Ⅱ
かつて長遐で、世捨て人として暮らしていたあの頃が懐かしい。
山奥でひっそりと、誰にも頼らず季節を追い、自然の霊と神々に囲まれていた日々──翔と俺、それから白狐という人は、それぞれが事情を抱え、世俗を離れ、長遐の山で生きていた世捨て人だった。
三人だけの生活は決して豊かでも楽でもなかったが、小さな喜びに幸福を見出す慎ましさと、自然とともに生きる剥き出しの充実に満ちていた。それが俺の本来の望みでなかったとしても、あそこで過ごした一年余りが俺の人生で特筆すべきものになったのは事実である。
そんな世捨て人の生活と身分は、ある日突然終わった。様々な謀略の末、朝廷から追放されていた白狐さんが遂に復権を果たしたのである。この国の中枢を支配する八家の門閥貴族のひとつ、影家の長子。それが彼の本来の肩書きであり、居場所だった。
勿論、復権そのものは喜ばしいことだった。しかし、彼の立場を守るため奔走した俺と翔は、最早自由で無頼な生き方を許されなくなった。白狐さんが正式な後継と認められた影家の後ろ盾を得た代わり、俺たちは清心派という彼らの派閥の末端に名を連ねる付随物として見なされるようになったのである。
つまり、どういうことか。俺と翔の言動には常に影家の名の重みが付き纏い、一挙一動に隙を探そうとする視線に、気付かぬ振りをしながら生きることになった。それが朝廷という孑宸皇国の中枢で生きるということだった。
とはいえ、俺と翔が身元不明の浮浪者であることに変わりはない。翔は、血縁を重んじる朝廷では風当たりの強い異民族の血を引いているし、俺に至っては元々この世界の出身ではないので戸籍すらない。
太學に入ったのは、ここで生きていくための基盤を固めるためだった。食事の度神経質になったり、戸締りを入念に確認しなければ眠れない生活から脱するためには、誰からも軽んじられない、社会的な身分が必要だった。
官吏を養成する国の学校である太學は、広く受験生を募集する代わりに門が狭く、受験戦争は毎年熾烈を極める。かつて日本の義務教育だけ修了した俺にとってそれは懐かしく、それほど居心地が悪くない場所だったのは幸いと言えた。
勉強が得意、というのは俺の美徳であり、欠点でもある。当然人間の十代の学生に強いるより遥かに厳しい道のりに戦慄する羽目にはなったが、設問に正しい回答を並べる作業には長けている方だった。
退屈な暗記も記述も苦ではなかった。俺にとって補試及第の最大の壁は、孑宸語の文法が分からないことだった。他に困ったのは、主要五科目のひとつである詩作──官僚に芸術の才能を求めるのは、この国で最も俺が相容れない価値観だった──と、随分前に利き手を負傷した後遺症で字が綺麗に書けないことくらいである。
そんな俺に比べ、翔は、この一年と半年の間、尋常でないほどの努力をした。
義務教育制度のない皇国の庶民の多くがそうであるよう、学問に縁がない人生から一転して何もかも馴染みのない場所に放り込まれ、それでも泣き言のひとつも言わず膨大な過去問題に取り組んだ。
受験勉強を始めたのが去年の五月。無事二人で太學及第を果たしたのが今年の九月。その期間にあった苦楽の類は、敢えてここでは語るまい。
実のところ、そこまではまだ良かったのだ。
世捨て人だった頃、幾度となく俺を励ましたあの底抜けの明るさを犠牲にしてまで手に入れた太學生という身分が、翔にとって何も報いなかったことが最大の問題だった。
そもそも、物心ついたときから世捨て人として山暮らししていた翔は、協調性を求められる集団生活も、成績や数字で並べられる学校生活にも丸きり馴染みがなかった。確かに翔は初夏の日差しのように明るく、楽しげに生きることに関して天賦の才を持っていたが、それも全て白狐さんという一人の恩人の下にいたからこそ発揮されたものである。
恩人が手の届かないほど遠い存在となった今、翔は心の拠り所を失い、そうして初めて俺はこの相棒が実はそれほど社交的でなく、むしろ人見知りする性質であることを実感したのだった。
太學での寮生活を始めて二か月が経っていた。俺は十八歳になっていて──この文明世界に来てから三年が過ぎた──翔は三十歳である。ネクロ・エグロという生き物は歳の取り方が人間と大きく異なるため、俺の目から見て翔はずっと十代の若者の姿のままだったが、いずれにせよ互いに成人として扱われる年齢になっていることは相違ない。
