Ⅵ
色々な感情が風に吹かれた雲のよう俺の顔の上を過っただろう。僅かな理性が表情の動きを止めていたが、一瞬の沈黙をどう受け取られたか分からない。
自分が何に驚いたのか、実際に気付いたのはその後だ。女王の顔を、じっと凝視する。
どうして、俺の名前を。
下の名ならば確かに、公の場で呼ばれずとも別に隠しているものでもなし、陽国側にも容易に伝わるだろう。
しかし孑宸皇国では、余程の名家の生まれでなければ苗字を他人に名乗ることはしない。そもそも、翔のように苗字を持たない平民も多く、奇特な目で見られるのを避けるため、俺はもう何年も自分の名字を名乗っていなかった。
互いの腹を探り合うような静けさが、海風に攫われていった。寺院跡の堂宇に、朝陽が差し込んで石床に模様が出来ている。
「……お話したいことがよく見えません。俺のどこが特別なのでしょう」
「本当にお心当たりはありませんか」
女王は、白を切る俺の言動に塵ほどの興味もなさそうだった。ただ真っ直ぐ、俺の視線を逃さず問い掛けてくる。試されているという自覚が遅れてやってくる。
「貴方はご自身が他の全てと違っていることを、知っているはずですよ」
俺がスコノスであることだろうか。確かにそれは、俺と他の全てを隔てる決定的な違いである。その根源にある、かつて東大陸で行われていた不死研究が陽国の女王の興味を惹いたのだろうか?
しかしそれならば、俺よりもイダニ連合国にいるコウキに話を付ける方が余程早い。不死研究はイダニ連合国が受け継ぎ、東大陸にはほとんど記録が残っていないのだ。
俺は女王の前で、ニィという語を使うべきか躊躇した。これらの事情を女王がどこまで把握しているのか分からない。迂闊な藪蛇は避けたい。
そうして俺は最初の疑問に立ち返る。何故この人は俺の名前を知っていたのか。
「女王陛下の特別な職務とは……何なのですか?」
「スラギダ王国民を護ることです。そのためには手段を問いません」
女王の口調はきっぱりとしていた。そして具体性を欠いていた。
「貴方の力が必要なのです。今すぐ返事をして頂かなくても構いません。こちらとしても、慎重に事を運びたいですから」
「詳しい話を俺にしないことに、どのような意味があるんですか」
「失礼ながら、まだ貴方のことが信用出来ないのです。ですから、こうしましょう。まずは私から小さな課題を出させて頂きます。課題と言っても大したものではありません。それを期日までに貴方に解決して頂けたら、こちらから報酬を提供します。情報であれ、金銭であれ、権利であれ、貴方の要求するものを可能な限りご用意しますよ」
俺は首を振る。
「お言葉ですが、俺は皇国の翰林院に属している者です。他国の女王の信頼のために動く義理はありません。お断りさせて頂きます」
沈黙が流れた。激しい風が吹きつけて、女王の衣の袖をばたつかせる。俺は瞼を上げて女王の反応を見たが、瞬きもしない見開かれた目から読み取れるものはほとんどない。
やがて女王は、口許を右手で隠し、くすりと笑った。その笑い方があまりに可愛らしいので、俺はどきりとする。
「……ふふっ。いえ、失礼。靈臺待招殿の忠誠心を軽んじるつもりなどなかったのです。お許しを。確かに、本来ならばこちらがお願い申し上げる立場、先に貴方の求めるものをお出しするのが筋でしょう」
意図的に用意された仕草で懐から取り出された藁紙に、俺は眉を顰める。四角に折り畳まれた跡が白くなっていた。俺は渋々受け取って縦書きの中身を読み上げる。
「何ですか、これは……領収書……?」
「はい」
「奴隷……女一人……」
古くなった筆跡を読み上げ、俺は記載された日付に気付いた。三年前の六月十三日、一人の奴隷を購入した旨が、支払いの証明印らしきものとともに書かれている。その下に孑宸語でメモのような但し書きがあった。
