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明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第六話 西大陸上陸
32/47

 


 翌朝。疲れて寝床に辿り着くや否や倒れ込んで眠りについたにも拘らず、誰かに呼ばれたような気がして俺は目を覚ました。

 真っ先に視界に飛び込んできたのは寝台の下に突っ込んでおいたはずの水蛇の顔で、慌てて飛び起きる。咄嗟に周りを見回すが、幸い誰も起きていないらしい。節を刻む小鳥の声と、隣で泥のように眠る翔の寝息だけが聞こえる。航海に慣れ切って、地面が揺れていないのが妙な感じだった。

 静謐な早朝の気配が、音もなく廊下に貼り付いていた。ほんの少しの隙間から見える中庭に初めて気付く。昨夜閉めたはずの戸が少し開いていた。水蛇が開けたのだろうか。

 立ち上がって閉めようと手を伸ばし、ふと思い留まる。翔を起こさないよう足音を忍ばせ、俺は与えられた客間の外へ出た。床を這って付いてくる水蛇は抱き上げ、懐の中に滑り込ませた。


 真夜中に到着した使節団は、身分や仕事に応じて陽国側の用意した様々な宿泊場所に散っている。女王から歓待を受ける正式な迎賓館に入ったのは白狐さんや景暮、万和を始めとする使節団の代表と、官吏たち。微妙な立場にいる俺は、豊隆の置き場所として提案された大庭園の中で寝泊まりするよう命じられ、他の数名──どさくさに紛れこちらに流れ着いた宇梅──とともに敷地内の古い邸宅に迎えられていた。

 この屋根の低い海老茶色の邸宅は、かつては王家の誰かの別邸だったのか、ひっそりとした佇まいは長遐の世捨て人の家を思い起こさせる。艶のある下見板を張られた床がぐるりと回廊を巡り、狭い中庭の樹々の緑を油彩のように映していた。しっとりした朝の湿気に混じり、腐敗にも似た甘い香りが感じられる。

 幾つかの寝静まった客間を通り過ぎ、階段を降り、俺は水蛇とともに外へ出た。振り向くと、二階建ての邸宅は素朴な家といった佇まいである。明け方に少し降ったのか、木瓦の屋根が美しく濡れていて、熱帯の樹々の海から背を覗かせた魚の鱗のようだった。


 舗装された小路を辿り、見慣れない植生が伸び放題になった大庭園を進む。子どもを襲って食べそうな巨大な羊歯植物の群生、鬱蒼と茂る椰子のような木、皿のように分厚い葉の木、枝から垂れ下がる蛇のような蔦と苔、そこをうろつく紅茶色の蟻。

 靄の中、人の本能に訴えかける原始的な庭の風景に圧倒され、緑陰から覗く朱色の蝶にも似た蘭の花の鮮やかさにはっとしたりもする。小高い丘の上に出ると、薄く透ける空の色が目の前に開けて、冬でも枯れない喬木の群れの彼方、地平線で棚引く雲までもが一望出来た。肺に空気を一杯に吸い込むと、ようやく異国の地に立っているという実感が湧いてきた。

 気になるのは豊隆のことである。俺は昨夜のあやふやな記憶を頼りに、豊隆の檻が置かれたはずの広場を目指す。手入れが行き届いていないのか、或いはそういう趣向なのか、気候の恵みのまま生い茂る草木を掻き分けて小路を辿った。

 一瞬、神をこの地に連れてきたのは夢だったのではと過る。何故そう思ったのか自分でも分からないが、熱帯の濃密な大気に触れる内に胸がどきどきと脈打った。

 知らず足取りが早くなり、俺は音を立てないよう、しかしほとんど走るよう大庭園の奥にある開けた広場にやって来た。


「……」


 豊隆はいた。あの馬鹿げた大きな檻の中に律義に収まり、目を開けている。俺は何だかそれが信じられなかった。どうしてここに、と問いたかった。

 涼省で港から帆船へ移し替える作業に割いた労力、航海中に尽きなかった心配事の数々、運河の船に乗せてゆったりと運んだ昨日のこと。そうした手触りの確かな記憶ではない部分で、俺は目の前に豊隆がいることが嘘のように思えた。

