Ⅲ
刃物のように鋭利な午前の日差しを掻い潜り、俺は先を行く万和に遅れないよう早足で歩いていた。交付された辞令の内容も、万和の言葉の意味にも全く実感が湧かなかったが、誰も待ってくれる気はないらしい。俺は再び内心で翔の不在を嘆いた。
この宦官と会話したのは、神明裁判以来である。敵対と言っても差し支えのない火花を散らし合った──俺と翔は手足を縛られ、顔に布を巻かれて牢に転がされた──あの一連の出来事は、今は忘れるのが大人の礼儀であるように思われた。
「──あの、万和様」
「何ですか」
ようやく歩調に追い付き、俺は恐る恐る話しかける。見る人を圧倒する万和の顔立ちは、確かに千伽の傲慢さに隠した暴力性をそのまま映したようだった。
「先程、靈臺待招というものに任命されたのですが」
「知っています」
「俺のような世捨て人上がりを待招せしめて陛下は何をお考えなのでしょうか?」
底冷えする寒さのせいか、焦燥のせいか、落ち着かない呼吸を無理やり飲み込んで声を低くする。喉から何かが競り上がってくる気持ち悪さを顔に出さないように努める。
答えはあっさりと返ってきた。
「決まっているでしょう。お前は豊隆の世話係になるのです」
「豊隆の、世話」
想定外の字面に途中で詰まって咽る。咳き込む俺に侮蔑的な一瞥を寄越す万和の目は、痛々しいほど透き通っていた。俺は首を振る。
「すみません──今、何と?」
こちらに向き直った万和は、逆光に真っ直ぐと立ち、幾筋もの影が放射状に伸びていた。
「豊隆の世話係です。陛下は豊隆を掌中に帰し、自身が正当な天子の後継であることを世に知らしめました。清心だの何だの争っている場合ではないのです。これからお前は国難を救い、外交の橋渡しを作らねばなりません」
「ま、待ってください……」
洪水のような言葉の波に襲われ、どんどんと距離が遠ざかっていくようだった。
「待招とは官位が空くのを待っている状態と窺いました。そんな恐れ多い大役が務まるとは……いや、豊隆を外交に利用する気ですか?」
最後は、正気か? を今の俺なりに精一杯丁寧に引き延ばした問い掛けだった。全くもって狂気の沙汰だった。豊隆の伝承で影家を貶めた癖に、今度は都合よく神の威光を借り、更には陽国との外交政策に持ち出すつもりなのか?
万和は墨で引いたような眉をぴくりとも動かさずに言った。
「近年は貴族主義が横行していたから、庶人から待招されることはほとんどなかったのです。光栄に思いなさい」
「光栄……?」
声に出してしまった後、続きを口にするのを辛うじて思い留まる。紙切れ一枚で他人の人生振り回しやがって、と内心で毒づく。
手駒にされたのだ、と俺ははっきりと自覚した。皇帝の手元にキープされる、都合のいい手駒に。第三天子の噂で清心の影響力を抑えたのはほんの前哨戦のようなもので、本来の目的は端からこちらだったのだろう。俺が豊隆と心を通わせたというのほほんとした逸話を皇帝がどれだけ信じているかは未知数だが──軽んじられていることだけは間違いない。
「豊隆を地上に繋ぎ留めることも、陛下の御意志なのですか?」
「……」
「あの」
踵を返し、文徳殿への幅の広い路を進む万和には何の揺らぎもなかった。感情の濃淡も、迷いもない、漣ひとつない冷たい水面のようだった。
「誰もが、陛下が豊隆を捕らえたかのような言い方をする。愚かなことです」
俺がその足取りにどうにか追いついた頃、万和は前を見据えたまま口を開く。
「え?」
「お前たちは何も知らない。豊隆は自ら檻に入ったのです。そも、あの巨体を力尽くで閉じ込めておけるなどと考えている方が遥かに不敬でしょう。雰王山で自ずから翼を畳んだ豊隆の姿はもっと広く知られるべきです」
