「見ているだけで寒そうだ。見ている分には綺麗だけど、凍えるだけだとわかっているのにそれでも飛び込む気概は僕にはないな」
「春でも秋でも冬でもみんな泳ぎたいときに泳いでいるよ。本当はビーチ以外で泳ぐのは駄目で見られたら怒られるのだけれど。見ているべき大人が泳ぐから、私は一体誰に怒られるんだろうなっていつも考えている。それに、海にふざけて飛び込むと危ないってことも子供たちに言うんだけれど、お酒を飲んだ大人たちはみんな楽しそうに服を着たまま飛びこんでいくんだ。それっておかしいよね?」
「おかしくないさ、世界には78億の人間がいるんだ。それだけいるから誰かの主張にはどこかで矛盾が生じるんだよ。それにほら、ちゃんと誰かが注意したから今日は誰もいないじゃないの?」
「それは違うよ、夕方だからだよ。結局また夜になって誰かがお酒を飲むか、昼になって日差しが暑いとみんなが感じれば、きっとまた誰かが飛び込んでいくわ。
でも、今日みたいに寒くなりそうな夜に自分から泳ぎに行くのは自暴自棄になった時の近所のダリオくらいね。向こうのレストランで演奏している音楽家なんだけど、何か悩み事があるとずっと海を泳いでいる。私のお母さんよりもずっと年上なのに一時間でも二時間でもずっと泳ぎ続けるの」
「へえ凄いね、でも寒い中泳ぐのは御免だけれど、夜の海で泳ぐのは楽しそうではあるな。君みたいにこの町に住んでいる子たちもよく海に泳ぎに行くのかい?」
「みんなよく海で遊んでいるよ。でも、私はあんまり行かないかな、泳ぐのが苦手だし友達と遊びに行く機会も多くないから」
「いつもは一人で遊んでいるの?」
「そう。学校で会って話をする友達はいるけれど、昔みたいに仲良くはなくなっちゃった」
「そうか、いろいろあるんだな」
「まあね。よく入院するからさ、長い間離れてまた戻ってって繰り返していると仲のいい子たちの関係性も少しずつかわっていくのよ。学校で話をする分には楽しいんだけど、それ以外の時間も一緒にいようとするとついていけなくなっちゃうんだよね。ある程度ルールができているところに飛び込もうとするとやっぱり難しいんだよ。私の入院って中途半端なんだよね、毎回半年とかだったら、頑張ろうって思えるんだろうけれど、不定期に2週間とかひと月だから、無理してまで誰かといようとは思えなくなっちゃった」
「なんか妙に擦れた会社員みたいな感性しているな、君が楽しいと思える付き合い方をしてけばいいさ、他人がとやかく言う事でもない」
「私もそう思うわ」
「でも学生時代の友達ってのは社会に出てから会う人らとはまた違うから、もし、本当に仲良くなれる相手がいたら大切にした方がいい」
「それは、どういう感じなのかわからないわ。あなたにはそんな相手がいるの?」
「いるよ。中学と高校の同級生が何人か、別に大切にはしたことがないけど今でもずっと関係が続いている。そうだな、別に大切にしなくても仲良くなるやつとは仲良くなるし、続くやつとは関係が続くな、むしろ気を使う相手の方が関わらなくなるな」
「そうか、じゃあ私は別に何も気にしなくていいってことね」
「そうだな、でもいくら安全な町って言っても暗くなる前に1人で歩いているのは感心しないけどな、今日みたいに風が強くて寒い日には早く帰るべきだ」
「そうだね寂しくなっていけないものね。風に背中を押されるみたいに誰もが足早に家や宿に帰ってく、人がまっすぐに家に帰っていくだけの街路を見るのは何か物足りない」
「そうか? 僕は誰もいない町やら道やらでぼんやりするのが好きだけどな」
「物足りないよ。みていられるものが減ってしまうから。寂しさが退屈を生んだの」
「理屈っぽいな」
「そうでもない、きっと日本人の中にもあるものだから」
「いや、そんなことでセンチメンタルな気持ちになるようなことはないな」
「日本人はひどい子だね」
「そうか? 唐突に表れた君とこうして会話しているんだから、まだまともな方だと思うけどな」
「だからってひどくないわけではないもの」
「そんなこというなよ、アイス買ってやるから」
「この寒いのにアイスか、日本人は人の気持ちのわからないやつだね」
「日本人は人の気持ちなんて考えないからなぁ、こう、絶対的に善悪が国にあるから、それに基づいて行動するだけだ。楽だよ? 付和雷同だ、みんな仲良く。いいだろ?」
「それは何か考えていることから逃げている気がするな」
「まあ、確かにな、僕はいつも逃げてばかりいるな」
「真面目そうなのにね、昔、何かと向かい合って疲れたの?」
「真面目だったことなんてないな、憶測でものを言うものじゃないぞ」
「確かに、憶測はよくないよね。過去の貴方は、今ここにいる貴方とは別の人の話でもあるし、私は会ったことがない人だから、その人に対して憶測でものを言うのはよくない」
「君がそんな変なことを言ったせいで頭の中を過去がいくつもかけていった。なんだか走馬灯みたいだ」
「走馬灯って?」
「死ぬ直前か死んだ後にだけ見られる映画みたいなものだよ、自分だけが見られる映画。誰にも見られることなく、どんな監督にも作ることの出来ない映画。人生の最後に一度だけ観られるものだ」
「そんなのがあるの?」
「あるんだよ、それは多分、この世にあるどんな映画よりも優しいストーリーで作られていて、けれども誰ともその素晴らしさを分かち合うことができない自分だけのために編集された映画」
「日本人はそれを今観ていたの?」
「うーん、たぶん違うな、色々と後悔していたし昔の自分を思い出して恥ずかしくなったりしていた。あれは違う」
「そうか、そんなのがあるのね」
笑顔を戻した少女に対して 初老の青年は、ここまでの少女の言葉の意味を探ろうと小首をかしげて考え込んでいた。少女はただそれを真似て首を傾けてあそんでいた。
少女の頭をなでてみる。日光の下にさらされた死体のように優しい温かさと、もうどうしよもないような冷たさが混在していた。
通りの角でドアベルの音とともにウェイターがCLOSEDの看板を反す。カモメの声のむこうで、観光用に作られた遊覧船の汽笛が聞こえる。工場のチャイムが鳴って。応えるように神父が鐘を八回うった。今日も港町の一日が終わりへと向かっていた。
実際の速度よりずいぶん遅く見える仕事帰りの船が夕日と連れ立っているのを見ながら、初老の青年は一つ大きな欠伸をして。ゆっくりと、けれども肩の骨がなるほど強く、両腕を上に伸ばした。
少女は海辺のカフェレストランと、ボラードに留まるカモメのつがいを見ながら。コックの帽子の長い意味を考えていた。それは青年が伸びを終えた後もしばらく続いたが、鐘の音が水平線の向こうに消えると、何かを得心したようで「よし」と一つ頷き「あそこのレストランのデザートはどれも美味しんだ。今度一緒に行こう?」そう言ってウェイターがドアを開けたばかりのレストランを指さした。
「ああ、次にまたどこかで会うことがあったら、おごってあげるよ。おいしいのはデザートだけか?」
「ピザもパスタも美味しいよ。お母さんはスペアリブがお気に入り」
「そうか、あの店の料理はおいしいのか、いいことを聞いた。ちょうど今日の朝ご飯を探していたんだ」
「朝ご飯って探すものなの? それにもう十七時だよ?」
「朝ご飯は探すものだ。お前は一体、東京駅がなんのためにあると思っているんだ? それに僕は二時間前に起きたばかりなんだ」
「じゃあ、私のお母さんの店に行けばいいよ」
