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明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第七話 歓待の宴
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 夜の奥行が迫る暗い空の下、舞台の上で始まったのは天から雷が光り、獣に変わった人々を描く舞踏演劇だった。台詞らしいものはほとんどなかったし、あったとしても俺たちには分からなかっただろう。

 入れ代わり立ち代わり、おぞましく、どこか悲しげな顔の獣を模した木の仮面を付けた役者たちが舞台の上で身をくねらせ、踊る。血気盛んに争い、苦悶に声を上げ、時に力なく両手をだらりと垂れて。

 端に固まった楽団が、踊りに合わせ見慣れない様々な楽器を奏でていた。蛇のように細長い弦楽器、竹でつくられた太鼓、妖しげな音色を奏する小さな葦笛──何よりも使節団の目を惹いたのは、華やかな彫金細工の施された、幅広い鉄琴である。

 大人数が並んで叩き、その統率の見事さは先程の模擬戦にも劣らぬほど、綺麗に揃った動きと精霊同士の話し声にも似た神経質な打鍵音は、じっと聞き入っていると魂を抜かれそうだった。

 曲が始まってから宇梅は酒も飲まず、演奏する楽団を食い入るように見つめていた。そこから奏でられる音のひとつも聴き洩らさんとばかりの静かな集中力だったので、俺は何も話しかけずに黙っていた。

 水蛇は鉄琴の音色と波長があったのか、いつの間にかうとうと居眠りしている。さしあたって俺はほっとする。

 天幕に加わった海軍の男は、愛想良く翰林院の面子に酒を注いで回った。言葉が分からないなりに俺も盃に一杯だけ貰い、軽く口に含む。そうしないと礼儀に反するような気がした。


「……」


 妖しげな演劇を尻目に、その男の目が一瞬ちらりと後方の翔を捉えたのを俺は見逃さない。敵意とも言えないが、親しみとも違う、そこにいることをただ確認するような視線だ。

 翔もその一瞥に気付いたのだろう。微かな息遣いだけでそれが伝わる。俺は居心地悪く、手の中の盃を持て余した。白濁した酒が太鼓の伴奏に合わせて震えている。

 やがて長い舞踏演劇が終わり、拍手とともに踊り手たちが引いてゆき、舞台上には楽団だけが残された。音楽の調子も、人に聴かせるというより歓談に花を添えるようなささやかなものに変わる。しかし楽器の音階に馴染みがないせいか、一音一音に人の心の不安を掻き立てる何かがある。

 向こうの天幕では、沐が上手く使節団と諸侯の間を取り持っている。時間をかけて緩んだ緊張が、何となく両者の間で糸のように残っているのが見て取れた。

 その間に料理の大皿が下げられ、硝子の器に入った美しい削り氷が運ばれてくる。氷には酒に漬けられた果物が乗り、糖蜜が掛けられている。如何にも甘そうな見た目の通り、使節団が目を白黒させるほど過激に甘い。

 ちらりと見ると、宇梅の手元で削り氷がゆっくりと溶けている。他の者に促され、ようやく匙を進めるほどに、楽団に釘付けになっていた黒い目には思案が浮かび、どこか楽しげでもある。

 酔いが回り、俺は酒の香りの残る硝子器の細工を指でなぞりながら、夜空を仰いだ。宴の賑やかさに反し、銀砂を撒いたような星の瞬きはどこまでも静かで厳かだ。

 太古の昔からそこにあるように、整然とした沈黙と目が合う。俺は何だか、やるべき仕事を忘れてしまった気分になる。


「いい夜じゃないか」宇梅はようやく口を開く。俺の心を見透かしたかのように。「国は違えど同じ酒と音楽に酔える。我々は幸せ者だ」


 伴奏を背に、立ち上がったのはサクチャイだった。その佇まいには人の関心を集める威厳がある。周囲の話し声が波のように引いてゆく。海軍大将の正装なのか、胸や腕を覆う甲冑が、磨き抜かれた鏡面のように煌めいていた。

 天幕に配された男たちは大将が舞台に上がるや否や天を軽く指差し、何やら騒々しく囃し立てた。声は徐々に短く、拍を早め、最後は高く鳥の声のように伸ばされた。サクチャイは軽く右手を上げて応える。微笑はどこか形式的だった。

