Ⅳ
宇梅の気まぐれな足取りに従い、海老茶の邸宅とは別方向へと庭を散策していると、先程通りかかった小さな川の下流へと差し掛かった。どこかで別の流れと合流したのか、川幅は広くゆったりとしている。
「湖へ繋がっているのかもしれない。雨の多い季節の陽国ではあちらこちらに小さな湖ができると文献で読んだことがあるが、はてさて」
流れに合わせて宇梅が歩き出すのを俺は内心辟易とした気持ちになった。じわじわ上がってきた気温を湿った木陰でやり過ごし、遅れないよう付いてゆくと、ばったり司旦と出くわした。
下流の方向からやって来るその立ち姿を見つけて、思わずぎょっとして挨拶をすっ飛ばす。
「寝ていないのか?」
司旦は軽く眉を寄せたが、反論はしなかった。朝の光の中でその顔色の悪さが際立つ。隣の宇梅が袖に手を突っ込んで彼に近づいた。
「やあ近習殿。その様子ではここまで辿り着くのに苦労したようだね」
「……宇梅様は、昨夜どこにお泊りに? 召使が探していましたが」
怪訝そうに目を細める司旦は、宇梅の気ままさをいなすことに慣れているようだった。宇梅がくるりと俺を見やる。
「この皓輝殿と仲良くなってね。昨夜は同じところに泊まったよ。心配はしなくていいと皆に伝えておいてくれ給え」
彼の陰で俺が首を横に振るのを見て、司旦は小さく肩を竦める。熱帯の樹々が茂る土の路を三人で歩き始めた。湿った足音が空気に馴染んでいく。俺は遠慮がちに訊ねた。
「気分が悪そうだが、大丈夫か? 昨日は陸路で来たんだっけ?」
「白狐様の体調が悪くてな。船旅は暑いし揺れるし水は不味いし。港に着いてから少し休もうと思ったら陽人側に話が通じてなかったらしく、ちゃんとした場所が見つからなかった。それで白狐様が海から離れたいって言うから、結局夜通し馬車に揺られる羽目になったんだ」
一睡もしていない、とそのうんざりした顔に書いてある。白狐さんの身の回りの世話と護衛を務める司旦は、旅の道中気が抜けないのだろう。
「白狐様、今はどうしてる?」
「向こうで寝ている。俺は眠気覚ましに歩いている」
司旦が見やった先に、俺も宇梅も釣られて顔を上げた。重なり合う植物の陰が川の流れをしっとり黒ずませている。その流れを目線で辿ると、遠くに明るく開けた水面と奇妙な方形の建物群を見つけられた。宇梅の予見した通り、川は小さな湖に流れ込んでいるらしい。
「あの建物は……」
形容する言葉が上手く見つからない。真っ先に思いついたのは「ビル」という単語で、それが二人に通じないことを知っているので黙るほかなかった。司旦は軽く腰に手を当て、身体を伸ばす仕草をする。
「シィキィ湖の畔に建てられた旧王家の離宮だかで、今は外交向けの迎賓館として開放されているんだと。国賓が寝泊まりしたり、会議をしたりする設備がある」
「ううむ、珍妙な建築様式だね……」
宇梅の感想も尤もである。遠目からでも分かる無機質な石造りの外装、高層で左右対称。確かに宮殿建築の一種であるようだが、同時に幾何学を取り入れた近代的な様式美を感じる。離宮は起伏のある小さな丘に建ち、その丘の足元には錫色の水を湛えた湖が雨上がりの水溜まりのように煌めいていた。
涼しい川べりの風を受け、髪の毛を捲られながら「ビル」という感想をもう一度噛み締める。向こう岸に見える離宮は、漣に乱された水面にそのまま鏡映しとなっていた。
「この辺り一帯は旧王家の私有地だったのか」
誰に言うでもなく呟く。陽国はそれほど大きな国家ではないし、大所帯の使節団をまとめて置いておくには丁度いい規模の敷地だったのだろう。眠いらしくしきりに瞬きしている司旦の横顔を見る。
「中の様子はどうだ?」
「皆ぐったりしている。湿気が酷くて、体調を崩している者もちらほら出てきた。着いたばかりだっていうのに先が思いやられる」
「まあ、慣れない船旅だったのだから仕方がない。じきにこの気候にも体が馴染むさ」