「あんまりミケラさんの店ばかり行くのもな、いつも買い物に行くたびにおまけで何かしら貰って悪いし」
「大丈夫よ、日本人は私と仲がいいことになっているから」
「そうか、一体いつそうなったのかは知れないけれど、関わらないようにするには手遅れだったな」
初老の青年はぶっきらぼうにそう言って笑った。
その姿は少女にとって、幼いころ不器用に触れ合った父親との記憶と重なって見えた。
・28
・初老の青年がゆっくりとドアを開ける(SE)。静かにドアベルが鳴った(SE)。
・店の奥からえんじ色のジャケットを着たウェイターが現れる。
接客係 「おひとり様ですか?」
初老 「いや連れが先に」
接客係 「そうですか、お名前は……ええ、お連れ様、先にいらしておりますよ。どうぞこちらへ」
初老 「すみません、予約した時間に遅れてしまいました」
接客係 「いいえ? お気になさらずとも、ほんの十数分ではないですか。と、私が言ったところでお連れ様は一時間も前からお待ちですからそういった話もお席で、もう二本目のボトルを開けて待たれています。どうぞこちらへ」
初老 「あぁ、お願いするよ」
案内された先では、ネイビーのワンピースを着た、若い女性が一人、窓際の席で海を眺めていた。
そのワンピースは彼女のお気に入りで、よく着ていた「紺色が似合っている」と、僕が言うと「確かに紺色に見えるけれど内側にはミッドナイトブルーと書いてあるのよ。そのことを思い出すたびになんだか騙されている気分になるのよね」とよくわからないことを言っていた。
初老 「待たせてしまったかな?」
女性 「そんなには待っていないよ、私も今来たところ」
初老 「今来た人間は先に前菜だけを食べ終えてボトルを開けるような、そんな真似はしないんだよ?」
女性 「そうなの? それは人それぞれよ。しない人もする人もいるわ、たまたま、私はそうするってだけ。それに、いつ来たのかなんてもう覚えていないよ」
初老 「遅れたこと怒っているのか?」
女性 「あなたは聡い人だから……本当に怒っている人間にはそんな質問しないでしょう? だからその質問があなたの口から出たなら、私はもう怒っていないのよ」
初老 「怒っていたの?」
女性 「それも忘れたわ。振返った先にあれば蘇るんでしょうけど、もう、今は何処にもいない物だもの、考えたくない」
初老 「そうかい、それはちょうどいい時に来ることが出来たかな」
女性 「でも、待たされた。待たされたから言うけれど。
ここのデザートはどれも本当においしいのよ? 使った素材を際立たせるみたいにはっきりとした味があって、気品のある中、デザートを作る専門のおじさんの確かな腕前が伴っていて。パティシエになりたくて外国まで行って賞まで取ったのに、生まれ故郷のこの町に帰ってきたおじさん。だからこそ……例えばオレンジの皮をつかったクリームなんか、口に入れた途端に広がる香りが夏にここの反対にある山を登って振り返ったとき香ってくるこの涼し気な海風のような爽やかさで! モンブランなんか、商店街を歩きながらお母さんと食べた焼き栗のおいしさを凝縮して、そのままケーキにしたみたいな味! 彼の作るデザートってこの町そのものなのよ? いえ、ちょっと……語弊があるかもしれないけれど、でも、触感も味もそれこそ特攻を仕掛けてくるみたいに口に入れた瞬間強烈に私を幸せにしてくれて、だからって、くどくないのよ。こんなに素敵なデザートを食べられるのは世界中でもここだけよ? きっと」
初老 「なるほど、今日のコースも最後まで楽しみだな」
女性 「そうじゃない」
初老 「遅れてごめんな」
女性 「いいのよ。本当は微塵も起こってなんていなかったし」
初老 「好きなものなんでも頼んでくれ」
女性 「ありがとう。貴方が来なくて一人だったから、海をずっと見ていたんだ。今日は白みがかっていて面白いよ。もし沈んだらヴィーナス像みたいに綺麗な石膏になって朽ちないまま、海の中をずっと眺めていられるのかもなってそんな静かな世界もいいなとか、日本の海はまた色が違うのかなぁとか、くだらないこと思いながら過ごしていたわ」
初老 「こことは全然違うよ。もっとくすんだ色をしている」
女性 「そうか、行ってみたかったな」
・イメージとして女性は20代前半、一番活気のあって怖いもの知らずの年齢だが、実際の彼女は、まだ幼い、ただの子供で、目の前で起きることに次々と表情を変える明るく活発な女の子だった。
窓の外を見た少女の瞳は緑色の丘を登ってゆく真っ赤なバイクを見ていた。
「あ、ボンネビル?」
子供が、飛行機雲のことをまだ理解できずいつか父親の発した音だけを頼りに確認するみたいに、それでいて嬉しそうに、そう呟いた。
「本当だ」
「あんなところ登っても、何にもないのにね」
そういった彼女の顔は、数分前にあった憂鬱の色が消え、輝きを取り戻していた。
・29
「私そんなに気にしてないのよね。でもどっちだろう?」
「何が?」
「死んでしまったあとで、見えているほうがいい? 見えてないほうがいい?」
「心霊現象の話か?」
「そう、幽霊として残ることは前提としたときに。どっちがいいんだろうって授業中の暇なときに考えていたの」
「見えていたら、それは生きているのと何も変わらないんじゃないか?」
「同じじゃないわよ。見えているだけで、死んでしまっているもの、見えるだけでかかわれなくなるのよ。きっと見えている人たちは心がすり減ってしまうわ」
「じゃあ、見えてないほうが良いんじゃないか?」
「見えていなくても、みんな思い出してくれるかな?」
「寂しいんじゃないか? 残っているのに見えてないなら」
「寂しいのかな?」
「僕は寂しくないよ。思い出されなくても構わないな。むしろ誰かのことを思い出すほうがつらいな」
「寂しいのかな、うーん、暇そうではあるけどね。私は思い出してもらいたいかもな。生きていても死んでいてもずっと一緒にいてくれるとか、そこまでは求めないけれど、私のことを忘れないでいてくれる誰かがいてほしいかもな」
「ずっと一緒にいることはないだろうけど。この町を出たとしても君のことは忘れないよ?」
「いや、日本人忘れっぽいもの、きっと忘れてしまうわ」
「まあ、確かに、いつまでも覚えていることの10倍くらいの物事は忘れているな。でもさ」
「何さ?」
「いいや、なんでもないよ」。
その少女は彼にとって数少ない友達の一人だった。
・30
「あ、祭囃子」
海にせり出した丘の上、教会の向かいにある緑地から町を見下ろしていた。
「本当だな、今日はなんだかどこも賑やかだな」
「パレードがくるよ」
「へぇ、楽しそうだな」
「パレードの間だけはなんでも忘れていいんだよ。踊っている間はただ楽しめばそれでいいの、神様が全部持って行ってくれるから」
「神様が?」
「神様がその場に仮装した人間と一緒にいて。その間一緒に祭りにいた人間の罪や痛みを帰る時に一緒にもっていってくれるらしい」
昔話なのだと彼女は教えてくれた。旅の一座が道中汚れた服の老人と出会い、その老人と騒いだ一夜のおとぎ話を語って聞かせてくれる。
「持っていかれたら困るから僕は踊れないな」
「なんで?」
「それをなくしたら売れるものがなくなってしまうからな、仕事ができなくなる」
「日本人は普段どんな仕事しているの?」
「気楽にその日暮らしだよ。まともな仕事に就けなかったんだ」
