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明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第一話 内舎生
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 休日。俺と翔は、夜明けから幾何も経たない、影家正邸の庭を散策している。


 早朝の庭の霜が美しいので、良ければ見に来てくださいと風流な誘いを寄越したのは白狐さんその人だった。

 学費の援助を受けているとはいえ、他の学生の目を避けて俺たちが影家に近寄ることは滅多にない。本来ならば断わるべき招待だったが、様々な事情を加味して今回は珍しく諾と返した。

 影家の主人は、早い時間なので直接相手が出来ないことを丁寧に詫び、しかし話を通しておくのでひとつの門から勝手に入ってくれて構わないと使いの者を介して伝えてきた。白狐さんにはもう長い間会っていなかった。

 かつて世捨て人として共に生活したあの人は、今や手の届かない雲の上の高貴な身分となっている。俺たちが望めば無理に時間を割いてくれるような寛容な人ではあるが、そうまでして会って何になる、という思いの方が強かった。

 今日ここに来たのは翔のためだ。窮屈な齋舎での生活で気分が落ち込みがちな翔には、自然の空気が必要だった。

 自然を模倣した空間に過ぎないにしても、上流貴族の所有する庭は呆れるほど広大で、俗世の喧騒を忘れさせるには充分だろうと思った。


「ああ、寒い」


 煙った息を吐き出す、翔の声に不快感はない。少しの間目を瞑り、緩やかに敷かれた径の中ほどに佇む。

 透き通った琥珀色の光が、山々の稜線をくっきりと黒く浮かび上がらせていた。紺碧の空に白々とした光の波紋が広がって、それが徐々に昇り始めた太陽の朱と混じり合う。張り詰める冷気の中、冬の朝焼けは目に沁みるほど鮮やかだ。

 寒さのためか、二人で薄っすら目に涙を浮かべながら庭園を歩く。一歩踏み出すごとに、足の裏で硝子の破片が砕けるような音がした。凍りついた地面が、ばき、ぱき、と鳴いている。

 誘われた通り、木々の先端に、深い色の針葉に、秋の終わりに取り残された山茶花の薄紅色の花びら一枚一枚に、真っ白に氷結した霜が繊細なレース飾りのようにびっしりとついていた。

 径はずっと奥まで続く。蚕の繭のような冬芽をつけた木蓮の木立が右手に並び、伝統的だが個性の乏しいこの庭園では唯一誰かの息遣いを感じる植物と言って良かった。白狐さんの亡き母がその花を愛していたのだと、以前そんな話を聞いた。

 俺たちは時たま脚を止め、よく手入れされた樹を見上げたり、橋に差し掛かって暗灰色に蠢く小川の流れを覗き込んだりした。


「水蛇は?」


 ちょっと振り返るようにして翔が訊ねてくる。視線は径の先に設えられた、石造りの亭へ向けられていた。貴族の庭園によく配される亭は、翳った光を浴び、絵の具で塗られた絵画の背景のように見えた。


「大人しくしている」


 俺は自身の懐を気にする。分厚く着込んだ上着の中、俺の丁度腹の辺りに水蛇は収まっている。不思議とどこも濡れていない。

 この霊をどうしたものか俺たちは数日の間考えあぐねたが、結局野放しにしておくには気が引けて手元に置いておくことにしていた。

 水蛇は時折警戒して距離を置いたり陽射しを過敏に避ける様子はあるものの、俺が手を差し伸べればおずおずと近付いてくる。懐に仕舞う案を決行するまで俺は水蛇を相手にかなり時間を掛けて説得し、どうにか今の状況まで辿り着いた。正直、言葉が通じているかは怪しかった。

 素性の怪しい水の霊を連れて授業を受け、学生生活を送るのは危険しかない。誰かに見つかった際の言い訳は幾つか考えたが、“見つからない”が最善策であることは間違いない。

 この水蛇が異界の禁忌の末に産み出されたということ、ましてや豊隆の遣いと推測される存在であること。俺のもとに再び豊隆が顕れたことは、朝廷の誰にも気取られてはならなかった。ここで生きていくための慎重さを俺も翔も身に付けつつある。

