Ⅳ
サクチャイからの招待に俺が勝手に同行するのはまずいだろう。
万和たちにこのことを報告するべきか否かが問題だった。組織の中にいる者としては当然言うべきだが、サクチャイが直接自分の居城に招いた辺り、上を通さず翔と話したいことがあるのかもしれない。
相手の意図はともかく、使節団の面々も別にこちらの味方には為り得ないため判断が難しいところだった。しかしどちらにせよ、俺がそれに同行することはなかった。
弓比べの日の夜。夕餉の後、俺は豊隆の様子を見てから日誌を書き、提出へ向かった。内容は変わりない。豊隆は大人しく檻の中にいた。俺は何となくそのことを不穏に思う。
大庭園の広場にいる豊隆は、その状態に反して意志を放棄したようには見えなかった。全く、一切、人の手に委ねている気配がない。豊隆は自らの意志で檻に入ったと語った万和の見方は、あながち的外れでもないのかもしれない。
ともあれ、その嫌な予感のようなものを素直に日誌に書くつもりはなかった。自分の書いたものをあちらの都合の良いように捉えられるのは避けたい。後から何かあっても素知らぬ顔をすればよい。
シィキィ湖の国賓館は、昼間見るのとは様相が違っていた。一人でここを訪れる度、俺は立ち止まってそこに近代的な趣を見出してしまう。飾り気のない灰色の外壁、周囲に焚かれた篝火の光に照らされ、建物の上へ行くほど曖昧な暗闇に溶ける佇まいは、ますます鉄筋コンクリートのビルのように見える。
それを実感すると、飲み込み難い感情がやってきて、俺はそれをどこにも吐き出せない。この感覚に共感できる人間はこの世界のどこにもいない。
俺は陽人の守衛に軽く会釈をし、中央の建物の中に入る。国賓館に足を踏み入れるのは初めてだったが、迷うような構造ではなかった。適当な使節団の召使いを掴まえ、万和の居場所を訊く。
上階の客間に一人でいた万和の機嫌は悪くなさそうだった。弓比べの件で面子を保てたことが関係しているかと思ったが、必要以上の会話はしないでおいた。日課の報告は滞りなく済んだ。
意表を突かれたのは部屋を出たときだった。
「靈臺待招殿、お仕事ですか? 夜分遅くにお疲れ様です」
振り向けば、廊下にいたのは沐だった。にこやかな顔に、相も変わらず不格好な眼鏡を掛けている。俺は余計なことを言いそうになり、代わりに軽く拱手してから「沐様は、こちらに寝泊まりしているのですか?」と問う。
「ハイ。使節団の方々がここに滞在している期間は、すぐに用件に応じられるようここに待機しています。普段は他の現地の外交官が住む宿舎におるのですが」
「大変ですね」
俺は様々な意味を込めて言う。いえいえ、と謙遜する沐の顔の上、眼鏡のレンズの中で不自然に拡大された目が映っていた。沐の歩みに合わせ、二人で連れだって歩き出す。
館内の廊下は、珊瑚色の絨毯が敷き詰められ、魔除けの文様が端々に織り込まれていた。踏み締めると素材の麻が奇妙な固い音を立てる。窪んだ壁には蝋燭が灯され、熱帯の花や鮮やかな絵付けのされた壺があちらこちらに飾られていた。
夜更けなので人気はないが、外側の簡素で直線的な印象は、内装の華やかさと明るさによって拭われる。俺たちは階段に差し掛かる。
「そういえば、靈臺待招殿のお耳に入れておきたいことがありまして」
「何でしょう?」
不意に立ち止まった沐の人の良さそうな顔を見て、俺は警戒心の緩みを自覚する。沐はさり気なく、俺の背に付いた塵を払うような仕草で近づくと耳元で言った。
「──明日の早朝、女王陛下がお会いしたいとのこと。日が昇る頃、旧王家の大庭園の南にある東屋にてお迎えに上がります」
普段のそれとは全く異なる、早口で抑揚のない声だった。俺はその声の調子にも、内容にも驚くが、寸前で顔に出すのを留める。沐の顔を見ると、にこやかに笑っていた。
「背に羽虫がおりましたよ」
「……分かりました」
俺は小刻みに頷く。拒否権も、それ以上内容を訊ねる猶予もなさそうだった。そのまま階段を降り、誰もいない一階の入り口の前で沐は小声で付け足した。
「金の瑠璃瓦を目印に。それではお休みなさいませ」
一礼する沐に見送られ、俺は建物の外に出る。何かを言わなければならない気がしたが、既に機会を逸していた。むっとした夜の湿気が顔を包む。俺は周囲の視線を気にして前だけ見ながら帰路に就いた。足元がふわついて、濁った水の中にいるようだった。
「何だって?」二人だけの客間で、翔は頓狂な声を出し、喉の奥に閊えたものを取り出すよう何度か咳払いをした。次の「女王に呼び出された?」という言葉は、周囲を憚ってかなり声量を抑えていた。
「どう思う? 何かの罠とか」
これで偶然にも明日、俺は女王に、翔はサクチャイからそれぞれ呼び出された格好になる。偶然だろうか?
