Ⅳ
翌日。朝霧が立ち込める中、中庭に貼り出された課の試験結果の前に学生たちが集まっている。舗装路に人が密集し、成績上位者の一覧を見上げて一喜一憂している。俺は上から数えて五位で、翔は九位だった。
首を捻る。あの書き損じた分を差し引いて減点は妥当だったが、もっと良い点が取れると思った。好成績を讃えて肩を叩いてくる同舎生を躱し、午前の授業へと向かう。雨は止んでいて、短く刈られた芝一面に水晶のような露が散らばっていた。
「やっぱり皓輝はこういうの得意だよな」
翔は屈託なく褒めてくる。うん、まあね、と応える。「文学だったらこうはいかない」と付け足したのは無自覚の照れ隠しだったかもしれない。
「皓輝の詩、傑作だからなぁ」
軽やかな声で翔は笑う。太學の入学試験の必須科目にあった詩作で、俺が苦し紛れに作った詩のことを翔は未だに覚えていた。今でも俺はあの試験内容に納得していない。
「官吏に詩の才能要るか?」
「風流を愛でる文化人の心ってことでしょ」
「お前だって自由律以外は俺といい勝負だからな」
肩を竦め、翔は俺と並んで齋舎に入る。十日に一度の課が終わり、心なしか建物全体がほっと緩んだ空気に包まれている。昨夜の酔いはまだ胃に残っていて、食欲はなかったが、数日ぶりに見た相棒の笑顔に安堵もしていた。
「皓輝、顔色悪いよ」
全部を見透かしたように翔が言う。他人の心の機微に敏感すぎる気質が、翔が集団生活に向かない要因でもあった。俺は頭を掻く。
「変な夢ばかり見るから寝た気がしないんだ」
「また? 場所が合わないんじゃないのか」
翔は齋舎のある方角を気にしている。風水の効験は疑わしいが、確かに都に来てから俺はやたらと夢見が悪い。神明裁判が終わった後、高熱が出て魘されてからずっと続いている。目覚めてすぐ霧散する悪夢にしても、俺にとって現実のように感じられるほど生々しいのだった。
「場所が合わないというのは的を射ていそうだな」俺は小さく呟く。
翔にとっても俺にとっても、都は何もかもが大仰で手間がかかって、努力では埋め難い文化の差を感じる地だった。疲れが溜まっているんじゃないか、と翔が言う。二日酔いが悪化する心地で、俺は空いている席に着く。
定刻通りに授業が始まると、途端に胃の中の吐き気と眠気が増してきた。俺は大人しく、要約した授業内容を頭の中で反芻しながらどうにか午前を乗り切った。
「休めば?」と昼餉の席で翔が眉を下げた。
平均して美味くも不味くもない齋舎の食堂は、数日に一度の麺料理の日ということで唐辛子の匂いと湯気に満ちていた。俺は進まない箸で麺を少し摘み上げながら、「さすがに」と言う。
「二日酔いで欠席は内申に響くだろ」
午後の授業が始まるまでは、まだそういう義務感があった。無理に食べたのが良くなかったのだろうか。再び始まった講義の最中、俺の体調は目に見えて悪化した。
蟀谷を指で揉み、俺は教授代わりの上級生──學諭と呼ぶ──の声を懸命に聞きとろうとする。これまでもっと酷い二日酔いの状態で出席したこともあったのに、今日は一段と集中力を欠いていた。
隣の翔が気遣わしげな視線を寄越してくる。ささくれた机の上に手を置いて、俺は懸命に意識を保とうとする。気を抜くと頭の中の何かがふわりと浮いて、身体から抜け出てしまいそうだった。
「──……」
不意に頭を硯にぶつけかけ、慌てて戻す。静まり返った室内では唾を飲み込む音すらも大袈裟に響くようだった。教科書を手にした學諭が睨むような一瞥を投げかける。背後に座る学生らが無関心そうに身じろぎしているのを感じた。
俺は何度も目を冴えさせるため地味な努力をしたが、波のように押し寄せるその感覚は徐々に間隔を狭め、時間の流れは遅くなる一方だった。音も光も奇妙に遠く、ぼんやりと霞んでいる。
