表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第六話 西大陸上陸
30/47




 サンティパー港へ入港する前夜、俺は万和のところへ日録を提出しに行った。靈臺待招としてようやく与えられたまともな仕事である。


 靈臺とは、本来天文から異変を読み取って皇帝に奏上する星読みを指す。天の異変は即ち地上の異変の験。疫病や飢餓、災いの予兆は天から知らせられると信じられていた。

 とはいえ天文学は太學で基礎的なことを習ったきり、二十八宿の星座も空で言えないが、端からその分野は期待されていないので無問題だろう。


 豊隆の傍に付くことを厳命された俺は、星を読み解く代わりに霊感を頼って何か豊隆について起こった異事や、気付いたことがあれば知らせよと万和から命じられていた。

 それがこの日録で、後に使節団の報告書の資料にするから何がなくとも毎日書けと言われるまま、気分は宿題の一行日記を捻り出していた小学生の夏休みのそれ。神経質とも取れる万和の態度は、半分は豊隆への真っ当な畏怖だろうが、もう半分はやたらと画数の多い肩書を与えた以上役割は成立させなければならない面目のようなものであろう。

 それにしても四隻の内、万和が豊隆を乗せて手狭になった俺たちと同じ船に敢えて同乗したのは驚きだったが、俺はそれを最低限の誠意として受け取った。

 豊隆がその気になれば容易く転覆する船に、この皇国使節団の中で唯一直々に皇帝から指名された万和が乗ることは、集団を一致団結させるには至らなくとも、反対していた者たちを黙らせるには効果があった。

 お陰で俺は毎日この千伽の腹違いの弟と顔を合わせる羽目になり、話す頻度に比例して仲が深まるはずもなく、日課である日録の提出は気まずいものとなった。


「万和様、皓輝です。今日の分の日録をお持ちしました」


 船室の前に立って、返事を待つ。かなり間が空いて、聞こえなかったかと迷うような時間の後に「入れ」と戸越しに言われた。

 広く間取りを設えられたそこは会議室であり、航海に同乗した官吏や貴族の公務はそこで行われている。吊り下がった灯りが波に合わせてガタガタ揺れ、室内は壁や天井に陰が貼りついたよう見通しが悪かった。

 中央の卓に陽国の地図が広げられ、万和の他に二人の文官が囲んでいる。宮中図書館で俺が見たよりもずっと精巧で、よくできた地図だった。俺は脚を踏ん張って、灯りの下で何やら話し合っている彼らのところへ向かう。


「……安全を考慮するなら、予定通り陸路で行くのが最適かと思われますが」


「駄目だ。道は狭いし、陽国の庶民から豊隆が見世物になるのは陛下の望むところではない。王都まで運河を使うのだ」


「しかし、船底のことを踏まえますと……」


 万和と話しているのは、中書院付きの文戴(ブンタイ)林言リンゲンという名の文官だった。周囲へ示しを付けるため貧乏くじを引いたと囁かれているらしいが、これまでの航海でほどほどに豊隆を畏れ、清でも濁でもない曖昧な立ち位置にいると見えて俺はそれがあまり気に入らなかった。

 黙って立っている俺を目障りそうに一瞥し、万和は会話を中断して日録を寄越すよう合図する。手渡した革の紐で縛った日録を開き、柳のような優美な眉を顰めた。

『波穏やかで天気良し』

 連日こんな内容を提出してばかりではいい加減怒られそうである。確か昨夜は「子どものような文体」と舌打ちされたし、今晩は何を言われるかと思えば「字が汚い」とちくちく刺された。林言が日録を受け取って中身を一瞥し、「何もないのが一番ではありませんか」と事務的な口調で言う。


「今話されていたのは、明日の上陸の手筈ですか」


 勇気を出して地図を少し覗き込んでみると、万和は微かに、短く息を吐いた。


「お前に意見は求めていません」


 俺は少し下がる素振りを見せ、万和の目をじっと見つめる。濡れた黒目にゆらゆらと波打って映り込む火は、俺を威嚇しながらも以前より覇気がない。皇国の使節団の一員に加えてしまった以上、途中で俺を放り出すことは皇帝の面目を潰すことだと互いに理解している。