宇梅の楽観的な物言いに、俺も司旦も返事をしなかった。俺たちは疲れていて、とてもそんな前向きな気持ちにはなれなかった。代わりに司旦は、自身の気力を引っ張り出すように言う。
「今日は昼過ぎから使節団の代表と陽国の女王との謁見の予定だそうだ。まだ正式には決まっていないが、やはり豊隆のことは女王の耳にも届いていて興味を引いているらしい。“靈臺待招”は末席に呼ばれるかもしれないから準備しておけ」
司旦は何かに耐えるよう少し目を眇める。「たくあんが公の場に呼ばれる機会はまずないから、ほいほいお前に付いてこないよう釘を刺しておけよ」
肩を竦めて返事の代わりにする。それから、と司旦は続ける。
「夕刻から夜にかけて、使節団をもてなす歓迎の宴が開かれるとのことだ。そこで……」
奇妙に言い淀んだ口調に顔を上げれば、その視線の先には千伽の甥がいる。仄暗い水の流れの煌めきがその横顔にささやかな光の破片を撒いていた。
「……宇梅様は翰林楽士として笛を披露することになっている。そうですよね、宇梅様?」
「……」
「また気が向かないとか、音楽の神の機嫌が悪いとか妙な理由をつけてすっぽかすのは勘弁してくださいよ。万和様がピリピリすると八つ当たりがすごいんですから……」
目を瞑り風の音に耳を澄ませていた宇梅がくるりと舞うように振り向く。「とは言ってもねぇ」と。
「宦官殿がどれだけ神経を尖らせようと、私の笛は相応しいときが来なければ鳴らぬのだよ。神が訪れない限りはね。そればかりは私にだって如何ともし難い。逆に、吹かねば気が済まぬときだってある。何せ楽神は気まぐれなものだから」
司旦はその言い分を半分も聞かない内に大きなため息をつき、「ともかく、頼みますからね」と話を纏めてしまった。
「戻るのか?」
川沿いの薄暗い林の舗装路へと足を踏み出した司旦へと声をかける。「そろそろうちのご主人様が目を覚ます頃だ」と振り返りもせずに言う。足取りがどこか心許ないが、それでも姿勢はいつもしゃんとしていた。
失礼します、の断りもなく、珍しいくらいの司旦のぞんざいな態度は宇梅という男への好感度をそのまま表しているのかもしれない。
角を曲がってその後ろ姿が見えなくなると、俺は胡乱な気持ちで問う。
「宇梅様は、笛の才を買われて翰林院に入ったのですか?」
「そうだよ。声楽や弦楽器も嗜むが、皇帝陛下は特に笛を評価してくださっている」
「もしかして」声を低める。「一昨日の夜、海上で笛を吹いたのは宇梅様でしたか」
「そうかもね」
宇梅の言い方には芯がない。
「私はただ楽神の心の向くままに吹くだけだ。夜に笛を鳴らすのが不吉だろうが、陽国の女王の御前だろうが、私の自我が関与できる領域は限りなく少ない」
実に身勝手な勤務態度だが、神に行動を支配される窮屈さには身に覚えがあったので黙らされた。彼の言う楽神という響きの胡散臭さには一旦目を瞑るとして。
何となく上流へ歩き出した宇梅は袖に手を突っ込んだまま笑う。その足の方向が海老茶の邸宅へ向いているらしいことに俺は内心でほっとしていた。
「もしそんなに使節団の面子が大事なら、あの近習殿が吹けば良いのに。私には幾らか及ばないかもしれないが、ただの懐刀にして腐らすには惜しい才能がある」
「司旦が、笛を吹けるんですか? 初めて聞きました」
急に宇梅が立ち止まるので、その顔面と激突しそうになる。細い瞼の下から除く、あの魔性の黒目。ああ、紛うことなき朧家の血筋の者だ。脚が一瞬凍り付いたようになる。
「おっと、これは内密に願うよ。本人は知られたくないだろうからな」
宇梅がお道化て笑って、音と空気が戻ってくる。
「近習殿は音楽に対して天賦の才がある。ただの技量の話ではない。楽神に愛されし者は、たまたま耳にした歌声や笛の音を風の中の光のように捉え、否応なしに惹かれてしまう──時たま宴席などで白狐様の傍に控える彼が、舞台で披露される楽や舞に向ける眼差しを見ればそれが分かるはずだ。いつもは油断なく周囲に気を配る彼が、ふと神秘を帯びた様子で、舞い手の足取りや奏者の指運びに見惚れているのだから」
