第二十三章:真実の影
翌朝、李清はわずか数時間の眠りから目を覚ました。昨夜の出来事が夢だったのか現実だったのか、彼の中ではまだその境界が曖昧だった。しかし、体の疲労感と、胸の中に残る恐怖は確かな現実を物語っていた。
彼は何とか体を引きずり、朝の仕事に向かった。宮殿の中は、夜の恐ろしさとは対照的に、光が溢れ、人々が忙しなく動いていた。侍女たちが笑顔で挨拶を交わし、守衛たちが厳しく警備に立っている。まるで昨夜の暗闇などなかったかのように、日常が進んでいる。
しかし、李清にとってはそのすべてが偽りに見えた。宮殿の美しい外観の背後には、何か邪悪なものが潜んでいると彼は感じていた。それは単なる疑念ではなく、昨夜の出来事が彼に刻みつけた不安感だった。
仕事の途中、李清は後宮の門の方に目をやった。そこにはいつもと変わらない守衛たちが立っていたが、その裏には昨夜の謎が隠されている。李清は少し迷ったが、好奇心に駆られ、守衛の一人に近づいて声をかけた。
「お疲れ様です、昨夜は何か変わったことはありませんでしたか?」
守衛は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに警戒心を解いたようで、答えた。「いや、特に何もなかったよ。静かな夜だった。」
その答えに李清は驚いた。彼が昨夜見たものは一体何だったのか。あの黒衣の男たちはまるで影のように現れ、そして消えた。守衛たちに気付かれることなく、後宮に入っていったのだろうか?それとも守衛たちも何かを隠しているのか?
李清はその疑問に苛まれながら、仕事を続けた。彼の目は絶えず周囲を観察し、何か異常なものを見つけ出そうとするかのようだった。そして昼休みになると、彼は再び昨夜の出来事があった場所へ向かった。
後宮の壁沿いを歩くと、彼は昨夜見た小さな扉の前にたどり着いた。周囲には誰もおらず、守衛たちの目も届かない場所だった。李清は周囲を確認し、静かに扉に手を伸ばした。しかし扉は固く閉ざされており、昨夜のように簡単には開かなかった。
「誰かが中から鍵をかけたのか…?」李清は小さく呟いた。彼はしばらく扉の前で立ち尽くしたが、どうすることもできないと悟り、その場を後にした。しかし、その場を離れる際、彼の心には新たな決意が芽生えていた。
夜が再び訪れた時、李清はまたしても眠れずにいた。彼の頭の中には昨夜の出来事と、その後の謎の扉のことが渦巻いていた。これまで平穏に過ごしてきた彼の生活が、何か大きなうねりに巻き込まれようとしている。それは恐ろしいことでもあったが、同時に彼の心に新たな情熱を燃え立たせた。
「自分はただの下僕では終われない…」李清は自分にそう言い聞かせた。彼には何の力もないが、それでも真実を知りたいという気持ちが、彼を突き動かしていた。
翌朝、李清は意を決してある人物のもとを訪れた。その人物とは、宮中でも博識で知られる老僕の曹である。曹は宮中の古くからの事情に通じており、また噂話にも詳しかった。もし何か手掛かりがあるとすれば、曹が知っているかもしれない。
「曹爺、少しお話ししたいことがあるんです…」李清は小声で話しかけた。
曹は彼を見つめ、しばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。「入れ、李清。何の話だ?」
曹の部屋は質素だが整然としており、本がいくつも積まれていた。李清は周囲を見回し、誰にも聞かれないようにと心配しながら話し始めた。「昨夜、後宮で不審な人影を見ました。黒いマントを着た男たちで、後宮の奥へと入っていったんです。彼らが何をしていたのか、全く分かりません。でも、何か悪いことが起きているような気がして…」
曹は李清の話を黙って聞いていたが、その目には驚きと警戒の色が見えた。しばらく沈黙が続いた後、曹は深いため息をつき、口を開いた。「李清、お前は危険なことに首を突っ込もうとしている。それは知っているか?」
「はい、でも…知りたいんです。あの男たちは一体誰で、何をしているのか。」李清の声には決意がこもっていた。
曹は再びため息をつき、彼に近づいて小声で言った。「よかろう、少しだけ教えてやろう。この宮殿には昔から秘密がある。後宮には、ただの人間では近づけない場所がいくつかあるんだ。お前が見たのは、そういった場所の一つかもしれん。そして、あの黒衣の男たちは…ある目的を持っている者たちだ。」
「ある目的…それは何ですか?」李清は身を乗り出して尋ねた。
