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明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第五話 待招者
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 それから数日間、俺は一応翰林院に通った。しかし誰に訊ねても居室を移す手筈は整わず、翰林院内に俺の席らしいものもないので、太學の斎舎で寝起きする生活形態は変わりなかった。

 靈臺待招の仕事内容を学ぼうという気概は院内にいるだけで向けられる鬱陶しそうな目線の中で有耶無耶になり、何故だか唯一俺を邪険にしなかった翰林院付きの楽人と名乗る男だけがまともな会話相手となった。正確に言えば、やたらと親しげな口ぶりで音楽の話ばかりするので他の者からは疎まれ、一番立場の弱い俺が彼の標的となったらしい。

 彼はこの国の伝統的な音階や声律を熱弁しては、調和を重んじることが何より大事だとしきりに語っていた。詩と同じくらい音楽に知見のない俺はただ愛想笑いと適当な相槌を打つことしかやることがなく、特に得られるものがないと分かり始めると俺は待招者の権利を使って宮中図書館に通うようになった。十把一絡げに見えた翰林院の役人も、強烈な個性を持つ人間であるという発見はあった。


 昼間から薄暗い図書館の蔵の中にいると、淡々とした時間の流れがふっと澱んでその場に留まるように錯覚することがある。川の流れが地形に嵌って溜まるように、世界から切り離された陰の中で俺は努めて本に没頭した。

 手に取るのは陽国に関するものばかりだが、何せ冊数が少ない。外交史上、陽国の態度は一貫して冷たい壁のようで、長い年月のほとんどは国ごと閉鎖しているも同然だった。皇国と形式上の国交が始まっても年に一度定例で交換する使節団は形式的なものに過ぎず、そこから涼省の省都のひとつを陽国との正式な貿易港に認定されるまでがまた長かった。

 分かったのは、西大陸の最南に位置する陽国は代々女王が統治するという体制であること、諸侯と呼ばれる中小貴族たちが陽国内の領土を分割して支配し、女王に属しているということ。

 気候は非常に暑く、甚だ湿度が高く、晴天の日が多いが時々激しい驟雨と落雷に見舞われる。特に雨が多く降る時期を雨季と呼び、旱が続いて雨が全く降らない時期を乾季と呼ぶ。とにかく東大陸に比べて極端な風土らしく、山間部と平原部、海辺や領地内にある約三十五の諸島で気温にも降雨量にも差があり、採れる作物や漁獲量も大きく異なり、それが貧富の差に繋がっている。

 陽国の簡易な風土を記した書物の内容は、あまり好意的とは言えなかった。添付された地図の拙さなどから察するに、皇国からの使節団そのものが歓迎されたことはないのだろう。今回の親善の使節団が陽国との外交史上で前例のないものであることは間違いない。


「やあ」


 不意にすぐ傍で声が聞こえたので俺は身体ごと飛び上がらせた。声を抑える分別はあったが、反射的に攻撃を向けようとした懐の中の水蛇を制止する。どうせ床を水浸しにするしか出来ない癖に。

 いつの間にか書棚の影から顔を覗かせていたのは、妖怪先輩だった。長い前髪の間から困った眉が垣間見える。久し振りに見た彼は、俺から半歩距離を取った、酷く気まずそうな顔をしていた。ああ、と声が出る。


「元宵節のとき以来ですね」


「ああ……そうだね」


 彼は履き物を履いていない足をもじもじとさせ、足首に結わえられた紐を揺らした。「外に出ましょうか」と本を閉じて書架に仕舞った俺に、妖怪先輩は慌てたよう両手を振った。彼の小さな声は、図書館内の静寂に散らばるなりすぐ消えてしまった。


「ううん、いいんだ。大した用事じゃない」


 それで彼は着物の懐に手を入れ、何かを取り出した。上舎生の制服に相変わらず見るからに高直な上着を羽織っている。


「翰林院に待招されたそうだし、そのお祝いも兼ねて」


「……これは?」


 手渡されたもののひやりとした感覚を、俺はまじまじと覗き込んだ。それは片手に乗るほどの大きさの、翡翠を彫った平らな彫刻だった。逆さまの蝙蝠が硬貨の形に翼を広げ、趾の部分に金具が通され、上質な革紐で首に掛けられるようになっている。


