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明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第二話 思想史研究会
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 上舎生の齋舎の研究室。初めての討論会は滞りなく終わった。

 集まったのは三十名ほどで、やはりほとんどが上舎生だった。全員で一本の論文を読み進めながら、適宜生じた疑問や注目すべき点を挙げ、議論が行われる。

 てっきり俺は幾つかの立場に分かれて意見を交わすのかと思ったが、実際は討論とは名ばかりの個人競技に近しい。取り仕切る一人の先輩が議長のようなものを務め、順番に学生を指名して質問に答えさせる。要は口頭で記述問題をやるようなものだった。回答が矛盾すれば長引いて集中砲火になるため、理路整然と話さなければならない、というのが第一回の学びだった。


「では、本日はここまで」


 時間を確認した議長がそう告げると、翔は明らかに安堵の表情を浮かべる。隣の学生が言葉に詰まったがために禅問答のようなやり取りにまで発展し、次に指名されるところにいた翔は気が気でなかったらしい。斯く言う俺も、どうにか自分の番をやり過ごしたためほっとしていた。

 次回までに読んでおく範囲を指定され、定例会は解散となる。既に夜遅く、齋舎の門限が迫っている。自室に残してきた水蛇のことも気掛かりだ。俺と翔は目立たないよう退室しようとしたが、そろそろ聞き慣れた声に呼び止められた。会長である。


「よお。ちょっと時間あるか?」


 振り返ると、彼の隣には一人の上舎生の先輩がいる。見るからに育ちが良さそうで、背が高い。先程の討論会では声が小さく、聞き取りにくかったほか特に印象はなかった。目が合うとその先輩は少し照れたような、ばつが悪い表情をする。


「紹介するよ。ほら、妖怪譚に興味があるって言っていただろ? 話したら、喜んで手を貸したいって」


「どうも、よろしく」


 俺と翔がそれぞれ自己紹介をすると、先輩は何度か頷いた後「よろしく」と小さな声ではにかんだ。翔が俺に耳打ちしてくる。


「もっと妖怪みたいな人なのかと」


「失礼だろ」


 肘で小突いて黙らせる。確かに妖怪好きで友達がいないと評されるにしては、ちょっと意表を突くような柔和な佇まいだった。会長は俺たちのやり取りを意に介さず、掌を彼に向ける。


「こう見えて天学の齋舎の中では唯一、宮中図書館で校官を務めているくらい無類の本好きでね。調べ物なら何でもこいつに任せていい」


「何でもは言いすぎ」


 先輩は笑いながら軽口を咎めた。そうすると歯並びの良さが目立つ。翔が目を瞬かせた。


「校官って、図書館の夜に宿直する仕事ですよね。上舎生がやれるんですか?」


「うん。一応ね」


 何度か頷くだけで彼は他に言わなかったが、それが特例の選任であることは間違いない。学生に官職を務めさせるのと同義である。感心していると、会長が笑った。


「読みたい文献があるなら、これほど頼もしい奴はいないだろ? まあ、俺はちょっと怖い話は勘弁して欲しいけどさ。何か面白い発見があれば教えてくれよ。どんな分野であれ、若者が学びに熱心なのは良いことだし」


 そうして手をひらひらさせ、彼は行ってしまった。研究室にはまだ十数名もの学生が残って、雑談に花を咲かせている。俺たちは何となく目を合わせ、熱気から逃れるよう廊下へ出た。


「あー、それで」戸を閉めた先輩が振り向く。扉の隙間から光が洩れて、彼の足元を明るくしていた。


「ご存知の通り図書館はもう閉まっているけど、俺の部屋にも本があるんだよね。興味があるかは分からないけど、結構面白いと思うから、えーっと、もし嫌じゃなければ、なんだけど」