その内慣れる。親が子どもに託すような楽観が、この二か月で徐々に萎んでいくのを俺はひしひしと感じていた。
そうして何かをすり減らすように日々を過ごしていても、規範に縛られた齋舎という寮の日課に加え、十日に一度は課、月に一度は私試という試験、日頃の授業以外にもやるべきことは淡々と積み重なってゆく。
早朝、儀式のように粛々と行われる齋舎の自室の掃除と点検、上級生である齋長による点呼。食堂で軽い食事を済ませると、今度は敷地内にある試験場に向かう。
太學には幾つも齋舎がある代わりに学級という単位がほとんど存在せず、各齋舎ごとに科目の専攻が決められていた。俺と翔が今いるのは、天学──宗教や思想史、政治論、歴史や天文学を含むこの国特有の学問──専攻の齋舎である。
今日の試験、課は午前一杯を使って行われた。齋長が試験管を務める一室に同じ寮の学生が集められ、試験問題が配布される。木造の建物はひんやりと埃っぽく、草色の詰襟の襯衣姿の若者たちが、秋の枯れ草のよう俯き加減で座っていた。
「……」
試験が始まる。全員が整然と低い机に向かい、筆から墨を擦り落とす音、筆先を紙に滑らせる音、ため息だけが静けさの中に響く。俺はほとんど苦労せず答案を埋め、一、二問に首を捻り、悩んだために書き損じた字を黒く塗り潰した。減点となる。格式ばった孑宸語の筆記にはまだ慣れていない。
とはいえ、最上評価である八分以上の優には足るだろうと思う。俺は入学時に遠目から見た切りの、天学専門の教授のことを思い出す。
新入生は一定以上の成績を認められた上級生から授業内容を聴講するしかないため、まともに教授と対面した試しはないが、それほど厳格ではないと専らの噂である。事実、これまでの課、私試ともに俺はまだ優評価を落としていない。
時間を掛けて、上から下まで複数枚の答案を見返す。それから黙って立ち上がり、戸を引いて退室した。
既に三名ほど、俺よりも早く解き終えて試験場を出ている。時間は正午に近い。古びた廊下の窓から見える空は、光の欠片が散らばったよう疎らに曇っている。
「どうだった?」
建物から出ると、開口一番に話しかけられた。同じ齋舎の新入生で、試験結果が貼り出されるといつも俺と近いところに並ぶので名前も知っていた。ああ、と応える。
「ぼちぼちかな」
「そっか。俺もだ」
その同舎生とともに、並んで齋舎へ戻る。まだ残っている翔のことを思い出して一瞬足踏みしたが、試験場の近辺をうろつくと不正を疑われかねない。なあ、と話しかけられて顔を上げる。
「良ければさ」
控えめに覗き込んでくる彼の顔はどこか困っているようで、俺はやや空けて頷いた。簡素な砂利道を下る二人分の足音が木立に響いていた。
「今日の夜、飲みに行かないか?」
「飲みに?」
それは珍しい誘いではなかった。齋舎の中でも世話好きな者が幹事を務め、都の街に繰り出し、時には芸妓を呼んで酒を飲む。そういう宴会を内舎生たちは頻繁に開いていたし、俺も翔も幾度となく参加していた。少なくとも、最初の頃は。
「そう。課も終わったことだし、皆で軽く飲んで親睦を深めようってさ。ほらお前と翔って何かとあれだろ? 話を聞きたい人が結構いるんだよ」
あれ。曖昧な言い方に込められた、様々な感情を俺は具に感じ取る。一年半前、影家復権のため朝廷の神聖な裁判の場で騒ぎを起こしたこと。嵐の神、豊隆を俺が呼び出したこと。結果として、影家の後ろ盾を得て入学したこと。
俺と翔は、太學ではとにかく悪目立ちしていた。見知らぬ同舎生に突然親しくされたり、或いは陰口を叩かれたり根も葉もない噂を流されるのは日常茶飯事だった。
「それ、翔もか?」俺は訊ねる。
「ああ、うん。お前から声かけておいてくれよ。あいつ、いつも機嫌悪そうだからさ」
彼はさして悪気なさそうに肩を竦め、それから一変して困り顔になる。
「上舎生の先輩も何人か来るらしくて、是非皓輝に会いたいから誘っておいてくれって言われたんだ。頼むよ」
後半の口ぶりはもう誘いではなかった。目の前で両手を合わせる同舎生の彼に、俺は渋い顔をする。
「先輩方も来るのか……」
「そうそう、滅多にない機会だろ? あ、お前らは色んな所から誘われているから珍しくないか?」
確かに、他の新入生に比べれば明らかに異質な立ち位置のため、初対面の先輩や他齋舎の学生から飲みに誘われることも少なくなかった。コネを作るという意味では垂涎ものの待遇だろう。