「待招者如きが、万和様に無礼だぞ」


「失礼しました」


 文戴に窘められ、俺は姿勢を戻す。しかし彼の口ぶりも、字面ほど強くはない。ちらりと目線を撒いて、そのことに満足する。

 八日間の航路で、仲を深める代わりに俺は彼らに無視されない振舞いを身に着けつつある。水平線しか見えない海の上で過ごす内に、頼りのいない異国で生き延びるには自分の居場所を自分で作るしかないと思った。

 黙っていた林言が俺に意味ありげな眼差しを向ける。


「いえ、いえ。せっかくなので靈臺待招殿にも参考までにお聞きしよう。明日港に入る予定だが、陽国の王都ナアムまで陸路で向かうべきか、運河を使った水路で向かうべきか?」


 石を裏返すような言い方だった。視線に応えて、ゆっくりと瞬きをした。


「俺は神にまつわる異事を読み解き、お伝えするのが陛下から仰せつかった役目ですから、使節団の方針そのものに介入するのは恐れ多いことです」


 権力に近づく野心はない、と台詞の裏に塗る。それから万和にちらりとさり気なく目を流す。


「しかし、僭越ながら申し上げますと、万和様の仰る通り陽人の庶民の目に豊隆が無暗に触れることは避け、運河を使うのが良いかと存じます。神の神聖な顔を仰ぎ見ることは禁忌であり、不吉の種となり得ることは多くの書物が記していますから」


 言葉を切り、頭の中から例となりそうな書名を引用しようとしたところで、万和の表情からもう充分であることを知った。俺は大人しく口を閉じる。


「結構。もう下がれ」


「失礼いたします」


 拱手し、退室する。背後では、運河で使える船に豊隆を移す手間について議論とも愚痴ともつかないやり取りが交わされているのを感じながら、ため息をついた。はっきり言って、豊隆をどんな手段で運搬しようがどうでも良い。ここでの問題は誰の肩を持つか、誰の面子を保つかである。

 甲板の欄干から、離れたところで同じ方角へ舳先を向けている船が見える。黒い絹の上を滑るよう進む帆船には、この使節団の代表である夕家の当主が乗っているはずだ。名を景暮(ケイボ)といい、濁であるから注意するよう事前に司旦から警告されていた。

 反対側に目を向けると、遠くに同じような帆船の明かりが波の形に映っている。あちらには我らが影家の当主、白狐さんが司旦とともに乗っている。彼は景暮に次ぐ使節団における第二位の地位に置かれ、船旅も熱帯地方の滞在も何ひとつ向いていないのに鸞の啓示に従って同行していた。

 そしてこの船には──万和がいる。皇帝の腹心とも呼べるこの宦官は、蔑まれる立場でありながら実力のみで使節団の第三位の地位を獲得したのみならず、暗黙の裡に皇国使節団の実質的な責任者として扱われていた。文徳殿での発言権の大きさを見れば、景暮や白狐さんを凌ぐほど皇帝に対して影響力を持っていることが窺える。言わば、東大陸を離れられない皇帝の代理なのだ。

 他にはどういう基準かよく知らないが選ばれた文官武官が乗り合わせ、官位の低い者や召使いなども加わって使節団を雑多に構成していたが、そのほとんどを俺は顔も名前も知らない。生憎と千伽は留守番で、出立前までしきりに白狐さんの病弱さや、身の安全を心配していた。

 皇帝のお膝座元に集められた顔ぶれであるから当然だが、こうして見回せば確かに濁が多い。国を離れてみると、遥かな海を進む孤立感がそうさせるのか常に臨戦態勢でいなければならないように思えた。

 或いは、東大陸での生活に馴染みすぎて、気付かぬ内にずっと弛んでいたのだろうか。海の匂いを軽く吸い込んで、俺は踵を返した。

 軋む簡素な階段を降り、自分に与えられた寝るための船室へ降りる。滑り止めの綱を伝い、寝床へ辿り着くと翔が座っていた。

 窓はないが、壁の隙間から海が見えるのだろう。光の破片が翔の目元でちかちか揺れている。ぱさついた髪の毛が、横顔にかかっている。この相棒と二人きりで話せる時間だけが、唯一の息抜きと言って良かった。


