聖女に婚約者を奪われましたが、政略結婚で幸せになります
王都の中央を貫く石畳を、ひときわ大きな馬車が走っている。深紅の幕がかけられた車体の紋章は、公爵家のものだ。
馬車に乗っているのは公爵令嬢であるエリザベス・クラインだ。
エリザベスは、この国の第一王子であり王太子でもあるアルトリウスの婚約者であった。
だが数日前、王太子アルトリウスに突然婚約解消を言い渡されてしまったのである。
しかも理由は、異世界から召喚された「聖女」と呼ばれる少女に心を奪われたからだという。
この世界では、かつて異世界から来た女性がこの大陸を救ったという伝説があり、異世界人には、女性であれば「聖女」、男性であれば「聖人」という特別な称号が与えられる習わしがある。
昔は確かに奇跡的な力をもつ聖女や聖人が現れ、人々を救ったのだというが、今回王宮の噴水に現れたユマと名乗る少女には、不思議な力はまったくなかったらしい。
それでも慣習通り、彼女は名誉職のような形で「聖女」として扱われている。
ユマを見つけたのがアルトリウスだったことから、彼は何かとユマを気にかけた。
エリザベスも会ったことがあるが、礼儀もなにもないユマの態度に辟易して、それ以降はやんわりと会うのを断っていた。
だがアルトリウスはそんなユマの態度を新鮮に感じて、たびたび会いに行っていたらしい。
その頻度が度を過ぎるほど多くなっていって、二人が愛し合っているのではと言われるようになっても、エリザベスは「ただの噂」だと聞き流していた。
アルトリウスは王太子として立派な人だ。
だからそんな浮ついた気持ちを持つはずがないと信じていた。
だが、その期待は裏切られた。
「エリザベス。君には申し訳ないと思うのだが、我々の婚約を解消したいと思う」
いつものように王太子妃教育に向かったエリザベスは、いつもの部屋ではなく王太子の応接間に呼ばれ、突然の婚約の解消を告げられた。
「……どういう意味でしょう、殿下?」
「聖女ユマとの結婚を、私は望んでいる」
それはあまりにも一方的な言い分だった。
エリザベスがどれだけ冷静に理由を問いただそうと、王太子はまるで聞く耳を持たなかった。
アルトリウスは事前に根回しをしていなかったようで、慌てふためいた侍従長がやってきたが、王族が一度口にした言葉はもう取り消せない。
アルトリウスの意思も固く、エリザベスの訳も分からないうちに、そのまま正式に婚約解消が決定されてしまったのである。
王宮で仕事をしていた父の公爵は、その報告を聞いて烈火のごとく怒った。
現在、大臣の要職についている彼は即座に宮廷を飛び出した。
「こんな理不尽な話があるものか! 全ての役職を返上する。我が娘を愚弄しておいて、国の顔を保てるものと思うな!」
普段は冷静沈着である父のあまりの怒りように、父を出迎えたエリザベスも動揺するほどだった。
エリザベスにしてみれば、アルトリウスとの婚約は政略によるもので、特に彼に恋焦がれているというものではなかったので、そこまでの怒りはなかった。
ただ、十七歳になっているので、今から新しい婚約者を選ぶとなると、上位貴族の嫡男という条件の良い相手は見つからない。
しかも王太子に婚約を解消されたとなれば、エリザベスに瑕疵がないとしても敬遠されてしまうだろう。
そんなあれこれが思い浮かぶが、突然のことだったので、これからの自分がどうなるのか、あまり実感がない。
それよりも父の剣幕の激しさに、必死になだめようとしたが、一度激情を燃やした父はそう簡単には収まらない。
しかも、母も兄も父の味方だった。
結局、父は辞表を叩きつけ、公爵家は瞬く間に王都から引揚げることになった。
エリザベス自身も覚悟を決めた。
それでこうして現在、王都を出て実家の領地へと戻っている最中なのである。
婚約は一方的に解消され、今はただ実家に戻るのみ。
これからどうすればいいか、領地へ戻ってから考えよう。
エリザベスは、遠ざかる王都の景色を眺めながら、深くため息をついた。
いくつも街道を越え、久しぶりに見る公爵領の城門。
そこから先に広がる緑の風景には、エリザベスの幼い頃からの思い出が詰まっていた。
宮廷での生活が中心だった彼女にとって、久方ぶりの故郷である。
馬車を降りると、公爵邸に仕えるものたちが出迎えてくれた。
「エリザベス、ここでゆっくりするといい」
エリザベスの横に立った、広い肩幅と厳めしい表情の父が、その顔をほころばせる。
「そうよ。本当によく頑張ったわね。家でゆっくり過ごすといいわ」