 席に着いている女王は、弟の大きな背を熱意の籠らない目で見ていた。俺はさり気なく顔を背ける。サクチャイの明るい皇国語が屋上に響きわたった。


「親愛なる皇国使節団の皆様、海軍大将サクチャイと申します。堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。我々の国へようこそ! 歓迎の印に、タウ・オーを天に掲げ、明日からの両国の弥栄を祈りたく存じます」


 傍に控えていた者が、サクチャイに何か丸いものを手渡した。両手で抱えられるほどの、薄い紙が貼られた堤燈である。彼はそれをよく見えるよう軽く掲げて見せた。


「スラギダ王国には、このタウ・オーに様々な願い事を書き、空に飛ばして成就を祈る慣習があります。我ら海軍一同より、使節団の皆様にタウ・オーをお贈りしますので、是非、共に国家繁栄の願いを空に飛ばしましょう」


 その言葉とともに、同じ堤燈が幾つも運ばれ、一人ひとつ回ってきた。俺も宇梅も、翔も受け取り、それぞれ筆も渡される。どんな願いを書くか、屋上は俄かに活気づいた。

 硯に筆先を浸し、俺は一瞬考えた後、「天下泰平」と書く。墨が垂れないよう表面を傾け、軽く息を吹いて乾かした。願い事に込める感慨は少なかったが、外交の席ではこれが正しいという確信があった。

 俺は横目で宇梅のそれを盗み見るが、考え込んでいるような俯きに隠れて見えなかった。後ろを振り返ると、翔が「沢庵沢山」と書こうとしていたので慌てて止め、「安寧秩序」と書かせる。


「こういう外交の席では差し障りない言葉を書くのが定石だろう」


「語呂が良くていいと思ったんだけど」


 翔は鼻の上に皺を寄せ、不満そうに自身の書いた文字を眺めている。そこで俺は同じ天幕にいる陽国の海軍兵士をこっそりと窺い、彼の意識がこちらに向いていないことに安堵する。

 そういう演出なのか、タウ・オーに火を灯すのはスコノスではなく蝋燭だった。同じ一本の蝋燭を身分の高い順に使い回し、ひとつひとつ点火してゆく。女王も、使節団の一人一人も、中の油紙に火を灯し、蝋燭を隣に手渡してゆく。あちらこちらで橙の光が黄金の花のように咲き、それぞれの墨字の願いを映し出した。

 四宇和平、千里同風、和衷協同──皇国側の堤燈はおおよそそんな調子である。陽国側の字は読もうとしても分からないが、きっと同様に当たり障りのない平凡なものであろう。事前に台本が配られた演劇に、打ち合わせなく沿うかのように。

 俺は手元の丸い骨組みと、薄紙を撫でてじっと掌を温めた。小さなどよめきが起こり、顔を上げれば誰かが誤って手を離した堤燈がひとつ、ふわりと浮き上がる。そのまま風に流されて光は小さくなり、ゆっくりと暗闇へ吸い込まれていった。


「おっと、どなたかの願い事が気を急いてしまったようですね。せっかちはいけませんよ」


 一体感を削がれた空気に、サクチャイの言葉が笑い声を誘う。「まだ手を離さないで」と彼は楽しい企みを隠す子どものように言った。

 蝋燭が下座まで行き渡ると、屋上は眩いばかりの温かな明かりで溢れる。誰もが手に同じ丸い堤燈を抱え、それを空へ放つ合図を今か今かと待っている光景は人々の心を和ませた。

 舞台上でサクチャイが自身の堤燈を手に、仕切り直すよう改めて片手を挙げる。彼の日に灼けた肌を、赤い銅色の髪を、炎が下から染めていた。「では三つ数えますよ」と。


(サム)(ソン)(ヌン)──」


 途端に空間が色めく。百を超える光が、各々の手を離れ、一斉に夜空へと舞い上がってゆく。真夜中の美しい夢のように、黄金の光の洪水が天へ撒かれたように。夜闇を押し流し、ゆったりと宙を浮遊し、時折堤燈同士で触れ合い──熱気球の原理で上へ上へと攫われてゆく。

