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明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第八話 弓比べと内談
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 午後の空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。白い太陽の光線が真上から降り注ぎ、天幕の布の撓んだ形に光が溜まっている。風が吹き付け、天幕の中の人々の髪をふわりと持ち上げた。


 サクチャイが無言で力強く引き、弓がしなる。彼の背中の盛り上がった筋肉が収縮しているのが見える。

 放たれた魚鷹はあっという間に空高く舞い、ゆっくりと翼を広げて旋回した。足首にぶら下がった腕輪は、明らかに重たく飛行を妨げている。訓練されているのだろうか? 飛翔する軌道を事前に仕込んでいる可能性は充分に考えられた。

 しかし、サクチャイはそういうことをするタイプではないだろう。俺にはそういう確信があった。魚鷹はやはり異物が気になるのか、僅かに高度を下げて降りられる場所を探している。

 それは、ほんの瞬きの間の決着だった。矢の先端が白く弾かれ、刹那、遥か空中で魚鷹の胴体を貫いた。捉えた、と言いたくなるほどの正確さだった。

 使節団の天幕から、上品などよめきが起こる。魚鷹は緩やかな上空の軌道を逸れ、両翼を折り曲げたまま、錐揉み状態で落下した。その腹から吹き出た血が、青空に小さな染みを作っては散った。

 審判役がさっと駆けていく。魚鷹は芝生を超えた森の中に落ちていった。その翼の残像の形が目に焼き付いた。木々の間に消えた審判が、やがて戻ってくる。


「こちらに」


 運ばれてくる最中に事切れたのだろう。死んだばかりの魚鷹が皆に向けて掲げられる。両手で抱えるほどの大きさの魚鷹の死骸には、サクチャイの矢が深々と突き刺さっていた。矢は腹部を下から上に貫き、付け根には赤黒い血液がべったりと付着していた。

 魚鷹の目は見開かれ、嘴は何か言いかけたよう半端に開いている。女王一行の天幕から拍手が起こった。それが慣例であるように思われた。皇国の面々もそれに続く。サクチャイは恭しく一礼して見せた。


「素晴らしい腕だね」


 宇梅は鷹揚な仕草で手を叩く。慣れているのだろう、とは言わなかった。どれだけ鍛錬を積んでも、あれほど離れた上空を飛ぶ鷹を一発で仕留めるなど、並みの腕ではあり得ない。

 サクチャイは魚鷹の趾から腕輪を外し、それを高く掲げて見せた。拍手と歓声がひと際大きくなる。血塗られた黄金の腕輪が、サクチャイの琥珀色の指の間で一番星のように瞬いていた。


 当然、次に人々の目は翔へと注がれる。心配、胡乱、不安。彼らの感情が押し出され、目に見えない霧のように翔を覆った。扇でぱたぱたと仰いでいる彼らの手元でさえちょっとぎこちない。

 幾ら翔が異民族(フアン)の帰化人であるからと言って、翔が恥を掻くことを期待している使節団の者はいないだろう。恐らく。

 翔の背中は何か考えている風だった。陽光を浴び、生々しい陰の中にある魚鷹の死骸をじっと見つめている。血で汚れた腹の羽が、風に吹かれて捲れ上がった。お付きの者が布を被せ、どこかへと運んで行った。

 サクチャイの言葉を待たず、翔が口を開く。


「俺の分の魚鷹を放してください」


 有無を言わさぬ言い方だった。

 籠が開かれ、もう一体の魚鷹が光の下に晒される。空気に含まれている血の匂いを感じたのだろうか。きょろきょろと落ち着きなく周りを見回し、窘められている。その足首に、新しい黄金の腕輪が結わえられる。


「準備は宜しいですか?」


 サクチャイが審判の代わりにそう問うたのが聞こえた。翔が頷く。一本掴んだ矢が、その手元でひゅんと回って元の位置に戻った。瞬間、空気がぴりりと辛口になったように感じられた。


「では──」


 翔が太陽の眩しさに目を細めながら弓を構えるのと、振り上げられた腕とともに魚鷹が空へ放たれるのは同時だった。俺の心臓が小さく縮まった。

 魚鷹の飛び方は不規則と見て良さそうだった。腕輪の重みで僅かに傾いているため、旋回する方向は恐らく腕輪の付けられた脚に依る。先程の魚鷹は森の方へ降下して自身の腕輪を外そうとしていたようだが、同じ行動をとるとは限らないだろう。

