Ⅰ
翌朝。使節団一行は諸侯の案内に従い、視察という名目で陽国の王都周辺地域を観光していた。
陽国北西部、平原部と陽国を隔てる山脈の麓に肥沃な土地が広がる。翠緑の熱帯の樹々が大地を覆い、水溜まりのような幾つもの水辺に沿って都市が形成されていた。王都ナアムから分岐した運河がここまで続き、運ばれた品物は水上のマーケットで取引される。
静かな水辺に数えきれないほどの舟が鮮やかな日覆いを掲げて浮かび、様々な物品を売っている。湖に落ちた木の葉がびっしりと浮かぶように、何とも賑やかな眺めだった。
行き交う人々も活気に満ち、幌付きの馬車に乗る俺たちを遠巻きに見て行く。きちんと服を着た幼い子どもが指を咥え、俺と目が合うとさっと逃げていった。
「この辺りは雨が多い土地柄で、豊かな森林で採れる茸や木の実などの林産物の他、水稲が盛んです」
案内役となった諸侯は、沐の通訳を介してそう語った。マーケットの付近は王都以上に歴史の古い繁華街があり、立ち並ぶ素朴な木造の建物の飾り窓には硝子が嵌め込まれている。午前の太陽の光が、小さな枠に嵌った色つき硝子を煌めかせている。
樹木と一体となった街並みをがたがた揺れる車輪で進むほど、使節団一行の姿は風景から浮いた。陽国の植生や陽人の姿は、原始的な生命力を剥き出しにして、人工的な慣習に飼い慣らされた皇国の朝廷の面々は明らかに場違いだった。
案内役の諸侯は、そうした居心地の悪さに反して気のいい男だった。少なくともそう振舞っていた。一行は彼に促され、幾つもの細長い舟に乗って水上のマーケットを見学する。
陽人の船頭が漕ぐのに合わせ、舟は川柳の下を通り、濁った川を滑ってゆく。マーケットで取引されているのは日用品や食品の他、工芸品が多くを占め、川岸には鶏や仔牛など家畜を売っている区画もある。
艶やかな漆が塗られた器や竹で編まれた籠など、物珍しいものを見れば宇梅がいちいち手を伸ばすので、相変わらず隣に配された俺は気が気でない。「買わないのなら触らないでください」などと囁く俺を、今日は同行を許された翔が呑気に笑っている。
今日はこれから、諸侯の邸宅に招かれて昼食を振舞われる予定だった。午後からは同じく邸宅の敷地で何か両国の交流の催しがあるらしい。
軍事協定に関する両国の話し合いの場は、今のところ正式に設けられていないようだった。万和が言っていた、イダニ連合国の者が反女王派の手引きによって陽国に潜伏しているという噂を鑑みれば、使節団と女王で示し合わせ、水面下で何かが進んでいてもおかしくはなかったが。
俺は可能な限り、万和から距離を取ってその視線をやり過ごしている。体調面が心配だった白狐さんも司旦を連れ、景暮や他の文官とともに物見遊山に興じている。
今のところ、俺は気楽な下っ端である。水蛇は礼装の懐が馴染んだのか、昨日に続いて大人しくしている。船を降りた一行は再び馬車に乗り、街から離れた青々と広がる水田を横切り、山の麓にある諸侯の邸宅へと案内された。
「立派な屋敷だなぁ」
翔が誰にも聞こえないよう呟く。確かに、と俺も内心で同意する。
それはよく手入れされた芝生の奥に建つ、瀟洒な二階建ての建物だった。入り口を支えるどっしりした柱や壁には、橙色の脈入り大理石が使われ、熟れた柑橘類の果肉のよう艶めかしく光っている。
屋内に入ると、天井は見上げるほど高く、外の明るさに対し慣れるのにしばらくかかるほど薄暗い。広間に点々と灯された硝子製の照明には、細かな斑紋のある花崗岩の板が嵌め込まれている。俺は王城の謁見の間の暗さを思い出す。
一行は一度客間に通された後、庭に面したテラス風の間で昼食を振舞われた。天気が良いので、開放的に大きく設けられた窓のひとつひとつに竹を連ねた日覆いが下がっている。孔雀の羽のような真っ白な椰子の葉がそこかしこに飾られ、籐編みの椅子と揃いの広い卓に料理が並んでいる。
主菜は、スパイスの効いた豚肉と木の実をふんだんに使った香り米の炒め料理。それから根菜とバナナの花を千切りにして和えたサラダ、油でからりと揚げたバナナと、柑橘を絞った汁でさっぱりと食べる竹の器の麺料理が人数分配される。