 憂鬱な話題はそれきり途切れ、二人で石造りのひんやりした亭に入り、景色を見渡す。翔は少し座っていたが、冷たかったのかすぐ立ち上がる。


「誰もいないね」


 水辺から立ち昇る靄が、朝の光を曖昧に濁らせる。翔の言い方は、ここでないどこかを眺めているようだった。実際この相棒は、俺の目には捉えにくいものをよく見る。

 穏やかな風の中に、茂みの暗がりで息衝く何かの中に、枝先の結晶が溶ける煌めきの中に、翔はいつも人ならざるものを見ていた。長遐にいた頃、翔は不思議なくらい自然の霊や神々に愛されていた。あれは天性のものだと俺も白狐さんも思っている。


「椿の花神くらいは起きているんじゃないか。あれは冬に咲くんだろう」


 長遐の家には夏椿しか植えていなかった。翔も同じ光景を思い出したに違いない。「そうだね」と言って、翔は亭の石段を下りていく。この広い敷地のどこかで、まだ冬の眠りについていない植物の霊を探している。何をするでもなく、俺はその後ろ姿を眺めている。


 ──唐突に、何もかも間違っていると思った。

 翔はここにいるべきではない。長遐からこの男を連れ出したのは間違いだった。

 無論、朝廷で生きることを選んだのは翔だし、長遐の山を降りざるを得なかったのは誰のせいでもない。しかし、かつてのよう何もない空間に命の息吹を見出し、静けさに耳を澄ます翔の姿に俺は気怠い絶望を覚えた。

 人前に立つこと、評価をされる立場になること、番号で管理される環境で四六時中暮らすこと。長遐では経験しようのなかった、優越感と劣等感の狭間で揺れ動くこと。

 本来幼少期から徐々に慣れていく、周囲の人間関係にまつわる微妙な心の浮き沈み──良く言えば切磋琢磨──を知らずに大人になったこの翔が、今更俗世に順応するのは、必要なことなのだろうか?

 その問いに答えるのは俺ではない。だが納得は出来ない。散々翔を世捨て人として爪弾きにした社会のため、何故努力しなければならないのだろう。翔がこうなったのは誰のせいでもない。ただ自然とそう在ってしまっただけで、善でも悪でもないというのに。


 思考を破ったのは、誰かの視線だった。

 咄嗟に振り返る。裸の木々の向こう、白木で造られた影家の正邸の一角が覗く。外に面した、如何にも寒そうな透廊に誰かが立っていて、こちらをじっと見つめていた。

 司旦。影家に仕える、白狐さんの近習である。

 目が合うと司旦は周囲の気配を窺う素振りを見せた後、猫を思わせる身軽さで欄干を飛び越え、こちらへ向かってきた。急ぐでもない、油断のない足取り。簡素な綿の衣服の袖がはためく。俺は水蛇の入った上着の撓みへと無意識に指を伸ばす。

 奴隷生まれの証である耳飾りを両耳に留め、背筋をぴんと伸ばして歩いてくるその姿には、改めて感心させられた。夜明けの淡い陽射しの中、司旦の若々しく異国的な顔立ちは遠目からでも華やかだ。風で飛ばされ、草叢の中で一輪咲いた向日葵のように。それが彼の中に流れる血のためだと俺は知っている。


「お早う」俺はまだ遠くにいる内に声を掛ける。敵意がないことを示しておきたかった。


「よお」


 ざく、ざく、と小気味よく霜を踏んでやってきた司旦は、まるで嬉しくなさそうに言う。

 俺と翔が庭に招待されていたことは知っていたようだ。「久し振りだな」と続ける声は社交辞令の形式を隠そうともしていなかったが、恐らく雑談をする気があることに俺はほっとしていた。

 一段飛ばしで亭に上がってきた司旦は、両袖に手を突っ込むようにして寒さを凌いでいる。離れたところでしゃがんでいる翔は、こちらをちらりと見た後に視線を外した。司旦は翔の子どもじみた真似も意に介さなかった。

