Ⅳ
文徳殿での朝謁が解散となると、俺は半ば夢を見ているような心地で朝堂が立ち並ぶ路の外に立っていた。自分の足で歩いて外に出たのは確かだが、何だか空気が薄く感じられた。
空は水のように澄み切って青く、遠い。くぐもった声が幾つも通り過ぎてゆく。誰もが俺を見て見ぬ振りしている。足跡で固まった雪の上にいると、不意にそれと同じくらい真っ白な人に腕を引かれて我に返った。
「皓輝くん、こちらへ」
腕に感じる指は女のようだった。すれ違う七十二吏たちから剣呑な視線を感じる。形にならない話し声とため息が続き、やがて平らな路を進む二人分の足音だけが残った。小さかった外門が迫りくる巨人のような大きさに見えてくるまで、どちらも口を利かなかった。
「すみません、白狐さんの顔に泥を塗るような真似を」
真上に差し掛かった太陽。門の巨大な影が何もかもを飲み込んでいるように錯覚する。俺は小さな声で謝罪をした。白狐さんは首を横に振る。結っていない白髪がさらさらと袖まで流れ落ちた。
「いえ、こちらこそ面倒なことに巻き込んでしまいましたね。よくあの空気でものを言う勇気が出たものです」
「口が滑りました」
俺は正直に言う。うっかり危うい橋から足を踏み外しかけた。咄嗟に取り繕った分だけで充分致命傷に成り得るというのに。
「……」
白狐さんは立ち止まったまま少し黙った。束の間、隣に俺がいることを忘れて思索に耽っている。そんな霞のような憂いのある横顔だった。
あの後、議題は扶鸞の件に戻り、陽国の使節団に誰を加えるべきかまた占いで訊ねるべきという形にまとまった。俺が使節団の正式な頭数に数えられることを厭った層には、その結果次第でまた騒がしくなるだろう。
扶鸞の占い内容が、濁に都合がいいよう改竄されていると俺はほぼ確信していた。そもそもあの場に鸞の思し召しを心から有難がって聴きたがる者が、俺や白狐さんを含め、存在しているとは思えなかった。占術など所詮形式的なものに過ぎず、誰も彼もが自身の思惑通りに進めようと水面下で牽制し合っている。
疲れた。
外門の向こうから小走りで出迎えに来た司旦は、俺と目が合うと見るからに困惑した。主の隣に何故お前がいるのか、と表情だけではっきり伝えてくる。声に出して一連の出来事を反芻するのも億劫で、力なく目を逸らすのと白狐さんが口を開くのは同時だった。
「やはり、あの神明裁判で豊隆の名を借りようとしたことは過ちだったのでしょうか」
「……」
近くまで歩み寄った司旦は黙って主の顔を見上げている。
「神を政治の場に引き込めば負債を負うことになるのは必至。僕たちはあのとき、自分たちで思っている以上に物事をややこしくしてしまったのでは?」
「やめましょう。そんなことを今更言っても始まりません」
俺は首を横に振った。司旦は少し眦を強くしたが、やはり何も言わない。主の様子から、或いは皇城内という人目を意識し、嘴を挟まないだけの分別を見せている。水彩画のような晴れた空の下、冷たい風が傍らを通り抜けて三人の袖を揺らす。
既に取り返しがつかないほど思惑交錯する渦中に囚われているが、多少暴言を吐いたくらいで濁は俺を手放しはしないだろう。そうやって豊隆の後ろ盾を笠に着る俺も同罪だろうか? 分からない。それを判断するのは自分ではないという確信だけがはっきりしている。
俺は現実感を取り戻そうと口を開く。
「──それに、もしかすると、向こうの方が豊隆の力を正しく信じているのかもしれません」
「と、言うと?」
話しながら、何となく歩き出す。枷を付けられたよう足取りは重かった。
「万和が言っていました。豊隆は自ら望んで檻の中に入ったのだと。仮にそれが真実なら、豊隆が西大陸へ渡るのもまた豊隆の意志なのかもしれません。俺たちは神を政治利用することばかり畏れていますが、実のところ豊隆が人の意を汲んで行動したことなんて一度もないのでは?」
鐘方の御君も言っていた。豊隆が本当に第三天子ならば、自らの意志で檻に捕まり身を窶すだろう、と。俺はまだ第三天子の件を信じてはいなかったが、ともかく。
「それはそれで、希望のない話のように聞こえますが……」
白狐さんはしずしずと歩きながら肩を落としていた。俺は答えない。
外門を抜けると、埃ひとつない幅の広い路が、眩しい光の線のよう照り返している。空の高いところを、一羽の鷲がゆったり円を描いて、やがてどこかへと飛んで行った。甲高い鳴き声が尾を引いて聞こえた気がした。
影家の迎えの馬車の前まで来たとき、白狐さんは一度俺を振り返る。お付きのものが傘を広げ、主の雪のような肌を守っていた。