「可哀そうに」
「可哀そうとか言われるのはあんまり好きじゃないな。他人からどう思われようと、他人がどう思おうと他人の自由だけれど」
「日本人はあれだよ、ロンリーウルフだね。寂しがりやなロンリーウルフだね」
「僕がいつ寂しがったんだ?」
「必要の無いくらい。海が枯れそうなくらい哀愁漂っているけれど。暖めきれないくらい。ここに来る前に何かあったの?」
「哀愁漂っている? そんなわけないだろう」
「鏡の無い家に住んでいるの?」
「いや、ホテルの部屋はいたるところに鏡があるよ。ベッドからクローゼットのドアについた姿見とデスクについているメイク用の鏡と用途のわからない窓の下の場所にある鏡」
「それもどうかと思うよ?」
「常にいろんな自分が居て頭がおかしくなりそうだよ」
「本当にそんな部屋に泊まっているの?」
「いいや嘘だ。意味の分からないところに鏡はあるけれど、部屋自体がそれなりに広いから気になるほどじゃない」
「そりゃそうか、そういえばさっきの日本人の話で思い出した」
「何を思い出したんだ?」
「いつか見たドラマの話。捨てる女の話。何か一つを捨てるたび一つ幸福になるってことに気が付いた女の話。こう、全部捨ててゆくの、家にある家具とか、彼氏とか身の回りの人間関係を捨てたりとかしていくの、幸せになるために段々とそれがエスカレートしていって最後には自分を捨ててしまうっていう話」
「自分を捨てたら幸福も何も無いじゃないか」
「いや、主人公はアナウンサーとして働いていて、色々捨てた先に成功として、自分のニュース番組もつんだけど。そこで一旦捨てるものがなくなるの。捨てるものが無くなって、そのせいで自分の周りで不穏な空気が流れ始めるの、これ以上視聴率が悪いようなら、番組が取りやめになるっていうところまで追いつめられて、そこで自分を捨てるの。で、そのことがニュースになって視聴率は取れたねっていうのが結末」
「なんか後味の悪そうな話だな」
「どうなんだろう、もし、幽霊になっていたら主人公は満足したかもしれないよ。ねえ、もし死後の世界があるのだとしたらどんなのだと思う? 私は荒廃した、だけども綺麗な、けれども誰も居ないショッピングモールだと思う。その中の映画館で目を覚ますの。長い映画を一本見終わったあとのような満足感でオレンジの明かりを頼りに外に出るんだ。そして幽霊になる。自分だけしかいないショッピングモールを抜けて、自分だけが居ない世界に出る」
「ショッピングモールか、考えると寂しいな。死後の世界ね、考えたことないな。そうだな、ススキ野原かな」
「兵どもが夢のあと?」
「なんだって?」
「夏草や兵どもが夢のあと」
「なんで俳句?」
「いや、だから、ススキ野原って言うから、あのソネットみたいな情景を思っているのかなぁて」
「どうかな。よく晴れたどこかの山中のススキ野原に一人で立って。その中を歩きながら自分の人生を振り返っているってその風景が浮かんできたんだよな」
「でも、死んでしまった後になってやっと意味を探すなんて疲れそう」
「そうか? きっと気持ちがいいと思うぞ」
「すすき野原じゃなくても、こうして高台で過ごしているだけでも気持ちがいいものね」
「初めて来たときも今も、ここはいい風が吹くな。秋めいてきたと言おうか、秋が深くなったような気がする。ここには随分長居してしまったな」
山の香りか、半島の上から吹いてくる風に、冷めた土から出る甘い香りと黄色い花の香り、空の色から少しだけ白が消えて見上げても眩しさはそれほど感じない。眺めていると、若い時分にした肉体労働の疲れと仕事終わりのすがすがしい気持ちが同時によみがえってくる。
深く息を吸うと、吸っただけでむせてしまう夏の空気と違って、程よく冷えた秋の空気がしっかりと肺になじんでくれる。
「日本人はこの風で何を思うの?」
「体育祭かな?」
「なにそれ?」
「日本の学校では、秋口になると全校生徒でスポーツして競うんだ」
「なにそれ、楽しそう」
「それが終わった後の、そのかんじ。その祭りが終わった後はいつも空が高いんだ」
「その感覚はわからないなぁ。でも、楽しそうだ」
「そうでなきゃ、長く付き合った恋人と別れた後みたいなさわやかさ」
「それもわかんないな。日本人には恋人がいたの?」
「いたに決まっているだろう」
「いつ? 今も?」
「今は居ないな。前の彼女と2年くらい前に分かれてそれっきりだ」
「恋愛ってどんなの?」
「別に何かを考えてするようなものでも、あこがれるものでもないよ」
「憧れね、興味があるのかどうなのか、いま考えているわ」
「興味が無いんじゃないの、考えるくらいなら」
「興味がまったく無かったら考え始めたりしないよ。でも、ぴんとこないんだよね。本とか映画とかで誰かが恋をしているのを見るたびに。疑問がわく」
「どんなところに?」
「これで良いのかなって、なんだかいろいろと悩んでいたり、邪魔をされたり思い通りにならないような展開が多いからさ、最後でうまくいったとしてもなって、そんなことを思ってしまうんだ」
「お前はいろんなフィクションを見すぎているのかもな、現実ってのはもっと簡単だぞ、でもそれだけ色んな物語を知っているってのも財産だけれどな」
「時代がすごいんだ。ウェブサイトで会員になるだけですごい量の映画が見られて、なんでも読めるんだ。ネット図書館とか動画配信サイトとかもあるし、町の図書館の本は無料で借りられる」
「そうか、趣味がたくさんあるっていうのはいいことだ、楽しそうだな」
「本を読んだり映画を観たりいろんな物語に触れるのが好きなのよ。でも、普通に学校に行ってみんなと体を動かすっていうのもしてみたかったな」
「やっぱりそういうのは出来ないのか?」
「みんなと同じっていうのが難しい。責任の所在が難しいんだよ。爆弾みたいなものなの、生きている爆弾。今確かにあっても次の瞬間どうなるかわかんないの。言い訳じゃないよ? そういう不発弾が眠っている。戦争の後ずっと残っている国境線の地雷みたいに私が生まれたときからあるものだから、仕方がないことだってそれがわかっているんだから、誰かに責任を負わせるようなことにはしたくないのよ」
「そうか、ちゃんと向き合っているんだな」
「どうかな、本当なら病院の中で生きるのが一番良いんだろうけど、それも嫌だから、水槽の魚みたい生きるなんてまっぴらだってそう思ってしまうから、ちゃんとは向き合えていない気がする。
時々ね、幽霊になれたら楽なのになってそんなことを思ってしまうの。肉体を捨てての自由を私は求めてしまう。早く、居なくなりたい。居なくなっても残っていて、自由に飛び回ってみんなと遊ぶの。幽霊になってもこの町にいたい、出来なかったことを全部したい。って、生きている私はそう思うことがあるのよ」
「それは寂しいことだな」
「そうかもね、お母さんに会いたいな」
「店に行ってみるか?」
「会いたいけど、今は顔をみたくないかもな。もうちょっとここにいよう? もう少し、パレードがあのビーチから町へ帰るまで」
「いいぞ、今日もなんの予定もないし」
「お母さんに怒られなかった?」
「怒られてないよ、助けてくれてありがとうとお礼を言われた。あの人は強い人だ、それに優しい」
「自慢の母よ。今日もいい風が吹くね」
「ほんとうだな」
「貴方はこの町好き?」
「嫌いじゃないよ」
「ずっとここに住めばいいよ」
「そうはいかないな、いつかは帰らなくちゃいけない」
