Ⅱ
翌日。朝の授業が始まって幾許も経たぬ内に俺は斎長から名指しで呼び出された。走って来たであろう斎長が息を切らして教室の後ろから転がり込んできたので、そのときは全員が振り向いた。
「皓輝、ちょっと……表に出てくれ」
これでもかというくらい注目を集めたのは言うまでもない。講義室中の目線で背中を刺されつつ廊下に出て、そこで何か言われるのかと思えば斎長は早足で別棟へと歩いてゆく。
「あの……」
天学の斎舎を管理する監督生である斎長は、寮の日課や外出届など事務的なやり取りでよく対面するものの、個人で話すことは滅多にない。恐らく一対一で会話したのはこれが初めてだったのではないか。汗ばんで強張った表情を見れば、良い報せではなさそうだということは分かった。
「翰林学士様からお呼び出しがあった。至急、翰林院へ出頭せよ、とのことだ」
「は?」
斎長の固い声を脳内で反芻するが、上滑りするばかりで意味が全く入ってこない。翰林院へ出頭せよ、まるで犯人に自首を促すようではないかと口に出しかけて思い留まる。そんな間抜けなことを言っている場合ではない。
「翰林院って……あの翰林院ですか?」
「そうだ。ともかく火急の用件であるから急ぐようにとのことだ」
「わ、分かりました」
焦りが伝染し、物分かりよく返事をして走り出したはいいが、太學の門を出る頃には様々な問題に気付く。俺は太學の中でも下位に属する内舎生で、官位がある訳でもなければどこかの貴族家の出身でもなく、単身皇城に乗り込んで自由に歩き回れる身分ではない。
おまけに翰林院とは、皇帝の諮問に応ずる官庁である。勅書の起草を行うほか、一芸に秀でた学者、文人、方士、芸術家、技術者などが集められ、皇帝の教養の相手も務めるらしい。官庁ではある一方で、皇帝のプライベートに密接に関わる個人的な趣味の場という印象も強い。問題は、翰林院は内朝という皇城における皇帝の生活圏内に置かれ、俺はそんな奥まった領域に一切足を踏み入れた経験がないということだ。
翔を呼んだところでどうにもならないのは目に見えていたが、今このときばかりは翔にいてほしいと心から思った。休学しているのをいいことにここ最近は水蛇の面倒も任せており、懐を空っぽにして来てしまった今朝の自分に歯噛みをする。出頭を命ずるのならせめて遣いの者を付けろと悪態をつきたくなる。
ひとまず俺は太學から程近い外門まで走って向かい、せめて誰何されることを願った。官吏であれ宮中警護であれ、向こうの職務に絡めて話を進まねばどうにもならないだろう。しかし予想に反し、誰に呼び止められることもなく、すれ違う下働きたちから避けるような一瞥を寄越されるだけであっさりと皇城内へと入れてしまった。
この想定外に、俺はかなり狼狽えた。午前中であったので、文徳殿では朝謁が行われている頃だろう。人の出入りは落ち着いていて、入城許可である勅号を確かめるべき門衛は俺をあからさまに無視していた。仕方なく俺は一人で広大な外朝の敷地を歩いてゆくことにする。
見晴らしの良い広大な玉砂利の前庭は、侵入者を見つけるというその狙いの通り枯草色の学生服を異様に目立たせていた。俺はもうこの時点で貧血を起こしそうだった。翰林院からの狙いの読めない呼び出しのせいか、歩けど歩けど雪の積もった門楼に一向に近づいている気がしない広さのせいか。
途中、七十二吏が朝謁に臨む際に使う複数の朝堂や中書院の立派な造りの裳階と屋根を遠巻きに眺めつつ、官吏用の回廊に入る。案内もないので、うろうろしていれば皇帝しか通ってはならない路を踏みかねない。
大蛇の体内のように長い木造の廊下はがらんとして人気がなかった。階段を上った先にある、内朝へ通ずる光回門は、朱色に塗られた鮮やかな門柱がどっしりと真っ白な雪に映えている。礎石だけで人の背丈ほどもあるので、足元まで来るとまた一段と遠近感が狂うのだ。
門を守る宮中警護が俺の顔を見て、目を逸らした。むっとしたのもあって俺は歩み寄る。きりりと冷たい空気が肺に刺さるようだった。