 両者は異なる血縁集団らしく全く似ていないが、この国の大半を占める月宸族でないことは誰の目から見ても明らかだ。影家に忠実なこの男は、元奴隷から近習に登用されたという朝廷では異例の経歴を持っている。


「太學はどう?」


「どうと言われても」


 俺は親戚に訊ねられたよう答えに窮する。「順調、だと思う」


「白狐様の名に泥だけは塗るなよ」


「努力はしている」


「努力だけじゃ困る。お前たちが何かやらかしたらとばっちり食うのは影家なんだから」


 司旦は翔にも聞こえるように言うが、翔はあからさまに無視をした。咳払いをして、俺は矛先をずらす。「飲み会が多くて困るんだよな」と。

 話題の貧しさを埋めるよう、俺は最近あった先輩方との宴会や、思想史の研究会に勧誘されたことを掻い摘んで話す。試験の結果はどうせ影家の耳にも入っているだろうから言わなかった。清心派を支持する層が学生運動に熱心なことを伝えると、苦虫を噛み潰したような顔をされる。


「しゃらくさい」司旦は歯に衣着せない。「そんな気取った活動をしている暇があるなら真面目に勉強しろ」


 世間の視点は概ねそこにあるのだろう。月宸族には決して馴染まない顔立ちに呆れを滲ませ、司旦は片手を軽く上げる。


「お坊ちゃん方の学生運動なんて所詮自分探しでしかないんだから、あんまり真に受けるなよ。誰かの下で働いたこともない癖に口だけは一丁前なところが気に喰わない。どうせ熱が冷めたらどいつもこいつも大人しくなるさ」


 元奴隷が言うとその発言には重みがあった。飲み下し難いものを口に入れたように、曖昧な相槌を打つほかない。


「随分前に、太學生の一部が結託して、齋舎の門を封鎖して立て籠もったことがあったっけな」


「何故?」


「さあね」司旦は本当に興味がなさそうだ。「不満があったのか知らないが、何でも駄々捏ねれば通ると思っていそうなところが餓鬼臭い」


「そいつら、どうなったんだ?」


 除籍処分されたんじゃないか、と素っ気なく返ってくる。「お前たちも他人事じゃないからな。問題を起こして除籍されたら二度と太學には入れない。忘れるなよ」


「肝に銘じておく」


 やや間を空けて、俺は「お前は青臭い学生が嫌いそうだな」と親しい相手にするよう軽口を叩いてみた。思えば、俺と翔が太學に入ることを真っ向から反対したのも司旦だった。影家に厄介な荷物を増やしたくない、というのがその主張だった。


「官僚は俺の天敵だからなぁ」端正な顔がくしゃりと歪むが、どこか自嘲しているようでもある。


「白狐さんは?」


「白狐様は別」司旦は袖で空を切って、ぴしりと音を鳴らす。「様を付けろ」


「あ、そういえばさぁ」


 突然翔が話に割り込んだので司旦は身構えた。色づいた枯れ葉を一枚、指先で弄びながら翔が亭に戻ってくる。その脈絡のない喋り方は長遐にいた頃を彷彿とさせた。


「宮中図書館の資料を白狐さんの名義で借りられないかな?」


「はあ……?」


 色々なものを飲み込んだ司旦が、訝しげな表情をする。


「何か借りたい本があるのか?」


「まあね」翔は濁す。その目がちらと俺の懐へ向くが、司旦は気付かなかったようだ。


「ほら、俺たち一介の内舎生じゃ伝手なしで本を借りることも難しいじゃん。不便なんだよね」


「一応、紹介状を出すことは、出来なくもないけど」


 束の間思案して、訊ねてくる。「貴重な資料か? 稀少本や禁書の類は、影家の名を使っても無理だぞ」


 どちらかというと権力の限界というより、政情を鑑みている物言いだった。復権してたった一年半の影家は何をするにも微妙な立場にいる。翔は、「具体的にどの本を借りるかは決まっていない」と困ったように言った。