 使節団も、陽国の王族や諸侯たちも誰もがこの光景に見惚れていた。何だか深海に棲む未知の発光生物の群れを、海底から眺めているようだった。空気は重く湿って、海の味がした。

 俺は自身の堤燈を少し目で追った後、宇梅の離したそれに視線を移す。

 ──何も書いていない。

 俺は何かを言いかけ、黙る。ただそれを気取られぬよう願いのない堤燈が他の光に交じり、群れて飛んでゆくのを意識の端で捉えていた。


「……」


 宇梅も他の者と同様に恍惚とした眼差しで天を彩る光の願いを見つめていたが、ついと着物の袖を直し、おもむろに立ち上がった。音もなく、あまりに静かだったのですぐ隣にいるのにそれと気付けなかったくらいだ。

 見上げれば、宇梅は口許に微笑を湛え、瞳はどこに留まるでもなくただ前を見据えていた。まるで彼にしか見えない夢を見ているように。そうして、宇梅はゆっくりと歩を進める。一歩一歩、履き物の底が屋上の固い地面を踏み、じゃり、とそこに薄く散らばる砂が音を立てる。

 人々が宇梅の存在に気が付き始めた。丁度、俄か雨が降ってきたことに気が付くように。

 遠くの天幕の中で、万和が何か言おうと口を開きかけたのが見える。あ、とか、え、とか、そういう口の形で一瞬止まったのは万和にしては珍しい表情だった。臆する素振りもなく、舞台に上がった宇梅に大勢の視線が集まる。

 宇梅は笑みをそのままに周囲をゆるりと見回した。その目は、固さのある女王の表情も、面白がるような光を浮かべたサクチャイの目も、微かに警戒や怪訝を浮かべた諸侯の顔も、困惑した使節団の面々も、海風に吹き付けられる、樹々に飾り付けられた南国の花も、真鍮の照明具も──どれもきちんと映っているようには見えなかった。

 空を舞うタウ・オーの明かりが降り注ぎ、その足元に六芒星の陰をつくっている。

 宇梅は芝居がかった仕草で片手を掲げる。そこにある不可視の霊感を掴むかのように。そのまま手をゆっくりと袖の下に入れ、一管の横笛を取り出した。水飴を塗ったかのような、よく使いこまれた代赭色の艶めきが彼の手の中で光を映す。


「……──ふ」


 微かに息を吸う音だけがした。宇梅を横向きに笛を構え、瞼を閉じていた。

 そこから存外大きく、精神を慰撫するような低く長い音が流れ出した。微かに息遣いを感じる震えと深みのある単音が、宇梅の指の動きによって音階になる。ゆっくりと、気ままな旅人が山を登るように。

 人々は何だか、固唾を飲んで宇梅の奏でる音を聴いていた。この異国の楽人らしき男は何をしてくれるのだろう、という無言の期待と緊張感が満ちた。俺も何だか居た堪れない気持ちで、宇梅の背を見つめる。

 不意に、ただの音だったものが旋律を帯びる。土地の境目で風の匂いが変わるよう、それは明確に曲に変わった。

 竹林の間を渡る風が、頬を通り抜けた。様々な音の波が、自由に音階を潜り抜けて、宇梅の巧みな指の運びによって時折美しく裏返った。

 得も言われぬ高らかに天を衝く音色、水面を震わせる低い音色──海の波、宵闇に黄金の光の舞う中、竹笛は甘い蜜を滴らせ、人の心を蕩けさせてゆく。

 俺も思わず感嘆のため息を漏らしたが、その音すら耳に入らない。大勢の人がこうして耳を傾けているのに、宇梅の笛はまるで己に語り掛けてくるように感じるのだ。

 旋律が言葉もなく、胸の内に語り掛けてくる。心の輪郭をなぞってくる。それが不思議と嫌でない。自分の知らない自分の形を教えられている──俺は無意識に己の胸へと手を当てる。そこに空いた記憶の空洞を、指摘されたように。

 恐らく宇梅がその気になれば、この場にいる全員を泣かせることさえ出来るのではないか。俺はふとあの話を思い出した。かつて上巳の宴で、司旦が宇梅の笛に魅入られたという話だ。


