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明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第二話 思想史研究会
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 視界が中心から鈍色に滲んでいた。瞼を開けたのに曇っている。膜の向こうで、痩せこけた女の顔がにたりと口を大きく開けて笑っていた。


「あー」


 俺は自分が目覚めたことを伝えるため声を出したが、寝起きのため奇妙に上擦っていた。喉が乾燥している。唾を何度か飲み込み、まともな言葉を出そうとする。


「魘されてたぜ、お兄さん」


 彼女は俺の顔を間近に覗き込んでいて、その体勢は明らかに宙に浮いているか、現実的でない関節の曲がり方をしている。目を擦り、夢でないことを確かめる。

 真夜中の齋舎の自室だった。俺は寝台に肩肘をついて、少し彼女を遠ざけるよう体勢を起こす。

 その女が何者であるか知っていても、自分が彼女と同じ種族であることを知った今でも、一瞬自分の正気を疑いたくなるような眺めであることは変わらない。


「……起こしてくれたのか?」


「驚かせようとしたんだけどなぁ」


 そうして軽く手を広げる仕草は翔にそっくりだった。彼女は、翔に宿るスコノスである。謂わば翔の分身、もう一人の翔とも呼ぶべき霊的存在だ。宿主の翔は仕切りの向こうで熟睡しているに違いない。そうでなければ、彼女が現実に現れることはないのだ。


「びっくりはした。びっくりしすぎて声が出なかっただけ」


 ははは、そうか。笑うと彼女の隙間だらけの歯が見えるので凄絶な表情になる。一見すると痩せて未成熟な女に見えるその精霊は、体をよく見れば表皮の代わりに黴を思わせる羽毛が生えていて、骨のような足は鳥類のそれに変形にしている。

 人型に進化したスコノスというのは骨格や皮膚を一部そのままに二足歩行の姿に変化したため、人間に比べると歪な異形になりがちだ。一言で言えば、醜い。俺がそうであるのと同様に。

 ネクロ・エグロに宿る精霊であるスコノスは大概動物の姿をしているが、俺と彼女は違った。人型のスコノスというのは滅多に見られない偶発的な例なのだという。翔に宿るスコノスであるこの女は、そういう意味でこの世における唯一俺の同胞とも呼べる存在である。


 それにしても、彼女が現れるのは久し振りだった。ほとんど四六時中翔と過ごしていても、彼女の影や気配を見かけることはない。スコノスとはネクロ・エグロにとって武器に等しい存在で、日常に戦いのない太學での生活で彼女が呼ばれる機会などないのだろう。

 翔だけでなく、齋舎で暮らす学生は全てネクロ・エグロであるものの、そこに一体一体宿っているであろうスコノスが姿を晒しているところは滅多に見かけなかった。戦いが本懐、と伝承されるスコノスは、逆に平穏な日常の中では、宿主のみが感知できる精神的交流の範囲の中に留まるらしい。

 この世界に来て三年余、山暮らしが長かったためにネクロ・エグロの社会の中で暮らして初めて俺は、ネクロ・エグロという奇妙な二重構造の生き物の実態を見た。


「……何か用か?」


 魘されていたから起こした、なんていう善意や優しさでスコノスが行動するはずがない。自分で言うのも何だが、スコノスは社会性も協調性もなく、誰かを助けるよりも自分または宿主の利となる方を率先して選ぶ性質を持つ。

 それは何かが劣っているというより、ただ単に習性と呼ぶほかない極度の自己中心性なのだが、俺がこうして当たり障りなく学生としての生活に甘んじているのは、訳あって宿主と切り離され、単独で存在する代わり人間に擬態しているためだ。


「やだなぁ」彼女はくすくすと暗闇によく響く声で笑いを殺す。「心配だから起こしてやったんだってば。疑うなよ」


「本当は?」


「翔がよく寝てたから抜け出してやった。最近退屈でさぁ、ずっと眠っているのも飽きるんだよねぇ」


 骨の浮き出た肩の辺りで手をひらひらさせる彼女は、あっけらかんとしていた。「話し相手に?」と俺は両手で顔を擦る。寝不足を授業に響かせたくなかった。彼女は寝台の端に脚を組んで不格好に座る。