しばらく、固い路の上を小走りする俺の足音と荒い呼吸だけが続いた。速度を緩めず、万和は顎を持ち上げる。視線の先には、釉で彩色された文徳殿の瓦屋根と、そこにぶつかって四方に光を砕けさせる太陽があった。その鋭い破片が網膜に突き刺さるようだった。
「これは豊隆の望み。豊隆の意志に他なりません。お前はただそれに従っていればいいのです。違いますか?」
最後のそれは問い掛けではなかった。凄みを最大限丁寧に引き延ばした言い方だった。言い返そうと口を開いた俺は、無駄を悟って閉じる。誰も彼もが身勝手に、この俺を象棋の駒のよう奪い合っている。俺に自我など存在しないかのように。
文徳殿は、高い基壇の階段を上った先にあった。見上げるだけで無意識に仰け反るほど気圧される、木造建築とは思えぬ荘厳さ。長い歴史の中でこの国の政治の中心を担ってきた建物らしく、技術の粋を集めた格式高い外観だった。
柱の配列は外側へゆくほど間隔が広く、瓦屋根の形は優美に湾曲している。目を凝らさねば分からないほど高い位置にびっしりと瑞獣や渦巻く雲や天体が芸術的な意匠として彫られ、ため息が出るような細かな色付けが施されている。
中に足を踏み入れたとき、二度とここに来ることはないだろうと直感した。それは先の展望とは別にある、俺の人生には無縁の場所だという確信だった。
まず目についたのは明るいということだ。天井にひしめく重厚な楕円の照明具は、金色に輝く蜜蜂の巣を思わせる。床は夜の湖面のような大理石で、三方の壁には磨き抜かれた孔雀色の鏡が無数に飾られていた。光の数は権力の大きさそのものだった。足元に小さな影が生まれ、俺は呆けたよう広大な広間の内観を見上げる。
星座を配した紺碧の天井画には本物の宝石が埋め込まれ、真正面の太い柱は二列になって奥まで続き、その下に玩具の模型じみた七十二吏たちが向かい合って整列している。俺は反射的に、特に目立った白い人を見つけ、目が合ったことに安堵した。白狐さんは皇帝の宝座に程近い、黄金の柱の傍に座していた。
一番奥には湾曲した階段があらゆる角度から設けられ、宝座は高い位置に据えられている。その派手なこと、黄金で出来た首の長い鳥や魚、獅子などが流水を模した曲線の中で絡み合い、下に座る皇帝を守るよう美しく囲っている。
左右の柱の金の彩色は金箔を貼ったものだろうか。よく見ればうねりながら天に昇る龍が描かれ、鱗の一枚一枚が精巧に再現されているのが影で分かる。
俺が見回せたのはそこまでだった。文徳殿の大理石の床を踏んで数歩進んだところで万和に脛を蹴り上げられたのである。痛みに蹲るのと小声で叱責されるのは同時だった。
「何を突っ立っている。礼儀も知らないのですか」
俺はひれ伏す。大勢の目線が集まっているのがほとんど棘として伝わる。一体こんな場に間で俺を呼び出し、何を言うつもりなのか。冷たい床に素手を付けていると、緊張しているのに、それが心拍や呼吸から実感できない、奇妙にふわふわした心地になった。
今、俺は文徳殿にいる。この国の政治の、本当の中枢に。
「──続けよ」
遠くから微かに聞こえたやり取りの後、皇帝の傍に控える誰かがおもむろに話し始める。俺は何かしらの報告の只中に呼び出されたらしかった。
「……して、天文院によりますと南に光る雷電が佳しという鸞の御託宣が下りました。豊隆を陽国の使節団とともに渡航させるのは必ずや我が国の益となりましょう」
