第二十章:微かな影
夜が明け、東の空に淡い光が差し込む頃、地皇は目を覚ました。重く深い眠りの果て、彼はまだ夢の中にいたような錯覚に陥っていた。寝殿の中は冷たく、昨日の静寂がそのまま続いているかのような感覚があった。だが、外では宮中の朝の喧騒が徐々に広がり始めていた。
地皇は静かに立ち上がり、寝殿の窓から外を眺めた。庭には朝の陽射しが差し込み、木々がその光を受けて揺れていた。その美しい光景が、彼にとってはどこか非現実的に感じられた。この宮殿の中には、光とは対照的な闇が潜んでいることを、彼は感じていたからだ。
「陛下、お目覚めでしょうか?」
外から控えめな声が聞こえ、扉が軽く叩かれた。地皇は振り返り、「入れ」と短く命じた。扉が開き、側近の一人が入ってきた。彼は低く頭を下げ、控えめに話し始めた。
「今朝、北の庭で不審な者が目撃されたとの報告がございました。捕らえようとしましたが、すでに姿を消しており、正体はつかめておりません。」
地皇はその言葉を聞き、眉をひそめた。北の庭は皇后が好んでいた場所であり、地皇自身も何度も足を運んだことがある。その場所に不審な者が現れたということは、何かの意味があるのかもしれないと感じた。
「詳しく調べさせろ。そして、何か手がかりが見つかったらすぐに報告するように。」
側近は再び頭を下げて退出した。地皇はしばらくの間、何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて静かに歩き出した。彼は北の庭へ向かうことを決めた。
北の庭は朝の光に包まれ、穏やかな雰囲気が漂っていた。しかし、地皇にはどこか不自然さを感じてならなかった。風が葉を揺らし、鳥たちが鳴き声を上げる中、彼は庭をゆっくりと歩きながら周囲を観察していた。
ふと、彼は庭の隅に何かが光るのを見つけた。それは小さな銀の飾りのように見えた。彼はその場所へと足を運び、それを拾い上げた。それは古い装飾が施された小さなピンのようなものであった。その模様は見覚えがあるようで、どこか懐かしさを感じさせた。
「これは…」
地皇はそのピンをしばらく見つめていたが、すぐにそれが何であるかを思い出した。それは皇后が愛用していた髪飾りの一部だった。なぜこれがここにあるのか、地皇の心は不安でざわめき始めた。
「陛下、お手にされているのは…?」
後ろから声がかかり、地皇は振り返った。そこには側近が立っており、彼の手元を見つめていた。地皇はそのピンを軽く握り締め、側近に向けて話した。
「これは、皇后のものだ。なぜこんな場所にあるのか、調べさせよ。」
側近は驚いた様子で再び頭を下げ、「はい、陛下」と短く応じた。地皇はそのまま庭を後にしたが、心の中には様々な疑念が渦巻いていた。皇后が亡くなってから五年が経つ。彼女がこの庭に戻ってくるはずはない。だが、なぜ今になって彼女のものがここに現れたのか。それはただの偶然ではないと彼は感じていた。
地皇は寝殿に戻る途中、かつての皇后との思い出が次々と浮かんできた。この北の庭は、皇后が生前に最も愛した場所であり、二人で何度も語り合った思い出の地でもあった。彼女が亡くなったとき、その庭もまた彼の心から遠ざかってしまったかのように感じていた。
「お前は、何を伝えようとしているのか…」
地皇は静かに呟いた。まるで彼女の霊が何かを伝えに戻ってきたかのような、そんな錯覚に陥りそうだった。しかし、地皇は現実に戻るために深く息をついた。感傷に浸っている場合ではない。彼は宮中で起きている何かを、そしてその背後に潜む陰謀を解明しなければならなかった。
寝殿に戻った地皇は、その髪飾りのピンを手に取り、じっと見つめていた。それは、かつての彼女の温もりを感じさせるものであり、同時に何か不吉な予兆を思わせるものでもあった。彼はそれを慎重に箱に収め、深く考え込んだ。
その時、扉の外から急な報告を告げる声が響いた。地皇は目を上げ、扉の向こうに立つ者に声をかけた。
「入れ。」
側近が扉を開け、急ぎ足で地皇のもとに近づいた。彼の顔には緊張の色が見て取れた。
「陛下、大臣たちの中に、皇后の死に関して何かを知っている者がいるかもしれません。」
その言葉に、地皇は目を細めた。そして、静かに問いかけた。
「誰が、何を知っていると言うのだ?」
側近は少し言葉を詰まらせたが、やがてゆっくりと答えた。
「まだ確かな証拠はございませんが、いくつかの情報が一致しております。すべてを明らかにするには、もう少し時間が必要ですが、確実に何かが動いております。」
地皇はその言葉を聞きながら、静かにうなずいた。彼は覚悟を決めた。この先に待ち受けるものがどれほど厳しいものであろうとも、真実を解き明かすために進むべき道を歩まなければならなかった。
「分かった。すべての情報を集め、私に報告せよ。そして、誰もこのことを口外するな。」
側近は深く頭を下げ、部屋を後にした。地皇は再び一人きりになり、手の中の髪飾りのピンを見つめた。その冷たい金属の感触は、彼に彼女の死を思い出させると同時に、今の自分が背負うべき責任の重さを感じさせた。
この宮中にはまだ何かが隠されている。皇后の死、そしてその背後にある影――すべてを明らかにするための戦いは、今まさに始まろうとしていた。