 履き物の下で草を踏む湿った音がする。鳥籠と呼ぶには余りにも大きな檻の四角さが、見上げる先の太陽を遮っていた。格子の陰が俺の肩に触れては地面に滑り落ちてゆく。

 陰の角度が変わり、淡い朝の光が差して、猛禽の顔がこちらを向いたのを見た。電撃的、とまでいかなくとも、目が合うだけで足が止まるには充分だった。緩やかな神気が朝の霧と交じって、辺りが白く霞んでいる。


「一体どうして」


 声に出してしまって、俺は遅れて辺りを見回した。豊隆と話しているところを誰かに見られたくなかった。何の用途なのか、円形に開かれた庭園の広場はくしゃくしゃと多彩な布を丸めたような派手な花が咲き乱れ、その瑞々しさが静かな神の気迫によって損なわれていた。誰もいない。俺はほっと息をつく。

 懐の中で水蛇が強張っているのを感じる。豊隆の近くにいるといつもこうなのだ。俺はもう一度朝の静寂に耳を澄ませ、豊隆に向き直る。


「どうしてこんなことをするのか、そろそろ俺に教えてくれてもいいんじゃないか」


 目線は外しているのに、見られているという感覚が背筋に寒気をもたらす。豊隆の眼光の鋭さを思い出しては、手足がじんと麻痺するのを感じる。

 体温が上がっているのか下がっているのか分からない。一歩足を前に出した。檻に手を触れるまであと二歩、三歩。足が動かない。俺は恨めしく、格子の陰に切り抜かれた豊隆の白銀の翼を見つめる。


「……お前、面白がっているんじゃないのか?」


 呟いた後で、失言をしたという嫌な手触りがやってきた。凍った空気にひびが入るような、あの神の怒りの感触。しかし長くは続かなかった。まるで俺の言葉を肯定するかのように。

 懸念すべきは、豊隆が何の目的意識もないとか、或いはただ悪ふざけをするように人間を弄んでいるのではということだった。

 こうして正面に立ったとき、豊隆の異様な大人しさに人を食ったような可笑しみを感じる。珍獣のような扱いを受け続けて怒っているのではという俺の心配をよそに、むしろ今日の豊隆はどこか活き活きとしているようですらあるのだ。

 噎せ返るように匂う熱帯の官能的な植物の息遣いが、そう見せるのだろうか。

 俺は鳩尾を突かれたよう前屈姿勢になり、すぐさま周囲に目線を走らせる。何かを感じ取った水蛇が動いたせいだった。誰かがいる、という直感。俺の腹部と触れ合っている水蛇が教えてくれる。


「……誰だ?」


 全く影も見つからなかったが、試しに口に出した。緩やかな樹々のざわめきが、俺の視界の動きに沿って物言いたげに揺れる。豊隆の檻の向こう、海老茶色の邸があるのとは逆方向から現れた人影に、俺は瞬きをした。


「宇梅様」


「おはよう、靈臺待招殿。隠れていたつもりなのだが、目敏いな」


 色々言いたいことが浮かぶが、口を少し揉むように動かすだけにする。片手を水蛇のいるところに添え、俺は宇梅と向かい合う。彼の着物ははだけ、髪も髭もぼさぼさだが、そのだらしなさが妙に似合ってもいた。


「俺のことは皓輝とお呼びください。肩書で呼ばれるのは堅苦しいですし」


 宇梅は微笑む。「では皓輝殿。少し散歩の供をしてくれないかな」


 身分上、断る権利はなかった。俺は豊隆のいる広場を離れ、宇梅と連れ立って大庭園を歩くことにする。日が少し高くなるにつれ、気温も上がってきた。

 石で造られたアーチ状の橋に差し掛かり、二人で黒く濡れた細い流れを見下ろす。湿った土の匂いが強く香った。


「聞いたところによると、ここは旧王家が所有していた大庭園らしい」


「旧王家、と言いますと?」


「現在スラギダ王国を統治しているクダヤー王家の前の時代の話だね。王朝が変わって、随分前に放棄されたとか。我らが豊隆をどこに配するか陽人たちが議論しているのを小耳に挟んだんだ」


