Ⅰ
海老茶色の邸宅へ戻ると、昼下がりの茹だる暑さが幽霊のように立ち込めていた。
玄関の床のタイルに、菱形のガラスが嵌められた飾り窓に、中庭の植物を湿らせる水滴の上に光の波紋が音もなく躍り、俺が傍を通ると不明瞭な陰となって消える。人が立てる物音は長続きせず、すぐに湿った午後の沈黙の中に溶け込んだ。
階段を軋ませて二階の部屋へ戻ると、翔はいなかった。開かれた雨戸から鋏で切り抜いたような陽の光が落ちている。しん、と静まり返ったところを見回し、俺はふと思い立って寝台の下を覗き込んだ。
いない。
立ち上がって、水蛇が潜んでいそうな場所に目を走らせ、もう一度寝台の下に屈む。淡い光が漏れる木の壁がある。埃っぽい空気の澱みや出入りする人間の体臭、虫の死骸や花粉、壁や床が吸い込んでは吐き出す湿気、それらが境界なく混ざり合い、もう何年も染みついている。
簡素な机の上に翔の書置きがないか探し、ひとつ息を吸って吐いた。散歩にでも行ったのだろうか。それにしても水蛇がいないのが気掛かりだが、俺はそこで自分に何が出来るか思い出す。
きちんと扉を閉めてから、誰かが整えた痕跡のある寝台の上に腰掛け、俺は呼吸を整えて目を瞑った。
肩の力を抜いて、額に意識を集中すると、海の波の間に揺れるような感覚がやって来る。それは自分の内側から湧き上がってきて、眠気にも似ているし船酔いにも近い。
近くでぴちゃんと水が撥ねたような気がした。そう思った次の瞬間、俺の視界は別のものに置き換わっている。
水蛇の視界は暗かった。俺は、少なくとも意識を通じ合わせることが出来る範囲内にいることに安心する。くぐもった聴覚は上手く音を拾わないが、それでも賑わっていることが分かる程度の喧噪が頭の中に響く。喧噪?
「宇梅様、そうあまりふらふらされると困ります……」
突如明瞭に聞こえた声は紛れもなく翔のそれ。珍しく弱った声音に、続いて聞こえた生返事が宇梅のものだと推測するには充分だった。
二人で王都へでも出掛けたのだろうか。一体どういう経緯で、いや経緯なら容易に想像できた。恐らく宇梅の脈絡のない態度は、風のよう誰に対しても隔てなく浴びせられるのだ。断るに断れず、苦肉の策で翔は自身の懐に水蛇を忍ばせたのだろう。
「いいではないか。せっかく西大陸の地を踏んだのだから、現地の民の生活風景を見るのも一興だろう」
感度の悪い通話のように、翔の服の中で擦れる雑音が続く。宇梅に追い付いたのか、声が近くなった。
「我らが清虚の都の美しさには劣るが、陽国の王都もなかなか賑やかで楽しい場所ではないか。そう思わないかね?」
「せめて、通訳の人が帰って来るのを待つのでは駄目だったんですか。あの、沐とかいう人」
「君はあの通訳殿が嫌いなのだろう?」
二人の足音と、翔の浅い息遣いがしばらく続いた。聞き取れない、陽人たちの言葉がただの濁った音となって沈黙を埋めている。
「ど、どうして」
戸惑った翔の声は、宇梅の言葉を肯定も否定もしていなかった。喧噪が通り過ぎてゆく。どこかから水の流れる音が聞こえる気もする。
互いに、何も話さない。水蛇の薄暗い視点では、二人の表情が想像できない。長い時間が過ぎた。もう話題が過ぎ去って、忘れられてしまったのかという頃、考え込むような声が聞こえた。
「あの通訳殿は異民族でありながら皇国民の名前をしている」
「……どういうことですか?」
翔と俺の心の中の声が重なる。開けた場所に来たのか、周囲の音の聞こえ方が少し変わった。絶え間なく水飛沫が散っていて、水蛇が首を上げて反応している。
「君の名は翔だろう。皇国民であれば君のその字はショウと読むはず。カケルというのは我々には馴染みのない読み方だ。異文化に溶け込んで生きるか、異文化には馴染まずに生きるか、同じ異民族でありながら相容れぬ在り方だ」
宇梅の語り口の後に聞こえた翔の声音は、どことなく沈んでいるように聞こえた。
「勝手に決めないでください」
「おや、違うのかね?」
「……宇梅様には関係ないでしょう」
翔の返答に、俺は盗み聞きしているこの状況の居心地の悪さをやんわりと自覚した。
確かに翔は感情に正直に生きることを行動理念の一番に据えているので、人の好き嫌いが必要以上にはっきりしている節がある。だが、一言二言交わした程度の通訳に拒絶感を抱くほど、異民族の在り方などに拘る男ではなかったはずなのだ。少なくとも、世捨て人だった頃は。