思わず顔を上げそうになるのを寸でのところで堪える。傍らの万和が刺すように睨んでいるのが嫌でも分かった。
「しかし陛下、豊隆は雨の恵みを司る神。我が国を離れ、土地が枯れることを畏れる者もいます」
白狐さんだ、と思う。この緊迫した場に置いて彼の持ち前の穏やかな声音はかつてないほど心許なく感じられた。誰か別の声が、進言を一蹴してみせた。
「豊隆は陛下の掌中に収まってから物音ひとつ立てず、慎ましく従っている。仮に神が怒れば天は荒れ狂い、とうに都は氷雪に埋もれているはず。このところの凪いだ天象を見よ。たかが人如きが変災を憂いるのは滑稽で分不相応ではあるまいか?」
「誰が豊隆の意志を聞いた? 豊隆の声を聞いた者がいたとでも?」
苛々とした声は千伽のものだった。何となく広間の内の視線の何割かが俺の存在を気にしたように思えた。
「神の心を分かったように話すことこそ人の自惚れというもの。表面に見えるものだけを都合よく受け取ってばかりでは、外交の席で陽国に軽侮されるのも止むを得ますまい。陛下の治世に陽国外交の珍聞を刻むおつもりか?」
それは周囲の七十二吏に向けて呼び掛けたように見せかけ、遠回しに皇帝を刺していた。
「弁えなさい、朧家の御君よ」万和が一歩進み出る。「陽国の使節団に関しては扶鸞の卜部に出た験でもあることをお忘れですか」
「文字占いなど如何様にも取れる。大体あの巨大な神をどうやって船に乗せる気だ」
千伽の口ぶりが、どことなく弟に向けるそれに変化したのは気のせいではないだろう。何やら賛成、反対の両陣営に分かれた議論を聞く内に、俺は話の流れを理解し始めた。
扶鸞とは文字占いとも呼ばれる占術の一種だ。神霊を下ろして文字を書かせ、それによって将来起こることの吉凶を占う。俺もかつてその現場を目の当たりにしたことがあった。どうやら皇帝は外交政策の詳細を扶鸞で占い、豊隆を陽国へ渡らせるのが吉という神託を得たらしい。
あの神鳥を船に乗せることに難色を示した千伽の言い分は尤もで、表向き手懐けた神を見世物にするのか、権力の誇示にするのか大方そんなところだろうが、いずれにせよ陽国側はそんなものを見せつけられたら困惑するに違いない。やり取りから察するに近い内に使節団を結成して陽国へ渡航するのは決定事項のようで、とにかくその時点で不穏さを察知できないほど俺は鈍くなかった。
周囲は何となくざわついている。万一豊隆が船の上で暴れたら、まず船ごと助かるまい。
「静粛に。陛下が皇国使節団を徒にそのような危難に晒すとでもお思いですか」
万和の凛然とした声は、俺の嫌な予感を裏付けるには充分だった。
「我が国には豊隆と心を通じ合わせた者がいるのをご存知でしょう──翰林院付きの靈臺待招となり、この度の使節団に同行します。顔を上げなさい」
俺は腕の間からちらりと垣間見、視界が許す限り広間中の目がこちらを見下ろしているのを不本意に思いながらゆっくりと首を起こした。静寂はどことなく俺の挨拶を期待する、目配せし合うような空気があったが、俺は何も言わなかった。発言をする許しもなければ、自分が有利になりそうなことは何ひとつ浮かばなかった。
代わりに、列の中の白狐さんを見つけ、その不安そうな面持ちに同意の意味を込めて小さく頷く。一体どうしてこんなことになってしまったんでしょうかね、と話しかけに行きたかった。その向かいに座す千伽はちらりとこちらを一瞥した後、興味を失ったよう目を逸らす。
「万和様、その……者も親善の使節団の正式な一員に含むのですか? せめて、ただの召使として同行させる格好の方が、陽国に示しがつくのでは?」