 何かの動物を象った欄干に寄り掛かって、宇梅は川上の空気を美味そうに吸う。俺は彼に向き合う。


「宇梅様は、陽人の言語が分かるのですか?」


「少しだけさ」その口ぶりは謙遜というより無関心に近い。「陽国の歌に興味を持って、昔勉強したことがあった。皇国でスラギダ語を知っている者が少なすぎて頓挫したが」


「スラギダ語は難しいですか?」


「そういうのはもっと詳しい通訳にでも聞き給え。私はただの楽人だよ」


 手で何かを払うような仕草の後、宇梅はまた気ままな足取りで歩き出す。靄が晴れて、小路の上に差し掛かる濃い緑の葉が金色に透けていた。奥に進めば進むほど、小路の起伏が多い。どこか山登りのような恰好で岩に手をかけ、「どこまで行くのですか?」と問う。


「おお、これを見給え」


 苔むした岩の急斜面を一足先に登り切った宇梅が感激した声を出した。俺は掌を擦って土を落とし、滑り落ちないようそこに近づく。

 周囲は小高い岩山が濃密な緑を纏って、どう見ても自然の地形をそのまま庭に組み込んだようだった。顔に差し掛かる木の枝の下を潜ると、尖った葉が手に刺さる。

 宇梅の姿が見えない。


「……宇梅様? どこです?」


 焦って声を出すのと、更に奥深いところから「これはこれは」と反響した声が届くのは同時だった。俺は土が剥き出しになった斜面の間を通り、その下へと続く道を見つける。霊獣と思しき石像が、入り口を守っていた。

 鬱蒼とした樹々のため、辺りは朝とは思えないほど暗い。古びた階段の跡を辿り、俺はそこへ降りてゆく。辺りを警戒しながら「宇梅様、あまり奥へ行かないでください」と俺は急いた声を出した。目の前には岩の洞窟があって、彼がそこへ入ったのは明白だった。

 手足の長い羽虫を払い、俺もその暗闇に沈んでゆく。足元は乾いていて、緩やかな岩肌の勾配になっていた。壁に手を触れるとひんやりとした感触を返す。角を曲がると入り口の光がほとんど届かなくなった。暗闇の深さが、洞窟の広さを教えてくれる。


「火よ!」


 突如、目の前が明るくなる。思わぬ距離にいた宇梅が、掌の上に炎を灯していた。火の霊が空気を燃やしてぱちぱち音を立てる。


「ほら皓輝殿。これは面白いぞ」


「これは……絵、ですか?」


 細い通路が、怪物の胃の中のような広い空間に繋がっていた。宇梅の火は天井にまでは届かないが、壁一面に素朴な色合いの絵が描かれているのが見えた。俺たちはじっと、古代人が残したような壁画に目を凝らす。


「神話だろうか?」


 宇梅の声が「しんわだろうか?」と奥の方で何度も響く。俺は首を傾げた。


「陽国の歴史かもしれません」


「れきしかもしれません」と暗闇が木霊する。俺は壁画から視線を外し、音を共鳴させる空間の奥へと視線を彷徨わせた。洞窟はまだ下がある。自然がつくり出した険しい地形を人為的に整えた形跡もある。

 硬度を帯びた水蛇が、また身体を強張らせた。誰かに見られている? 俺は寒気を覚えて、緩やかに靡いている彼の袖を引く。


「宇梅様、戻りましょう。ここは陽人にとって神聖な場所かもしれません。それに、閉所で長く火を焚くと危険です」


「あの三角形は何だろう?」


 宇梅が指差した、謎の記号は俺も少し気になっていた。描かれてから長い時間が経ったと思われる、土色の人や動物や建物の絵に混じってまるで定規で引かれたような正三角形がある。白い塗料で塗り潰されているから、そこだけ空間が切り取られているようでもあった。


「……行きましょう」


 火が届く範囲の壁画を一瞥し、俺は宇梅の腕を引いて洞窟の外へ出る。さあっと透明な光が二人の顔に差して、時間の流れが戻ってきた。鳥の声が、羽虫の飛ぶ音が、何の変哲もない穏やかな朝を形作っている。

 三角形、と俺は脳内で反芻する。壁画全体の、心に小さな棘が刺さるような違和感と、奇妙なくらい印象的なあの三角形。陽国の文化や信仰で何かを象徴しているのか、或いはただの画家の気まぐれが描いた意匠か。細かいことは分からなかったが、何となく嫌な符号だった。


 ──三。陰陽で割り切れない数字。三番目の天子は檻の中にいる。



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