良心では、この奇妙な盗聴を辞めようか迷っている。しかし翔が水蛇を懐に忍ばせた意図に、これも含まれているだろう。彼らの後を追うことも考えたが、見知らぬ土地を一人で歩き回りたくなかった。
間断なく繰り返される翔の呼吸は、自身を恥じるような居心地の悪さと、それを容易く見抜いた宇梅への苛立ちが交じり合っていた。時折耳を圧すような雑音が、気まずい沈黙を乱した。
「あ、宇梅様、雨です」
ようやく翔が口を開くと同時に、天の盥を引っ繰り返したような激しい水音が被さった。ぽつり、ぽつりと降り始めに気付いた瞬間、一気に辺りをずぶ濡れにするような熱帯らしい大雨だった。
俺も少し目を開けて現実に返り、海老茶色の木瓦を叩く雨音に肩を窄めた。
「とりあえずこちらへ……どこか、雨宿りできる場所を」
翔と宇梅が右往左往している様子が、水蛇を通じて伝わる。東大陸ではまずお目にかかれないであろう雨の勢いに気圧されている。何せ隣にいる声すらも掻き消すような、凄まじい音なのだ。
しばらくがさがさと翔が駆け足になる耳障りな音と、川の浅瀬を掻き分けるような飛沫が聞こえた。道行く人々も小走りでどこかへと急いでいるようだが、翔のそれは行くべき場所が見当たらず困っているのが手に取るように分かった。
「おや、あれは……」
宇梅が足を止めた音がする。激しい水音の後、それらを吹き飛ばすような快活な男の声が被さってきた。孑宸語だった。
「やあやあ、皇国使節団の方々。こんなところにいてはずぶ濡れになってしまいますぞ」
「あなたは……?」
「ささ、早くこちらへ」
男に促され、翔は背を押されたようだった。雨音が何かにぶつかる音に置き換わり、幾らか声が聞こえ易くなる。傘の下にでも入ったのだろうか。男が身に着けていると思しき金属の装身具がかちゃかちゃと鳴っていた。
こほん、と宇梅が如何にも勿体ぶった咳払いをする。
「あなたは、王宮の人でしたかな」
「よくお分かりで」
「クダヤー王家の方々は、我々の国の言葉を自由に操ると聞く。シリポーン女王の血縁とお見受けしましたが、違いましたか?」
男は豪胆に笑ったが、言葉は慇懃だった。「そのように丁寧な話し方はおよしください」と。
「左様。申し遅れました。俺はサクチャイと申します。シリポーン女王は俺の姉にあたりますが、ご存じの通りこの国では代々女王が統治するものと決まっているので、王家の男の身分は左程高くない。そう恐縮される立場でもありません」
水蛇を通して、翔の呟きが伝わってくる。「サ、サク、チャイ……サク、チャイ……」
サクチャイはまたも可笑しそうに笑った。
「ええ、俺の名は東大陸の方々には発音しにくいでしょう。分かっていますから、無理に呼ばずとも結構。そんなことより」
彼がぐるりと体の向きを変えたようだったので、俺は翔の懐の僅かな不自然に気付かれないか一瞬身を固くした。
「使節団の方々が護衛も無しに王都を歩くのは、あまりお勧めしませんぞ。見かけ以上に細い路が入り乱れていますし、肌の白い方は目立ちますから。それに、このように突然天候が崩れることも珍しくありません」
「それは本当に、仰る通りで……」
翔が肩を落とした気配がある。一方で宇梅は能天気に間延びした声で笑った。
「何、身を守ることにかけてはそう心配は要らないとも。私はしがない楽人だがね、この翔くんの武術の才は目を瞠るものがある。たかが太學生と侮らない方が良いだろう」
「は?」
後に続いたのは翔本人の声である。困惑している内に「ほお」とサクチャイは感心しているし、訂正や謙遜を挟み込む間もなく「良ければお送りいたしますよ。シィキィ湖の畔の迎賓館でしたか」と話題を変えられてしまった。
「いや、我々が滞在しているのは旧王家の庭の方でね。そちらまで案内してもらえると助かるよ。すっかり濡れ鼠だ」
「……」
宇梅の飄々とした態度に、翔は黙り込んでいる。言葉を失ったというか、呆れたというか、そういう心の離れた沈黙だった。水蛇が翔と触れ合っているせいか、何となく翔の考えていることが理解できた。
三人はそれから傘の下を歩き出す。俺はちょっと緊張の糸を緩め、水蛇から意識を遊離させて現実に返った。真夏の蝉が一斉に鳴くような、雨音の洪水。集中していたためか眩暈がした。
サクチャイ、と翔を真似て小さく声に出してみる。
三年近くに及ぶこの世界での生活を経て、俺の舌に馴染んでいたはずの孑宸語が一瞬ふっと離れたような気配を感じた。サクチャイ、と滑らかに発音するのは俺には容易かった。