Ⅱ
幾つかの島を横目に通り過ぎ、使節団の船は陽国スラギダ王国の主要な交易港であるサンティパーへ入った。
港はまるで誰かが一口大陸を齧ったよう凹んだ地形の内側に位置する。顔に吹き付ける風はすっかり生温く、陽射しは容赦なく照り付け、港特有の泥臭い水の匂いが辺りに満ちていた。
四隻が停泊したのは昼過ぎ。豊隆は運河で運ぶ方向で決まったようだが、使節団の上陸の手続きや別の船に移す万和たちの作業の相談が長引き、やることのない俺たちは船の中に閉じ込められてすっかり退屈した子どものような気分だった。
「ここが、陽国……」
錨を下ろした船の中で、翔は落ち着きなく歩き回っている。あまり甲板から出るなと言われたにも拘らず、どうしても港の景色が見たくて何度も階段を上り下りしていた。「暑さにやられると暍病になるぞ」と俺は船室から動かず、壁の隙間から外を眺める。水蛇がいるので、動き回ることが出来なかった。
サンティパー市は交易が盛んと聞いた通り、港では様々な形や色の船が行き来しては荷物を降ろしたり乗せたりしている。桟橋が陸地から突き出し、その骨組みが水面に映って鏡写しの港が海にもうひとつあった。遠目には、石なのか煉瓦なのか二階建ての白亜の建物が街並みを形作り、更に向こうには緑を蓄えた山々が続く。
何よりも、目に付くのは陽人である。スラギダ王国で暮らす、琥珀色の肌の人々。背が高く、手足が長く、男たちは豊かな髪の毛を結わえ、口に煙草を含み、女たちは日除けの布を被って働いていた。この辺りにいるのはおおよそ漁師か水夫か商人と見え、その他に現地の役人と思しき者が木製の波止場の上で万和たちと長く話し合っている。
「何だか、随分栄えている港だな」
戻ってきた翔は、この航海中に日焼けした肌を更に赤くしてそう漏らした。俺も同じことを考えていた。閉鎖的な国政の印象に反し、活気に満ちた港と運河の方角を見るととにかく大小様々な船の出入りが多い。皇国以外に交易する国や民族がいるのだろうか?
それから豊隆の檻を幅広い艀に移し替える作業を終える頃には夕方になっていた。物理的な肉体が希薄な神ゆえ、見かけほどの重量がないのは幸いと言えよう。
豊隆と同じ平らな艀に乗るよう命じられた俺は、檻の格子に寄り掛かって街の向こうに沈む異国の夕日を眺めていた。水蛇は俺の懐ですっかり温くなっている。
「やあやあ、失礼するよ」
不意に背後から声を掛けられ、びくりと振り向いた。
皇国民の水夫が荷物を運河の船に運び入れている忙しない様子を眺めていた俺は、気安く近づいて来た男の顔をまじまじと見つめる。瞼に残った日の残光が、そのにこやかな顔に被ってよく見えない。
「そんな顔をされると傷つくな。靈臺待招殿にとって官吏も貴族も区別がつかないのかもしれないけれど」
「……あなたは」
懸命に焦点を合わせる。確かにどこかで聞いた声だった。そよ風が黒髪を撫で、眠たげな猫のような目をした男にようやく俺は「あ」と言う。次に出たのは「どうしてここに」という本気の困惑だった。
「翰林院の……楽士、様」
俺が数日だけ通った翰林院で、やたらと話しかけてきた妙な男である。訳の分からない音楽の話ばかりするので途中から禄に顔も見なかったが、確かにあのときの本人だった。翰林楽士は場違いに朗らかな笑顔になった。
「宇梅と申す。前に名乗ったのだけれどさては覚えていなかったようだね」
「申し訳御座いません……」
「何、気にすることはないさ。同じ翰林に属する者同士の好ではないか。それに今の私は気分がいい」
恐らく彼は違う帆船に乗っていたのだろう。出立式の日も人が多すぎて使節団に選出されていたことに気が付かなかった。ゆったりと上下する艀に立ち、俺は隣の宇梅の横顔を注意深く見上げる。
「時に、宇梅様は何故ここに?」
曲がりなりにも神のいる場所である。豊隆の檻の近辺に立ち入って良いのは万和の許しを得た者だけであるはずだった。周囲がばたばたと忙しいのをいいことに、勝手に乗り込んだのは明白である。
宇梅は細い目をもっと細めた。
「お気の毒に、白狐様の体調が優れないらしい。まあ元から病弱な方であるし、航海中も酷く船酔いしていたからね。少し休んでから陸路で王都へ向かうとのことだ」