母はそっとエリザベスの手を握る。
そして兄のライナーは、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべる。
「長旅だったから、疲れただろう? 今夜はゆっくり休むんだ。明日からは、家のことは気にせずのんびりしていればいい」
エリザベスは胸がじんと熱くなるのを感じた。自分の婚約の解消は大きな事件だが、家族はそんなことよりも、まずはエリザベスの心の安寧を優先してくれる。
ありがたさと申し訳なさ、そして安堵が入り混じり、思わず目が潤んだ。
公爵領に戻り、数日が経った。エリザベスは領内を散策したり、かつて世話になった侍女や使用人たちと挨拶を交わしたりしている。
久しぶりの領地はどこも懐かしい。
しかし、公爵として領地を治める父の怒りはまだ冷めやらなかった。
王都から届けられる公文書は全部無視し、宰相や王宮関係者からの手紙も一切受け取らない。
「お父様、そこまでされると、いずれ国政にも支障が……」
エリザベスは父にそう進言するが、彼は毅然と答えた。
「今さら私は王都での職務など続けられん。お前のことをこんな風に扱う王宮に、どんな義理があると言うのだ。奴らが頭を下げてこない限りは、私は領地から一歩も出ん」
公爵は表向きは威厳を保っているが、内心は娘を理不尽に傷つけられた怒りと悲しみでいっぱいなのだろう。母も兄も、まだ王家への怒りは冷めやらないようだった。
だから、エリザベスはせめて家族の心が少しでも軽くなるようにと、日々、領内の整備に励み始めた。
地元の商人や農民たちと顔を合わせ、王都に劣らない豊かな暮らしができるようにと精一杯協力する。
そんなある日、王都から正式な勅使がやって来た。勅使が持ってきたのは、予想外の内容だった。
「先代国王陛下の側室との息子、つまり殿下の叔父にあたる方がおられるのはご存じですね」
勅使は恐る恐る言葉を繋ぐ。
「国王陛下が先代国王の御子息、ルシアン殿下とのご縁組を望まれております」
なんと、エリザベスにとっては突然の婚約話を持ってきたのだ。
しかも相手は先代国王の息子で、現国王から見れば異母弟にあたる人物との縁組を、国王が強く推し進めているのだという。
ルシアン殿下は二十五歳だそうだ。
国王とは大きく年齢が離れており、王位継承の可能性がそもそも低かった。そのため、いまだ独身のまま宮廷に控えていたらしい。
そして、その人物と公爵令嬢たるエリザベスを結婚させることで、婚約解消に対する詫びとしたい。
これが今回の勅使が持ってきた国王からの書状の趣旨だった。
公爵は当然、激しく拒否した。
「馬鹿を言うな! わが娘は傷ついているのだぞ! それが今度は先代国王陛下のご子息だと? 国王は殿下の横暴さを償う形で、我が公爵家への慰謝料代わりにその縁組を申し入れているのだろうが、こんな政略結婚など受け入れられるか!」
しかし公爵夫人は少し違う意見を示した。
「あなた、たしかに政略結婚は腹立たしいかもしれませんが、エリザベスの立場も考えてみてはどうでしょうか。一度王太子との婚約を解消された娘を、周囲がどう見ると思います? 卑怯なことですが、『公爵令嬢も何か問題があったのでは』と陰口を叩く輩もいるでしょう」
「それは……」
「そこを、国王陛下の助けを借りて、国全体を納得させるような良い縁組に整えていただくのは悪い話ではないのでは、と私は思いますわ。お相手のルシアン殿下も、誠実なお方だと噂で聞きます」
エリザベスは父と母のやり取りを静かに聞いていた。
もちろん戸惑いは大きい。先代国王の息子と言われても、実際どのようなお人柄なのか、エリザベス自身はまるで知らない。
それでも、たしかに今後の自分の立場を考えると、ここで何かしらの後ろ盾を得なければ、公爵家のみならず、領民にも影響を及ぼしかねない。
父は大臣を辞してしまったとはいえ、公爵家が国の重要な柱のひとつであるのには変わりがない。
下手に中央と対立を長引かせるのも、領地に負担を強いる結果となる可能性があった。
そこで、その日の夜遅く、エリザベスは自分から父の書斎を訪れた。
「お父さま、私、この結婚を受け入れたいと思います」
父はすぐさま反対の声をあげようとしたが、エリザベスは言葉を続けた。
「もう王太子との婚約は解消されました。私は過去を嘆くよりも、これからの生き方を考えたいのです。今まで散々、政略結婚に振り回されてきましたが……、今回の縁組は私を思って国王が取りまとめてくださっている、という印象を受けました。もちろん、国の都合が第一なのでしょうが」
