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明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第二話 思想史研究会
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 翌日、研究会に入ると伝えると先輩は目に見えて喜んでいた。今更ながら、勧誘してきた彼は研究会の現会長を務めているのだという。

 歓迎会をやるという会長の提案をどうにか断り、俺と翔は初めて立ち入った上舎で幾つかの確認をする。やはり、と思ったが、会員で共有される行動規範を見る限り、政治色の濃い思想運動であることは間違いなかった。

 一通りの口頭での説明を、翔は真剣そうに聞いていた。少なくとも、面倒くささを表に出すようなことはしなかった。

 それにしても、既に決まっている分だけでも予定はほとんど隙間なく表を埋めている。俺は資料として渡された十一月と十二月の日程表を眺めるが、討論会を含む月に二度の定例集会に加え、何かしらの活動日や締め切りが都度設けられ、飲み会の席で聞いた「大したことじゃない」が手慣れた勧誘の決まり文句だったことを実感する。


「あの」とりあえず区切りがついたところで俺は質問をした。「明々後日の決起会というのは何ですか?」


「ああ、今やっている教授の追放運動のだよ。他齋舎担当の教授なんだけど黒い噂のある官吏と懇意にしていてな。偏向思想が授業の内容に影響しているって、去年あたりから学生の間で不満が出ている。濁は、自分たちの側を支持する学生を卒業試験なしで引き抜こうと裏金を動かしているんだよ。許せないだろ?」


「そうですね……」


 俺も翔もどうにか相槌を打つが、そこに熱が籠っていたかは定かでない。熱心に語る会長は気付かなかったのか、「決起会の後に署名集めるからさ、手伝ってくれよな」と飲み会に誘うような口調で言った。

 ひとつひとつ不明な予定を確かめていけばずっとこんな調子で、俺は既に若干意気消沈している。俺はまた軽く片手を挙げた。


「あー、えっと」


「何だ? 皓輝」


「確か、討論会で論文を読むんですよね。それって、写したものを貸してもらえるんですか?」


 彼は、今思い出したような顔をする。「そうだな。数が多くないから全員には行き渡らないんだが、お前たちは特別に二人で一本貸してやるよ。ま、加入してくれたお礼ってところかな」


 あとで俺の部屋に取りに来いよ、と彼は歯を見せる。ありがとうございますと礼を言うが、目的はそれではない。何せ、今討論で使用されているらしい論文は天学における伝統的な天人相関に関わるもので、俺たちが読みたいそれではない。

 黙っていた翔が口を開く。


「実は、宮中図書館にある資料で読みたいものがあったんですが」


 翔は最後まで言わなかったものの、それでも目上の相手にはかなり不躾な言い回しだった。しかし、普段大勢の前で寡黙にしている翔が珍しく頼み事を口にしたことを会長は好意的に受け止めたらしい。


「読みたい資料が? どんなやつだ?」


 翔は予め決めていた言葉で答える。


「地方の異聞奇譚とか、民俗誌の口承説話とか」


「それはまた随分と物好きだな……」


 会長はまだ髭のない顎の輪郭を指でなぞる。少し考えた後、彼は「心当たりのあるやつがいる」と言った。


「同じ思研の上舎生なんだが、まあ何と言うか、妖怪譚好き……みたいな、ちょっと風変わりな趣味を持ったやつがいてな。そいつに相談した方がいいと思う」


 俺は怖い話とか苦手なんだよ、悪いなと彼は苦笑している。


「そっち方面に興味があるなら話を通しておいてやるよ。言っちゃ悪いが、あんまり友達がいないらしい。妖怪仲間が増えるなら喜ぶだろうし、図書館の名義も貸してくれると思うよ」


「その言い方だと俺たちが妖怪っぽいですけどね」


「ははは、確かに」


 口を挟んだ翔に会長は愉快そうに頷いた。俺は心の中で呟く。俺だって、本当は人間じゃないんですからね、と。

 ともあれ、願ってもいない提案に俺と翔は丹念にお礼を述べ、自分たちの齋舎へと戻っていく。手渡された研究会の資料の類は重かったが、ようやく暗闇の中から階段を見つけ出した気分だった。