「帰ったらここで過ごしたって記憶も水に浸した綿菓子みたいに溶けてしまうんでしょう? そうして私のことも忘れるんでしょう?」
「忘れないよ。記憶は水に溶けたりしない」
「でも時間がたつにつれて薄れていくじゃない? この町のこと、一枚だけアルミ板に掘り起こすみたいに切り取った一瞬たちだけ覚えて、他は全部忘れてしまうわ」
「そんなこと無いよ。また、旅をしに戻ってくるだろうし、どこか旅の途中に海を見るたびに思い出す」
「旅ね、日本人には誰かいないの? 一緒にいたかった相手。もしくは一緒にいたかったけれども一緒にいることのできなかった相手」
「いや、居たよ、ちゃんといた。好きな相手も一緒にいてくれる相手も大事だった相手もいた。でも一人なんだよ」
「何かあったの?」
「何にも無いよ、何にも無いとしかいえないようなことしかない」
少しだけ、少女は初老の青年のほうへ体を寄せた。その熱を奪い取ろうとした。
「いまは二人だけだよ。誰も見えない。誰も居なくならない。怖くない、怖くない」
「ありがとう。今日は横じゃなくて下から鐘の音がするんだな」
「本当だ、なら今は神様の時間かもしれない。だからだれも居ないのかも、いきる者はどこにも。この丘の上には、私たちと、死者に祈りに来たあの子供たちだけ残して、みんなどこかで踊っているのよ」
「子ども? 本当だ、気が付かなかった。すっかり町を見ていたから」
二人の幼い子供たちは、まっすぐに墓を見つめて立っていた。両手にはいっぱいの黄色い花を抱えている。
「もし、私たちが死んでしまっているとして、死んだしまった後にこの風景を見ているとして、あの子達の大切な人って私と貴方かな?」
「そんなこと無いだろう」
「もしよ、私たちなら、だったら何かな。両親かな、命の恩人かな。それとも友人かな。あり方は何かな?」
「その中だったら。偶然助けた、命の恩人が一番しっくり来るな、自分のかかわり方として。他にどうしようもないから、まず死んでいないし」
「そうね、でも時々、本当はもう死んでいるのかもしれないって思うことあるでしょ?」
「あるよ、何かから逃げたいとか、日常的にふと。昔やったバイクの事故とかの時のその瞬間に俺はもう死んでいてって、飲み込まれているみたいに、おんなじ夢を見るんだ。光る桜の下で体を引きずって、毒虫みたいにあわれに、必死にその木に近づいていくってそんな夢を見る。ずっと続いていて。俺が死んだ後も続いている世界と、こうして普通に生きている世界とが平行していて。何かのきっかけで切り替わっているんじゃないかと、そんなことは考えるよ」
「日本人はあれだね、痛い子だね」
「何でそうなった」
「痛いこだから」
「ま、いいか」
彼女がなぜか心底うれしそうでしたから、男はそれ以上何も言わないことにして、視線を町へと戻した。
「ふふっ。ここはアレだね、あったかいってヤツだね」
「そうだな風があるから涼しいけど、日差しがあるからな」
「あったかい、ほんとうに。ちょっと眠いかな」
「みていてやるから、ねむりなさい。ちょっとしたら起こしてあげるから」
「うん。きっとよ」
「ああ」
「居なくなったしないでしょ?」
「ああ、しないよ」
「うん」
それでさよなら。
・31
落語家が一礼するのを合図に、開いた幕はゆっくりと下りてゆく。
落語家は楽屋には戻りたくなくて、着物に羽織姿のまま舞台袖の搬入口から外へと出る。どうしても今すぐに外の空気を吸いたくて仕方がなかった。そうでもしないと自分の存在を保っていることができない気がしたのだ、それは舞台の出来がどうしようもなく悪かった時や、台詞の一つがどうしても出なかったときに沸く衝動にも似ていたが、果たしてなぜそんなにも打ちひしがれた気になったのか、後になっていくら考えても納得のいく理由は浮かば無かった。搬入口の大きな扉を開けて外に出ると飛んで行く飛行機が見えて、その機体が大気を丸ごと巻き上げでもしたかのように、春風が一気に上空へ向かって吹いた。
・32
「ねえ聞いているの?」と、座り込んでしまった初老の青年に問いかけてみても全くこたえがかえってこない。仕方が無いのだろう。もう終わってしまった。砂に埋められた棺の中からでは誰にも届かない。
空気の無い宇宙でも、熱帯魚の泳ぐ水槽の中でも一緒。
声が届かないというのは別につらくない。望んだことと変わらないのだから、幸せかと聞かれれば、間髪入れることなく幸せだと答えることが出来る。
それでも、普通に居てほしかった。出来ることなら、こんな寂しそうなところをみたくなかった。本当に茶化してやりたいくらい寂しそう。面白いくらい、こんなことなら怒らせたほうがましだ。
そばに居たならこんなものをみることも無かったろうに、何でだろう?傍にいることが出来なくなってしまった。どうにかしていることだけでも知らせることが出来たらきりっとするだろう。
しっかりしなさい!とありったけの温度をこめてたたいてあげたい。
背骨ごとアイロンをかけて、二度とそんな姿勢の出来ないようにしてやりたい。今。そうしてやりたいと思った。
私の望みは叶ったんだと、何処にでもいけるのだからこんなところに縛り付けるのも止めてほしい。ばーか
鬱陶しい。だんだん腹がたってきた。みたくないものまでみてしまった気分。
ちょうど同棲して三週間の気分、取り繕ったもんにぼろが出始めたような。
一緒に死んどけばよかった。ちょうどそこの海にでも身を投げとけばよかった。二人で一緒に手をつないで足のつかない海溝まで一緒に歩いて……。
いや、やっぱり無理だったなぁ。
この人の殺し方がわからない、死に方が思いつかない無理に殺しても、その後一緒にいられないのは嫌だ
そういう形で、一人になるということは嫌だ。
夜明けまで一緒に孤独でいられる相手がやっぱりほしい。
そういう意味ではこの、寂しさは常なのかも知れない。
はじめから、お互いに居ることが出来た。切り取った布をちょうど間で縫い合わせるみたいに、交わりはしなかったけれど。とても楽しかったのだけれど。
初めてみたときからこの男は寂しそうだったのかも知れない。
きっと触れられたなら、今の私より冷たいんだ。
春の海のような男だ。日の光以上に冷たくて、つかりきった瞬間からどんどん体温を奪っていく。それでも、他のどんな海よりも優しい、そのなかに誕生を持っていて、そのすべてを変わらぬ態度で受け入れるのだ。
そこにずっと浸ってしまったからいつの間にか熱まで奪われて私は死んでしまったのだ。
お別れはしっかりとできたんだろうか?それだけが思い出せなかった。
無言でいる私の横で途方に暮れている彼を見ていた。町はいつもよりも静かな午後のなかにあって、船の汽笛がこの港まで飛び込んでくる。
どこかからバイクの音が徐々に近づいてくる。それでも男は海岸でうなだれて、もう一向に動いてくれそうにはない。
・33
この町の伝統どおりに、のちに聖人となった一人の聖職者が決めたとおりに、葬儀は粛々と執り行われた。
死との結婚と新しい誕生の祝福の式だ。
悪くない。ここから眺める私は綺麗だ。白い洋服に包まれて、寝顔のままゆっくりと運ばれてきて。このまま絵にしてしまえば、いつまでもありがたがれそうなくらい。
それでもこれ以上は近づかない。うっかり生き返ってしまったら困るから。
こうして二人はなれて自分の葬儀を見るというものいいね、なんと言うか、風流じゃない?