誰かが躊躇いがちに口を開く。清心だの濁だの、派閥に関係のないところから出た意見のように思えた。
「そう仰るのも無理はありません。しかし、この度の外交は神を檻に閉じ込めるような野蛮な見世物ではないことをお忘れなきよう。豊隆が陛下に柔順の意を示し、朝廷に下ったことは即ち国力の象徴。恐れ多くもこの者は、声を使わぬ豊隆の代人とならねばならないのです」
「……」
俺は努めて黙っていた。重たい何かが有害なガスのように足元に溜まって満ちている。床に反射する、奇妙に歪んだ人々の姿をじっと見つめる。
「下らん」千伽が鼻を鳴らす。「そんなことをしている暇があるなら兵寮を建て直し、弛んだ衛士どもを叩き直すがよかろう」
「黙れ。口が過ぎるぞ」
別の誰かが厳しく咎める。千伽が目を細めるのと、広間全体が俄かに騒がしくなるのは同時だった。全員が各々の考えを口に出したいと堪えていたかのようだった。
「しかし……いや確かに……」
ざわめきが波のように打ち寄せては引き、あちらこちらでぶつかり合う。時折漏れ出す苦言や衣擦れとともに注目がこちらに向くが、すぐに逸らされた。視界の端に皇帝たる証の簾のある冠が映る。
言葉が喉元まで競り上がってきた。いい加減にしろ、と。
皇国民の暗黙の了解であった禁忌の領域を、まるで水際に恐る恐る爪先を差し込み、少しずつ足首まで浸して冒していくよう信仰に綻びが生まれつつある。目に見える神がいて、理に触れたら祟ると分かっているはずなのに誰もがそこから目を背け、都合のいいものだけを信じようとしている。
自分たちだけは大丈夫だ、という慢心。思想を共有した集団ともなれば少し力を加えるだけであっという間に傾く。止めなくてはならない。畏怖の心を忘れれば必ず災いが起こるということ。そもそも豊隆にそんな力があるのか怪しいことも。
「──あの、お言葉ですが」
俺の口から声が上擦った。思いの外、広間中によく通ったその発言に、周囲の七十二吏の視線が一斉に注ぐ。議論を中断された怪訝や不快に眉を顰め、中には一瞥くれてすぐに扇で顔を覆う者も見えた。
はく、と息を吐いたとき、不安そうに眼差しを伏せた白狐さんとちらり目が合う。途端に俺の身体は電撃が走ったようになり、説得の言葉は霧散した。
──言えない。
豊隆の政治利用を批判することは、引いては豊隆の擁立によって今の地位を取り戻した影家の在り方そのものを否定することになる。この場で何かを口走れば、どうなるか。俺はその事実に愕然とした。口を開けたまま黙りこくる。
「……」
一体この子どもは何を言うのだろう? そんな疑念渦巻く沈黙に何度か息を詰まらせた俺は、どうにか気力を絞って大きな声を出す。
「親善の使節団に身元の怪しい世捨て人を紛れさせるなど、陽国に恥を晒すだけかと思います」
水を打った、静寂が満ちた。微かな震えが背筋を駆ける。俺は顔を伏せ、広間中の視線を無言で受け止めた。首を刎ねられるものならやってみせろ。
「……おのれ、鸞が示した啓示を恥と申すか」
憎々しげな声が浴びせられる。七十二吏のそこかしこのざわめきに、静電気のような緊張感が散りばめられていた。
「身の程知らずが」
「……」
総意を示すかのよう万和の袖が空を切り、音を立てる。直接当たった訳ではないが、彼の静かな剣幕は皮膚に痛みを感じるには充分だった。千伽によく似た黒目が爛々と燃えている。
「その口を慎め。下賤な世捨て人の意見など聞いておらぬ」
ぴしゃりと発言を封じられる。まあそうだろうなぁ、と俺はどこか冷めた気持ちで歯噛みすると同時に、酷く苦々しい悔しさの塊が込み上げたのもまた事実であった。