Ⅱ
翔が乗り気になっても、実際に弓比べの代役として任命されるまでもうひと悶着あった。
とはいえ、あれだけ異民族と呼び蔑まれた後に自ら挙手をしたのは、少なからず周りを驚かせた。使節団の面々はそれを翔の自信と受け取り、白狐さんの後押しもあって結局は任せることに決めたようだった。
話し合いが落ち着いた後、俺は白狐さんの元にいる翔に近づく。周囲の視線を憚り、小声で問うた。
「本当にやる気か?」
「うーん」
翔は自分で言った癖に、曖昧に首を傾げる。視線を流して周囲を伺い、誰も聞き耳を立てていないかさり気なく確かめている。隣の白狐さんが眦を細くした。白いまつ毛が瞳の中に陰をつくる。
「大丈夫、翔なら出来ますよ」
気楽な調子にも、翔は顔を曇らせたままもう片方に首を傾けた。金色の髪が肩に触れる。
「こういうのって、相手方に多少忖度をした方がいいんですか?」
「心配するとこ、そこ?」
「気にしなくていいですよ。事前に選出した武官は熱病に罹って、他の者もやりたがらないのだから、出るだけで充分なくらいです。何やら国の伝統武芸だとかで、初めに弓比べの催しを提案したのは陽国側なのですよ。要するにこちらは喧嘩を売られた格好なので、どうぞ思う存分全力を出してください」
そう言って歯を見せて笑う白狐さんは「信じていますよ」と無邪気に付け足した。それはプレッシャーではなく純然たる信頼だった。翔も安堵して笑い返す。かつて長遐で共に暮らしていた頃のように、今だけ二人の関係は対等に見えた。
そういう訳で、午後になって邸宅の庭園に俺たちは集まった。庭園とは言っても豊隆を置いた旧王家の大庭園とも、皇国が誇る庭園文化のそれとも違う、平坦な地形に広大な芝生が広がるばかりである。こういった催しには誂え向きだろう。
女王一行は馬車に乗って現れ、邸宅の主である諸侯ににこやかに迎え入れられた。サクチャイもそこにいた。用意された天幕の中で、俺は周囲の様子を窺う。
芝生の上には、紙製の円形の的が設置されている。直径は四十センチメートル足らず、白地に黒の円が書かれ、それが縞模様のようになっていた。国籍問わず、誰が見ても分かり易い的である。使節団の中には、あれなら誰でも出来たのではと拍子抜けした者もあった。
「そちらで熱病患者が出たと聞きましたが、大丈夫ですか?」
わざわざこちらまで出向いて来たサクチャイが訊ねている。真上から注ぐ太陽の光を受け、結わえられた赤銅色の髪が渦を巻いて煌めいていた。万和が答える。
「お心遣い感謝します、サクチャイ王弟殿下。陽国の医師にも診て頂いて、お陰様で容体は安定しているようです」
「それは何よりです。皆様も水分を摂って、暍病にはくれぐれもお気を付けください。……ところで」
それが本題とばかりにサクチャイは慇懃に微笑む。
「確か熱病に倒れられたのは弓比べに出るはずの方だったとか。先程代役を立てたと聞いたのですが、大丈夫ですか」
遠巻きに眺めている俺も、空気が撓んだのが分かった。ちらりと誰かの視線が後方の翔を捉え、自然と注目が集まる。翔がやや硬い声を出す。
「俺が代理を務めます」
「ほお、あなたは昨日の」
サクチャイの目が品定めするよう細められる。翔はそれを真っ向から受け、口を閉ざした。周囲の顔に微かな緊張が浮かぶ。温い風が彼らの頬を撫で、きらきらと光る芝生さえ神経を逆撫でするようだった。しばしの沈黙の後、「お手柔らかに」と翔が言った。声は先程よりも落ち着いていた。
ふむ、とサクチャイは武骨な指で自身の頬を掻く。
「しかし、代役は代役。こちらは俺の他にも弓に秀でた者を何名か連れてきていますが……」
そこで止められた言葉の続きを誰もが理解した。俺よりも下手な者をお出ししましょうか? という挑発。万和の言葉を待たず、翔が答える。