しかし、曹は首を横に振った。「それ以上は言えん。お前にとって危険すぎる。だが、一つ忠告しておく。もしどうしてもこの件を追うつもりなら、自分の命を守る方法を考えろ。相手は強大で、お前一人で対抗できるものではない。」
李清はその言葉に重みを感じたが、それでも決意は揺るがなかった。「ありがとうございます、曹爺。気をつけます。」
曹は李清の目をじっと見つめ、やがて静かに頷いた。「気をつけるんだ、李清。お前の若さが無駄にならぬようにな。」
その日から、李清はますます警戒心を強めながら宮殿内を動くようになった。彼の目は守衛たちの動きや、後宮への出入りを絶えず観察していた。そしてある日、彼は宮殿の中で一人の女性とすれ違った。その女性は見たことのない衣装を身に着けており、まるで他の世界から来たかのような雰囲気を持っていた。
彼女の目は鋭く、李清を一瞥しただけで通り過ぎたが、その瞬間に李清は何か特別なものを感じた。彼女もまた、あの後宮の秘密に関わっているのではないか——そんな直感が彼の中に芽生えた。
その夜、李清は再び後宮の近くに身を潜めた。暗闇の中、昨夜のように黒衣の男たちが現れるのを待っていた。しかし、現れたのは別の人物だった。昼間に見かけたあの女性である。彼女は一人で後宮の小さな扉に近づき、何か呪文のような言葉を唱えながら扉を開けて中に入っていった。
李清はその光景に息を呑んだ。彼女もまた、あの秘密に深く関わっているのだ。そして、彼は再び心に決めた。真実を知るために、もっと深くこの謎に踏み込むのだと。彼の運命はもう後戻りできない道を進み始めていた。
李清は再び後宮の周囲を注意深く観察しながら、次の手を考えていた。昼間の後宮は人目が多く、何かを探るには適していないと感じていたが、夜になるとまた別の顔を見せる。暗闇に紛れて動く者たち、隠された通路や扉——それらが李清の心を捉えて離さなかった。
数日が過ぎ、李清はある夜再び後宮へ向かった。この夜は特に月明かりが弱く、闇が一層深く感じられた。彼は宮殿の壁に沿ってゆっくりと歩き、小さな物音にも敏感に耳を傾けていた。やがて、昨夜の女性が入った扉の前にたどり着いた。
彼は慎重に周囲を確認し、誰にも見られていないことを確かめると、扉に手をかけた。驚いたことに、今夜は扉が開いていた。李清は恐る恐る扉を押し開け、中に足を踏み入れた。そこにはまたしても薄暗い廊下が続いており、足元には古びた絨毯が敷かれていた。
李清は静かに進み、途中で足音を立てないように細心の注意を払った。廊下の先には広間があり、その中央には再び例の祭壇があった。今回、祭壇の前にはあの女性が立っており、何かを捧げるように両手を掲げていた。彼女の唇が微かに動き、呪文のような言葉が漏れ聞こえてきた。
李清はその様子を陰からじっと見つめていたが、突然、女性の背後からもう一人の人物が現れた。それはあの黒衣の男だった。彼は女性に近づき、低い声で何かを囁いた。女性は頷き、再び両手を掲げて祭壇に向けた。
祭壇の上の石が再び光を放ち始めた。それは徐々に明るさを増し、部屋全体を青白く照らし出した。李清はその光景に目を奪われ、何が起きているのか全く理解できなかったが、その場から動くことができなかった。
次の瞬間、黒衣の男が振り向き、李清の方をじっと見つめた。李清は心臓が凍りつくような感覚に襲われた。男の目は鋭く、まるで闇の中でも全てを見通しているかのようだった。李清は咄嗟に柱の陰に身を隠したが、男の視線が自分を捉えたことを確信していた。
「そこにいるのは誰だ?」男の声が静かに響いた。
李清は全身が震え、心の中で何とか冷静さを保とうとしたが、足が勝手に動き出していた。彼は廊下を全力で駆け抜け、出口へ向かって逃げた。背後から足音が追いかけてくるのを感じ、李清は必死に扉を開け、外に飛び出した。
外の冷たい空気が彼の顔に当たり、李清は息を切らしながら走り続けた。闇の中で何とか宮殿の外れにたどり着き、振り返ると、追っ手の姿はもう見えなかった。李清は地面に倒れ込み、荒い息をつきながら空を見上げた。彼の心は恐怖と同時に、真実に迫りつつあるという興奮に包まれていた。
「もう後戻りはできない…」李清はそう自分に言い聞かせた。あの祭壇と、黒衣の男たち、そして謎の女性——その全てが一つの大きな謎として彼の前に立ちはだかっている。そして彼は、それを解き明かさずにはいられなかった。
李清は立ち上がり、再び震える足で自分の小屋に向かって歩き出した。この先に何が待ち受けているのかは分からない。しかし、彼にはもう選択の余地はなかった。彼は真実を追い求める決意を新たにし、再び闇の中へと足を踏み入れていくのだった。