「たまにはお兄さんが構ってくれよ。そうだ、ほら、俺の知らない間に何か面白いやつが増えてるじゃんか」


 翔のスコノスが指したのは、水蛇のことだろう。いつも通りであるなら、今も寝台の下で眠っている時刻である。丁度いい。俺は睡眠時間よりも彼女の暇潰しに乗る方を取った。


「なら、精霊として意見が聞きたいんだけど」


 軽く咳払いして、手で水蛇のいる位置を示す。「これについてどう思う? 正直なところ、扱いに困っている」


 ぐるり、と彼女の目玉が白目の中を回る。「ははあ」と開いた口から籠った息を吐いた。


「俺もよく分からないけど、神気みたいなのは感じるよね」


「やっぱり、豊隆が遣わしたものなのか……」


「それはどうかな」


 肩を竦めた彼女に目をやる。一瞬声が出なかった。「豊隆じゃなかったら、何なんだ?」


「いやそこじゃなくて」


 そうしてまた眼球を動かす彼女を、俺は根気よく待つ。前述のようにスコノスには社会性がない。言語を介すコミュニケーションも本来人間だけのものであり、精霊の多くは得意でない。

 彼女は関節の外れた髑髏のように首を傾げた。


「豊隆ってさぁ、()()()()()()()?」


 それは、大胆不敵な斬り込みだった。言葉を選ぶほど器用でないスコノスの性質のためか、彼女の短気で率直な性格のためか、とにかく俺たちの立っている常識を突き崩す一言だ。


「は?」


 豊隆が、神ではない?

 思わず瞠目すると、彼女は焦れたように手を振っている。自分の発言が意図した着地点でないところに落ちたと気付いたらしい。どちらかというと、ささやかな疑問を呈したつもりだったらしい。


「いやね、ちょっと気になっていたんだけど」彼女は両手の指の骨格をぱっと広げて見せる。「神がこんなことするか?」


「難しい質問だな……」


 神とは、人が正しく知覚出来ない超自然的なものの総称である。少なくともこの文明世界ではそうだった。絶対的であり、不変的であり、そもそも言語による定義や記述の難しい存在だ。


「神の意図は読み取れないものだと思って、考えたこともなかった。何か思い当たる節が?」


「勘」宿主の翔の鋭さを思えば、あながち馬鹿にも出来ない。「神にしては随分とお兄さんに肩入れするなって思っただけ」


「確かに、一介の人型スコノスを相手にするには随分と目を掛けているというか、拘っているかもしれないが」


 豊隆は俺に拘っている。一体何故。自分で言って、疑問に押し黙ってしまう。不気味な予兆だった。俺は豊隆が神であることを特に疑っていなかった。しかし彼女の言う通り、スコノスのようなただの精霊には身に余る関心であることも事実だ。


「逆説的に言えば、だ。豊隆の意図が俺たちにも読めれば、豊隆が神でないという証明になるかもしれないぜ?」


「当事者でないからといって、気楽に言ってくれる」


 豊隆が俺に憑いている──敢えてそういう言い方をするが──だけで、俺の日常生活は制限されているも同義だというのに。まるで大河の只中にいるように、こちらの事情などお構いなしに全てを押し流してしまうのだ。

 その行き着く先を俺は知らないし、例えどこかに辿り着いても俺は気付かないままだろう。豊隆を目の前にしたときの窒息しそうな圧迫感を思えば、そこに宿る意図を読むなど到底不可能なことのように思えた。

 おもむろに、彼女は俺の寝台の下を逆さまに覗き込む。長い髪が床に落ちた。俺もそこに並ぶと、寝台の奥にいた水蛇と目が合う。警戒する野生の蛇のように油断なく蜷局を巻き、首を後ろに引いている。


