Ⅲ
宵の口。冬の気配を感じさせる濃密な陰が都に落ちる。約束通りの時間、都のとある酒楼に集まった学生は十数名もいてほとんどが初対面だった。九月に入った新入生は、俺と翔を除けば使い走りにさせられた彼しかいない。
「清心派に乾杯!」
その掛け声の時点で不穏だった。丸い卓に集まって杯を掲げた若い彼らは、どう見ても意気込みすぎていた。乾杯の字の通り、しきたりに従って俺は杯を空にする。大概一気飲みを強いられるこの国の作法が、宴会で酔いやすい要因だった。
顔ぶれのほとんどは上舎生で、聞けば天学専攻の学生が多いらしい。次々と運ばれてくる料理や、酒を注いでくれる芸妓の相手もそこそこに、喧々諤々と飛び交うのは昨今の政情の話ばかりだった。
「影家の御君が戻られた清心派は、かつての勢いを取り戻しつつある。俺たちが朝廷に勤める頃には、濁を押し流すほどになっているだろう」
先輩の一人が、俺たちに視線を向けながら語っているのが聞こえる。
清心派とは、清廉潔白な政治の在り方を唱える思想勢力だった。腐敗した政治に反発した知識層が名乗り始めたのが発端らしいが、時代が下るにつれ一部の貴族がその流れを汲んで朝廷の一派閥を形作っている。
俺も翔も今は意図せずその片棒を担ぐ立場にいるものの、新進気鋭の学生たちにこれほど清心派が支持されているなど太學に入るまで思いもしなかった。
賄賂や汚職の類を濁と呼ぶのは清心派の慣習である。そして大抵の場合、濁とは現在の皇帝勢力の暗喩にもなっていた。迂闊に皇帝の名を口に出すのは禁忌であり、濁という言い回しでさえ人目を憚るものがあった。
「お前たちみたいな将来有望な後輩と酒を飲めて俺は本当に運がいいよ」
褒めそやされるのは居心地が悪い。俺も翔も、白狐さんが朝廷に復帰する手助けをしたのは事実だが、派手な騒ぎを起こしたために英雄扱いされるのも、影家にとって重要な人物と見なされるのも本意ではなかった。
「あまり持ち上げないでください」
そう言うのが精一杯だった。謙遜しすぎると却って嫌味に聞こえかねない。裁判の場に本物の神を呼び出すという前代未聞の事件を起こしたのは事実だった。
「何を」と先輩は笑う。「豊隆の加護があると専らの噂じゃないか」
「そうかもしれませんが」
豊隆の名が出ると自然と注目が集まり、あの神明裁判の日のことを聞かせてくれとせがまれた。俺は視線で翔に助け舟を求めるが、翔は無関心そうに魚料理を小皿に取っている。遠慮がちに手を振り、俺は中枢に近すぎる話題は口にしたくないと言葉を選ぶのに苦心した。
「意のままに豊隆を呼べるっていうのは本当か?」
尚も食い下がる声に、「ええまあ」と曖昧に濁す。実際あの神は、俺が望めばいつでも応えてくれるような、平易な言葉で表せる関係ではない。俺は未だに何故豊隆が俺を選んだのか分かっていない。
疎らな注目が俺に集まる中、ようやく翔が口を開く。
「でもあの神明裁判の日以来、豊隆は現れていない」
何かを続けようとして翔は半端に黙る。俺はそれを褒めたいと思う。神が俺に応えたからといって、清心に道理ありと判ずるのは危険だった。そういう方向に情報操作したのが他でもない俺たちであったとしても、だ。
「まあまあ、神の意を人が推し量ろうというのも無粋な話だ。後輩を困らせるなよ」
酒を注いだ盃を掲げて見せ、先輩の一人が声を被せたのでその話題は散り散りとなった。俺は皿に盛ったまま手を付けていなかった料理を口に運ぶ。上質な肉が噛まずとも崩れてゆく。
それきり俺と翔が話の中心に据えられることはなかった。周囲の関心は、上舎生の先輩方が順に始めた演説の方に移っていた。何かと議論をしたがる文官気質の彼らが、酒の席で弁舌を振るうのは珍しいことではない。