「いえ、そういった手心は不要です。サクチャイ王弟殿下、本日はどうぞよろしく」
サクチャイだけでなく、女王たちに同行した者も何となく翔を意識の片隅に置いていた。真っ向から見るというより、翔を含んだ景色を眺めるように、何となく顔を向けている。
翔の乾燥した髪が風に靡いて持ち上がった。人の群れの中でたった一人、どこにも馴染まない金色の髪が。彼らの目に、翔はどう映るのだろう。
弓比べは芝生を広大に使い、円形の的を遠巻きにサクチャイとそのお付きの海軍所属らしき男たちが白んだ日向に立っていた。昨夜の宴に比べれば実に簡素で、飾り気のない会場だった。
翔も彼らとともにそこにいたが、傍らに沐がいるほかは陽人に囲まれ、然程背は低くないはずなのに小さく見える。平然とした様子で陽人から弓矢一式を受け取り、弦を軽く弾いていた。
見物の使節団と女王はそれぞれ三つの天幕に入ってその場を囲んでいた。陰の中に入っても午後は気温が上がる。俺は天幕の下に座り、汗を拭く。隣の宇梅が笑い声を噛み殺す。
「皓輝殿、本人よりも緊張してやいないかい?」
「……そうかもしれません」
妙に汗が出るのは暑さのせいだけではないかもしれない。
使節団として陽国に来ることになって、こんなに翔が矢面に立つ機会が来るとは思っていなかった。本人も含めて誰も予想していなかっただろう。俺は何だか無造作に胃袋を掴まれているような緊張を味わっている。
翔の弓の腕前を疑っている訳ではない。白狐さんが翔を推薦したように、俺も立場があればそうしただろう。
しかしそれはそれとして、翔が弓に触れるのは二年ぶりじゃないかとかもし外したら今後の軍事協定の話し合いに綻びが出るのではとか、いやそれ以上に異民族である翔の風当たりがこれまで以上に強くなる可能性が、とか考えても栓の無い心配が浮かんでは消えてゆく。
翔が遠方の点ほどしか見えない丸い的を指差し、サクチャイに何か言ったのが聞こえた。
「的、あんなに近くていいんですか?」
ふかすな。頼むから。俺は高まる緊張で死にそうになっている。成功させて外交史に名を残そうとしてんのか。
「いやぁ」サクチャイは朗らかに笑っている。「まずは小手調べですよ。まあ気楽に参りましょうぞ」
どうぞ、と手振りで先手を譲られた翔は一瞬口を結んだ後、的を見据えて立ち位置を調整した。じゃり、と芝生の土を足裏で踏む音が、妙に鮮明に聴こえる。
見たところ陽国の弓は、大きさという点で翔が長遐で狩りに使っていたものとそう差異はないようだった。矢をつがえる位置が湾曲し、大きさは腕一本より少し大きいくらい。馬上や船上で使い勝手の良い小振りなものだ。皇国の上流階級が教養として身に着ける弓術ではもっと大ぶりな弓を使うのだと宇梅が解説してくれた。
一本の矢を手に取った翔がそのまま真っ直ぐな姿勢で弓を引く。時間の空白を感じさせない迷いのない所作だった。俺たちにはその背中越しに弦が軋むぎりぎりという音が聞こえる。矢が放たれるまでの時間が長く感じられた。
刹那、空を切る矢が的の中央の黒丸を衝いた。遠目からでもはっきり分かるほど、完璧に真ん中を貫いている。しかし世捨て人だった頃の翔ならもっと素早く射ただろう。ほお、という微かなどよめきの中、その背中が小さくため息をついている。
審判役と思しき陽人の男が的を外して、皆に見える位置まで運んできた。サクチャイは深々と刺さった矢を一瞥し、感心したように頷く。
「申し分なし。いや失礼しました。代役と侮ったことはお詫びします。これほどの名手と競える機会は滅多にない。俺も本気を出すのが礼儀でしょう」
手で合図をされた者がどこかへと立ち去り、しばらく経って竹製の大きな鳥籠を二つ運んできた。網目の隙間から、黒光りする嘴と、濡れた鋭い眼が見え隠れする。猛禽なのだろうが、見たことのない鳥だった。
