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明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第八話 弓比べと内談
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 翌朝、夜更けから降り始めた雨が庭園一帯を濡らしている。朝の気温に温められた地表から、白い靄とその匂いが微かに立ち上り、ぽつぽつと絶え間なく落ちる雨粒と交じり合っていた。


 早起きをした俺は小路を一人で歩いている。雨音の間をすり抜けるよう、濡れた土をゆっくり踏み締める。点々とある窪地の泥水に波紋が広がっては鎮まる。俺は額に手を翳し、指定された南側の東屋らしきものを見上げた。

 沐が言った通り、切妻の屋根は金色の釉薬が塗られた瓦で、雨に湿ってくすんでいる。屋根の勾配に沿うように取り付けられた何かの生き物の意匠は、巨大な蛇のようだ。真っ白な柱がそれらを支え、金飾の柵がぐるりと周囲を囲っている。

 近付いてみると、柱から剥がれた塗装の一部が鱗のよう土台に貼り付き、雨に濡れていた。御影石の天板の長椅子があるが、中には誰もいない。俺は屋根の下に入り、髪の毛に着いた珠のような透明な滴を払う。光の翳った早朝の庭園は、蒸された海の匂いがした。


「おはようございます。靈臺待招殿」


 不意に俺が来たのとは逆にある生垣の向こうから、沐の姿が見える。待ち構えていたのを気取られぬよう、少し間を置いたような現れ方だった。俺はそうした沐の細やかな気遣いを、単に礼儀正しさと受け取るべきか不気味に思うべきか測りかねている。


「おはようございます」


 俺も挨拶を返すが、少し気後れしているように聞こえたかもしれない。一応立場の上では翰林院所属なのだからもっと威厳があった方が良かったか。


「こんな早い時間に来ていただいてすみません」沐の口ぶりは謝り慣れている。「早速ですが、女王陛下がお待ちですので急ぎましょう」


「シリポーン女王はどこに……」


 沐は石段を上がり、周りを見回す俺の傍まで来るとおもむろに長椅子の下に手を伸ばした。そこで何か操作をすると、御影石の大きな天板のひとつを持ち上げる。まるで椅子の下に便利な収納があるかのような構造だった。


「……これは」


「はい。陽国名物、隠し通路です」


 どういう意味での名物なのかさっぱり分からなかったが、俺は王族を茶化す沐なりの冗談と受け取る。思えば冴家の邸宅内にも当然のように隠し通路があった。お偉方とは何かと後ろめたいものを持つものなのだ。

 天板の下は収納ではなく、暗闇へと続く狭い穴がぽっかりと開いていた。沐に促され、俺は躊躇しながら一定間隔に打たれた金属杭を梯子代わりに降りると、湿った土の匂いの中に階段が現れる。更にそれを下ると施錠された鉄の扉が現れた。仄かな光を拾い、酸化した鉄の表面の凹凸が微かに浮き上がっている。


「容易に出入りできなくするための仕掛けです。壊すのも手間がかかるので、仮にこの通路を使って誰かが逃亡しようとしてもここで追手に捕まります」


 沐が頭上の天板を閉めると辺りはほとんど暗闇の中に密閉された。念のため、俺は帯の下に隠した短角刀の位置をさりげなく確かめる。今日は悩んだが、翔に何かあったときの連絡用として水蛇は留守番である。

 火を点ける代わりに、沐は懐から仄かに光る石を取り出し、小さな鍵で錠を開けた。


「参りましょう。大丈夫、頻繁に使われますから、安全は保障されています」


 恐らく燐光性のある石なのだろう。人魂のように青白い光を頼りに、俺は恐る恐る沐の後に続いた。他に人の気配はない。

 剥き出しの土壁に時折板が嵌め込まれ、舗装と何かの目印を兼ねているらしい。一本道のように思われた地下通路は時折枝分かれをして方向を変え、俺はあっという間に方角を見失う。天井も壁も狭く、入り組んだ蟻の巣を歩いているようだった。


「如何にも密会という感じがしますね」


 息が詰まりそうだ。俺は敢えてその言葉を口にしてみる。沐はそうですね、とだけ答えた。こうして女王のため人を手配するのも通訳の仕事なのだろうか。俺を女王の元へ案内することが、皇国のための仕事とは思えなかった。

 時間にして十五分ほど歩いただろうか。次に辿り着いた鉄の扉は先程のよりも大きかった。今度は鍵を出さず、沐は手の甲を使って扉を何度か節を取って軽く叩いた。ほどなくして別の節の音がコンコンと返ってきて、外側から錠が開く音がした。

 予想に反して、扉が重たげに開くと隙間から光が溢れてきた。外の空気だ。俺は袖で顔を隠して、目に沁みる眩さをやり過ごす。そして、外で待っていて錠を回したのが女王その人であったので狼狽えた。