「皓輝くん、まだ何かが始まった訳ではないですが、胸騒ぎがします。どうか独り合点しないよう冷静に」
「……はい」
俺は返事をしたきり、その場に突っ立っていた。踏み台の上に敷かれた深紅の絹が血溜まりのようで目の奥がちかちかする。主が乗ったのを見計らい、それらを取り払った司旦がきっと顔を上げてこちらを睨んだ。
「詳しいことは知らんが、清心に不利益になると分かったらお前も翔も俺が始末するから、そのつもりでいろ」
飾り気のない脅迫に真っ向から無視を決め込み、馬に引かれて遠ざかってゆく白木の俥を見送る。言い返すべきだったかと後から思うが、喧嘩をするのも馬鹿らしく、自分の内側にあるはずの感情や内臓の動きが正常に知覚できなかった。
「……」
笑いかけてくる真昼の光の下、手足の付いた棒きれのように、俺は皇城の外壁の影の中に立っている。主体性というものが俺の中からことごとく毟られ、奪い去られていた。今日の一連の出来事で目まぐるしく湧き上がった怒りも驚きも戸惑いも、今は他人の感情に思えた。
そのことが仄かに悲しい。夜明けの暗闇を鈍らせる光のような悲しみだけが唯一、俺の心の隅に残っていた。ゆっくりと瞬きをする。瞼が下のまつ毛と触れ合い、少しだけくっついた。涙は出なかった。
***
斎舎の自室に戻ると、翔が俺の寝台に横になり、一冊の書物に顔を突っ込んでいた。
「『待招者とは、皇帝の直々の指名により与えられる翰林院の役名で、本来は官位が空くのを待っている状態を指す』」
「何?」
聞き返すと、翔は本の端からちらりと片目を覗かせて言う。
「皓輝が詳しく知りたがるんじゃないかと思って」
「もう大体聞いた。それより、太學にも広まっているのか?」
「何だよ」
翔はつまらなそうに本を傍らに置いた。官職に関する本をわざわざ用意して待っていたらしい。疲弊した俺は翔を端に追いやり、自身の寝台に座る。
「今朝は講義どころじゃなかったらしいぜ。誰が聞いてきたんだか、皓輝が待招されたって広まるや否や大騒ぎで、色んな人がこの部屋に出入りしていたんだよ。最終的に斎長がブチギレて全員を午後の講義に放り込んだ」
「道理で誰にも会わないと思った」
「何か食べに行く?」
俺は首を横に振った。
「今はいい」
毎晩寝ているはずの寝台の布団の固さが気に障る。天井付近で揺らめく細かな塵が、真昼の光の中を行ったり来たりしていた。空腹は感じなかった。
「疲れた」
俺は口を開き、そこから魂を吐き出すように呟く。寝台の壁際で丸まっている翔が目を動かした。
「珍しい、皓輝がそんなことを言うなんて」
「俺だってたまには疲れる」
翔が言いたかったのはそういうことではないだろう。口に出して憂さ晴らししたくなるほど、心が荒んでいるのだ。落ち着かない気持ちで「片付けなきゃ」と呻き、立ち上がって畳まず椅子の背に投げていた上着やら何やらを手に取る。
「……やっぱり、ここは引き払うのか?」
「らしい」
「どこに行くんだ?」
「まだ分からない」皺になった着物を一度宙でぱんと伸ばして畳み直す。「近い内、陽国へ渡ることになるかも」
途端に翔はがばりと身体を起こした。転寝していたところを叩き起こされた野生動物のようだった。
「はあ?」
「そのために俺を待招者にしたらしい。靈臺待招というのは、俺にその業務をさせたかったのではなく、取り急ぎそれっぽい肩書を付けたかっただけだろう。たかが世捨て人上がりが使節団に同行するのは外交として格好つかないからな」
「……」
ぽかんと丸い形に口を開けていた翔は、たっぷりの沈黙を経て「……陽国に行くの?」と最初の部分だけを拾った。俺は何だか話す順番を間違えたような気分になった。
「まだ正式に決まった訳ではないけど、豊隆を陽国の外交に利用するつもりなんだと。現皇帝は霊感に関して昔から劣等感があると聞くし、親善の使節団に託け、手懐けた神を見せびらかしたいんじゃないか」
しばらく火鉢が墨を焼くじりじりとした音なき音だけが聞こえる。驚き呆れ返り、翔はようやく一言だけ溢した。
「誰も止めなかったのかな」
全くである。俺は先程の朝謁の様子を思い出した。才覚も何もかも玉石混淆な七十二吏たちが仮に力を合わせても皇帝の決定を覆すだけの力がなさそうなのが絶望的だった。
皇帝自身は優柔不断という噂の通り、独裁を敷くだけの決断力も求心力もないが、なまじ万和を始めとする宦官たちの頭が切れるのでどうにか体裁を保っている。名誉のために言っておくが、千伽に曰く皇帝は有能な男らしい。ただ皇国で帝冠を戴くには、単に有能であるだけでは器が足りないのだ。