どれくらい抗っただろう。俺は意を決し、なるべく目立たないよう静かに席を立った。學諭に直接注意を受けるより、そうした方がましだと思った。幾つかの怪訝な目線の中に、一際心配の滲む翔のそれを受け流しながら足早に室から出る。寸前、大丈夫、と半ば自分に言い聞かせるよう、相棒に向けて小さく頷いてみせた。
廊下には、埃交じりの白い光が満ちている。古い木造の階段を下り、俺はどこへ行くでもなくふらふら歩いた。厠に行く気にはなれなかった。それよりも外の空気を吸いたい。人の気配がないためか、胸の悪さは幾分引いている。今は睡魔が強く、正確にはそれは眠気ではない。
外に出て、そこが建物の窓からほとんど死角になっていることを確かめた上で倒れる。齋舎の勝手口に通じた狭い裏庭だ。苔むした塀が二階にまで迫り、陰になった石畳の通路には誰もいない。手入れされた庭木の茂みに埋もれ、俺は半目で齋舎の黒ずんだ外壁を眺めた。視界の揺れは少し収まっていた。
茶色や黄色に色変わりした葉が、濡れた地面に貼りついている。息を吸った。陽光を攪拌する湿った大気の匂い。枯草の乾いた色。鼓膜を圧す静寂。あらゆる五感の情報が継ぎ接ぎに流れ込んでくる。
その時点でこれはただの肉体の不調ではないと悟ったが、すぐさま原因に辿り着くほど、俺は超自然現象がこの身に起こることに慣れていなかった。瞼を閉じて、決して心地よいとは言えない感覚の波をやり過ごそうとする。意識が遠のきかける。
不意に視界が暗転し、俺は腹這いになって地面を進もうとしている。濡れて色が変わった石畳、植物が腐ったような匂い。緑青の浮いた銀のように枯れかかった苔。
どこかから水面が揺れるくぐもった音が聞こえた。身体の奥底から響く、深い水の揺らぎ。
はっと目を開く。今、何を見た?
「……」
俺は身体を起こす。折れた枝葉がぱらぱらと落ちた。誰かに見られているような感覚があった。一体いつから?
俺が気付かなかっただけで、その視線はずっと俺の周りを付き纏っていた。
何かいる気がするんだけどなぁ、と翔の寝惚けた声が聞こえる。背中には一面冷や汗をかいていた。やっぱりさ、天が国家の悪徳を裁いてくれないと。先輩の声。何故今これを思い出した?
まだ終わらない。これを俺に言ったのは誰だっただろう。
口の中で混ざり合った唾液が泡になっていた。俺は自分が正気でない自覚を持ちながら一歩ずつ踏み締め、そこに辿り着く。
細い裏庭の先には寂れた井戸があった。まともに使われているかも怪しい、小さな竪井戸だ。錆びついた金具に、涙のような透明な滴が幾つもついている。枯れ草が微生物に分解されかけた、饐えた土の匂い。雨後の神気。
眩暈を覚える。何故俺はこの場所に井戸があることを知っていたんだっけ。
足元から水の音がした。身体の奥底の、原始的な本能に呼びかけるような水面の揺らぎ。ぐらりと均衡が崩れる。強く、強く、透明な手に胃腑を掴まれている。
思い出せ、と言われているように。
「……」
どこかから水が跳ねた気がした。音のない飛沫。それは、当然のように井戸の陰から現れた。初めは幻覚が見せる光の乱反射にしか見えなかった。目を凝らさなければそれが実体であるとは気付けない。色のない、透明な空間の揺らぎがそこにある。
蛇だ。
生き物ではない。水。液体が自立し、特定の形を保ったらこうなるのだろう。蛇の形をした水──見覚えがあった。蛇もまた、俺の顔を見上げるように透明な首を擡げている。
「お前か」
俺は掠れた声で呟く。その水蛇を己の胃で孵したときの、あの気持ち悪さが鮮明に蘇ってきた。ぱた、ぱた、と誰かが泣き出したよう、雨が落ちてくる。空は晴れているのに、建物も木々も、煌めく水の膜に包まれたようだった。
水蛇は何も応えない。当然だ。これは偶然俺の霊気を吸って胃の中で生まれた、形を為すだけの水。自然の精霊ですらない。あれは一体、いつのことだった?