だが俺から言わせてみれば、そもそも開かれる宴会の頻度が尋常でない。最低でも十日に一度は外せない試験があり、授業以外の自習も手が抜けないというのに、その合間に何かと口実をつけて飲みたがった。俺と翔も、この二か月で何度“親睦会”だの“歓迎会”に参加させられたか分からない。
俺は顎に手を当て、断る理由を探す。乾いた秋の木々がざわめき、時間の流れが失速しているように思えた。どう取り繕っても、角が立たない言い訳はひとつも浮かばなかった。
「……分かったよ」
齋舎の門を潜りながら、結局俺はそう応えるほかない。別れ際の彼の安堵した顔を思えば、先輩の使い走りにさせられたのだと容易に想像できた。
落ち合う場所と時間を反芻し、憂鬱な気分になる。この話を聞かせた翔がどんな顔をするのかも、容易に想像できた。
***
「嫌だ」
案の定、飲み会の話を切り出すと翔は顔を歪めた。二人だけで齋舎の別棟へ続く廊下を歩いていると、翔の感情表現は呆れるほど素直だ。午後の授業が始まるまで時間はあったが、外部の聴講生が来るため早めに席を取らなければならない。
「お前がそう言うのは分かっていたよ。じゃあどう断れば良かったんだ?」
今回の幹事は上舎生の先輩である。上舎生とは一部の成績上位者のための齋舎の学生。上舎生にならなければ卒業試験は受けられない。
成績を最重視し、年度の繰り上げのない太學において、学年という差異は希薄な一方、この国全体がそうであるよう齋舎内も上下関係には厳しい。新入生である俺たちが本来関わるべくもない、最上位の先輩を相手に波風を立たせる訳にはいかなかった。
「嫌だ、で通ればいいさ。俺たちが影家の末端扱いされている以上、変なことをすると白狐さんにまで迷惑を掛けることになる。分かるだろう?」
「……」
影家の現当主の名を出すと翔は押し黙る。同時に俺は、この翔に諭すようなことを言っている自分にほとほと嫌気が差した。
寮での生活は、官費で賄われる食費を除けば全て自費だが、影家の後ろ盾で入学した俺たちは燃料費や交際費すらも補助されていた。金がないことを言い訳にすれば、どんな噂をされるか分かったものではない。既に仮病も自習する振りも使い尽くしたし、生活態度の内申──外食の回数が評価のひとつとなる──を気にするには早すぎる。気が向かないなどとは上舎生相手に口が裂けても言えない。
「だってさぁ」翔は子どものように口を尖らせるが、言葉は切実だ。「あいつら、俺に失礼なんだもん」
窓から差す鈍色の光に、翔の薄い髪色が照らされている。この相棒が腹を立てているのは、飲み会の誘いで毎回俺のおまけ扱いをされているせいではない。仮にそのことを気にしていたとしても、翔は口には出さないだろう。
内舎生で、異民族の血を引いているのが翔たった一人というのが問題だった。
「月宸族ってそんなに偉い訳? 異民族のこと蛮族か奴隷だとしか思っていないの? どこに行っても珍獣扱いされて嫌なんだけど」
「その怒りは、尤もだな……」
俺も同意する。これまでの数々の飲みの席で翔が受けた無礼な扱いを思えば、混血して三世代経てば帰化人として扱われるという戸籍法が、所詮文面だけの代物であることは明らかだった。
翔をただの異民族という記号でしか捉えない学生の大半に悪気はなかった。良家の子息である彼らは、辺境の省に暮らす異民族など初めて見たに違いない。帰化人ではあるものの、黒髪白膚の若者たちの中、褪せたような髪に、黄色っぽい肌をした翔は容姿からして浮いている。
「とはいえ、皓輝一人だけで行かせてもなぁ」
翔はため息をつく。「どっちかが飲みすぎて具合悪いから早く帰る、っていう切り札が使えなくなるし」
実際にそれが切り札としてまともに機能した内、半分以上は酔った振りではなく本気で飲みすぎただけなのだが。どちらかが羽目を外さないためにも、俺たちは宴会の席で互いが必須だった。
「我慢してくれ」最後は俺も懇願の姿勢になる。「黙っていてくれるだけでいいから」
そこまで言われて翔は喧嘩をする気も失せたようで、口を噤んで横を向いた。廊下の床の軋みに紛れ、苦々しく呟く。
「あいつらどうせ、政治と女と文学の話ばっかりだぜ」
そうだな、と俺も頷く。先輩のことを面と向かってあいつらなどと呼ばないでくれよ、とため息混じりに釘を刺す。