為政者の重みを想像すると、着物を畳む手が自然と鈍くなる。
「使節団を送るということは一応、皇国は陽国との外交に前向きなんだろうな。文徳殿でその辺りの反対意見は聞こえなかったし」
翔の方を見ると、その顔はまだ陽国の使節団の衝撃から抜け出せていなかった。混乱が度を越したのか、その口調が非難がましくなる。
「待って何、文徳殿に行ったって?」
「ごめん、最初から話すわ」
俺は気怠く部屋を片付けながら今日の怒涛の出来事を時系列順に説明した。初めはああとかうーとか呻き交じりの相槌を打っていた翔は、文徳殿での針の筵状態を話す頃には何か重たいものを抱え込むよう黙り込み、話が終わってしばらく絶って、ゆっくりと寝台から足を下ろした。
「……俺も行く」
「は?」
「陽国……」
俯く眼差しが右往左往している。俺はなるべく普段通りの声を出そうと努めた。
「どうやって?」
「白狐さんに……頼む」
「……」
「影家に頼めば、何とかなるよな? 俺はもう太學に残る気はないし──皓輝は行くって決めているんだろう? 陽国と繋がりを持てばその内もう一人のコウキとも会えるかもしれないもんな。なら俺も行くよ。靈臺待招なんて大層な肩書なんてなくてもいい、召使でも何でもいいからさ」
言い切った後、翔の語勢はぱっと宙に霧散した。微かな浅い息遣い。俺の視界の中央にいる翔が、迷子のような目をしてこちらを凝視している。
「……それは」
それは、良くないのではと思う。公私混同だとか、外聞が悪いと言いたい訳ではない。翔の今後のために、影家の権力を個人的な理由で使うのはやめた方がいい。白狐さんへのそういう頼り方は、翔のためにならない。
しかし翔がそう主張した中には、俺への心配が含まれていると分かるので如何せん指摘しにくかった。自分より大きな力を笠に着るのは同じだろうと言われたら俺が誰よりも反論できない。
まとめるだけの私物が少ないためすぐに手持ち無沙汰になった俺は、塵とともに宙に浮いた翔の言葉には応えず椅子に腰掛けて本に手を伸ばす。翔が開いていた書物は『歴代職官書』と表紙に刻まれていた。逆引きの頁を開き「待招」を引く。
「……」
正当な学問を修めたわけではなく、修めたにしても一部門に秀で、他の人々より特別な技芸や才能を持つ者が任じられるが、正式な官がないため席が空くのを待っている状態──解説文に挙げられた歴代の待招者の中には、何らかの特異な体質を持つ者から字が巧い、人相が読める等ささやかな一芸に長じた者もいた。
俺は書物の文字を追うことで気まずい沈黙をやり過ごす。読んでいく傍から内容がぽろぽろと脆く崩れていくので何度も読み直さなければならなかった。靈臺という翰林院の役職を引き、その概要を理解しても翔へ伝えるべき言葉は浮かばない。
後から思えば俺は、心のどこかで翔に来てほしかったのだろう。だが同時に、それが現実的でないとも分かっていた。俺が光を追い求める限り、いつか別々の道を往くときが来る。
俺は少し音を立てて書物を閉じた。前髪が風で舞い、元の位置に戻る。
「罰が当たったのかも」
独り言を口にすると、翔は横目でこちらを窺っている。
「西大陸と接触出来るのならどんな船でも乗る心積もりだ、なんて言ったから」
神を船に乗せても沈まないなどと思い上がった連中と心中する羽目になるとは思わなかった。翔が意外そうに訊ねる。
「乗り気ではないの?」
「少なくともウキウキではない」
そういえば夏服も出しておかなければ、とおもむろに寝台の下を覗き込むと、そこにいたものとはたと目が合った。するすると滑るように床を這って現れた水蛇に俺は「お前も行くか」と静かに声を掛ける。
足首の辺りに纏わりつく冷たい感覚に目を瞑り、もう神も霊も清心も濁もまとめて船に乗せてしまえと自棄になりたがる思考に、鐘方の御君の言葉が過るのだ。
「大義」
翔の目には俺が脈絡なく二文字を吐いたかのように見えただろう。しかし俺には碑石に刻まれた言葉のようにくっきりとした手触りがある。文徳殿での喧々諤々の議論が頭に木霊している。
その意味を翔に伝えられたら良かったのだが、日常の中で生まれる些細な亀裂を必要以上に大きくしてしまう気がして、結局その日は最後まで禄に口を利かなかった。
出会った頃に比べて、俺たちはすっかり喧嘩が下手になっていた。今ではもう己の身体を分けて生まれた水蛇の方が、心も近しく感じるほどに。それがやはり、静かな夜明けの湖面をほんの僅かに震わせるよう少し悲しかった。