「は……」


 適切な言葉が浮かばない。まずここはどこなのか。足元に気を遣いながら地下通路から出ると、低い屋根越しに朝方の空が見えた。反対側は岩壁で、幅は狭い。柱と欄干からなるその細い渡り廊は、雨に晒されてほとんど白く剥げている幾つもの黒ずんだ堂宇へと繋がっている。

 強く吹き付ける風が、俺の髪を、女王の麻を編んだ衣の袖を巻き上げる。


「ここは寺院の跡の一部です。随分昔に放棄され、今はこの隠し通路を使わねば立ち入ることは出来ません」


 俺は欄干の下をちらりと見て、沐の言うことを理解する。急峻な崖の途中に引っ掛かるような格好で、この寺院は建てられていた。遥か眼下には枯れ谷の底が細く見え、更に視線を左へ向ければ海の煌めきが険しい地形に切り取られていた。

 何とも足が竦むような場所だと感心する。何より恐ろしいのは、シリポーン女王に誰もお付きの者がいないらしいことだった。確かに出入り口はひとつで、こんな場所であれば潜むことも難しいだろうが、実に平然としている。


「では、私は控えておりますので、ごゆるりと」


 沐は鼻の上の眼鏡を直す仕草の後、隠し通路の中へと引っ込み、扉を完全に閉じてしまう。そうすると扉は周囲の石壁と同化して見分けがつかない。

 俺は女王と向かい合う。どういう態度で挑めばよいのか判然としない。危惧していたような物騒な空気感は、今のところない。


「御足労いただき感謝します、靈臺待招殿。少し歩きましょう」


「……はい」


 びゅうびゅうと吹き抜ける風が、現在地の標高を教えてくれる。俺は何だか手足が右と左で同時に出るような心地で女王の隣をゆっくりと歩いた。階段の先にある堂宇の戸は取り外され、反対側もまた同様に戸がなくするりと通り抜けられる。


「靈臺待招殿から見て、陽国は如何に映りますか」


 不意に質問が飛んでくるので、俺は家具も何もない空っぽな堂宇の中で立ち止まる。元は何か宗教的な道具が置かれていたのだろう。斜めに差す陰の下、壁一面の羽目板の透かし彫刻が美しい。


「……下町は栄え、良き国風に存じます。東大陸に比べて少し暑いですが」


 女王の目が真意を問うよう煌めくが、俺はそれ以上何も言わない。良き国風と断ずるには、俺はこの国のことを、この国の人を知らなすぎる。


「貴方にそう言っていただけるとは光栄ですね」


 熱の籠っていない口調に、俺は当惑した。表向き靈臺待招とは星読みの称号であり、実質的に俺は豊隆の世話係で、いずれにせよ国家運営に携わる立場ではない。陽国に対する俺の見解に何の価値があるのだろうか?


「突然このような場に呼び出した非礼をお詫びします。互いに立場のあることですから、王城でお会いするのは難しいと思い、回りくどい手を取らせていただきました」


「構いませんが……」


 俺は注意深く女王の顔を見る。薄闇の中、女王の目元に塗布された煌めく宝石の粉が彼女の無表情を引き立てていた。長引かせたくない。俺は諦めて軽く咳払いする。


「それで、どのようなご用件でしょうか」


 女王がゆっくりと瞬きした。その唇が、何か思案するような動きをする。


「折り入って、お耳に入れておきたい話がございます」


「はい……?」


 ぽかんと口を開く俺に、女王は静かな眼差しを向けた。


「一昨日、皇国の皆様をお迎えした歓待の宴で一部の食事に毒が盛られました」女王の瞳に、空の切れ端が映っている。「毒見役がいたので事なきを得ましたが、我々はそれを警告と受け取りました」


「既に王城内部にまで迫っているという警告、ということですか」


「然り。犯人は未だに捕まっておりません」


 反女王派の思想を持つ者が、イダニ連合国の者が国内に潜伏する手引きをしたらしい──先日の万和の話とも一致する。


「見当はついているのですか?」


 俺の問いに、女王は上品な瞬きの仕草だけで肯定した。


「靈臺待招殿は、この国のひとつの面しかまだご覧になっていません。北方の山間部は雨が多く豊かに栄えていますが、南方の海沿いや小さな島の諸侯は土地が貧しく、人々の生活は大きく異なります」


「はあ」


「これはスラギダ王国の伝統的な問題なのです。しかし……」


 濁された言葉は小さくなって聞こえなくなる。流暢な女王の孑宸語が、突如別の言語と混じり合ったようだった。顔を上げた女王は、俺を見てやっと言葉を思い出したように続けた。