 長く上空に留まってくれていたらいいが、もっと高い位置へ、或いは遠いどこかへ飛び去ってしまう可能性は大いにある。ゆっくり狙っている暇はない。

 ばさりと大きな羽音を残し、あっという間に上昇気流目掛けて高度を上げる魚鷹を、翔は目で追っていた。一秒、二秒、時間の流れが遅い。矢を番えた弦は、恐ろしいほど微動だにしない。


 ()てるだろうか? 恐らくそうだろう。翔はそういう男だ。


 一閃。翔の弓から放たれた矢は、魚鷹の飛翔する進行方向を読んだ。やはり降りられそうな場所を探し、高度を下げたその瞬間。神が用意した予定調和のよう矢の煌めきはそこにあった。

 見事、下方向から首を射抜かれた魚鷹の羽ばたきが乱れる。辺りの空気が一斉に湧き立つ中、俺も肩の強張りを解く。思っていたよりも緊張していた。今になって気付く。

 真っ逆さまに青空から落下した魚鷹を、皆どこかほっとしたように眺め、早くも翔に拍手が送られる。皇国側からは主に、よくやった、という労いの意が込められていた。

 手順に従い、審判が魚鷹を回収して戻ってくる。高く掲げられるのに合わせ、だらりと翼は垂れ、貫通した首も無気力に揺れた。趾に付けられた黄金の光だけが活き活きとしていた。


「ほお、翔くんもなかなかやるじゃないか。白狐様が推薦した理由がようく分かった」


 宇梅ははしゃいだ様子で呟いている。俺はため息をつきながら「まあ、翔の腕前なら当然のことです」と肩を竦めた。宇梅は笑う。


「とか何とか言いながら、皓輝殿も相当顔色が悪かったぞ」


 何も言えず、額に浮いた汗を袖で拭った。全くもって生きた心地がしなかった。


「しかし、これでは弓比べは引き分けかね?」


 審判の挙動を見ながら、宇梅は呟いた。腕輪が取り外されているところだった。それを眺めるサクチャイの横顔に、一瞬はっとしたものが過る。大股でそこに近づき、翔の分の腕輪を手に取って眺めている。


「……皆様。これを」


 サクチャイは表情を曖昧に濁し、二つの腕輪を両手に掲げて見せた。右はサクチャイ、左は翔がそれぞれ射落としたものである。彼が何を言わんとしているのか一目で分かった。俺の背中にぞわりと鳥肌が立つ。

 右は魚鷹の血にべったり濡れ、左は汚れひとつない。


 冬場の長遐で翔はよく鴨を狩った。俺も同行したが、弓矢がからっきしの俺は凍った川の一部を割ったり、そこに集まった鴨に石を投げこんで脅かす役で、驚いて飛び立った鴨たちを翔が射る。そういう段取りだった。

 何度もやる内に、面白いように鴨を仕留める翔がいつも同じ部位を狙っていることに俺は気付いた。白い雪の上に落ちた鴨の死骸は、必ず首だけを射抜かれていた。あの細い水鳥の首を、である。

 何故鹿のように心臓を狙わないのか訊ねると、翔は何でもないことのように答えたのだ。

「鴨は心臓も美味いから」と。


 あのときと全く同じだった。翔の矢は正確無比に、魚鷹の首を射抜いていた。趾に結わえられた黄金の腕輪に血飛沫が掛からない位置、角度に、ぴたりと。

 飛行中の鳥の頭部は動きも大きく、狙いにくい。狙ったのだろうか? ──恐らく狙っただろう。翔はそれが出来る男だと俺は知っている。知っているはずの俺でさえ慄いた。あの緊張の瞬間に、そこまで思考を回す冷静さと、実行してみせる胆力に。


「……参りました」


 潔く頭を下げたサクチャイに、翔は慣例的に頭を横に振って謙遜した。しかしその表情は落ち着いている。

 再び拍手が湧き起こる中、顔を上げたサクチャイは笑顔に戻っていた。儀礼的でない、人懐っこく朗らかな表情だった。


「お見事──本当に素晴らしい。確か、翔殿と仰いましたね? あなたのような方と勝負できたこと、光栄に思います」


 翔は、サクチャイが名前を覚えていたことに驚いたようだった。「あ、いえ」とまごつき、「こちらこそ」と返す。勝負がつき、その身の回りを覆っていた緊張が抜けたようだった。