 先輩が口籠りながらそこに辿り着く前に、翔が先回りをする。「行ってもいいんですか?」


 その食い付きに彼は目を白黒とさせた。


「うん……まあ、その。君たちの読みたい本があればいいんだけど」


 そうして煮え切らない態度の彼に案内されて別棟の自室へ行くと、それがほとんど謙遜であることが分かった。上舎生の中でも一握りの成績優秀者が入る個室の寮部屋は、彼個人が所有する書物で一杯だった。


「お邪魔します」


 彼がばたばたと慌てたように散らかった衣類を片付けるのを尻目に、俺と翔は滅多に入ることのない上舎生の自室の広さにまず感嘆している。俺たちが二人で使っている相部屋よりも広く、家具の造りもしっかりしている。窓の上に鬼らしき怪物が描かれた厄除けの絵が掛けてある辺り、そこが縁起のいい方角なのだろう。


「いい部屋ですね」


 翔が素直な褒め言葉を口にすると、彼は椅子に掛けていた上着らしきものを引き出しの中に突っ込み、「それはどうも」と片方の口角を上げて笑う。「散らかっていてごめん」と居心地悪そうに言うが、正直なところ俺たちの部屋の方が余程汚い。


「ところで、この本は全部先輩のなんですか? すごいですね」


 どうぞお構いなくと俺が口にする前に、翔が書棚にずかずか近寄る。相棒の無遠慮な距離の詰め方は、気さくな性格ゆえというよりコミュニケーションの経験の乏しさに依るところが大きい。


「蒐集癖があってね。好きな本はどうしても手元に置いておきたくて」


 そうして毎度驚くのだが、翔の振る舞いは概ね目上の相手には好意的に受け取られる。素直で衒いのないところは翔の美徳だ。引け目など負わず、普段から自然体でいてくれたらもっと同舎生の友達も増えるだろうに。


「これ全部妖怪の本ですか?」


「全部という訳ではないけど、概ねそうかな。実家が朧省の西の方で、あの辺は結構古書が出回っているんだ」


「千伽様が好きそうですしね」


 翔が軽率に朧家の当主の名を出すので、俺は咳払いしなければならなかった。二人の間に入るよう、書棚を覗き込む。


「えーっと、自然霊が人間に憑依するような怪異譚はありますか? どんなものでも構わないので、一通り集めたいんです」


「憑依?」首を傾げた先輩は、きっと豊隆のことを想像したに違いない。中らずと雖も遠からずといったところで、俺は曖昧に頷いて肯定する。


「そうだな……人間が霊や神に執着される類の伝承は、どの時代にもあるよ。一冊にまとめられている訳ではないから、全て網羅するのはかなり骨だと思うけど」


「可能な限り、目を通したいと思います。良ければ探すのを手伝ってもらえませんか?」


「うん、まあ……いいよ」


 先輩は少し悩む素振りの後頷いた。「今日はもう遅いから、ざっと俺が知っているやつを出すよ。それでいい?」


「助かります」


 断りを入れて俺も本の背に目を走らせる。下段には太さのある紐で綴じられ、少し力を加えればばらばらになってしまいそうな古書ばかりが収められていた。手持ち無沙汰な俺と翔も、何の気なしに手に取った本を捲ったりして中身を吟味してみる。