初めに立った他齋舎の先輩は、幾つかの古い思想家の政治論から引用し、格式ばっているが聞き取りやすい演説を披露した。為政者は武ではなく徳によって国を治めるべしというのがその要約だった。
次は外交吏の息子らしく陽国──スラギダ王国の通称──の政情に触れ、陽国が中立を保っていられるのは軍政に力を入れているためだと結論付け、徳のみを重んじる思想にささやかな疑問を呈した。辺境に住む異民族異民族の曖昧な立ち位置について触れ、そのことについて翔に意見を聞きたがった先輩もいたが、翔が断ったため束の間妙な空気になった。
大半の演説は理想主義に基づいた政治の実現を、清心派に託すような内容ばかりだった。貧困や差別などの社会悪を論い、書物の上の学識を交えて舌戦すれば切りがない。若く血気盛んなネクロ・エグロである彼らが、こういう場で激論の末大喧嘩にまで発展することもあるということを、俺はこの二か月で学びつつある。
「なあ、さっきから何を言われているのかさっぱりなんだけど」雑談に紛れ、翔が眉を顰めて訊いてきた。「これ、ちゃんと理解できるようにならないと駄目かな?」
俺は咄嗟に首を横向きに傾げたが、自信はない。彼らは単に議論するだけでなく、具体的な実行に移そうという学生運動の機運がある。若さと闘志が漲るこの場にいれば机上の空論と馬鹿には出来なかった。
「やあやあ、お二人さん。ちょっといいかな」
割って入るように、先輩の一人が杯を片手にやってくる。確か、今回の幹事だったはずだ。目線で合図するので、俺は仕方なく軽く杯を持ち上げて中を飲んだ。
顔に出ていたのだろう。先輩は「酒弱いのか?」と笑いかけてくる。
「あまり得意でなくて」
俺は素直に応えるが、弱点を晒すのは良くなかったかと後悔もした。これ以上飲まないよう杯を卓に置くと、見計らったように先輩は口を開く。
「実は、今日は二人を勧誘したくてな。うちの研究会に入らないか?」
「研究会? 何のですか?」
「思想史」
うーんと声を出しそうになる。幅が広い。何かしらの同好会のように個人の趣味の範囲で活動するものなら勧誘されたこともあったが、研究会の名を冠した中には太學の運営に関わる自治会など一定権力を有するものもある。翔が怪訝そうな顔をした。
「具体的にどんなことをするんですか?」
「大したことじゃないよ。定期的に集まって論文を読み解いたり、討論会をしたり、あとは酒飲んだり麻雀したり」
最後のそれが冗談なのか分からなかったので俺は口許に半端な笑いを引っ掻ける。先輩は歯を見せて手を振った。
「遊ぶときもあるけど結構実績ある研究会でさ。特に皓輝は、天学の齋舎の中でも思想方面はかなり成績がいいんだろ? 堅苦しい書物を読むのが好きなら肌に合うと思うよ」
彼は、俺が細い伝手を使って様々な古典の資料を借りては読んでいることを見透かしているように言う。それから先輩は、うちの研究会は卒業試験を待たずして正式な官吏に任じられた人材が多いだとか、良い意味で懐古主義を信奉しているとか、俺たちが加わるべき理由を幾つか挙げ、改めて訊ねてきた。
「で、どう? 上舎生しか入れない宮中図書館の論文も特別に読めるぞ」
「確かにそれは魅力的ですが……」
俺は半分本音を折り混ぜつつ、語尾を濁す。彼の陰から目線を送る翔をちらりと見て、断る言葉を探した。当たり障りなく遠慮の意を伝えると、先輩は分かり易く落胆を隠した。
「そうか。確かに影家の下にいると人目につくし、そういう活動には関わりにくいよな」