別に悲しくもないし、飽きたら帰ってどこかで眠れば良い。途中でいなくなっても不謹慎でもなんでもない。
最初に会ったときみたいに。目を輝かせてみていてくれたらいいのに。まるで私の方があの時の何処から来たのかもわからない女よりも劣るみたいだ。わざわざそんな悲しそうな顔するぐらいなら来ないで欲しい。いつもと変わらない無表情なのに、どうしても目の奥は黒い、いつも黒いけど。
なんというか。とにかく黒い。光の入る余地が無い。反射せずにどこかに消してしまうみたいに、深い黒だ。
そういうところは子供みたいだ。いくら取り繕っても。
こういう部分がどこか可愛かったりもするけれど。私がそんな風にしている原因というのは納得いかない。いや、私以外が原因のほうが嫌か?どっちだろう。どっちでもいいや。
(もう、少女の声が届くことは無い)
そうだねサービスだよ、いまだけは生き返ってもよかったかもしれない。キスしてくれるんなら生き返ってやってもいいよ?と
やっぱり最後に何か残すべきだったなぁ。手紙でも何でも、言葉でも確かなものでも。残しておけばよかった。何にもなくいなくなるのがいいと思ったから。
男の美学って言うか、そうすれば何にも残らないと思ったから、気のものでもなんでも
という、そのためにあらかじめやんわりと、何度もいつか死んでしまうって伝えておいたのにこの男は、本当にどうしようもない。
うちの母親なんて喪主のくせして毅然としている、ないた後すらないのだから。あぁ、結局こうなったってそれなんだ。この男にもそういうところを望んでいたのになぁ。時間不足だったのか?
これでは何処にもいけないじゃないか。せっかくの自由なのに、
しょうがない、もう少し、仕方がない、しばらくいてやるよ。
いや、でも、ほんとうに、キスでもしてくれるんなら生き返ってやってもいいよ?
今だけは、そんな気分、うん、今だけだ。そっかそっか。
たってよ? ちょっと気晴らしに歩こうか? ね?
・少し離れたところから、そんな二人の姿をみていた落語家が急に声を出す。
落語家 「すまないね。こんなに長く付き合わせることになるとは思わなかったんだ」
・こうして少女はようやく舞台へと戻ってきます。二人、並ぶように立ちながらその過去の様子を共に眺めて。
少女 「いいんだよ」
落語家 「ありがとう、最後まで付き合ってくれて」
少女 「そりゃね、約束だったからね」
落語家 「俺はなにか君と約束したっけ?」
少女 「忘れっぽいんだね」
落語家 「アイツほどじゃない」
少女 「そうかな?」
落語家 「でも、やっと終わった。満足だよ、俺はこれでもうやり残したことはない」
少女 「それならよかった。じゃあ、もう行こうか?」
落語家 「何処に?」
少女 「日本人のところよ」
落語家 「そうだな……俺はもう少し一人でいるよ。君一人で先に行くといい」
少女 「そうなの? 一緒に来ればいいじゃない、同じ場所に帰るんでしょう?」
落語家 「ああ、でもその前に寄っていきたいところがあるんだ。昔、家族で旅行に行ったところでね、なんとなく、そこを一人で歩きたい気分なんだ」
少女 「そう」
落語家 「君はもういいのかい? 何かやり残したことはない?」
少女 「もう平気よ、でも、そうね、日本人の本当の名前を知りたいかな。結局、最後まで聞けなかったから」
落語家 「世々継だ。苗字は吉田」
少女 「せぜつぐ? 呼びにくいわね」
落語家 「それなら、ジェスと呼ぶといい。そう呼んでやるとあいつは喜ぶ」
少女 「ジェスね、わかったわ、ありがとう」
落語家 「ああ、機会があればまたどこかで会おう」
少女 「ええ、きっと」
・暗転
・34
「私があの町にいたとき、先生は何歳だっただろう?」話の中のノートに書かれた文章を読み終えたとき、疑問が頭の中をよぎる。「三十四歳か」
当時まだ二十歳の私にはひどく老いて見えた。海沿いのコンクリートブロックに二人腰かけて話している途中で鐘の音が響いた。海に突き出した崖の上、クリーム色の外壁がまぶしい教会があって日中に三度、鐘の音が鳴っては遠く海の向こうへと消えてゆく。海風を全身に浴びながら聞くその和音が私は好きだった。いかにも異国の地にいることが実感できたし、日中の時間を正確に三分割できるのもありがたかった。しかし、先生はこんな文章を書いていたのに、その音を聞くと、決まって憂うつそうな顔をして下を向いていた。
そして、続けて私が初めて彼の物語を聞いた時のことを思い出した。
小学三年生の時、故郷に帰ってきた先生は二十三歳になろうという時だ。
ずっと前に聞いたきりの話は、もう断片的にしかよみがえらせることは出来なかった。初めて聞いたその時の話も最後に話したいといっていた話もどの紙を見ても当てはまるものがないように思えた。
私はそのノートを鞄にしまい、先生の家を出た。静かにカギをかけ、駅を目指して歩いた。冬の寒さはいまだ厳しく、少しでも逃れようとコートの襟を上げて顔をうずめてはみるものの、体の芯はどんどん冷えてゆく。足は自然と足も速くなってしまう。澄んだ冬の夜空には市街地の中でもはっきり星が見えた。
春、私は娘が参加している自然教室の付き添いのため、甲信越地方の山の中にいた。その日は屋外で演劇作品を作るというプログラムの発表会で、私を含めた子どもたちの保護者が、カメラを片手に集まっていた。
「お父さん」発表会も終わり、人の輪を外れて講師からの話を聞いていた娘を離れて待っていたところ彼女の声がした。ひょこひょこと跳ねる影が白く見えるほど遠くのほうで、娘が悪い足場に体を左右に揺られながら手を振っている。転んだりはしないだろうかとそれを眺めている。
見れば集まっていた子供の影が、蛍が飛び立つ時のような不確かな弘を描いて散ってゆく。親の元に戻る子もいれば、友達と駆けずる子、その場に留まって講師と話し込む子もいる、我が子は早く帰りたいのかなれない場所に戸惑っているのかはわからないが真っ先に私の下へと戻ってきた。
「よく頑張ったね、サラ。私は感激したよ。」
そういうと、まさに破顔というべく顔を崩れさせ、嬉しそうに笑った。
「私よかった?」笑顔のままに、言葉をチューイングガムのように噛みしめるようにしてそう聞き返す我が子というのは本当にかわいいものだと、私は頭をなでながらも
「あぁ、よかったね。同じ年の子が並ぶ劇団の中にあっても君はひときわ輝いていたよ。他の子たちはみんなくねくねくねくねしていたのに、大したものだ。どうやったらあんなに堂々と舞台に立てるのか私にも教えてほしいくらいだ。」さすが我が子だとは言わずに。
「簡単だよ。」娘は少し誇らしげに顎を上げた。「動かなければいいの」と娘と会話をしている途中視線を外にやると私の視界にとある人影が留まった。
