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明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第七話 歓待の宴
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 意外にも、社交辞令かと思われたサクチャイからの誘いは本当だったらしく、日暮れ前に俺たちを迎えに来た沐は翔に向けてにこりと微笑んだ。


「サクチャイ王弟殿下が、翔殿をお招きするよう仰せつかりました」


 謁見とは異なり、宴は幾らか緩い場になるだろうから翔の他にも大勢の席が用意されるだろうが、俺たちはさしあたり顔を見合わせるだけにする。

 翔が身支度をしている間に、俺は一人で日録の提出へ行くことにする。シィキィ湖の迎賓館にいる万和たちもまだ出ていない頃だろう。

 豊隆は凪いだ海のように静かなのだからあまり意味があるとは思えないが、仕事は仕事である。昨日の分もまとめて書いて乾かし、俺は旧王家の庭園を出た。


 湖をぐるりと囲う路を歩き、湖上の風を受けて顔を上げると、やはり灰色の建物群は俺の目にはビルのように映る。視線を引き剥がそうにも、つい吸い寄せられてしまう。

 陽国の長い長い日暮れが、湖の向こうに広がる地平線を燃やしていた。太陽の熱が湖の冷気に隔てられ、俺の体はずっと冷たい。

 迎賓館の敷地の前で、現地の皇国民らしい守衛に誰何され、用件を話すとすんなりと通された。建物はぐるりと飾り気のない欄干に囲われ、何となく放棄された牢獄のようでもある。絶え間なく吹く風が、植えられた庭木の細い葉を揺らしていた。

 あ、と声を出しそうになる。建物の陰に、幽霊のように浮かび上がる人を見つけて、俺はゆっくりと歩み寄った。「白狐様」と。


「二人でいるときはそう畏まらなくてもいいですよ」


 そう微笑む白い髪の人は、聞いていたよりも体調は良さそうだった。日に灼けた陽国の人々を眺めた後では、彼の姿は南国に降った真っ白な雪のようだ。俺は周囲を見回し、いつも貼りついている司旦の影を探す。


「司旦は少し休ませていますよ。ずっと眠らずに働いていたので」


「そうでしたか。……で、一人でここに?」


 他に守衛が何人もいる場とはいえ皇国側の護衛も付けずに一人でうろつくなど危ないのではないか。俺の言葉に、白狐さんは曖昧に笑う。


「少し外の空気が吸いたくなったのですよ。昼間の暑さが和らいで、湖からの風が気持ち良くて。司旦に知られたら怒られてしまいますね」


 彼の笑い方は、そうやって咎められるのが自分の仕事だと弁えていたので、俺も小言のような発言を少し後悔する。


「皓輝くんは?」


「日録の提出です」


「お仕事ですか? 感心ですね」


 ちょっと持ち上げて見せた日録に、白狐さんは屈託なく笑い、彼の肩からさらさらと白髪が滑り落ちた。俺は咳払いし、声を低める。


「ところで、あの、ひとつお訊きしたいことがあるんですが」


 小首を傾げる白狐さんに、俺は続けた。


「宇梅という翰林楽士の方がこっちの邸宅に滞在しているんです」


「ああ、宇梅くん。千伽の甥ですね」


「やっぱりお知り合いなんですね」


 俺は継ぐ言葉に詰まる。何なんですかあの人、と口に出して言うのは憚られた。もごもごと口籠る俺に、白狐さんは視線を湖へと投げ掛ける。


「朧家の変わり者で知られていますよ。楽の才は素晴らしいですが、まあちょっと不思議な子ではあります」


「そ……うですね」


 湖面は夕焼けを浴びて金色と銀色に輝いていた。風は湿った異国の匂いがした。白狐さんがこちらに顔を傾け、その半分が陰になった。


「何か困ったことが?」


「ああ、いえ……」俺の目線は宙を泳ぐ。「困ったというか、その、まあ賑やかな方ですよね……」


 賑やかという形容が宇梅に合っているのかも判然としない。しかし目の奥で笑った白狐さんの表情には、真意がある程度伝わった手応えがあった。


「翰林院に入る前の宇梅くんはずっと朧省にいたし、入ってからは僕が都から追放されていたので、実はそれほど懇意な訳ではないのです。しかし、今回の渡航に関しては千伽から僕の面倒を見るようこっそり耳打ちされたのだとか。千伽も心配性ですよね」