続くデザートには大皿に盛られたライチの果実が運ばれ、特に使節団の目を惹いた。陽国産のライチは白狐さんや景暮のような八家の門閥貴族でさえ滅多に見られないほど、皇国ではほんの一部にしか流通していない高級品なのだという。
山と盛られた紫鳶色の果実に、仄かに色めき立つ空間で俺は不意に懐かしい気持ちになる。順に皿が向けられるのに合わせて数個手に取り、めりめりと皮を剥いて、白い果肉を齧った。よく冷えていて美味い。
かつて俺が暮らしていた世界、近所の駅の近くのファミリーレストランのサラダバーの端はいつもライチがあった。俺が中学生になる頃に潰れてしまったような気がするが、ともかく初めてライチを食べたのはあの店だった。
そうして昔の思い出に耽りながら黙々と食べていたので、もっと「初めて見ました」という顔をしなければならなかったことを遅れて思い出す。周囲の反応を見回し、俺は慎重に咀嚼した。誰の目にも留まっていなければいいのだが。
どうして今、そんなことを急に思い出したんだっけ。気が緩んでいるのかもしれない。俺はゆっくりと瞬きをする。気候も文化も少しも馴染みがないはずのこの異国には、不思議と郷愁を掻き立てる何かがあるのだ。
問題が起こったのは午後になってからだった。
客間に集まった使節団は思い思いに壁掛けの絵や染物を眺めたり、窓辺で風を浴びたり、長椅子に腰掛けたりして過ごしていた。上は景暮や白狐さんなどの上流貴族、下は翔のような一介の学生がほんの一時とはいえ同じ部屋に集まっているというのはなかなか面白い眺めである。
これから女王一行もここに合流し、邸宅の庭で何やら国際交流のための催しがあるということだけ俺は聞いていた。そうした席で出番があるとも思えず、翔と小声で話したりしながらこの短い待機時間を過ごしている。準備のためなのか、妙に時間が掛かっていると思い始めたのは、万和たちが顔を曇らせて何か話し合っているのに気づいたときだった。
そのとき、宇梅は邸宅の主人である諸侯に呼ばれて笛を見せているところだった。諸侯が陽国の言葉で、恐らく昨夜宴席で披露された笛を熱心に褒めているのが聞こえる。宇梅はさして言葉も分かっていないだろうに、艶のある笛を屋内の光に翳しながら鷹揚に頷いていた。
「おい、ちょっとこっちへ」
俺たちに近づいたのは、司旦だった。意外にも司旦は翔を指差し、こっちへ来いと頷いて見せる。翔は当然困惑し、自身を指さしてからその後へ付いてゆく。俺は首を伸ばす。翔が連れられたのは、白狐さんを始めとする使節団の上位の面々が座る長椅子の並びだった。
そこに立たされ、一同の視線に晒された翔の居心地の悪さは察するに余りある。靈臺待招に任じられた後、文徳殿に召喚された俺も外から見ればあんな風だったのだろうと思う。一体何が始まるのか、俺は耳を澄ませた。
「……しかし、やはり異民族では」
一言目から翔の意を削ぐような単語が飛ぶ。中書省の林言だった。目線をちらりと万和や同僚の文戴へ向け、同意を促すよう顔を傾ける。やや険しくなった万和の顔は能面のように動かない。じっと考え込んでいる。
強張った空気を意にも介さず、落ち着いた調子で口を開いたのは白狐さんだった。
「そうは言っても、代わりの者を立てなければならないでしょう。女王の御前で催される両国の交流の機会です。こちらの事情で中止にする訳にもいきません。僕はこの翔を推薦します」
「あの、えっと、つまりどういうことですか?」
耐えかねて口を挟んだ翔に、一斉に白刃のような視線が向く。許可なく喋るなという合図である。横の司旦でさえ非難の眼差しを向けているので、俺は司旦に蹴り飛ばされたことを思い出し、心から翔に同情した。
「あれは何だい?」
不意に近づいてきた宇梅が耳元で訊いてくるので、俺は彼からちょっと距離を取りながら「分かりません」と答える。宇梅は笛を懐に仕舞い、俺と一緒にお偉方のやり取りを遠巻きに眺めた。
「外交の席で異民族に代役を任せるなど、聞いたこともありません。前代未聞ですよ。信じられない」
「私も賛同しかねます。万一皇帝陛下の名に泥を塗るような事態になったら、どう責任を取るのです?」