「はあ……」
「という訳で、私はお役御免になってしまってね。せっかくだ、運河の旅も一興かと思って船に乗ることにしたんだ」
そこまで歌うように語った宇梅は「それにしても」と勢いよく振り向いて腕を広げた。銀の刺繍の施された着物の袖が異国の風に吹かれて美しく舞った。
「この奇妙な船は一体どうしたことか。まるでまな板みたいじゃないか。我らが雨の神を乗せ給うても沈まぬとは、全く怪力乱神に比する人の業よ」
ほとんど何も質問の答えになっていない。黙っていると、宇梅はややと声を高くして本人がまな板と喩えた通り平坦に木板が組まれただけの艀の端へ走る。
「ほほう、見給え。浮き袋をこんなに沢山付けて、なるほどこうして重い荷物を乗せても沈まぬ構造になっているのか。いやいや、豊隆を荷物などとは呼びますまい。失言でしたな。しかし、これでどうやって運河を進むのか……」
「手漕ぎの船に繋いで曳いていくそうですよ。そんなことより」
放っておけば一人で延々と喋っていそうな調子の宇梅に顔を向けると、上等な着物のその背中がぐらりと傾くところだった。
「危ない!」
咄嗟に腕を掴んで、運河の澱んだ鸚緑色の水に彼が落ちるのを引き留める。どう見ても端に立ちすぎだ。大きな波のない運河の入り口であっても水上の足元は不安定なのだ。俺は口から心臓が出る心地である。
「気を付けてください……翰林楽士様が水に落ちたとなればどんなに騒ぎになるか」
「おや、これはどうも靈臺待招殿。助けられたな」
のほほんとした口調の宇梅は空を見上げて、「見知らぬ地で見上げる日没の美しいことよ」と息を漏らす。俺は彼を引っ張るようにして艀の中央に連れると、半分無駄かと思いながら訊ねる。
「質問に答えていただけませんか。何故あなたが豊隆と同じところに乗り合わせているんです? それに、白狐様とお知り合いなのですか?」
何がおかしいのか、宇梅は笑い声を漏らす。邪気がないのが却って不気味だった。
「もし許しなくここに乗ったと知られたら、万和様から罰せられますよ」
「ははは、あの宦官殿は忙しいようだし私なんかに気が付かないさ。それに叱られたとしてもたかが知れている」
「万和様と懇意なのですか?」
「いや?」慎重に訊ねた俺の声を宇梅は気安く受け流す。
「ほとんど話したことはないね。随分若い頃に宮されたきり万和殿は実家に寄り付いていないし、私は時折皇帝陛下に呼び出されて楽器を奏でるほかに公の場には出ないから」
一拍置いて、俺はその色白の顔立ちから何か面影が読み取れないか目を凝らした。端正に彫られたような鼻の辺りに、言われてみれば、という程度の特徴がある。
「宇梅様は、朧家の方なのですか……?」
「そうだよ。あれ、言わなかったかな? 私は千伽の甥だよ」
「……」
俺は天を仰ぎ「朧家か~」と声に出したくなる。この血縁の者に対する良くない印象がまたひとつ追加されそうである。濁った水の匂いが亡霊のように辺りを漂っていた。
何事かぶつぶつと、恐らく故郷への郷愁を読んだ詩を諳んじている宇梅を尻目に、俺は彼から離れたいような離れ難いような気持で豊隆の檻の固定具合を確かめたりする。ふと視線を感じれば、雑用を命じられていた翔が運河岸から困惑したそれを寄越していた。黄金色の光が顔の半分に差している。
「……誰?」
声は聞こえなかったが口の動きだけで充分だった。翔がこの旅に同行してくれて良かった、と俺は肩を落とす。
出発する直前になって、慌ただしさに紛れてやってきた翔に改めて宇梅を紹介する。度々大きく揺れる艀の上で、ふらふらと風に吹かれて引っ繰り返ってしまいそうな宇梅は、翔にもにこやかに挨拶をした。
「やあ、君があれか、うんうん。なるほどな」
「翔です」
「ああ、確かそんな名だったな。あまりそういう名の読み方は耳馴染みしないから」
軽やかな声は一所に留まることなく通り過ぎてゆく。
「俺のことを知っているんですか?」
「無論、神明裁判での騒動を忘れた訳ではあるまい? それに、聞いたところによれば長遐で白狐様に育てられたとか。道理で司旦とよく似ている訳だ」
「それは……俺が異民族だからですか?」翔は多少気分を害したようだった。