「お疲れ。今日は何だって?」


「字が汚いとさ」


 こちらも見ずに、翔が軽く笑う。「事実だ」


「大人しくしていたか?」


 声を落として訊ねると、翔はぱっと両手を開けた。暗がりの中、掌に挟まれた空間が歪んでいるように見えた。井戸の底を覗いたような奇妙な揺らぎが蛇の形に戻る。水蛇が首を伸ばして挨拶するのをため息で応えた。


「良かった」


 渦中である神鳥が不気味なくらい大人しいとなると、目下俺の心配事はこの水蛇である。ここまで誰にも言わず隠し通してきた水蛇は、心に刺さった小さな棘のよう常に俺の意識のどこかにいた。

 怪しい挙動は誤解を招くと翔はせめて白狐さんに打ち明けることを提案したが、俺は拒んだ。俺の耳となり、目ともなり、どこへでも侵入出来る水蛇の力はいつか役に立つ。手持ちの札の少ない俺の切り札となるかもしれない。

 そう伝えたとき翔は「本気で立身出世する気か?」と呆れていた。俺の目はとうに皇国を外れ、陽国とその北にあるイダニ連合国に向けられていることはまだ言わなかった。


「明日港に着いたら、きっと豊隆を別の船に移し替える作業があるぞ」


 水蛇を自分の腕で受け取りながら話題を変える。翔はちらと壁の隙間を覗き、歯だけ見せて笑った。


「檻から出せば早いのに」


「同感だ」


 寝て起きれば遂に西大陸へ上陸できるという高揚感がそうさせるのか、何となく俺たちも水蛇も落ち着かなかった。すっかり身体にも髪にも染みついた潮の匂いと体臭を意識しないよう、翔の隣に腰掛ける。粗末な寝具が軋んだ。

 そのとき、半ば俺の腕の形に沿って変形していた水蛇が蠢いて首を擡げる。透明な身体に反射する光だけが暗闇の中で見えている。つられて俺も首を横に向けた。


「何かあったか?」


 呟くと、翔が指を唇に当てる。


「静かに。何か聞こえないか?」


 俺たちは黙って耳を澄ませる。遠くの海鳴りが、船体にぶつかる波の音が、黴臭さを運ぶ隙間風が聞こえる。ややあって、甲高い音がまるで空を切る矢のように夜闇を裂いた。

 一瞬その音に聞き惚れたのは、夜の海の魔力だろうか。音色とも呼べないひとつの鳴き声ではあったが、流れ星が地に降るような、そんな煌めきが目に見えるような音だった。


「……笛?」


 俺たちは顔を見合わせる。聞こえたのはこの船ではない、使節団の別の帆船の方だった。腕からずり落ちそうになっている水蛇を掴み、手の中で砕けてただの水になってしまうそれを手繰り寄せながら俺は眉を顰める。


「誰だ、こんな夜中に笛を吹くやつは」


 夜に笛を吹くのは不吉である。蛇が出るという話もある──いや、既に出ているが。

 同じことを思った誰かがいたのだろう。それきり甲高い音は止み、また果てしない海の向こうからやってくる、体の奥底に響く騒々しさだけが残った。水蛇はもう体を丸め、静かになっている。


「靈臺待招殿、これは吉兆かな凶兆かな」


 勿体ぶった口調で話しかけてくる翔を一蹴する。


「凶兆だろう。御伽噺を信じない子どもには罰がある」


 御尤も、と翔が呟いた。眠りについた水蛇を寝台の下に隠し、俺も寝具に潜り込む。海の上で眠るのにももう慣れた。いつも床が揺れているのも、絶え間なく聞こえる波音や誰かの話し声も、頭に直接響く船の軋みも。

 遅れて隣に横になった翔の気配を感じながら、俺は目を瞑った。笛の音はもう聞こえなかった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