「どうして、今になって」
言葉が続かない。胃の中のものが逆流する。蛇は応えない。何かを語りかけるよう、粒状の目をじっと向けている。この蛇に自我などないはずなのに、何故。
膝をついてその場に屈み込んだとき、俺は不意に何もかもを理解する。頭の中にかかった霧がさっと拭われるよう、全ての感覚が鮮やかに、強烈に神経を駆け抜ける。
──豊隆。
あの神が、頭上にいるのを感じた。嵐を呼ぶ、宇宙の央に棲まう巨大な神鳥。一年半前に俺と心を繋げたあの神がいる。神明裁判の日以来、俺の前から忽然と姿を消していた神が。
まだ、終わらない──。
豊隆は再び俺にそう告げた。畏怖も拒絶もどこか遠いところにあって、俺は渦巻く中心に佇んで、その声をはっきりと聞いた。甲高い耳鳴り、嵐を呼ぶ豊隆の鳴き声──俺の身体に、透明な鋲を打ち込む、音の一閃。
地を這う水蛇が、近付いてくる。俺は力なく広げた両手でそれを持ち上げようとする。ひんやりと、氷よりも冷たい水蛇の胴体に触れる。
ああ、水か。万物を流転する水。天を駆け、地に沈み、再び天に昇る命の揺らぎ──簡単な話だ。この世界の全ての水は、雨を降らす豊隆のものなのだ。
また、ここから始まる。俺は天啓じみた、前触れのない神の出現に震えている。
***
こちらを真正面から覗き込む、翔の顔。ぱさついた髪がこちらに垂れ、澄んだ瞳が俺の顔をそのまま逆さに引き延ばして映していた。
「生きてるか?」
俺は頷くが、何が起こったのかまだ理解していない。ぶつけたのか、後頭部がじんじんと痛む。まだらな雲間から金色の光が降り注いでいた。もう夕陽と呼んで差支えのない空の色だった。思わず飛び起きる。
「あ……俺、寝ていたのか?」
「姿勢としては気絶に近しいけど」
俺は井戸の傍らの石畳に半分乗り上げる形で倒れていた。いつの間に意識を失っていたのか。あの胃の気持ち悪さは嘘のように消えている。自分の状況を飲み込むのに時間がかかった。
翔はしゃがみ込んで、「もっと早く来ていれば」と後悔を滲ませる。俺は顔を青くする。
「午後の授業終わったのか?」
「うん。學諭には俺が適当に誤魔化しておいた」
しかし出席時間が半分に満たないため欠席扱いだろう。午後の授業時間はうんざりするほど長いのだ。そんなことどうでもいいとばかりに翔が眉を顰める。
「で、何があったんだ?」
その声には俺を襲撃した何者かの影を探す物騒な響きがあるので、俺は慌てて否定をする。説明をしようにも上手く言葉が出てこない。
代わりに地面に尻を付けたまま周囲を見回す。建物の陰から差し込む西日が八方に光線を放ち、木々の陰と混じり合って斑紋のような模様を零していた。
「皓輝?」
俺が灌木の茂みに頭を突っ込んだので、翔はいよいよ怪訝そうな声を出す。黄色く枯れた葉が、黒ずんだ菊の花の残骸がばらばらと崩れ落ちて肩につく。探していたものは石積みの塀のすぐ下に隠れていた。
次の瞬間、俺が水の塊を素手で掴んで引っ張り出したので、翔は相当驚いただろう。
俺の右手の中でうねり、細長い一匹の蛇へと変形するそれを見て、相棒は然るべき疑問と困惑を投げかけた。水蛇がその場にいるだけで体感の湿度が上がり、心持ち息苦しくなるようだった。
「あ、こら」するり、と鱗のない魚のような手触りとともに水蛇が逃げる。再び茂みの陰に潜り込んだそれを見つめつつ、俺は「覚えているか?」と訊ねた。翔も目を丸くして覗き込み、付け足すように頷く。
「……ああ。今思い出した」
呆然とした口調だった。「雰王山で、お前が孵した蛇か」
正確に遡れば、きっかけは長遐を出てすぐの頃だ。雲上渓谷という神域で誤って水を口にした俺は、所謂“よもつへぐい”の禁を犯した。異界の食べ物を口にしてはならないという神話の常套である。すぐに気が付いてその場で吐き出したが、胃の中に僅かに残った水が時間を掛けて俺の霊気を吸い、成長し、蛇の形となって孵ったのである。