口々に食って掛かる面々に、白狐さんは小さく眉を顰め、しかし飄々とした仕草で顎に指を添わせる。彼らの間に控える沐は、右へ左へ行き交う球技の球を追うよう不安な面持ちで議論の様子を見守っていた。
「そもそも、白狐様の仰るその者の弓の腕前は確かなのですか? これはただの交流会ではない、両国の武力を見せ合う機会なのですよ」
大袈裟な、と白狐さんと司旦は同時に思ったに違いなかった。声には出していなかったが、主人と従者で二人の表情の動きは見事に一致していた。そして俺は何となく白狐さんの言った「推薦」という言葉を推察する。
「宇梅様、午後から何をするか聞いています?」
声を抑えて訊ねると、宇梅は自身の唇を触りながら答えた。
「ああ、確か弓比べをするとか言っていたな。陽国と皇国でそれぞれ代表を出し合って、弓の腕前を競わせる。そういう催しをするんだと。うちの使節団からはわざわざ弓術に秀でた武官を同行させていたはずだ」
「つまり、事前に決まっていたんですね? 使節団が出発する前から?」
「その通りだよ。何か不測の事態があって、その武官が来られなくなったといった様子だねぇ、あれは」
彼らの会話を聞く限り、用意していた武官は昨夜から熱を出して湖上の迎賓館で療養しているらしく、ぎりぎりまで待ったがやはり来るのは難しいとのことだった。弓比べ、と発音を転がしている内に白熱したやり取りは「異民族に任せるくらいならばいっそ中止を申し出た方がまし」などという言葉まで飛び出す始末で、さすがに白狐さんも言い返す。
「口を慎んだ方が宜しいかと。我々は陽国の言葉も分からず、通訳はこの沐くんに頼りきりであることをお忘れなく。仕事に民族は関係ありません。それに、あのサクチャイ王弟殿下が自ら弓比べに出るとか、直前で中止などすればそれこそ使節団の恥となるでしょう」
なるほど、サクチャイが直々こちらの武官を品定めする場だと考えれば、慎重にならざるを得ないのだろう。この手の話題に如何にもな意見を言いそうな万和がずっと押し黙っている理由にも合点が行く。
別の誰かが難色を示す。
「しかし異民族であることを差し引いても、六芸も修めていない学生でしょう。射礼の作法に通じていない者を皇国の代表として出せば、最悪の場合これからの両国の関係に瑕がつきます」
「ええ、嗜みとしての射礼は無論、僕や景暮くんの方が心得ています。しかし、昨夜の演習をお忘れですか? 本物の生きた的を相手に射慣れている陽人相手に、我々の儀礼的な弓術を披露するのが得策とは思えません。野山で鳥や獣を射ってきた翔の方が余程腕は確かです」
白狐さん本人に言われると反論し難いようだった。以前翔が、彼の弓術は実用的でないから自分は独学で身に着けたのだと語っていたのを思い出す。
膠着状態になり、しんと静まり返った一瞬の間に、何故か宇梅が分け入った。「まあまあ諸兄ら、落ち着き給え」と。
「宇梅様……」
万和が口を開くのを慣れた仕草で完全に無視し、宇梅は腕を広げる。
「他に代役がないのなら翔くんに任せてみるのもそう悪い案でもあるまい。何せ二年前の神明裁判で大立ち回りを演じたあの翔くんだ。あの白狐様が推薦するのだから、相当腕に覚えがあるのだろう?」
そうして注目を浴び、翔は目を白黒とさせている。その言い方だと、白狐さんと翔が清心の一派であるという事実が不必要にこの場で際立っていないか。
「自信はあるのですか?」
万和が翔に水を向ける。恐らく、万和が翔を個として認めた初めての瞬間だろう。翔は、曖昧に眉を顰めていた。
「ええっと……つまり、陽国と弓の腕前を競うということですね?」
辺りが奇妙な沈黙によって問いに応える。誰もが頭に、昨夜披露された演習での火矢の光景が過ったに違いない。対する翔は、確かに神明裁判で刃傷沙汰を起こした歴史的人物ではあるが、その弓矢の腕前を知るのは白狐さんと俺だけである。
俺はじっと翔の顔を見つめた。目線を客間の一同へ彷徨わせた翔が、白狐さんの方を一瞥し、意外にも頷いた。何度か、自分自身に言い聞かせるように。
「……分かりました、俺がやります」