「あの子」すすき野原が風に揺れて走るその途中で、ナレーターとして終始舞台を支配していた少女がそこに一人で立っている。秋の黄金色のすすきにも負けない、けれども少し薄暗い印象の金髪だった。どこか山の上の方を見ているようで、夏の花火の一瞬を思わせる女の子であった。はかなくもあり、強くもありそれでいて一人で立っているその姿が、目を一瞬くらませて消えていってしまいそうな孤独を感じさせた。
「あの子は、サラ、君の友達かい?」娘はこれまでの興味から言葉に誘導されるように私の視線をなぞりながら答える「そう」と。
「今日からね」今日から、と、この年の子供にしては随分と限定的な言い方が気になる。「今日から?」
「そう、今日に会ったの」
「今日であったの?」小さく頷く。どうやら、今日初めて出会ったという意味であるようだけれど。「一緒に練習していたんじゃないの?」と私がそう尋ねると、何かの自信を急に失ったらしく逃れるようにして視線を徐々に横へとそらしていく。
「んー。リサちゃんは一緒にお稽古してない」
「他のところから来たの?」確かにこうして親まで招いて、遠方の屋外でやるような作品であることを考えると、何かの交流を図るという意味で他県の劇団やらなんやらの子供と一緒にやったのかもしれない。あるいは誰かの代役で、ということも考えられるけれど、娘の話からでは判然しないリサという名前の女の子のいきさつにそこまで興味を持てるほどではない。そろそろ帰えるかと私が考え始めた時だった。
「わからないから、きいてくる」とても素早く、女児は父親の静止をすり抜けすすき野原を走り抜ける。決して転ぶことなく少女は目的の女の子を捕まえることができた。
そこになんの迷いも、ためらいもなかったからこそ。彼女には少女を捕まえることができた。つまりは、彼女だけがこの物語においてそんな小さな目的を達成できる唯一の存在だった。
リサという名の少女は、我が子に連れられて私の前へ登場した。
「どうも、異国の芸人さん。こうして会うのは二回目ね」
ステージの上での常全とした態度ではなく、どこか緊張を孕んでいるように見える。「ここで、またあなたを待っていたんだけどね。待ちくたびれた。待ちくたびれたから迎えに来たはずだったけれど。そうしたら子供たちが楽しそうにお遊戯していてね、本当に人形みたいにかわいいのよ! そんなものを見たら混ざってしまったわ」
「君の演技は素晴らしかったよ。そして君は私の娘と友達になってくれたようだね。ありがとう」私は、彼女のあいさつの意味を探りつつ、一つどころに留まることを恐れる潜水艇のように。とりつなぐための言葉を放つ。
「やはり、覚えていませんか?」少女はどこか緊張の糸が切れたように、落胆をしたように肩を落とした
「いや、待ってくれ。私は君の言葉に対して少し考えなければならないんだ。事実君は舞台の上でおおよそ少年少女の劇団とは思えないような見事な語りを私には見せてくれたけれど、君は私に久ぶりと、そう言えるほど長い年月は世の中を渡ってきてはいないように見えるよ?」
「貴方は何かからまた、逃げようとしているのね、だから本来見るべきものがまだ見えてないのよ」私を諭すように言葉をつづけた「貴方の先生をあなたを連れ戻したように、私はあなたを連れ戻さないといけないのよ?」小首をかしげる仕草は、妙に大人びて見えた。
「友達だったの?」成り行きを見守っていたサラは自分の見ることができた事実から的確に、質問だけを切り抜くと答えを待つように私を見上げた。
「どうかな?お父さんにはわからないんだ。きっとリサちゃんが知っているんじゃないかな」それに対した私は子供をだしにわからない問題の答えを当事者から聞き出そうとする。
そのサラの様子を見た彼女は笑顔だった、うまくだました悪戯の種明かしが楽しくて仕方がないというように「恋敵かな?」と右のほほをつきあがらせる。
「こいがたきか、リサは私のお母さんが好きなの?」サラは自然に少女との会話をする。
「違うよ、あなたのお父さんが私の好きな人を好きだったの」サラを慈しむようにそう言って、ハイライトの弱いブロンドの女の子は遠くを見つめる。山の上に昇ってゆく白い光を見ながら、まぶしそうに眼を細め、下から吹き上げる風に髪を揺らして。
「君の好きな人?」
「そう、私の大好きだった人。あなたが私の街から連れ去ってしまった人。あなたが救ってくれた人、生きがいを与えてくれた人。あなたの最初で最後の先生だった人。あなたが最後まで一緒にいてくれた人。
だからね、連れていかれたことには恨み節も言いたいところはあるけれど。おおよそのところで、私はあなたに感謝しているし、それを伝えに来たの。それに、先にいなくなってしまったのは私の方だ」
そういったところで。重みをなくしたみたいに彼女の表情が緩むのを尊いことにかんじ、同時に疑問もわく。
「話を聞くと、君は随分遠いところからきて、そして随分古い人間であるような気がする」話のつじつまを合わせようとする場合。彼女の話している人物が私の師に当たる一老人のことなのだとは分かる。そうしてそんな彼と私が遠い昔に異国の地で出会ってこの場所に帰ってきたことを彼女が知っているのも分かる。そしてそのことを知っている彼女がこの場にいることだけに納得がいかない。
「どうかな?もう自分のことも分からないよ。だとしても私にはここに来た理由があるし」
十何年も昔のこと私は遠い異国の地にて、憔悴した一人の男性との邂逅を果たした。彼が話してくれた断片的ないくつかの物語が私の中に一本の線をもって落ち込む、いかにして自分はこの街で育ったか、そうしてどんな体験を経て今の地位を手にしたか、決して短くない時間彼の話を聞き続け、必死にその喉笛に食らいつこうと、彼の技術を奪おうと努めてきた私には彼女が誰なのか理解できた。
その国で先生は映画を撮っていた。その映画のラストシーンで主人公が街を去ってゆくところ、疑似的サブミナルとして二コマほどだけ、ある写真が映し出される。その写真は色々な憶測を呼んだ、そのことに関して『僕の友人の写真だ。名前はリサって言っていた。結局、最後までフルネームを教えてはくれなかったな。帰国するとき、彼女の母親が一緒に撮った写真をくれたんだ』先生はそう言っていた。
「なるほど、リサだった。ありふれた名前だからあんまり気にしてこなかったよ。そうだな、君は僕の恋敵だ」そしてあこがれてきた物語の中の登場人物だ。君の話をするときにあの先生がどれだけ生き生きと話したか。多くの人に愛されたその物語を盗むために私がどれだけそれを練習したか、それでも舞台で話す彼の真似をどれだけしても君との思い出がないから、私には語ることの出来ないものだった。
鐘の音が遠くから聞こえる。この山にけしてあるはずのない海沿いの教会の鐘だ、トンビは相変わらず高く飛んで地上にいる小さい動物を狙っている。ネズミたちはその視線からは決して逃れることができないことをいつか理解する。
「それでね異国の芸人さん。あなたに一つだけ手伝ってほしいことがあるのよ」