「エリザベス……」
「私は、もう一度だけ信じてみようと思います」
エリザベスの瞳に、固い決意が宿るのを見て、父は何か言いたげに口を開きかけたが、結局声にならなかった。
彼女がどれだけ真剣に考え抜いて出した答えなのか、分かったのだろう。
エリザベスが婚約を承諾すると、国王の仲介でエリザベスの縁組は速やかに進んだ。
公爵は依然として納得がいかないようだったが、母と兄が「エリザベスの望む道を」と説得し、ようやく折れた。
そして数か月後――初めて、エリザベスはルシアン殿下に面会することになった。
王城の離宮の一室で待つ彼は、噂に違わず物静かな雰囲気をもった紳士だった。
背が高く、落ち着いた色合いの礼服を身にまとい、少し褐色がかった髪は短く整えられている。
年齢は二十五歳で、エリザベスより八歳年上だ。
王位を脅かさないよう、ずっと未婚で控えていたという事情は聞いていたが、実際に会ってみると、その物腰はきわめて穏やかで、どこか飄々としている印象もあった。
「はじめまして、エリザベス・クラインです。お目にかかれて光栄です」
「ルシアン・グラウスです。こちらこそ、お会いできて嬉しく思います」
少し緊張で声が震えるエリザベスとは対照的に、ルシアン殿下は終始柔らかな笑みを浮かべていた。
「私はこれまで、一介の王家の血筋というだけで、何もしてこなかった男です。立場ゆえに結婚話もいくつかあったのですが、なるべく穏便に過ごしたくて、先延ばしにしてきました。王位を狙うつもりもなく、政務も積極的に関わってはこなかった。……それが、こんな形であなたにご迷惑をおかけすることになり、すまないと思っています」
「迷惑だなんて……そんな。むしろ、私の方こそご配慮いただいていると思います」
エリザベスはそう言って、そっと目を伏せた。
ルシアン殿下は政治的な力を誇示するどころか、自分の立場を正しく把握し、真摯に言葉を紡いでくれる。
固く結ばれていた心が、少しだけほぐれるのを感じた。
さらに、ルシアン殿下はつけ加えた。
「今回の縁組は、私にとっても大きな決断でした。ですが、あなたのことを知っていくうちに、もしもあなたが望むのであれば、私は責任を持ってあなたを守りたいと思ったのです……。公爵令嬢、いや、エリザベス。私と共に歩んでいただけますか?」
彼の瞳は年齢相応の大人の穏やかさと、それでもどこか静かな決意を宿していた。
エリザベスはこみあげる何かを感じながらも、丁寧に一礼し、こう答えた。
「はい。どうぞよろしくお願いいたします、ルシアン殿下」
こうして二人は政略的に結ばれることになった。
二人の結婚式は、エリザベスにとって本来であれば王太子との婚約式が行われるはずだった、王宮内の教会で開かれた。
しかし今となっては、エリザベスがその事実に悲しみを覚えることはなかった。
隣にはしっかりとルシアン殿下がいて、式の間中、時折エリザベスと目を合わせては穏やかに微笑んでくれる。
過度な派手さは避けつつも、二人の晴れ舞台を引き立てる上品なものとなった。
そして、式後の披露宴では国王も姿を見せ、罪滅ぼしのようにエリザベスの父に話しかけては、言葉少なに頭を下げる。
公爵も当初は頑なだったが、エリザベスが幸せそうにしている様子を見てか、少しだけ表情を和らげた。
その後、エリザベスはルシアン殿下と共に、王都の外れに新しく与えられた領地へ移り住むことになった。
それは王太子の持っていた直轄領の一部を割譲したもので、表向きには国王が異母弟の結婚に餞別として贈ったことになっているが、実際は王太子のやらかしに対する慰謝料のようなものである。
それほど大きな領地ではないが、そこには豊かな恵みがあり、住民も穏やかな暮らしを営んでいた。
「これで私も一介の領主として責任を持たねばなりませんね」
「私も、精いっぱいお支えします」
ルシアン殿下がそう言って微笑むと、エリザベスも穏やかな微笑みを返す。
結婚して数か月もすると、二人は息の合った領主夫妻として日々を送るようになった。
最初こそ政略結婚という気まずさも否めなかったが、共に食卓を囲み、領民たちと触れ合い、少しずつ心を通わせていったのだ。
やがて一年ほど経った頃、エリザベスは子を授かった。
生まれてきたのは男の子で、国王や公爵家からも多くの祝いが届けられ、領内は歓喜に包まれた。
そんな穏やかな日々に、エリザベスは「ああ、私の居場所はここなんだ」と強く感じる。