「ところで、あの……さ」手慣れたように本を引き抜いている先輩が、控えめに話しかけてくる。


「君が豊隆と初めて出会ったのって、いつなの?」


「出会い? 厳密に出会ったと呼べるのは、冴省で山火事が起こったとき……一年半以上前ですね」


 そうだったよな、と翔の方を向くよりも早く、先輩は矢継ぎ早に質問を被せてくる。


「それってどんな感じだったの? 豊隆が助けてくれたの? それとも君が助けを求めて? 以前から豊隆の気配を感じたことはあった? 他に神や霊と心を通わせた経験は?」


「えーと」


 答えを挟み込む間もない問いかけに俺は口をぱくぱくとさせた。鬼気迫る表情をしていた先輩は一転、「ごめん」と慌てたように謝る。舌の上でもつれたような声だった。

 変な沈黙を経て、俺は彼の己を恥じるような横顔を見つめる。額にかかる前髪が目に触れそうだ。本の背表紙に指を掛けたまま、先輩はゆっくりと口を開く。


「実は、君たちが太學に入ってから、というより神明裁判で騒ぎを起こしたと聞いた日からずっと話しかけてみたくて」


「……」


「ごめん、不躾だったね」


 それきり先輩は、黙って書物を選別する作業に戻った。その感情の起伏の大きさにやや臆したものの、俺と翔はなるべく気にしないようにする。

 ふと手に取った本を注意深く開くと、黒墨で描かれた何かの絵が何頁にも続いていた。動物、というか怪物。表紙を確かめると、『故地悪霊図絵 三』とある。


「悪霊……」


「ああ、それは希少な本だよ。挿絵が多い文献はなかなか手に入らないから」


 合間にぶつぶつ独り言を言いながら頁を捲っている先輩がちらりと目線を寄越す。俺は眉を顰めつつ、その不気味な悪霊の一覧の中に出会ったことのあるものを幾つか見つけた。先輩が訊ねてくる。


「……そういうの、好き?」


「ええ、まあ」


 俺は嘘を吐く。この世界に来て三年余り、初めて悪霊というものに遭遇し、人間の理性に反したような存在を認めざるを得なくなったあの日から、俺はずっと怪奇の類が好きではなかった。抵抗しなくなったのは、諦めがついたからだ。元の世界への未練、常識を手放す覚悟が出来るまで三年もかかった。

 彼はこちらを見ずに、今度は慎重に言葉を選んだ。額にかかった前髪を払い、その毛先を指で弄っている。


「子どものとき、霊使いになりたかったんだ」


「……霊使いに?」


 翔も調子を合わせて声が小さくなる。「どうしてですか?」


「正直、理由らしい理由はなかった。ただ憧れていた。自然と心を通わせて、友達のような関係になることに。俺は昔から引っ込み思案で人間があまり好きじゃなかったから、書物の中の自然の神や霊に惹かれたんだ。人間社会とは違う価値観の中で生きている存在に励まされた。少し大袈裟かもしれないけど」


「理解出来ます」


 俺は呟く。神隠しされてこの世界に来たとき、世捨て人としての長遐での生活は俺の目にそう映った。数字で推し量れない存在は当時の俺の価値観と真っ向から衝突したが、人間よりも上位に立って敬われる有象無象の存在は新鮮でもあった。


「だから、昔は霊使いになるため本気で努力をした。まあ、子どもの夢だよ。適性がないと知っても諦めるのには時間がかかった。今にして思えば馬鹿馬鹿しいようなことも沢山した。まあ、これはその名残ってこと」


 先輩は両手に抱えた書物を軽く持ち上げてみて、苦しそうに笑う。俺たちは何と応えたらいいか分からない。俺の知る限り、霊使いは職業などではなくそういう体質だ。


「今では自然霊が、単に子どもが憧れるには複雑で微妙すぎる存在だということも知っている。霊を使うのは、そうなりたいという願望ではなく生まれながらの才覚のようなものだってこともね」


「……そうですね」


 俺はちらりと翔を見るが、翔はただ黙って耳を傾けているだけだった。俺は少し考えてから先輩に問うてみる。


「霊使いの適正って、何だと思いますか?」


「うーん。愛、かな」真面目ぶってそう言った後、彼は歯を見せて笑う。「嘘嘘。愛ではないらしい」


「じゃあ何ですか?」


 彼は書物を何冊も積み重ね、寝台の上に置く。


「俺が霊使いを夢見ていた頃、近隣の都邑を治める貴族の御当主とたまたまお会いしたことがある。その方は霊使いだった。それで君と同じ質問をしたんだ。霊使いに必要な素養は何ですかってね」