「じゃあ、ナシ」司旦は掌できっぱり示す。「お前らを図書館に入れるのは難しいし、影家名義で借りても履歴は残る。無意味に詮索されるのは避けたい」


「けち臭いやつめ」


 肩を竦めるが、翔はそれ以上食い下がらなかった。一体どんな本を借りたいんだ? と問われたとき、不利なのはこちら側だった。太陽が正邸の瓦屋根まで引っ張り上げられ、司旦は朝の仕事を思い出したようだった。


「早く図書館を自由に使える上舎生になれよ」


 去り際にそう言い残される。「そんでとっとと中央勤めの文官になって、影家の足を引っ張らない程度に昇進しろ」


 無茶なことを言う、と俺も翔もため息をついた。そう簡単に話が進むなら苦労しない。太學生の中には、十年も卒業できずに居座って、学費が足りずに破産する者も少なくないというのに。

 司旦がいなくなってから、俺たちは何だか途方に暮れたよう立ち尽くしていた。朝陽に溶かされた霜が燦然と輝いて眩しい。宝石を砕いて撒いたように。翔は思案する声を出す。


「水蛇について調べられたら良かったんだけど」


「そうだな」


 俺たちはこの水の霊の存在をとにかく持て余していた。現状は大人しく俺に付き従っているし、誰かに牙を向くような攻撃性も見られない。しかし意志の疎通が出来ない以上、どんなトラブルを起こすか分かったものではない。

 そもそも、自然物が霊気を吸って成長するなど、前例のあることなのか。この国の膨大な知の歴史を積み上げた図書館ならば調べられそうだが、ここで言う図書館は書物の蒐集に重きを置いた、一般人は立ち入り禁止の政治的施設である。学生には幾らか門戸が開かれているものの、上舎生でなければ出入りは厳しい。

 俺は水蛇について知りたいことがあった。あの日、齋舎の裏庭で俺はまるで水蛇の目を通じて景色を見たように錯覚したのである。ほんの一瞬、自分が水蛇になったとすら感じた。

 以前も俺は、豊隆の目を借りて空の上から地上を眺めたことがある。森に潜む自然霊に祈って、聞くはずのない敵の足音を捉えたことも。意図しない一瞬の思考の重なりが生んだ現象とはいえ、精神的紐帯を結んだ精霊には何らかの感覚の共有がもたらされるのか、知っておきたかった。


「白狐さんの力が借りられないとなると、厳しいな」


 翔が亭の柱に寄り掛かる。俺は首を振った。


「いや、まだ宛てがある」


「……」


 その先を、翔は言って欲しくなさそうだ。反抗的な態度で腕組みをしているが、司旦に断られた時点で俺の心は概ね決まっている。


「例の研究会に入って、先輩方の名義を利用しよう」


 正気かよ、と相棒は漏らす。


「勿論、危険は承知の上だ」


「何か勘繰られたら、影家にまで話が行くんだぜ。大人しくしているのが得策だと思うけど」


「お前は他の学生と関わりたくないだけだろ」


 言いすぎたかと思ったが、翔はさして気にしていなかった。というより、そんなこと自分でよく分かっているよ、という憮然とした表情だった。細い光が幾筋もその顔に差して、翔は億劫そうに瞬きする。

 懐にそっと手を差し込んだ。中で丸まっている水蛇は、俺の体温が移って生温くなっている。暑かったら蒸発するのだろうか、寒かったら凍るのだろうか。命は有限なのだろうか、俺がいる限りは生き続けるのだろうか。未知の空白を埋めなければならなかった。


「俺はもう決めたけど」なるべく大らかに聞こえるよう言う。「お前はどうする?」


 翔は唸る。無理しなくても、と思う。政治にまつわる思想運動の中で、確かに翔は本意でない立場を強いられがちだ。義務ではないのだから、嫌なら嫌と言っていい。


 しかし翔は結局その場で「俺も入る」と短く宣言した。光が霜を溶かし、緩やかに温度を上げてゆく。庭園の帰り道、「皓輝が心配だから」と付け足した相棒は、俺よりも頼りなさそうな、脆い表情をしていた。




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