「いいや?」宇梅は飄々としている。「白狐様に育てられた子は皆同じような面構えになる」
そのとき艀を繋いだ船の漕ぎ手がゆっくりと櫂を動かし、ぐらりと足元が傾く。膝を裏から突かれたような転び方をする宇梅を翔が咄嗟に支え、仕方なく中央の豊隆の檻の傍まで再び引き連れる。岸辺や周囲に万和の姿を探すが見当たらない。既にどこかの船に乗ったのか、陸路から行く馬車隊に入ったのか。
「さあ行かん、王都ナアムへ!」
或いは──宇梅を口頭で注意しようとする者などいないのか。何故か高らかに宣言した宇梅を左右から影の下に押さえ込めば、その懸念も強くなる。中で翼を畳んでいるのが神だと知っているのかいないのか、ちらちらと豊隆の檻の大きさを遠目から見て集まっていた陽人の注意は充分に引いている。
「どうして朧家って……」
翔は声を潜める。分別が言わせなかった部分を読み取り、俺も首を傾げるほかない。聞こえていたであろう宇梅は気にする素振りもない。
こうしてぬるりと出発した船隊は絵画の隅に描かれたような夕日を横目に北上し始めた。船と人が出入りする港を過ぎると運河は緩やかに曲がり、サンティパー市の街並みが一望できるようになる。埃っぽい空気に霞む白亜の建物、色とりどりのテントが並ぶ市場、売り物を頭に乗せて通りを行く人々、見たことのない毛むくじゃらの家畜、横長に連なった木造の長屋、その入り口に腰掛ける老いた女たち──。
俺たちはしばらく周囲の景色に釘付けになっていた。同じよう物珍しさに浮足立った他の使節の者たちの船と、それを目を丸くして陸から見物する陽人との間に漂う微妙な警戒と慇懃さは、互いに出会うはずのない野生動物の邂逅のようだった。
市外に差し掛かると、途端に緑が多くなる。護衛で陸路を進む使節団の馬車たちが土の道をがたがた進んでいた。道を避けるよう命じられるのは、人よりもその辺りをうろつく犬の方が余程多かった。
運河はゆったりと幅広く、河よりも湖のそれに近い。細かな葉を茂らせる木々も、視界が開けたかと思えば一面に続く水田や放置された水耕の道具も、眩しそうにこちらを見る濃い肌の農夫も、金色の夕日を浴びて色褪せ、やがて灰色の陰に沈んでゆく。
「……ほお、あれを見給えよ」
宇梅が、ぽつりぽつり粗末な住宅が点在する運河沿いの道を指差した。派手な彩色が施された鳥の像が並ぶ寺院。その敷地を囲う柵にしがみ付き、団子状に固まってこちらを呆然と見つめる子どもたちがいる。
「学校か?」
俺は呟いた。皇国でも天院が読み書きや神話を教えることはあるが、ここまで多くの子どもを集めることはない。子どもも稀少な働き手という庶民の習慣のせいでもあるし、そもそも年齢に応じた教育という発想を欠いたネクロ・エグロの種族性でもある。
「彼らが大人になる頃に、我々はどのように語り継がれるのだろう?」
口元を綻ばせる宇梅の物言いは、半分酔っ払っているようだった。俺はちらりと豊隆の方を見る。白銀の翼が目線の上方にあって、護衛に就いた武官が歩き回るのに合わせて白い光がその肩の辺りに映ったり消えたりしている。
船はやがて山岳地帯へと差し掛かり、俺たちは完全な山陰の中に沈んだ。見上げた空は曇っていて、まだ明るい夕暮れの名残がある。顔に受ける空気はべたつき、盛んに鳴いている小鳥と蛙の声や雨の匂いに混じって知らない土地の砂っぽい味がした。
陽国の日没は長かったが、船旅はもっと長かった。夜の帳が下りても一向にそこからいなくならない蒸し暑さのため、艀の上で俺たちはどんどん口数が減り、遂には黙り込んで随分経った。大人しくなったと思って横を見れば、宇梅は豊隆の檻に寄り掛かって転寝をしている。
王都ナアムの城壁が見えたのは、とっくに日付を超えた頃だった。運河の穏やかな漣に映る三日月が、ゆらゆらと幽霊が通る道のように光っている。目の奥を痒くする眠気と、熱帯の真夜中の匂いが頭の中で混濁していたが、黒く聳えたつ城郭の陰の中のものと目が合ったように思えてぶるりと身震いした。
海に、運河に運ばれ──ここまで来てしまった。何かを見据えた万和の企て、清心派の面子や政略、豊隆の意志。そのいずれも推測の域を出ないまま、俺の自我が、ひとつもそこに介在しないままに。