「これから忙しくなりそうだな」


 次の定例会までに読んでおくように、と指示された論文の頁を捲りながら、翔は俺の隣で呟いている。その感情の窺いにくい横顔を見て、俺は昨夜翔のスコノスに言われたことは一旦忘れることにしようと決めた。




 ***




 数日後。一日の授業を終えた夕方、俺は齋舎の自室の床に座り、水蛇と向かい合っていた。咳払いをして、ゆらりゆらりと動く水の塊に語りかける。


「……さて。俺の言葉が理解出来ているかはともかくとして、幾つか確認しておきたいことがあるんだが」


 片目で様子を窺う。


「お前は俺に従属する立場ということで間違いないんだよな? 俺はお前の主人……なのか?」


 水中の泡のように言葉が浮かんでは宙に消えていくので、後半は既に自信を喪失していた。とにかく、何度試しても水蛇に言語が届いている気配がない。


「名前付ければ?」


 仕切りの向こうから翔の声が聞こえる。相棒は夜から始まる定例の討論会のため、課題の論文を読み進めているところだった。初めて参加する場で、執拗に意見を求められるような時間がないことを祈るばかりだ。


「この蛇に、名前を? 正直なところ、気が進まないな」


「何で?」


 恐らく手元を見ているであろう相棒の率直な疑問に、俺は少し口籠る。


「多分、俺はそれに値しないと思うから」


 そこで初めて翔は顔を上げたようだった。間が空いて、仕切りの向こうから膝一歩分寝台が軋む。俺が振り向くと、竹で編んだ仕切りの上から翔が眉を顰めていた。その表情は明らかに、俺の自虐癖を非難していた。


「自分がスコノスであることを気にしている?」


「まあね」


 思考を先回りされ、俺は小さく笑おうとするが上手くいかない。こういうとき、翔を誤魔化すことは不可能に近い。俺は正直に言う。


「本来人間に従属するスコノスが、何かを従えるというのは歪な関係だと思う。俺は主になるに値しない存在だ。謙遜でも自虐でもなく、本当にそう感じる。自然の理に反している。水蛇を見ると不安になるのは、これが俺の手に負えないからだ」


 目の前の水蛇は、脈動するよう時折緩く光を反射させる。その身体を構成する水は絶え間なく動いている。頭の頂点から尻尾の先まで、春先の小川の流れのように、さざ波を作りながら生きている。

 実のところ、これが一個の命であるとは感じない。だが、自然界から生命力を分け与えられた存在であることは確かだ。その流動する身体には、孵化するまでに散々俺から吸い取った霊力も息衝いているのだろう。

 翔は青い目をゆっくりと瞬かせる。


「皓輝は、大袈裟に考えすぎだ」


「いつものことだよ」


「仮に自然の理に反していたとして、じゃあどうするんだよ? 誰がこいつの面倒を見るんだ? こいつの主はお前しかいないんだぜ」


 やけに水蛇の肩を持つ。俺は蛇の方へ目を向けるが、蛇に肩はなかった。

 ひらりと寝台から降りた翔がこちらにやってくる。建具に寄り掛かり、論文の束を片手に腕組みをしている。俺は顔を顰めた。


「心当たりのない子どもの認知を迫られている気分だ」


「実際それに近いだろ」


「俺が産んだんだからな」


 舌打ちをすると、水蛇がやや怯んだようだった。こちらの顔色を窺うだけの知性はあるのだろうか。

 なあ、と翔が俺に顔を近づける。いつの間にか翔は俺の傍にしゃがみ込んでいた。


「お前がこの水蛇のことをどう思っていようが、霊的な親子関係が結ばれているならもう覆りようがない。こいつは何か理由があって皓輝に庇護を求めてきた。親であり、主人であるお前のすべきことは、自然の理を歪めようがこいつを守り、共に生涯を生きる覚悟だよ」