 当時のことを思い出しているのか、その色白の顔に微笑が浮かんだ。遠慮がちな言い回しは、俺のためだったのかもしれない。


「その方は答えた。必要なものなんてない。でも不要なものならある。霊使いになる者はいつでも何かが()()()()()()()、と」


「欠けている……?」


 思わず自分の胸に手を当てる。彼は笑顔で深刻さを振り払った。


「勿論、君に何かが欠けていると言いたい訳じゃない。真に受けるにはちょっと抽象的すぎる話だろ。その方はそう考えていたってだけだよ」


 だからあまり気にしなくていい。彼は穏やかにそう言うと、話しすぎたことを恥じるような顔をして、話題を本来の方向に戻す。

 その手で示された先には、彼が選別した十数冊の書物が積まれていた。それらには全て人が自然霊と何らかの関わりを持つ怪異譚が収録されているのだという。


「憑依といえば婚姻譚が多いよ。人ならざるものとの恋は悲劇の定番だし、この辺りは珍しくないかな。拾った赤ん坊が実は妖怪でした、という類の民話も各地でよく見られる。霊使いの記録は、余程風変わりなものでないと残らないから実は稀少。そして物語としてかなり脚色されていることが多い」


 彼は早口にならないよう気を付けているのが目に見える口調で、順番に書物を挙げ、時折中を開いて見せながら説明する。


「君たちが何を探しているのかはともかく、今ざっと思い出せるのはこれだけ。何冊かは貸してあげられる。でも、稀少な本もあるからなるべく俺の部屋で読んでほしい。それから明後日の課が終わったら、図書館所蔵の中で思い当たる本の目録を作ってあげる」


「そこまでしていただいていいんですか」


 恐縮すると、先輩は顔を綻ばせる。「構わないよ。得意分野だから」と。


 俺と翔は何度も礼を言って、書物を片手に門限ぎりぎりで上舎の門を出る。今にも雪が降り出しそうな曇り空が奇妙に赤い鈍色を帯び、夜更けの齋舎の瓦屋根をぼんやり照らしていた。

 急ぎ足で坂道を下りながら、翔が呟く。


「妖怪先輩、いい人だったな……」


「その呼び方はどうなんだ?」


 弾んだ息が白くなった。やるべきことは多かったが、どうにか暗闇を手で掻き分け、前に進んでいる感触はあった。天学の齋舎の門まで差し掛かった、翔が「あ」と一瞬足を止める。古びた門柱の土台の辺りに、動いているものがあった。


「水蛇」


 俺はほとんど駆け出すようにしてそこに行く。「どうしてここに」


 部屋に置いていったはずだった。当然、蛇は答えない。枯草の透ける身体を揺らがせるだけだ。齋長が門を閉める時刻が迫っていて、俺と翔は水蛇を隠し、急いでその場から退散する。

 勝手に部屋を抜け出したのだろうが、道中誰にも見つからなかっただろうか。俺は気が気でない。水蛇に行き先など伝えなかったはずだ。しかし、感情や意志がないと断定するには、些か理由めいたものを感じさせる出迎えだった。


「水蛇なりに何かを察知していたんじゃないか?」


 自室に戻って大きく息をつき、翔は言う。「でも、他の学生に見つかるのはまずい。今度から一緒に連れ歩いた方が安全だと思う」


「こいつを懐に入れているとぞわぞわするんだよ」


 俺は渋るが、最終的にそれを了承するのが一番いいことを知っている。両手に乗った水蛇は、明かりを浴びてゆらりゆらりと呼吸して見えた。角度を変えると、電流が流れるようその細長い体躯に淡い光が走る。

 ため息をつく。そうしてふと、妖怪先輩の言葉が思い出された。霊使いはいつも何かが欠けているのだ、と。

 俺は自分が、厳密には霊使いだとは思わない。気質の上ではそう呼ばれる資格を持ち得る翔も、霊使いという自覚はないだろう。

 ただ、霊使いの素養とは必要ではなく不足なのだ、という根拠不明の仮説は、何やらため息を誘う響きがあった。確かにそうかもしれないという心当たりが多すぎた。




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