気が変わったら来てくれよ。いつでも歓迎するから。去り際の言葉は、こちらの隙を窺っているような響きがある。俺はほっと胸を撫で下ろす。それでいいのか分からなかった。
夜も更けてきた頃、飲み会は解散となる。俺も翔も終始目立たないよう振る舞っていたが、誰かの演説や宣言が喝采を浴びる度に乾杯が起こるので結局酔っていた。
酒楼の外に出ると、店先の灯りに冷たい小雨が羽虫のようにちらついている。また降ってきたらしい。これが雪になる日もそう遠くないだろう。吐いた息は白く、俺は翔と支え合うようにして通りを歩き出す。
「豊隆に万歳!」
先を行く先輩方は、片手を上げて雨を讃えている。酔っ払いの情緒とは不可解なもので、初めはあれだけ威勢の良かった彼らは後半になって失速し、何故だかやや悲観的な空気になって議論は終わった。所詮一介の官吏未満である俺たちに国を改革するのは難しい、というのが本日の着地点だった。
「やっぱりさ、天が国家の悪徳を裁いてくれないと。人の力には限界がある」
彼らはもう後ろにいる俺たちの存在を失念しているのだろう。天だとか神だとか、人知を超えた存在について思いを馳せようにも、酔いが回った頭では上手く続かず、ぽつぽつ交わされる会話はもう耳に入ってこなかった。
訳もなく意気消沈した彼らと別れ、俺と翔は齋舎へと戻ってくる。
暗い廊下、階段を歩くと、急に現実に帰ってきたよう足元が固く感じられた。軋む床の感触を頼りに自室の戸を開ける。暖房を入れていない室内は、誰かから置き去りにされたようにがらんとしていた。肩に寄り掛かる翔の体重が重い。
「ねむい……」
辛気臭い空気にやられたのか、肩口で愚図る翔をどうにか寝台まで運ぶ。眩暈がした。騒々しさの余韻が頭痛のように残っている。
「あれ? 皓輝」
「何だ?」
うつ伏せに放り出された翔が声を間延びさせる。「この部屋、何かいない?」
「え?」
す、と突然額の辺りが冷えるような感触があった。ふらふらと周囲を見回すが、膝の下まで迫る暗闇が足元の視野をほとんど遮っている。俺はやっとの思いで自分の寝台に腰掛け、「何もいないよ」と返す。
「本当?」翔の声は半分眠っているが、その言葉が妙に耳に残る。「何かいる気がするんだけどなぁ……」
「……例えば?」
酔った翔の相手などまともにしていられないが、今は俺も酔っ払いだ。うーんと翔が唸る。枕に埋まった声が、俺への返答なのか寝惚けているそれなのか判然としない。
「へび、とか」
「何?」
蛇? 埃っぽい部屋の隅に、蜷局を巻いた蛇がいるところを想像する。あまり見たくない光景だった。寝台の下を覗き込む。夏用の衣服を仕舞った包みがひとつあるほか、俺の脚の影が行き止まりの壁に映っている。
「気のせいじゃないか」
それきり、辺りは静まり返った。きんとした夜の冷気が壁にも床にも、肌にも張り付いている。小雨を浴びて体が芯まで冷えていた。
暗がりの向こうから上下する翔の寝息が聞こえてきて肩を落とす。横になりたいのに、体を動かすのが億劫だ。意味もなく夜を引き延ばしたくなる。
ようやく、俺は今朝の雨漏りのことを思い出した。床の水溜りをどうにかしなければ、と腰を上げる。よろめいて、壁に手をつく。一瞬自分が何をしているのか理解できなくなるほど思考が支離滅裂だった。
濡れていた箇所に手を伸ばし、首を傾げる。床の上は乾いていた。膝をついて手探りしてみるが、雨漏りの痕跡は見当たらない。昼間の内に蒸発したのかもしれない。雨漏りの根本的解決にはなっていなかったが、俺はそう思うことにする。
体を投げ出すようにして布団を被る。頭蓋の奥が痺れている。眠りに落ちる直前、どこかからぽつりぽつりと滴が垂れるような、戸を叩くような音がした。