「概ね健康良好。但しスコノスの気配、甚だ弱し、殆ど皆無。然り而して以下の売値で取引す……二百陌」
金額は、恐らく奴隷としては破格だろう。三年前の六月、安値で取引された一人の女。俺は女王の顔を見上げる。
「それは、貴方の妹君ですよ。靈臺待招殿」
「……」
どうして。動揺を気取られぬようゆっくり瞬きをする。白を切ることも出来たが、俺はしなかった。
「何故俺の妹のことを知っているのですか」
女王は答えない。それを知りたければ信頼を得ろと言われたようだった。俺は努めて平坦に質問を変える。
「つまり妹は三年前、この日付で陽国に買われたということですね」
「はい。正確に買ったのは陽国付きの奴隷商人です。奴隷商人の中にも色々ありまして、陽国は不審な人間の侵入を防ぐため、国家に従属する専門の奴隷商人を抱え、船に乗せて良い奴隷を選別して購入させているのです。そうして海を渡った奴隷が、今度はスラギダ王国内の客に売られます」
俺は手元の領収書をもう一度眺める。確か光が行方を晦ませたのは、三年前の五月だった。そこからおよそ一か月後、光は涼省で陽国に売られた。長遐と涼省の距離を考えれば、ほぼ最短ルートであると言っていい。
この三年足らず、初めて光の足取りを形ある証拠の中に見つけた。女王側が偽造する可能性も考えたが、何にせよ光の存在を認識しているのは確かだ。
しかし、と俺は口を開く。
「俺が聞いた話によりますと、妹は現在イダニ連合国にいるらしいのです。もう陽国に、妹はいないのですよね?」
「はい」女王はあっさり認める。
「仰る通り、スラギダ王国に上陸した妹君は、そのまま何らかの指示を受けて国境を越え、イダニ連合国の救世主の下へと引き取られたようです。王国内に残された記録では、七月三十一日を最後に妹君の行方が掴めなくなって、同時期に不審な動きが国境近辺で見られたようです」
俺が初めてコウキに接触したのは、涼省の夏至祭だった。つまりその時点で光はとうに海を渡っていた訳だが、コウキは俺の話を聞いて光の足取りを追いかけ、陽国内にいると突き止めた後迅速に確保したのだろう。
これまで空白だった時系列が綺麗に繋がった。俺は女王に、紙を差し返す。
「今、妹がイダニ連合国にいることが分かっているのなら、この領収書に用はありません。お返しします」
「きっとそう仰ると思いました」
受け取る女王の言葉が強がりなのか判断がつかない。領収書を懐に仕舞った女王は、改まったよう背筋を正す。
「今更ですがお詫び致します、靈臺待招殿。貴方の妹君であるとこの時点で知っていたら国内に留めたでしょう。王国に従属する奴隷商人も所詮は金によって契約したに過ぎませんから、支払う金次第ではスラギダにもイダニにも寝返る厄介な組織なのです」
「それは、別に構いませんが……」
いや、確かに光が今もスラギダ王国内に留まっていればもっと話は早かったのだろうが、逆に言えば女王が目論んでいる何かしらの取引材料にならずに済んだとも言える。俺は目の前のこの人が何を目的にしているのか推し量れず、不気味に思う。
「靈臺待招殿は妹君を探しておられる──イダニ連合国から取り返そうとしている。そうでしょう? きっと私がお役に立ちますよ。何せ皇国民である貴方には、自力で国境を超えることさえ生半可なことではないでしょう。単身あの国へと乗り込むのも、賢明とは思えません。私の助力があれば、もっと他に良いやり方が幾らでもあるはずです」
この異国の女王は、何をどこまで知っているのだろう? 何故俺が漠然と考えていた、陽国に上陸すれば物理的に距離が縮まって光の捜索がし易くなるに違いないという希望的観測まで見透かしているのだろう?