かつて王太子との婚約によって想像していた王妃としての道とは違う。
だが今の自分は、望む以上の幸福を手にしている気がする。
政略結婚だけれど、こんなにも幸せになった。
一方、かつての婚約者、王太子アルトリウスと聖女ユマの様子はというと、王太子妃としての務めに押し潰されそうなユマが、日に日に憔悴していると噂で耳に入ってくる。
もともとニホンという、貴族制度もなければ戦争もない世界の出身で、平等な環境とやらに慣れた少女が、一転して王宮の厳しい礼儀作法や人間関係の渦に放り込まれたのだ。精神的負担は大きいだろう。
段々「元の世界へ戻りたい」と泣き叫ぶ日が多くなり、王太子との喧嘩も絶えないらしい。
噂では、現国王や王太子を取り巻く貴族たちが「これでは王妃の器ではない。離縁して新しい妃を迎えるべきだ」と呆れ顔をしているという。
それを聞くたびに、エリザベスは胸の奥がひどくざわついた。
かつて同じ立場の婚約者だった自分としては、ユマの辛さも少しは想像できる。
だが、彼女が他でもない自分から王太子を奪ったのもまた事実。複雑な感情がないわけではない。
とはいえ、今のエリザベスは自分の家庭に十分すぎるほど満たされている。
彼女はただ、夫のルシアンと息子との暮らしを大切にしようと心に決めていた。
そう――世界は常に動き続ける。
かつての婚約解消を嘆いてばかりいたら、今ある幸せすら見失っていたかもしれない。
エリザベスはそう感じながら、穏やかに微笑むのだった。
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王太子アルトリウス視点
アルトリウスはふと、窓辺に視線を投げた。
王宮の中庭に続く回廊は、晩秋の夕陽に照らされて黄金色に染まっている。ここから覗く景色は美しく、幼い頃から慣れ親しんだはずの場所だ。
だが、今の彼にはその美しさを楽しむ余裕がない。
なぜ自分はあの時、婚約者だったエリザベスを切り捨てるような真似をしたのかという後悔が、胸の奥に渦巻いている。
きっかけは、異世界から現れたユマという少女との出会いだった。
聖女と呼ばれてはいても、特別な力など何もない少女。
だが、彼女が話してくれるニホンという異世界の話はとにかく新鮮だった。
「貴族も平民も関係なく、全員が平等に学校へ通い、好きな職業に就くことができる」
「大規模な戦争はなく、テクノロジーとやらが人々の生活を便利にしている」
彼女の口から語られる社会制度は、アルトリウスにとって驚愕の宝庫でしかなかった。
王太子という立場上、彼は常に国をどう導くかを考えてきた。貴族至上主義のこの国に疑問を抱き、いつか全ての民が豊かに暮らせる社会を築きたいと願っていた。
そんな折に、まさにアルトリウスが理想とする世界像を語ってくれるユマと出会ったのだ。
彼は夢中になった。ユマ自身の、天真爛漫さや素直な驚きの表情という魅力に惹かれたのもある。
一方、婚約者のエリザベスは貴族らしく表情をあまり表に出さず、控えめで冷静な女性だった。
アルトリウスもエリザベスも、政略結婚で結ばれる立場ゆえに、燃えるような情熱があったわけではない。
優秀で信頼できる人物だとは思っていたものの、いずれ王妃となる彼女の慎ましい態度を「物足りない」と感じてしまったのは事実だった。
そうして、アルトリウスは強引にでも婚約を解消し、ユマを王妃として迎えることを望んだのだ。
婚約解消からの流れは早かった。王宮内は大騒動となったが、アルトリウスの強い意志を汲み取り、国王は最終的にそれを許した。
ユマが王宮で正統な儀式を経て聖女として認められると、そのまま王太子妃になる話がまとまり、結婚式は多くの注目を集めた。
あの日、アルトリウスは人生の頂点に立ったような幸福感を味わった。
この女性と共に、新たな国づくりをしていくのだ。
貴族と平民の区別なく、誰もが学び、誰もが自分の能力を発揮できる理想郷を創る。
その未来をこの手につかみたい、そう心から思った。
だが、その夢は現実の厳しさの前に早々に打ち砕かれ始める。
ユマは元来、気さくで愛らしい少女だったが、王太子妃として日々押し寄せる大量の式典、晩餐会、貴族たちとの面会に疲れ、余裕をなくしていった。
そして毎日のようにアルトリウスに不満をぶつける。
二人の間には喧嘩が絶えなくなってきた。
「君だって王妃になる努力をするって言っただろう!」
「だって、こんなに大変だとは思わなかったんだもん。貴族の名前なんて全部覚えられないよ!」