「お守りだよ」


 薄暗い光の中でも、柔らかな色合いの翡翠の美しさは水底で揺れる水草のようで、どこか神秘的ですらあった。俺は何の気なしに引っ繰り返し、蝙蝠の口許に小さな爪のようなものがあることに気付く。

 指で押すと、それは鏡のようにぱかりと開いた。翡翠の蝙蝠全体が、何かを入れる容器になっている。内側は金属で塗装されており、中身はぎょっとするような真っ赤なものが詰まっていた。


()()()だよ」


 俺の耳元で囁いた妖怪先輩の顔を見ることが出来ない。微かに震える手で閉じると、爪がぱちりと固い音を立てた。龍の血と呼ばれたものの鮮やかな赤さが、網膜の奥に焼き付くようだった。


「つまり、これは」


 恐る恐る横目で窺う。目が合った彼は、申し訳なさそうな、居心地の悪そうな顔をしてもう一度言った。「“お守り”だよ」と。


「俺たちみたいな身分に生まれると、子どもの頃からこういうものを持ち歩く慣習がある。形式的なものではあるが、実用的でもある。もしもの時があったら──でも、大抵は使わない。だからお守り。俺が言っている意味、分かるね?」


「……」


 俺は無言で何度か頷く。それを表に出すのは憚られる気がして、革紐を首に掛け、蝙蝠を襟の下に通して仕舞った。鳩尾のあたりに冷たい感触があった。


「ごめんね。餞別に何か渡せるものがあればって考えたんだけど、これくらいしか思いつかなかった。最低だよね、先輩なのに」


 彼の言い方は自虐的な笑いに満ちていた。陰のように貼り付いたばつの悪さは、彼が生まれてからずっと身を置いてきたであろう貴族社会そのものを恥じているようでもあった。彼がそうやって今でも俺を客のように扱ってくれることは彼なりの思いやりなのだろう。

 そして、俺への餞別をこの“お守り”にしようと決めてくれたことも。この国で蝙蝠は発音が近いため「幸福」の象徴だ。


「ありがとうございます。これ、大事にします」


 指で革紐を摘まむ。彼は白い歯を見せ、幾らか砕けた態度で笑った。


「多少乱暴に動いて翡翠が割れてしまっても、中の金属部分は壊れないような頑丈な造りになっている」


「はい」


「勿論──使う機会がないことを祈っている。心から」


「分かっています」俺は先輩を安心させるようはっきりした声で言った。背筋を伸ばしたので、次の言葉を聞き逃すところだった。


「さっき公表されていたけど、白狐様と陽国へ行くんだろ? 気をつけてね」


「は? 何ですって?」


 声が裏返りそうになり、それが想定以上によく響いたので思わず口を塞ぐ。顔の前で手を振り、失礼にならないよう聞き返す。


「使節団の面子が公表されたんですか? 正式に?」


「らしいよ。ここに来る途中で聞いた」


 平然とした物言いをされ、すぐ詳細を知るために走り出そうとして、訊いてきちんと答えてくれる相手の不在に気付いた俺は頭を抱えたくなった。思わず低い声で呻く。


「どうしたの? 大丈夫?」


「ここの各官公庁の報連相ってどうなっているんですか」


「俺に言われても……」


 愚痴を言うべき相手すらいないのだ。ほとほと嫌になる。

 靈臺待招に任命された日も然り、とにかく組織の中で必要な連絡や連携が日常的に上手くいっていないのは明白で、電話がないせいなのか俺が蔑ろにされすぎているのか分からないが、何か起こる度いちいち噛み合わない不愉快さに晒されている。

 いや、俺個人への嫌がらせならまだしも、伝統的に受け継がれてきた組織間の険悪さゆえに非協力的な態度をとるなども茶飯事で、朝廷では何もかもすんなりと進まないのだ。


「とりあえず、今から翰林院に行って確認してきます」膝に手をついて俺は顔を上げる。「え、白狐様も使節になったって言いました?」


「そう聞いたよ」


「ああ……もう」


 自身に圧し掛かる重力が強くなったように錯覚しながら、俺は踵を返した。冷たく埃っぽい静寂の図書館の床を小走りに、背後で妖怪先輩が手を振る影が床に映っている。


「どうか君に神々の加護がありますように」


 ありがとうございます、と俺は口早に言って史館を出た。春には程遠い冷気と日差しを全身に浴びる。さっと刃で胸を割かれたような感覚があって、俺は先程の妖怪先輩の言葉を反芻しては憂鬱な気持ちになった。