「正直なところ、不可解な点が多くて困惑しています」
俺は表情を動かさずに問う。「俺の妹の存在と、それを探していることを知っている者は限られているはずです。どうして陛下が事細かにご存知なのか……」
陽光が差してもひんやりした堂宇の中で、女王は温度など感じていないかのよう平然としていた。
「ええ、不審に思われるのも無理はないでしょう。ですから、互いの信頼を勝ち得るため、まずはこちらの条件を飲んでほしいのですよ」
女王から提供された課題を解決する──先程持ち掛けられた話を反芻し、俺は黙ることにする。そうまでして俺に拘る理由を女王が頑なに明かさないのなら、これ以上口を開いても立場が有利になるとは思えなかった。
女王はしばらく俺を見つめた後、肩を竦めた。これまでの膠着がなかったかのように滑らかに続ける。
「靈臺待招殿にお願いしたいのは、サクチャイとそれに賛同する勢力のことです」
「……」
「サクチャイは、人々の生活に不平等が生じている原因が、伝統的な国家体制にあると水面下で吹聴しているようです。その相手はスラギダ、イダニだけに限りません。不平等な階級社会の下層に押し込められてきた者全てを煽り立て、賛同者を募るつもりなのです」
俺は翔のことを思い出す。どれくらいの時間が経っただろう。翔はもうサクチャイの居城に招かれている頃だろうか。
「このまま女王に手向かう勢力が大きくなれば、内乱に発展するのも時間の問題でしょう。そして国政が乱れたとき、イダニ連合国は隙を見て武力干渉してくるはず。それだけは絶対に避けたい──」
「……皇国の使節団を受け入れたのは、イダニ連合国への牽制なのですか?」
口に出して見ると、今更訊くまでもないことのように思えた。
勿体ぶることなく、女王は上品に頷く。
「孑宸皇国との軍事同盟が無事に締結されたら、国内の反イダニ感情は否応なしに高まり、サクチャイたちは活動しにくくなるでしょう。貴方にはそれまでの間、反女王勢力の中に混乱をもたらし、少しでも力を削いでほしいのです」
まだ俺はそれをやると承諾していなかったが、どうやって、という疑問は浮かぶ。
「簡単なことです。貴方は存在そのものが我が国に混乱をもたらします。イダニ連合国の救世主と同じ顔、同じ名前を持ちながら、豊隆に選ばれて翰林院に登用されたという噂は、諸侯たちの間でもまことしやかに囁かれています。サクチャイたちは貴方のことを最大限警戒していますが、同時に神から特殊な扱いを受ける貴方を一目置いているはず。彼らの間に不和を撒くのは容易でしょう」
「……あまり気の進む話ではありませんが……」
俺はサクチャイに対して個人的な恨みがある訳ではない。とはいえ、女王の口ぶりからしてそういった生温い段階でもないのだろう。
結局のところ、俺は返事をしなかった。女王の立ち居振る舞いは、それでも構わないと語っていた。気が向いたらやってくれ、といった鷹揚な態度は、いずれ貴方はそうするだろうという確信に裏打ちされているようだった。
「貴方が反女王勢力に何らかの干渉を行い、それが少しでも彼らの力を削ぐ方向に働いたと分かれば、課題は達成されたものと見做しましょう。どうかくれぐれもお気を付けください、靈臺待招殿。スラギダ王国の抱えた事情は、貴方が思うより根深いのです」
最後に、丁寧に手を重ねた女王に、俺は密かに眉を顰める。五体満足で生きていてもらわねば困る、と遠回しに言われたようだった。
女王は、ゆっくりと伏せていたまつ毛を上げた。下瞼に沿った白目が、物言いたげに覗いている。それは何だか切実な意味合いが込められていた。
顎を引いた女王が、静かに石壁を叩いて沐を呼ぶ。「靈臺待招殿を大庭園までお送りしなさい」という命令は円滑に実行された。隠し通路から現れた沐に促され、俺は去り際に女王に形式的な会釈だけする。何となく腑に落ちないものが互いの間に漂っていた。
石壁を元の位置に戻すと、通路は完全な暗闇に包まれる。何か言うべきかと口を開いた俺の言葉は、曖昧な沐の笑みに掻き消される。沐は取り出した光る石を頼りに、俺を先導した。
黙って元来た道を戻りながら、俺は翔が、サクチャイとどのような話をするのか想像してみる。
太學での学生運動を目の当たりにしたとき、翔はある種の徒労感を覚えたはずだ。彼らの語る平等というものがどれだけ現実から離れ、洒落臭い若者たちに消費される綺麗事に過ぎないのか。
しかし、そんな翔だっていつまでも昔のままだとは限らない。俺は翔の今後を憂いてみて、今は他人の心配をしている場合ではないだろうと思い直す。
恐らく俺は、自分で一切自覚のないままスラギダ王国の重要な地位に置かれたのだ。