 俺はそうっと宇梅から目線を外し、白狐さんの天幕の辺りを探した。きっと司旦もそこにいるはずだった。あ、と漏らしそうになった声を咄嗟に抑える。

 司旦は確かに主人の陰に控えていた。それほど目立つ場所ではないから、誰の視界にも入っていない。いつもの司旦らしい位置取り、司旦らしい気配の消し方。それでいて──宇梅の演奏を、目を見開いて見つめている。その一音も聞き漏らさんと、真剣に。

 その瞬間、俺は悟ってしまった。司旦は他の皆のよう、ただ宇梅の笛に聞き惚れているのではない。宇梅のように奏でたいと願っている。それが手に届かないと知っている。

 屋上を、空を、海を、自在に吹き抜けた曲はやがて長く伸ばされ、指を素早く交互に動かし、消えゆく音の余韻が震えていた。そうして宇梅の動きが止まる。後に残ったのか完全な無音だった。静寂が、空間を塗り潰した。

 真っ先に手を叩いたのはサクチャイだったかシリポーン女王だったか、辺りは一斉に大きな歓声に包まれる。誰もが拍手を送り、言語の別を超えた声を上げていた。中には目に涙を浮かべた者もあった。万和でさえ、苦笑いともつかない、彼らしからぬささやかな微笑を浮かべていた。

 宇梅は手を挙げて皆の声に応える。何も話さず、ただ恭しく一礼し、舞台を降りた。歓声も拍手もしばらく鳴り止まない。陽国の天幕では何人かが興奮して立ち上がり、腕を振り上げて宇梅を讃えていた。

 隣に戻ってきた宇梅に、何と言っていいか分からない。背を叩き、声を掛けてくる同僚に軽く応え、腰掛けた宇梅は俺に向けてにまりと笑って見せた。


「少しは見直したかね?」


「……」


 俺は呆れて、笑いのようなものをやり過ごし、ようやく「はい」と小さく答えた。何だか計算づくな宇梅の掌の上で転がされたようだった。

 沸騰したような空間が鎮まるまで随分かかった。提燈の群れはもう空高く、上空の風に流されて徐々にばらばらに海の方へ飛んでいた。

 落ち着いた頃、万和が立ち上がり、沐の通訳越しに改めて女王に向けて歓待の宴の礼を述べる。その様子から、どうやら万和が締めの挨拶をして、それから宇梅が陽国への返礼として笛を吹くというのが本来の段取りだったらしい。

 しかしタウ・オーに感応されるかのよう、進行を待たずに奏でられた宇梅の笛は、陽国側を大いに喜ばせた。

 万和の慇懃で面白味を欠いた挨拶を聞き流していると、遠くの空で燃えてしまったひとつの提燈が、錐揉み舞い、真っ暗な海へと焼け落ちていった。誰もあまり気にしていない。風に煽られ、途中で落下してしまうタウ・オーは珍しくないのだろう。

 そうして宴はお開きとなる。俺は海の上でしばらく死にかけた蛍のよう光っている提燈の残骸を見つめた。


「いい夜だった」と皆が口々に褒め、酔って、笑っている。皇国の陽国の間にあった壁は、確かな手触りでまだそこにあったが、少なくとも今は随分薄くなったようだ。


 ふと女王の方を垣間見る。丁度シリポーン女王が退席するところだった。お付きの者が珠の裾を軽く直し、歩きやすいよう整えている。女王と目が合った。あまりに自然とそれが起こったため、事前に打ち合わせをしていたのだったかと俺は固まる。

 シリポーン女王は俺を見ている。

 辺りで蠢くものが途端に無機質で意味のないものに変わる。俺と女王だけがその場所で向かい合っている。精神的な次元がぴたりと合い、同じ目線に立っている。

 視線が交わったのはほんの一瞬だった。きびきびとした足取りで屋上を去ってゆく女王の、年齢を感じさせない磨き抜かれた褐色の背を見つめ、俺は謁見の際にも感じたあの眼差しの意味を考える。


 ──共感? 本当に、そんな気安いものだろうか。




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