「女王の体制を面白く思わない者は海側の地域を中心に昔から少なからず存在していました。ただし島の者たちの気質なのか彼らの不満はまとまりを欠いて、相互に足を引っ張り合っていたこともあって、脅威と呼べるほどではありませんでした。少なくとも、最近までは」


「何があったんですか?」


 俺の問いに、女王は初めて躊躇のようなものを見せた。その目が何かを一瞬探し、俯く。


「私の弟、サクチャイは幼い頃から船上での戦闘訓練のため小島の諸侯の下へ通い、その生活を間近で眺めてきました。王城の暮らしと比べて、思うところがあったのだと思います」


「……つまり」俺は眉を顰める。「サクチャイ……王弟殿下が……?」


 発音がぎこちなくなったのは、その人物が翔を呼び出したのが今日だからだ。偶然だろうか? そんなはずがない。

 しかしサクチャイは曲がりなりにも王族の一員である。貧しい諸侯たちのため、姉に対して反旗を翻すような、ましてや外交の席で毒を盛るような真似をするものだろうか。


「代々我が国では軍を指揮するのは王族の男と決まっています。国防を誇らしいと捉えるか、女どもの盾にされていると考えるかは人に依ります」


 女王は落ち着いた様子で頷いた。寒気を覚えて、俺はそれと気付かれぬよう肩に力を籠める。


「ご存知の通り、北方のイダニ連合国は有力な遊牧民の氏族を平定して生まれた連合国家です。()()()()()が執政官として旗持ちし、全ての国民が平等な権利を享受できる国づくりをしていると聞きます。大方その思想に感化されたのでしょう。サクチャイはイダニの救世主と通じ、主に海側の諸侯たちと手を組んで反女王戦線を密かに作り上げているようです」


 俺は瞬きさえ我慢して、少し黙った後「それは確かなのですか」とだけ問うた。自身の足元が、踵の際まで崩れているように感じた。ご存知の通り、と女王は言った。貴方なら知っているはずだ。俺はぎりぎりまで素知らぬ顔をする。

 女王はため息をついた。一瞬だけその横顔は手の焼ける弟へ向けた姉としての表情が覗いた気がした。


「サクチャイが独りでにそのような思想を思いつくとは思えません。富める者と貧しき者、女と男、格差はどの時代にもありました。スラギダ王国の悪しき伝統です。しかし、それを武力で転覆させた先に真の平和があるとは思えません。あまつさえ、他国の手を借りようなどと。私の弟は、救世主の見せる夢に踊らされているだけなのです」


「……」


 イダニの救世主、すなわちコウキはその通称に違わず人類救済を見据えている男だ。その一環が奴隷解放である。その熱意は、わざわざ東大陸の皇国に来て奴隷を買い、その身分から解放することを“道楽”と称しているほどだった。

 陽国は、厳格な奴隷制度が存在する国である。

 女王の履物が音を立てた。踵が石床にぶつかる鋭い音が、堂宇の中に響いた。


「どうして貴方にこの話をしたか、分かりますか」


 俺はやはり瞬きだけする。「分かりかねます」


 一歩分近づいた女王が、元の位置に戻った。心底軽蔑したような顔で。


「──貴方がイダニ連合国の救世主と同じ顔、同じ名であることなどどうでも良いのですよ、靈臺待招殿」


 俺は顔を上げないままに、息を止める。その言葉が余りにそんざいに吐き捨てられたので、人が変わったのかと思った。沈黙を守る俺の周囲で円を描くよう、女王が歩く。彼女の衣の裾が、虫の翅のよう視界の端で揺れている。

 俺はまだ口を閉ざしている。


「確かに救世主の顔を知る一部の諸侯たちが、この件をしつこく追及したことはありました。しかし、繰り返しますがそんなこと、どうでも良いのです」


 真横に差し掛かった女王の顔を、俺は盗み見る。目が合う。本当に? その言葉を信じるべきだろうか。

 シリポーン女王は履き物の踵を静かに鳴らし、やがて正面に立った。顔を上げる。何もかも見透かすような視線がそこにあった。俺は狼狽える。女王が宿した気迫の種類は、単なる敵対や脅迫でない、未知のものだった。


「女王は通常の為政者ではないのです、靈臺待招殿」声が僅かに低くなる。「このことは、代々女王を継いだ者だけが知っています。スラギダ王国の女王には特別な職務がある──サクチャイさえも、知りません」


 沈黙に限界を感じ、俺は口を開く。


「救世主とやらのことは存じ上げませんが、益々お話の意図を理解しかねます。靈臺待招とは文官とも呼べない星読みの見習いのようなものです。為政者の在りようなど分かりません」


 その瞬間の女王の瞬きは、まつ毛で虫を払いのけるようだった。


「貴方もまた特別だからですよ、刻夜皓輝殿」




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