サクチャイは籠を掲げさせ、周囲に声を響かせる。
「皆様、こちらをご覧ください。我が国伝統の弓比べで、鳥落としは最も難しく、熟練の技が必要とされる競技です。これを落とせた海軍の者は女王から直々に栄誉が与えられることになっています」
隣の翔は、籠をじっと見つめて思案している。様々な鳥は仕留めてきたはずだが、肉が旨くないから、長遐で猛禽は狩りの獲物ではなかった。
「これを射るのですか?」
「はい。しかしただ射るのではありません。こちらに」
背後から、また別の者が分厚い布を手に現れる。その上に燦然と輝いていたのは、双子のようにそっくりな二つの金の輪だった。宝石が付けられ、厳つい装飾は如何にも豪奢である。「本物の黄金です」とサクチャイが聞こえるように言う。
「こちらを鷹の趾の付け根に括って放ち、矢で射掛けるのが鳥落としです。ええ、如何にも貴族趣味っぽいでしょうがご容赦を。見事射落とした者はこの腕輪を報酬として手に入れられます」
顔色から読み取ったことを全部拾い、サクチャイは翔の顔を見た。籠の裏から内側を啄む音がする。はっきりとした、しかし明るい挑発だった。
「如何ですか。試されますか」
俺はちらりと向かいの天幕を見る。万和の顔は平静を装いながら、僅かに曇っている。というより白狐さんを除くほぼ全員が、鼻白んだり顔を顰めたり、乗り気ではなさそうだった。面子を守るために制止したいと思った者もいただろうし、逆にその面子のためにこの場に水を差すのが憚られて黙殺した者もいただろう。
翔はそのいずれにも忖度しなかった。振り向くことなく、数度瞬きした後「いいでしょう」とはっきりした声で応えた。
「受けて立ちます」
それは使節団としてではなく、あたかも自分自身に仕掛けられた勝負を受けるかのような態度だった。俺は不安と緊張ではらはらした心に別の思考を挟み込む。翔をここまでさせる動機は何なのだろう。
単に弓を扱うものとしての矜持だろうか? 白狐さんからの推薦に報いるためか? それだけではなさそうだった。皇国や使節団への忠誠心や、サクチャイへの個人的な対抗心、そのいずれもらしくない。
翔らしくない。
弓を手にしたまま、翔は芝生の景色の向こうを眺めている。草の先端が太陽に白く輝いて、風がそよぐ度に浅い光の波が押し寄せているかのようだった。
翔は一度もこちらを振り向かなかった。意識的にそうしなかったのか、ただ何か考え事をしていたのかも分からない。時々とんとんと爪先で地面を掘り返して、自身の立つ位置を確かめている。その身体から漏れ出す集中が、俺にだけ伝わった。
鷹の籠のひとつが取り払われる。真っ白な頭の猛禽が姿を現す。翼を広げれば女子どもの背丈くらいは容易く超すだろう。人に慣れているのか即座に飛び立つことをせず、これから何が起こるのか理解もせず、湾曲した嘴をあちこちに向けている。
「魚鷹と言います。川や海から魚をよく獲る鷹で、我が国ではよく見られる鳥です」
翔に、というより俺たちに向けてサクチャイはそう説明した。生温い風に、魚鷹の首元の羽が裏返る。野生を感じさせる太ましい体躯だった。
「では、僭越ながら先手は俺が」
サクチャイは、にこやかに自身の弓を手に取る。恐らくは翔と全く同じものだろう。「ああ、そうそう。この競技でスコノスの使用は禁止されています。お忘れなきよう」と釘を刺した彼の言い方はさり気なく、ほとんどの人が聞き流しただろう。
ほどなくして、魚鷹の片方の足首に例の金の腕輪が結わえられた。青い宝石がきらり、きらりと揺れて煌めき、見る者を蠱惑する。魚鷹の逞しい趾には、如何にも不釣り合いだ。
ざわめいていた周囲が、しんと静まり返る。使節団、女王一行が見守る中、一羽目の魚鷹は空へ向けて放たれた。