俺と翔は寝台の上で寛ぎながら、顔を見合わせる。
「俺たちも大物になったな」
冗談めかす翔に、俺は顔を顰めた。
「何か関係があると思うか?」
「うーん。どうだろう」翔は首を傾げ、羽毛の入った枕を膝に乗せて軽く叩く。「女王とサクチャイって姉弟なんだろう。何だかそれにしてはあんまり仲良くなさそうっていうか、王族の家族ってそういうもんなのかもしれないけど」
俺も同意する。海軍演習の際の女王の妙に熱を欠いた様子が思い出される。陽国では国政は女が、軍事は男が担うものという伝統があるらしいが、どこにでもある機関ごとの対立に、性別の差異が絡めばもっとややこしいのだろうか。
「翔のは、個人的な招待というだけであってサクチャイは内密にしたつもりはないのかもしれないし」
口に出した後、俺は「まだ決めつけるのは早いか」と思い留まる。女王とサクチャイの関係も、表向きを捉えた印象に過ぎない。俺たちはまだ、陽国の内情を何も知らない。
「しかし、皓輝のはどう考えても密会だろ。どんな用件なんだろうね。何か心当たりは?」
「……豊隆の件か、或いは俺がイダニ連合国のコウキとそっくりなことをまだ食い下がってくるか」
どちらも正直俺の手に負える範囲の話ではない。考えるだけで気が重たくなる。どうにか寝坊してすっぽかせないか、などと呟くと「それでもいいんじゃない」と翔が能天気に笑うのでこちらの方が慌ててしまう。
「大体さ、政治の席ってどいつもこいつもふんぞり返って、その癖上品なことしか言わないから何考えているか分かんないし、面白くないよ」
「そうは言っても、まだ敵になるか味方になるか腹の探り合いの段階だし」俺は呆れるが、明け透けにものを言う翔に少し安堵もする。「皆立場があるんだ、俺やお前も含めて」
「その立場ってやつを一番軽んじているのは皓輝だと思うけどねぇ」
悪気なく言われて、俺は一瞬止まった。沈黙の匂いを嗅ぐような素振りの後、確かに、と小さく頷く。固い小石を床に落としたような感触があった。
「もう一人のコウキの話って陽国にどれくらい伝わっているんだっけ?」
言いすぎたと思ったのか、翔の問い方はいつもより和らいでいる。
「昔涼省で、陽国の船乗りに間違えられて殺されかけたことがあったからかなり広範に顔は知られていると思う」
「逆にここに来るまで誰も何も反応しなかったのって不自然じゃないか?」
「そうだな……」俺は顎を触る。
使節団が結成されるより前、白狐さんはその件について他人の空似であると強く主張して陽国側の訝りをやり過ごしたと聞いたが、女王が素直に納得したとは思えなかった。
「豊隆の後ろ盾があることをそれとなく主張して、自分に危害を加えたら天災が下ると仄めかすのはどうかな」
「悪くないな……」
立場を軽んじる俺らしい立ち回りではある。少なくとも、女王と対面すると見せかけて突然捕縛されて簀巻きにされるような事態は避けなければならない。
「本当に豊隆が手助けしてくれるならいいのに」
俺と翔はほとんど同時にそうため息をついて、力なく顔を合わせてもう一度溜息を吐いた。明日俺たちに何が起こるのか見当もつかなかった。