 周囲から沸き起こる拍手や歓声も、どこか圧倒されたような控えめなものに変わっていた。弓比べはそうして形式上は皇国側の、実質的には翔の勝利という格好で終わった。去り際にサクチャイが翔に顔を近づけて何か耳打ちしているのが見えた。

 それから翔は白狐さんや万和に呼ばれ、一通り褒められ、邸宅の中で帰りの馬車が用意されるまでの間もひっきりなしに誰かに話しかけられていた。異民族(フアン)の見た目をした翔が、上流貴族や官僚に囲まれているのは、皇国ではちょっと見られない異質な光景だった。


 ようやく落ち着いて話せるようになったのは、帰りに乗り合わせた馬車の幌の中、向かい側に乗り込んだ翔は俺の顔を見るなり相良を崩す。

「……緊張した……」と。


「いや、こっちの方が死ぬかと思ったけど」俺は素直に言う。「全然緊張しているように見えなかったぞ。堂々としていたし」


「そう? なら良かった」


 翔は蟀谷に汗で貼り付いた髪を避ける。暑さもあるだろうが、緊張していたのも嘘ではなさそうだった。動き出した座席に揺られながら、翔は懐から黄金の腕輪を取り出して膝に乗せた。報奨として受け取った、血の汚れひとつない金細工の腕輪だった。


「あれ、狙ったのか?」


 俺が何となく言外に濁したことを、翔はすぐに理解して「ああ」と頷く。疲れたように背もたれに身体を沈めながら、しかし気楽な調子で。


「正直運が良かったな。一応狙ってはいたけど、中たるとは思わなかった」


「血飛沫が掛からないように?」


「うん。あと首の方が腕前を見せつけられるかと思って」


「それをぶっつけ本番でやろうという度胸がすごい」


 俺の言葉に翔は力なく笑って、腕輪を指で掴んで目の前に持ち上げた。幌の隙間から差す日光が黄金にぶつかり、翔の顔に金色の破片を撒く。嵌め込まれた紅色の宝石が、揺れる光の中で炎のように色を変じる。

 間を置いて、俺は口を開く。視界の端に、青々とした水田が垣間見える。


「ところで、どうして弓比べの代役を引き受ける気になったんだ? あのサクチャイに対抗心を燃やして、とかではないんだろう?」


 翔は俺の目を見た後、腕輪を太陽に透かし、指でくるくると回した。しばらく経って、腕輪を懐に仕舞って答えた。


「国のために役に立つっていうのがどういうものなのか、やってみたくなったんだ」


「沐みたいに?」


「沐みたいに」


 弓を持ち、重責の中あの場に立った翔の気持ちを推し量る。人前に立つことを憚る翔らしからぬあの姿を。そして、面子が保たれたばかりかサクチャイ相手に一本取ったことを褒めそやしていた使節団の態度を。


「それで、どうだった?」


 俺の問いに、翔は答えない。幌の日除けの隙間から流れゆく外の景色をじっと眺めている。青い葉の反射や木陰がその横顔から滑り落ちてゆく。俺は質問を変える。


「そういえば、サクチャイから何か言われていたよな。何を言われたんだ?」


「ああ、あれね」翔は肘をついて顎を乗せる。心なしか周囲の聞き耳を気にしたよう、声を低める。「明日の午前、サクチャイの居城に招待された」


「何だって?」


 思わず素っ頓狂な声を出し、俺は自分の口を塞ぐ。がたがたと車輪が土路から舗装路に乗って、馬車が大きく揺れた。翔は座席を掴んでバランスを取り、「どう思う?」と問う。当事者とは思えないほど他人事な言い方だった。


「何かの罠かな?」


「……」


 何か答えようとした俺は、そこに言うべきことが何もないことに気付いて閉ざす。分からない。サクチャイの振舞いを思い返し、少なくとも今日のことで逆恨みをするような陰湿な性格ではないだろうと思う。


「一人で行くのか?」


「そういう話だったけど」翔は複雑そうに俺の顔を見た。「皓輝も来る?」




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