 もし白狐さんが俺と陽国へ渡ると聞けば、翔は何と言うだろう。翰林院への道のりは長い。




 ***




 指折り数えて、四日後。使節団の出立式の末席に呼ばれた俺は、着物の下に隠した翡翠の蝙蝠の冷たさだけを頼りに長い時間を同じ姿勢で過ごした。慌ただしく過ぎていった最近のことを思い出し、そのどこにも俺の意志が介在していないことを他人事のように考えていた。

 出立式の趣旨は皇帝への暇乞いが主である。代表である白狐さんが皇帝から直々に割符代わりの剣を賜り、儀式は粛々と進んだ。ほとんどの時間を足元の玉砂利を眺めて過ごしたので、終わる頃には酷く足が痺れていた。


 扶鸞が告げた正式な使節団の面子を見たとき、俺は自分が単純な思い違いをしていたことを知った。親善の大使とは国家の一大事業であり、選ばれた門閥貴族や官僚の他、翰林院で見かけた方士や中書院の見習いなど文化交流の名目の下様々な身分の者が同行する。名前の載らない召使や記録係、通訳、船乗りなどを含めれば軽く百を超える人員が動員されるため、俺一人が加わっただけであれだけ騒ぎ立てた文徳殿の一件は過剰の一言で片づけて良かった。それは要するに、翔が容易に紛れ込むことを可能にしたのだが。

 結局翔は、影家の伝手を使って皇国使節団の端に乗り込んだ。本人は当然身の回りの世話係として同行する司旦と同じ、白狐さんの近習になりたがったが、白狐さんは太學を辞めたいという翔の明け透けな要望に頑として首を縦に振らなかった。待招者にされた俺はともかく、翔にはまだ官途にいてほしいという親心なのだろう。太學に籍を置き続けることを条件に、異国文化の勉強のため同行する学生として翔は休学期間を延長してもらったらしい。


 儀式の最後に、豊隆が文徳殿の前庭に引き出される算段だった。ようやく顔を上げられた俺は、うんざりするほど晴れた空の眩しさに目を細め、車輪付きの檻でゆっくりと近づいてくる豊隆の神気を捉える。

 強張った首を動かすついでに、視界の端に白狐さんが映った。朝服の上質な繊維が煌めいて、彼の表情を場違いに明るく見せる。目が合ったとき微笑まれ、それが何かの同意を促すような笑顔だったので少し気に障った。理由はよく分からなかった。

 俺は豊隆を振り仰ぎ、決められた進路で歩み寄る。星読みを業務とする靈臺待招として俺に課せられたのは、豊隆の声なき声を聞くこと。神に変異あればそれを記録し、人に伝える。陽国へ豊隆を渡らせるという前代未聞の大事業の責任がいつの間にか俺の双肩に乗せられている。

 翼を畳んだ豊隆が檻の陰から垣間見えた。相変わらず顔は見えない。俺は真っ暗に塗り込められた首の上をそれと分からないよう睨みつける。お前が真に第三天子なら、大義を見せてみろ──。

 俺の目線に応えるよう、檻の中で豊隆が僅かに身じろぎをした。騒然としたものが波のように広がり、動きに合わせて木造の格子が低く軋んだ。しかしそれを除けば豊隆は終始銅像のよう、儀式が終わるまで大人しくしていた。神気でさえ翼の下に畳み込まれ、穏やかなそよ風のように感じられた。


 出立式の翌日、使節団一行は豊隆を引き連れ、大所帯で涼省省都へと向かった。天候は良好。船旅で最も重要な風を待つ必要もなく、異様なくらい晴れやかな空を吉兆と喜ぶ人々を、俺は木檻ごと運搬された豊隆の傍で静観していた。同じ船に乗り込んだ翔は出港後頻繁に甲板をふらふらし、果てしない水平線を飽きることなく眺めては航海の大半の時間を潰していた。

 南方へ向かっているとはいえ、この時期の潮風は冷たい。靈臺待招の仕事もほどほどに俺は慣れない海上生活を目立たないようやり過ごした。神を船に乗せることで懸念されていた様々な危険も想定されていない事件も起こらなかった。嵐の前の静けさのように。


 皇国使節団、船四隻。風に恵まれ、海路を八日。三月二日に陽国のサンティパー港へ着船。この世界に来ておよそ三年の歳月を経て、俺は初めて西大陸の地を踏むことになる。




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