「……味気ないやつだな」


 翔のスコノスはつまらなそうな顔で言った。水蛇はまるで噛みつく隙を窺っているようだが、彼女は意にも介さない。その気になれば彼女は蛇を取って食ってしまいそうだった。


「あまり虐めないでくれよ」


「弱い者虐めはしないよ」彼女は平然と嘘を吐く。「何か訊けないかと思ったんだが、話をする性質じゃなさそうだな」


「やっぱりそうか」


 彼女は頭を上げ、ばさりと引っ繰り返った髪を払った。


「神であるかどうかはさておき、豊隆が何か目的を以てお兄さんの下にこいつを遣わしたなら、それはきっと前代未聞のことだろうよ」


 書物で前例を調べることに意味はあるだろうか。俺は少し不安になる。心当たりのない負債を負わされている気分だった。


「こいつを精霊として従えることにかなりの抵抗があるのは、俺がスコノスだからなのかな」


 翔には言えない悩みを打ち明けたつもりだが、彼女は興味なさそうに肩を竦めただけだ。そんなもん自分で考えろよ、とよく光る目が言っていた。


「そもそもお兄さんは俺たちの中じゃ特異な存在だろ。何かにつけて理由を考えてりゃキリないぜ。ま、どうにも俺は、奇跡か、誰かの悪ふざけか、そうでなければ神の意思が絡んでいるとしか思えないんだよな」


「それは豊隆や水蛇に関してか? それとも、もっと根本的な話?」


「どっちも」


 ていうかさぁ。彼女はくるりと頭を回す。折れそうなほど細い首の骨が微かに軋む。俺は顔を覗き込んできた彼女と間近で目が合う形になった。


「お兄さんが小難しいことばっか考えるの好きなのは知ってるけど、いつまでここにいる気? そもそも、翔がここにいる意味はあんの? 俺、暇で暇で死にそうなんだけど」


「そうだな……」


 俺にはやるべきことがある。多少遠回りでも、近付く努力をやめたことはない。妹を見つけるためにも、東大陸で足場を固めることは今後役に立つだろう。

 しかし、翔について問われると答えに詰まる。それは俺も懸念していたことだ。勿論彼女が望んでいるのは自然や神々に囲まれながら自由に暮らす生活ではなく、血沸き肉躍る死と隣り合わせの刹那的な快感なのだが。


「向いていないからといって、翔の意思を尊重しなくていい理由にはならないからな。俺は本人の気が済むまでやればいいと思う。それで駄目なら、そのとき考えればいい」


「俺たちにはそんな悠長なことをしていられる時間はないんだぜ?」


「……」


 音もなく床の上に降り立った彼女は、何故だか少し嬉しそうだ。


「翔に言っとけよ。女々しいぞってな」


「せめて自分で言ってくれ」


「俺の言葉よりお兄さんが言うことの方をよく聞くらしいからさ」


 けらけらと笑う彼女は、人間のような佇まいに反して何かが決定的に欠落しているようだった。


「せっかく研究会に入ると決めたんだから、やる気を削ぐようなことはしたくない」


「研究会って、何」


 俺はため息をつき、昨日の早朝に影家の庭で決めたことを一通り話す。自分で訊いてきた癖に、彼女は全く興味がなさそうに余所見をしていた。身分によって制限される図書館の立ち入りも、本を借りるという行為に付き纏う好奇の詮索も、スコノスの関心の範囲にない。スコノスが識別する境界線は、主か、それ以外か、だ。


「スコノスが“友達作り”かよ。ウケる」


 彼女が笑いながら言い残したのはそんなことだった。俺が言い返すよりも早く、彼女はするりと姿を消す。煙のように暗闇に溶け、そのまま静けさに取り残される。

 そろそろ翔の目が醒めそうだったのだろう。一方的に喧嘩を吹っ掛けられた気分で、俺はしばらく寝台に腰掛けていた。

 スコノスが友達作りかよ。

 彼女がそこに込めた幾分かの悪意に肩を竦め、のろのろと布団に戻る。

 確かにな、と思う。今の生活に至るまで、どうにか乗り越えてきた人間社会の煩雑な障害の数々が過る。それらは必要なことだった。死者の血縁関係から偽造して戸籍を作ったこと、朝廷での基盤を作るため太學に入ったこと、翔を宥めすかし、周囲に波風立てないよう気を遣いながら日々を送ること。

 ──忘れてはならない。俺の本質はスコノスなのであって、人間としての生涯を全うするために生きている訳ではないのだ、と。




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