「漫画の世界に行きたいと願った子供が現実を手にしたように、私はここに立っているんだし後はなんでも手伝ってあげよう」
「大したことではないのよ。ただ約束を一つだけ果たしてほしいの。そして私にとってもそれは必要なことで。必要だけれども、私一人でそれを完遂させることは難しいのよ。だって、さっきまでその先生ってのと一緒だったんだけど、私一人だと私だって信じてくれなくて泣かされそうになるから。なんでもあなたのことをずっと待ってる。とか言って、動こうともしないのよ。見た目は変わらないのに年を取ったのね、偏屈で困るわ」
長い話に飽きたようで、娘は風に揺れるすすきと戯れていた、踏みつけようとしたり流れてくる穂先を飛び越えようとしたり、どこにそんな体力と興味があるのだろうか。飽きることなくいつまでも動き続けている。
「少し前にね、先生と山の中で約束をしたんだ」
私は昔を懐かしむように冬の出来事について短く少女に語る。たったそれだけのことがひどく重い罪であるかのように。
私が初めて海外に渡ったのは大学を離れてから、ちょうど一年たったころだ、その頃を思い出すと友に言えなかったことがいくつも浮かんでは消えてゆく。町の空気の中でそのことが不意に脳裏に細胞の裏に映るようにして浮かんでは。枯葉が落ちるように、あるいは軒先で吹き上げたシャボン玉を小さな飼い犬に割られるように消えてゆく。そのたびに生まれる小さな自責の念と苛立ちは石鹸水の苦みのようにだけ残りながら、友人に対して言い残した言葉に抱くのは、LEDライトに彩られた華やかな学徒たちからは程遠く離れた慚愧の念だ。それは先生に対しても同じで、私は随分と言い忘れたこともあったのだな、と山を下りてからいくつも思い返した。迎えに来いという言葉の意味をようやく理解できるようになったのは最近のことだった
「こんな形で、ここに来るとは思っていなかったけれどね」
「まあ、来てしまったんだから仕方ないわ。観光がてら先生にでもあっていくといいよ、ここを登ったところにいたから」私たちは歩き出した。
季節を越えて語り続ける老人は、確かにその山の上にいた。二人の立つすすき野原に置かれたよう岩石の上で今まで見たこともないくらい不味そうに煙草を吸う。作り続けた借金をすべて返済したかのような晴れやかな顔が印象的だった。
「あれ?思ったよりも近くにいたんですね、先生」
「やあ、近くにいたとは随分だな、てっきり君は僕の居場所を覚えていて、約束通り僕を迎えに来てくれたのかと思ったよ」
「ええ、ずっとそのつもりでいましたけどね。おかげで色々と見えるようになった気がします。それにしても、あっけなさすぎましたね、もっと山奥まで行ったつもりだったんですけれどね」笑いそうになるのをこらえようと、私は少しばかり乱暴に呟いた。
青年は岩の上に腰かける老人と、ここにきてようやく再開を果たす。
「しかし結末がこんなだと、つまらない喜劇です。無理してでも山頂に行っておくべきでしたね」
この最後になって、鹿鳴館最後の春に私は死者と踊る。
「いいんだ。八十年代みたいだろ?ひねって考えるのも飽きたからねあっけない位でいい、実はずっとこんなのをやりたかったんだ、それに今回、結末は関係ないんだよ。それにタカ、ここだっていい眺めだぞ、これだけで意味があるだろ」老人はそう言うと、不思議そうに少女の方へと視線を動かす。
この時の先生は、おおよそ話芸のプロとは思えない、ひどく素っ頓狂な声と顔をして
「それにしても、なんで君がいるんだ?」
対峙する少女は毅然とした態度のままで
「いいじゃない。約束通りよ」
そう言うと老人から目を離しゆっくりと後ろを振り返る、尾根から登る春の風をいっぱいに浴びながら、雪解けの後のすすきの中、その黄金色に紛れるように髪をなびかせて静かに街を見下ろした。それからカメラのテープが切れるまでの数分の間、少女は満足そうに微笑んでいた。
何処からかブザーの音が響いて、映画館には静寂が戻ってくる。
未編集のその数分間の笑顔を最後に、その映画監督の遺作、映画は終わりを迎えた。Finとも終劇ともいわず、唐突にフィルムは流れを止めた。
流れることのないエンドロールを待ち、灯りの消えた映画館の中、いつまでも椅子から立ち上がることなく星屑に照らされるスクリーンを見続けていた。男がつまらないホームムービーだと言った映画に、気が付くと私は涙を流している。つまらないラスト、陳腐なストーリー、どこにも泣く理由なんて見つからなかったのに、スクリーンの中で蘇る様々な事柄が私には悔しくて仕方がなかった。
「違いない、ホームムービーだな」呟くようにそう言った声には、もう誰からの返事も返ってはこない。そうだろう、こんな映画の上映に人が入るはずがない。
こらえきれず横を向いても、隣に座っていた男の姿はどこにもなかった。代わりにその席にはずっと前に放映された、古いアニメ映画のパンフレットがその席の上には置かれていた。
落語家は一人で勝手に納得をして話を進める
「透き通る、歌うように真っ直ぐに、その瞳だけは前をみていた。電車の来なくなった駅で、この世界から切り取られたような町で、信州の山奥で、その人の周りだけ空気が違っていた。吸い込んだ空気は、肺に収まることなく、そのまま突き抜けに何処までも入り込んでくる。
ただ真っ直ぐに、目的のために前だけを見続けるってのは、しようと思って出来るものとそれとは違いますから。それで結局前だけをみていて色々なものを取りこぼしてしまったなんてことになってしまった時には何も語りたくはなくなってしまうこともありましょう。
それでも自分の不幸ですら糧にしてでも、何度も語りたいと思うほど。物語が好きだ。それを話すことが好きだ。話芸家としてこんなに大切なことも無いだろう? どれだけ長い時間、客前人前で語ろうとも満足はできない。何年かかっても語っていたくなる。
それはどこか、頭のネジが飛んで行ってしまっているってそういうことなのかもしれませんが。
いや、でも、そう卑下しましたけれどね。これだけのお客を相手に話すんですから、頭のネジが飛んでいようと、意外と馬鹿ではやれませんよ? まあ。賢きゃ、尚やりませんな。
私は最後までこの舞台の中で、いつまでも帰らなかった古い友人を待ち続けました。彼はきっと春と共に帰ってくるような気がします。だからもう少しだけ待つことにしましょう。もう、何度目の春でしょうか? 私たちが高校を出てから、ずっと崩れていく故郷を見続けてから、彼が思い出を語ってから。彼の語る物語の中で私はずっと、その帰りをまちわびておりました」
落語家は話を終えるとまた深く頭を下げた。
「劇場のライトがゆっくりと消えてゆく。その灯りが消えたら今夜はもう誰もここを訪れはしないのだろう。ゆっくりと息を吸う。渋谷からもきっともう人は消えてしまった。それくらい夜も深まってきたんだ。ひどく心地の良い感覚だ、自分でも驚いたんだぜ、ジェス。まさかあんなことになるなんてな。