雰王山で“出産”を迎え、口からそれを吐き出すまで俺はそこに何かが宿っているなどと考えもしなかった。実際偶然が折り重なって産まれたこの精霊とも呼べない何かは、既存のどの概念にも当てはまらないだろう。俺にとって我が子のような存在、と思えばいいのか、所詮はただの水であるため自我などないはずなのだが。
「でも、産まれてすぐいなくなったじゃん。てっきり自然に還ったものだと思っていたのに」
「そうだな」
どうして今になって。雰王山の水辺の畔、物言いたげな顔をして去っていった水蛇の姿がはっきりと思い出せる。
あのときはまだ、ただの下位の自然霊でしかなかった。俺も翔も、その後の行方を気にしたことはなかった。
「……」
俺はじっと俯いている。蛇は距離を取っているものの、様子を窺う素振りでそこにいた。不思議な眺めだった。体が無色透明の水で形作られているのでなければ、野生の蛇とそれほど変わらなかった。
「豊隆が」喉に何か引っかかっているようだった。「豊隆が来たんだ」
翔は黙って瞠目する。言葉を失って、散り散りになった自身の感情を目線で追っている。俺は翔が受けた衝撃、それから失望とも呼ぶべきどす黒い寒気が手に取るように分かった。それは俺が抱いたものと同じだ。
「……豊隆が」
喉が締まっているのか、翔の言葉は細く頼りない。「今……?」
「うん……」
沈黙。二人の間に、言葉にし難い重々しいものが垂れこめた。長い長い現実逃避の末、最初の壁に真正面からぶつかったようだった。
思えば、当然の帰結である。俺たちはあの神が長い間姿を見せなかったことで、何となく逃げ切れた気分でいたのだ。神に選ばれるというのは、そんな単純なものではないというのに。
俺も翔も、神が人を選ぶ──これは一定の執着を指すが──ことの意味を未だに正しく理解出来ていない。いつか分かるようになるとも思わない。
ほとんど一方的に不条理を押し付けられるのに、こちらから豊隆へ向ける干渉は愛着、少なくとも俺はそう呼んでいるもの以外に許されない。そういう不均衡で不完全な主従関係であることは、辛うじて知っていた。
俺は順を追って、水蛇との遭遇と、そのときに湧き起こった感情についてぽつぽつと説明した。豊隆は確かに、あの瞬間俺の頭上にいた。姿を見なくても分かる。俺と豊隆は、他者が介入できない精神的紐帯で結ばれていた。
その繋がりを改めて実感したとき、俺の胸の奥から溢れたのは恐らく歓喜だった。自然界で神と呼ばれるものがもたらす壮大さは、時として心を窒息させ、感情を必要以上に仰々しく、単純にさせる。水蛇を見つけた瞬間の衝撃がそれだった。
論理の失せた俺の説明は傍から聞けば狂人のそれだったかもしれないが、翔はきちんと拾ったようだった。
「つまり」唇を舐め、翔は呟く。
「水蛇は豊隆が何らかの意志を以て遣わした……? 皓輝は、そう思う?」
首肯する。要約すると、言いたいことはそれだけだった。俺は気が動転していて、それなのに不思議と心は凪いでいる。
日が傾いている。冬の日没は早い。墨で塗り潰したような斜めの陰影の中、俺と翔は人気のない井戸の傍で絶句していた。
木陰に潜む水蛇の揺らぎが、身じろぎする度に仄かな光を弾く。何らかの使命感を持っているのか、何も考えていないのか。その平たい顔から読み取れるものはひとつもない。
「考えなきゃ」俺は譫言のように言う。「豊隆は、また俺に何かをさせようとしている」
それが全く喜ばしくないものであることは明白だった。暗黒が迫りくる空の下、水蛇は何も語らず、ただ二人の現実に打ち込まれた杭のように尾を巻いていた。