知らなかった。司旦が白狐さん以外のことに関心を持つところが想像つかなかった。
「私は近習殿のことを気の毒だと思っているのだよ。ずっと昔から」
豊隆の広場に程近い舗装路に差し掛かると、赤みの強いオレンジ色の果実が、鳥や何かの動物に食い荒らされた痕をそのまま道なりに転がっていた。甘ったるい腐臭を踏みつけないようよく注意しながら、俺は小さく眉を顰める。
「司旦とは長い付き合いなのですか?」
「付き合いというほどでもないが、初めて会ったときのことは覚えている。あれは白狐様が都を追放されるよりも昔、いつぞやの上巳の節句にささやかな身内の宴が開かれ、私が叔父上殿に招かれたことがあった。まだ私が翰林院に入る前だったと思う。そこで私が笛を披露し──あの場にいた者全てを魅了した」
自画自賛に躊躇のない人間を見るのは新鮮だった。
「白狐様の傍で控えていた幼い彼が、目を丸くしていたのを今でも思い出せる。白狐様の近習と言えば奴隷上がりの不愛想な子どもとして知られていたから、あんな顔も出来るのだと密かに感心したよ。音楽が好きなのだと一目で分かった」
「……」
「しかし、音楽の才覚があると知ったのは、実は偶然だ。否、楽神の巡りあわせとも言うべきかな。上巳の宴の後、一人で庭を散策していたら彼が人目につかない木陰で笛を吹いていたんだ。近中の身分には相応しくない、凝った意匠の笛をね。後でこっそり確かめたが、白狐様の私物をこっそり持ち出していたらしい」
俺は宇梅の話すことがどれだけ信に値するか勘定し始めるが、風のように掴みどころのない声は全てが嘘のように聞こえ、却ってそれが信憑性を高めているようにも思えた。
「彼の笛の音はなかなか良かった。恐らく初めて吹いたのだろうが、私の演奏した曲を見様見真似でなぞっていた。簡単なことではない。心が躍ったよ、若い才能の原石を見つけるというのはいつもそんな気持ちになるものだ。しかし……」
ひとつ瞬きをして光を映した宇梅の目が、瞼を伏せて翳る。
「近習殿はそれ以降二度と、笛を手に取ることはなかった……」
「どうして?」
「忠義のために」
それはまるで演劇の台詞を上手に諳んじているようだった。
「白狐様はお優しい方だ。ご自身の近習が楽の途を志しても快く受け入れるだろう。それが分かっているから、近習殿はこの秘密を独り守り、二度と音楽に触れることもしない。主人への献身に生きると彼は固く心に誓っているから」
司旦らしい、と思う。真偽のほどはともかく、それが率直な感想だった。しかし、と俺は控えめに訊ねる。
「確かに……それは悲しいことかもしれませんが、不幸と呼べるほどのものでしょうか?」
言ってしまった後で俺も宇梅と同じ不躾な物差しを手にしていることに気付いた。他人の不幸の大きさを測ってはいけないと、翔を相手に分かった気になっていた。
ただ司旦の境遇を「気の毒」と簡単に総括してしまう宇梅に、物語の読者のような傲慢さを感じて面白くなかったのだ。
分厚い葉が茂る喬木の下に入り、空気の蒸し暑さが少し和らぐ。宇梅はしばらく黙っていた。俺の言葉が届かなかったのかもしれない。辺りは不自然なくらい静かになっていて、懐の中の水蛇が再び警戒するのと、視界の端に豊隆の檻が映るのは同時だった。
「真に不幸なのは、何のために生きるか己で決めることすら出来ぬ境遇なのではないかな?」
宇梅が振り向く。その目は悪気なく、しかし俺のことを揶揄していた。俺はじっとその眼差しを真っ向から受け止め、背ける。反論はしなかった。宇梅が正しかったから。
「さて、昼の謁見で女王陛下はどう出るか。中立国家のお手並み拝見とゆこうではないか」
足取りは軽く、その関心は蝶のようふらふらと別の方向へ離れている。俺はもう黙って後に続くことにする。暑さを予感させる青空が太陽に晒されてやや白んでいた。