「宇梅様も鸞からの召命で使節団に加わったのですか?」


 いえ、と首を横に振った白狐さんからの答えは意外だった。


「確か、自ら立候補したらしいですよ」


 それで許しが出るのは、宇梅の才覚か、或いは。俺の微妙な顔を宥めるよう、白狐さんは声音を砕けさせる。


「しかし、彼の笛は素晴らしいですよ。今宵の宴で聴けるようなので、楽しみですね」


「いつか上巳の宴で披露したという話を聞きました」


「ええ、そうです。あのときのことはよく覚えています。千伽も笛を嗜みますが、人前で吹きたがらないのは宇梅くんの才能が眩すぎるからでしょう」


 俺は司旦のことを一瞬だけ考え、頭を振って忘れた。「すごいですね」


「しかし、皓輝くんも今や宇梅くんと同じ翰林の士ですか。感慨深い」


「待招者ですよ。それも日の当たらない」翰林院での自分の扱いを思い出すと陰鬱な気持ちになる。「豊隆が大人しくしているのが幸いですが、却ってそれが悪い兆候にも思えて……」


 すう、と細めた白狐さんの視線の先に気付き、俺は言葉を喉に押し留める。陽国の傾いた太陽はまだそこにあって、人影の輪郭を金色に染めていた。靡く黒髪が、光と陰の中を往ったり来たりする。


「万和くん」


 白狐さんの声は明るかった。一瞬、両者の間にあったはずの確執は過去のものになったのかと、そう錯覚するほど柔らかな親しみと礼儀正しさがあった。


「はい」


 一方で、近づいてきた万和の返事は一応白狐さんを目上に扱っているものの、形式的な慇懃さを隠そうとしない。そこで俺は、二人の関係性が以前の通り冷え込んだままだと知ったが、白狐さんの背の後ろに控えているだけで緊張感は幾らか紛らわされた。

 白狐さんは微笑む。


「何か御用ですか」


「いえ、声が聞こえたものですから。あまりこういうことは言いたくありませんが、影家の御君、あまりお一人で出歩きませんように」


「ご心配ありがとうございます」


 二人のやり取りの間に入る隙が無く、俺は手の中の日録を持て余す。幸い、白狐さんが身振りでこちらに促し、俺の持っているものに気付いた万和が「ああ」と言ってそれを受け取った。ちらりと俺の目を見ただけで、中を開いて確認もしなかった。

 湖の漣立つ音が、光が、沈黙の間を散る。異国の地で、こうして三人顔を合わせているのが奇妙だった。万和が思い出したように口を開く。


「ああ、そうだ。丁度いい機会ですので、お耳に入れておきたいことがあります。……お前も」


 朧家らしい黒く濡れた瞳がそう言うので、俺と白狐さんは少し身を寄せた。万和は宦官らしい高い声を囁くほどに低める。


「どうやら、我々使節団の到着に前後し、陽国内で不穏な動きが散見されているとか。尤も、これはある程度予想していたことではありますが……噂程度でも警戒しておくに越したことはないかと」


「不穏とは、具体的に?」


 白狐さんに静かに問われ、万和はちょっと躊躇ってから答えた。


「最近の陽国内は、女王を支持する富裕層と、伝統的な支配に反発する地方の中流、貧困層とで割れているようです。それで、反女王派が平原の……()()()()()()()()()()()()()()するのを手引きした、と専らの噂です」


 噂、という言葉を万和は強めに発音した。イダニ連合国、と俺は脳裏で反芻する。半ば無意識だった。


「陽国にしては珍しい開かれた国交の機会ですから、そういった層が浮足立つのは想定済みです。しかし協定がまとまるより先に、連合国が干渉してくるのはこちらとしても望むところではありません」


「ふむ、そうですね……」


 白狐さんは何を考えているのか分かりにくい、曖昧な相槌とともに自身の顎を撫ぜた。万和は俺たちから顔を離す。その額と鼻までの滑らかな色白の凹凸が、柔らかな陰影になぞられていた。それで、きっぱりした口調で付け足した。


「翰林楽士の宇梅様には、言わないように」


「……」


 俺はちょっと口を開いてから、はい、とだけ答えた。俺がうっかり彼に漏らそうものなら、明日には使節団全員の周知の事実となるであろうという予想は何となく出来た。

 万和は女のような黒髪を上品な仕草で軽く払い、居住まいを正す。


「さて、そろそろ歓待の宴のための身支度を。白狐様は中へ。霊臺待招、お前も遅れないように」後半は明らかに面倒くさそうな口ぶりだった。「あと、宇梅様が逃げないよう目を光らせておきなさい」


「俺は、あの翰林楽士のお目付け役ではないんですが」


 思わず口答えするが、意にも介さなかったよう万和は肩を竦めただけだった。靈臺待招の形式的な仕事以上に、同じ翰林院に属する者としてあの宇梅について妙な皺寄せを食わされているのではないか、と俺は思う。




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