タカは俺のもう一つの目だったんだ、初めて実家の近くであった時は驚いたよ、会うたびにいろいろと意見を聞いていたんだ。ダメ出しも多くてな、小さい時から、どこか抜けているんだけど感性の鋭い奴だった。言ってほしい指摘をぴたりとしてくる奴だった。でも俺に似ていたからか、俺の撮った映画を全然好きになってくれないひどい奴だったよ。そんな小さいころから知っていたやつが大学三年の春になったら俺のゼミに来る予定だった。それが柄にもなく嬉しかったんだ。
でも、ダメだったよ。結局なにも教えてやれなかった。それにしても、お互いのなりたかったものと逆になっちまったな。俺も舞台に立ってはいたし、ジェスも一回、映画を当てたから、一概にそうとは言えないのかもしれないけれど。しかし君とタカが出会うなんて運命といおうか、神様はいるんだなと俺は思ったね、結局お前があいつを育ててくれたから、おかげで俺の少年時代の夢はタカが叶えてくれた。
でも、最期の時に、新東名で道をふさぐように滑ったトレーラーと、後ろからくるトラックに挟まれて、ギリギリ意識を失う前の苦痛の中で思ったのはな、ジェス。そんな落語家になりたいって少年時代の夢が叶っていない事よりも、仕事の方でまだ撮りたい映画を撮れていないってことだった。最高傑作になるはずだったんだ。久しぶりに自分の書いた脚本で、大学のゼミからタカを現場に呼べて、お前にも出てもらう予定で、それがつまらないものになるはずがないだろう? って、現場に入る前から楽しくなってしまうような作品だったんだ。
やっぱりお前も同じだったんだな。でも違ったのは、お前は最初から最後のつもりだったけど、俺は最後にするつもりなんて毛頭なかった。でも変なところで気が合ってしまうんだよな、昔から。
タカを取られてしまったからね、リサちゃんだっけ? あの子を借りたよ。どこか若いころの君に似ているな。優しい子だ、本当に血の繋がりはないのかと疑わずにはいられないね。それにしても君はいつもやり切れないな、ジェス。俺のことといい、彼女のことといい。
でも笑えたのはそこだよ、リサに君のことを聞いたんだそしたら「本物には会った記憶はほとんど無いけれど、父親ってあんなのだろうな」って言っていた。君自身、自分の父親に会ったこともない、ちゃんとした形で子どもをもったこともないのに、君は父親みたいなんだぜ? そんなに父性にあふれていたのか? 知らなかったよ。だったらなんで高校生の俺に、口酸っぱく大学に行けと勧めなかったんだ? それにもっと俺にも優しくしてくれるべきだったんじゃないか?
これはとてつもなく笑える事実だったし、あの子に口止めされたから、お前には絶対に伝えないでおくつもりだけれど。それにしても可笑しい。
でもジェス。結局オトナ帝国は逆襲を行うことはできなかったな、それはそうだな、仇討はもう法律で禁止されてしまったんだから。イエスタデイ・ワンスモアだ。いい名前だろう? そんな組織名に反さず彼らは静かに去っていったよ、まるで暗い森に消えていく木こりのようだった。
あんなにいい映画は他にない。だろう? ジェス? よせよ、あるなんて決して言わないでくれよ。それは俺にとっての話なんだから、君が何を言ったとして、そんなものあるはずなんか無いだろう。頼むからケチを付けないでくれよ、今はとても気分がいいんだ」
最近の清水はいつも昼の月が出ている。白くて大きな月だ。
「清水市がなくなってしまったなんて信じられるか? 何年も経っているんだろうけどなんだか俺にはまだ実感がわかないんだ」。
もっと多くのことを先生達から聞いておけばよかった。もっと映画の話をしておけばよかった。もっと色々なことを小説でも、落語でも、くだらない話をしたかった。現にこの映画の感想をどうしても伝えたいのに話すこともできない、先に立たない後悔をいくつも頭に浮かべてしまう。そうした思い出が、生まれては消えて、生まれては消えてを繰り返した。一体いつ涙が止まるのなんてことは、もう私にはあずかり知れない。
・35
気が付くと電車の中。
はぁ。
お帰りなさい。楽しかった?
いや疲れたよ。ばかいうなよ、楽しくないよ。
それにしても待ちくたびれたよ。ずっと居たのに多分気づいてないでしょ。
気が付いてない。
まあ仕方ないから、もう許してあげる。
すみませんね。
日本に来るのは初めてだ。
何処に向かっているの?
さぁ、多分生まれ故郷。
さんざんいたじゃないか?
いや、貴方の。
ああ。いや?なんで?
行きたかったんだ。
うーん。まあ。もう、いいか。
そうだ、その前に次の駅で一度降りるといいよ。待っている人がいるみたいだから。
だれ?
名前は知らない
何だそれ。
貴方を待っていることだけは知ってる。
誰だろうそれ?
いってあげな、きっと懐かしいよ?
僕の知り合いか?
ただの知り合いよりもっと懐かしい人。私と同じでずっとあなたを待っていた。私は駅弁でも食べながらここでまってるわ。黒はんぺんフライサンド。
お前も来るだろう?
今回、私はいけないのよ。
そうなの?
でも、帰ってきて?
そりゃ、もちろん。
でも、こんなところまで来るなんて、何があったの?
何にもなかったよ。二回、突然どうしようもないことがあって二回ともどうにも出来なかった。だから何にも無かった。
ふーん、良い人生だった?
どうだろう? 人生において二度も選択できることがあったのに、二回とも失敗した。
めったに無いチャンスなのに、もったいないね。
そうだな。でも、死人にキスするとか。そんな不適切な話じゃなくても、ちゃんと別れておけばよかった。正面から、死者を弔うって強さがね……なかったなと。
ふーん。どうでもいい
まじめに話してるんだよ。
しらないけど、私は楽しかったもの。
そうか、ごめんな。
だから、謝るのが違うんだけど。まぁいいや。いま幸せだし。そういえば風のうわさで聞いたのだけど、どうやら、今は私にも弟がいるらしい
知っているよ、いつかあの町にも、もう一回行こうか。
知っていたのか、お母さんのことだけ心残りだった。でも、幸せになったのかな。そうだね、いろんなところに行こう。トンネルを抜けたら雪国なんだね。
いや、違うよ。いまはもう。
・波の音。ガタガタと電車の走る音。
根府川の海と熱海の旅館群をこえて、駿河湾の向こうには突き刺さる伊豆半島の形がはっきりと見えた。郷里の山野越えて海沿いを走り続けた東海道線はゆっくりと故郷に近づいてゆく。
浮いた両足をばたつかせながらリサは嬉しそうに外を眺めている。
そんな景色を見ながら、老人は一度ため息をつくと、腰をずり動かして背もたれに深く自身の体重を預けた。東海道線は止まることなく走ってゆく。遮る物のない太平洋のうえで傾く気配のない太陽が爛漫と輝いていた。
・そして、少年はようやく、夏へと帰る。