 俺は片方の眉をそっと上げた。吐き出した言葉は、雪原にいるよう静けさの中で凍っている。


「──それを、俺が望んでいなくても?」


「望んでいなくても」


 即答だった。翔の目は水蛇をじっと見つめている。そこに浮かぶ物悲しげな色に、俺は何かを言いかけてやめた。代わりに同じようにして目線を低くして水蛇を眺める。


「翔に主従の心得を説かれるとは思わなかった」


「これでも三十年、手に負えないスコノスの主人をやってきたんだ。主になることの重さは理解している」


 翔の真剣で仄暗い横顔は、俺を黙らせるだけの迫力があった。翔が世捨て人として生きるようになったそもそもの始まりは、自身のスコノスに故郷を破壊されたためだった。翔は未だに彼女のことを赦していない。だが。俺はため息をつく。


「お前にそんなことを言われたなら俺は何も言えない。確かに、主としての度量がないからといって突っぱねるのは、この状況では無責任だな」


 例え俺が、望んでいなくても。翔の答えを反芻し、その鉛のように冷たく重い手触りにぞくりとする。翔は一体、どれほどの覚悟で自身のスコノスと共に生きようと思えるようになったのか、その目線に立って初めて俺は人間という生き物の精神力に薄ら寒いものを覚えた。


「でも」小さく呟くと、翔の顔がこちらに向いた気配があった。「やっぱり、名前は付けないことにする」


「……」


 しばらく黙った後、翔はそうかとだけ言った。一般的に、主が精霊に与える“名前”は、精霊にとっては時に命よりも価値を上回る。名付けという行為は呪術的な意味を持ち、本質を縛る揺るぎない輪郭線となる。

 俺自身、スコノスとして主に与えられた名前は、翔にも明かしていない。俺の本当の名を呼んでいいのは主だけだ。翔のスコノスが俺のことを「お兄さん」などと呼ぶのは、人間に擬態した「皓輝」という名すら気安く触れてはならないものだと考えているためだ。

 そんな翔のスコノスは、翔から名を与えられていない。そこに至るまでの複雑な過程は違えど、俺はほんの少しその姿勢に倣うことにする。それが、俺が水蛇に示せる最低限の意思表示だ。


「まあ、何はともあれ、だ」


 ぱん、と翔が掌を叩いた音が乾いて響く。「俺は、皓輝一人に背負わせる気はないからな」


「……そうか」


「神明裁判のときと同じだよ。豊隆が何を考えているかは知らないが、皓輝一人に何もかも背負わせようなんて間違っている」


 目線の先には水蛇がいる。俺は蛇に手を伸ばし、尾の辺りを軽く掴んだ。俺の指の下で、水の身体が緩やかに分断される。手を離すと、何かの磁力を持っているよう蛇の身体は元に戻る。冷ややかな手触りを感じるのに、少しも濡れない。


「前みたいに二人なら乗り越えられるよ」


 そう呟くのが聞こえる。自分に言い聞かせるように。そうだな、と俺は返す。二人なら大丈夫。そうであればいいと俺も願っている。──多分。


「なあ、どうせこいつを従えるなら、多少役に立つよう躾けるのはどうだ? 豊隆の思し召しなのにただゆらゆらしているんじゃ味気ないだろ」


 すぐ隣で、翔が顔を覗き込んで来た。その表情の明るさに一瞬たじろぐ。こちらの話を聞いているのかいないのかも分からない、ただ床の上を漂っている水蛇の姿を一瞥し、俺は顔を顰めた。


「芸でも仕込むか?」


「せっかくなら、何か出来た方がいいだろ」翔は自身の右手を下に差し出す。「お手」


「……」


 沈黙が流れる。水蛇の感情表現は無に等しい。俺が翔の手を叩き落とすと、翔は「冗談だって」と声を上げて笑っていた。空気の振動に合わせ、水蛇の透明な身体もふるふるとゼリーのように動いた。




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