口論になるたびにユマは泣き、そして言う。
「元の世界へ戻りたい……もういやだよ、こんなの。日本なら、貴族も王族もなかったのに……」
アルトリウスは衝撃を受けた。
彼女を必死で励まし手を差し伸べても、ユマはいつも泣き叫ぶばかりで、一向に心が通じ合わない。
王宮のしきたりに馴染めず、周囲の貴族や侍女とギクシャクするユマ。
庶民の暮らしを変える前に、まずは王族としての振る舞いを学ばなければならないのに、ユマは根本から拒否してしまう。
アルトリウスもそんな彼女の気持ちを理解できないわけではない。
突然異世界に来て、一国の王妃としての責務を負わされるプレッシャーは計り知れない。
だが、それでもやはり、国を背負う立場としてやるべきことがある、と彼は強く言わざるを得なかった。
それが二人の衝突をさらに激しくしていく。
しばらくしてユマはとうとう、公の場にほとんど顔を出せなくなった。理由は体調不良とされているが、実質は心の疲労だった。
ついにアルトリウスは両親から厳しく叱責される。
「アルトリウス、お前は王として国を導いていかねばならぬのだ。あの聖女どのでは、荷が重すぎる。離縁して別の女性を妃に迎えろ」
「……しかし、私はユマを……」
「よいか、貴族たちの信用を得られぬ王太子妃など、かえって国を乱す。そもそも、エリザベス嬢と結婚しておれば、こんな苦労はせずにすんだのだぞ」
言い返そうにも、今のユマに王妃としての責務は担いきれない。アルトリウス自身もそれを肌で感じていた。
もしもあのとき、婚約解消などしなければ……。
そんな考えが一瞬脳裏をよぎる。
確かにエリザベスとの婚約は政略的なもので、燃えるような恋愛感情はなかった。
だが彼女は、王太子妃として申し分ないほど優秀だった。
加えて、人づてに聞く限り、エリザベスは、叔父であるルシアンとの間に男子を儲け、幸せに過ごしているそうだ。
国王から譲り受けた領地で、堂々と領主夫人としての務めをこなし、夫と共に仲良く笑っている。
それは本来、自分が手にしていた幸せなのではないか。アルトリウスはそう思わずにいられない。
手のひらからすり抜ける砂のように、あの安定した未来を手放したのは自分自身だ。
誰もが考え直すべきだと諭したが、アルトリウスは大義名分をかざし、ユマとの結婚を強行した。
その結果がこれだ。
ユマは「元の世界に帰りたい」と泣き、王妃の務めを果たせず心を壊しかけている。
両親は離縁を迫り、貴族の間でも「王太子夫妻は破綻寸前」と揶揄される始末。
……後悔しても、もう遅い。
アルトリウスは机に突っ伏し、ひとり呟く。
「エリザベス、すまない……。もし、きみと結婚していたら、きっとこんな悩みを抱えずに済んだだろうに……」
だが、その「もしも」を語っても、今さら戻ることなどできない。
彼女はすでに別の人の妻であり、母となっている。
エリザベスとの婚約は確かに政略結婚だった。
それでも彼女は常にアルトリウスを支え、国のために尽力しようとしてくれていた。
あの時、もっと彼女の心情を理解していれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。
自由で平等な社会を夢見ていた自分自身が、他者の想いをないがしろにしていたのではないか。
そんな自問が、胸を締めつける。
でも、今さら、どうすることもできない。
アルトリウスは王太子だ。国の行く末を考えなければならない。
このままユマが回復しないのであれば、離縁するしかない。
あるいは彼女が回復するまで、どれだけ時間がかかろうとも、彼女を支える道を選ぶか。
いずれにしても、もうエリザベスとの道はない。自分が勝手に断ち切った縁は、戻らないのだ。
かつて夢見た新しい国づくり。その足掛かりは、むしろ王妃を変えることよりも、自分自身が地道に改革していく道を選ぶべきだったのかもしれない。
どう足掻こうと、現実は甘くはない。
アルトリウスは自室の窓越しに夜空を見上げる。まばらに星が散らばるだけの闇が、彼の胸に重くのしかかった。
結局、彼は自分が選んだ未来を生きるしかないのだ。
その現実を、鉛のように重い心で受け止めながら、彼は静かに目を閉じる。
いつか、彼の胸に抱いた理想の国を実現できる日が来るのか。
その答えを見つけるのは、まだずっと先の話になるだろう。
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