「つかぬことをお訊ねしますが、翰林院へはどう行けば宜しいんでしょうか」
「……」
相手は俺を一度無視しようと努めた後、諦めて目線を寄越す。その態度の悪いところは、確実に俺が何者であるか知った上で邪険にしているところだった。この衣服の色か顔か、ともかく認知されている辺り話は通っていると見て間違いなかった。
「太學生が何用で翰林院へ参られるのか」
その物言いが素なのか白を切られているのか判然としない。
「翰林学士様から出頭せよと命が下りました。案内を付けていただけると助かるんですが」
「翰林院はこの門を入り、内朝の東の外郭沿いの翰林門から入れる。用件はそこで申すように」
ぴしゃりと言われ、嫌がらせかと思うほどの不親切に眩暈を覚えつつ俺は光回門を通過する。用件を訊いてきたのはそちらじゃないかと振り向いて文句を言いたくなるが、不興を買って摘まみ出される訳にもいかず、肩を落とす。
そこからの道のりもまた長かった。外朝の広さなど序の口で、皇城内朝の敷地は本来人生で目にする機会のない完璧に平坦な土地が果てしなく続き、その定規で奥行きを引いたような不自然さはまるで異空間のよう五感を狂わせる。皇帝の私的な住居だけあって横目に通り抜ける建物群も一段と巨大で、でかいなぁと最早磨り潰された感想しか出ない。
門衛の言った通り、翰林院は東の外郭沿いにあった。これまで通ったのに比べれば幾らか簡素な、それでも彩色が施されて鮮やかな翰林門を潜ると、雪が掃かれた青緑色の美しい切石の路が、一本の龍の背骨のようでもあった。
その先の翰林院は中央に主殿、左右の閣が廊で繋がれ、軒の際に梟の彫刻が施されているのが遠目で分かる。じっと目を凝らし、各建物の屋根に掲げられた文字から玉堂、承明殿、金鑾殿と読んでいたところ、「其処の」と呼ばれて飛び上がった。
「門の前で立ち止まるな」
振り向いて、着物の形からそれほど身分の高くない翰林院付きの役人か、その見習いだろうと推測する。脇に寄りつつ、俺は咳払いをした。
「申し訳ありません。翰林院から出頭命令があったのですが、一介の太學生が単身入る訳にもいかず逡巡しておりました。もし宜しければ中まで案内を付けていただけませんか?」
今度は無視されないよう語気を強調して言ったが、それが相手の神経を逆撫でしたようだった。眉を顰められ、自分の中の体温も下がるような心地になる。
「……」
沈黙は、断る口実を探している間だった。いっそ泣きついてやろうか考えていると、相手が先に口を開く。
「命令があったのならこんなところで愚図愚図せず早く入るのがいいでしょう。翰林学士様の御前に遅れる方が余程無礼というもの」
「それは御尤もですが」
「それに、厳密に言えば貴方はもう太學生ではない」
ふいと顔を正面に向けて付け足された言葉を俺は聞き流しそうになる。
「え?」
切石を踏む足音が通り過ぎてゆくのを見た後、俺は慌ててその背中を追った。先導は付けてもらえずとも、せめて一緒に入ってきた格好にすれば気まずくないだろう。
俺の魂胆が見抜かれたのか、どんどん早足に遠ざかってゆく男を追い、翰林院の主殿の前段の氷で滑らないよう駆け上る。
史館や襲撃事件後に世話になった医官院を除けば、こうした公的な官庁に入るのは初めてだった。内部の一面、黒く艶めく床に燭台の光が金砂を撒いたよう乱反射している。俺はやや気後れしながら履き物を脱ぎ、懐に仕舞って板間に上がった。
「……」
広大な建物内に、大勢の人間が蠢く静かな気配が満ちている。見上げるほど高い青銅色の天井画が、空間の広さを一段と幻想的にしていた。正面には極彩色の上に金箔を伸べてこの国の瑞獣を描いた柱がずらりと並び、その間を書物や何やらを手に忙しく行き交う人々がいる。格式の高い着物を引き摺って各々の職務に勤しむ翰林たちの姿に、本当にここの学士とやらが俺に用などあるのだろうかと自信がなくなった。
出頭命令を出した本人はどこにいるのか、再び気を挫かれてしまった俺は恐る恐る摺り足で床の冷たさを感じていた。枯草色の学生服は地味を通り越して仄暗い院内ではすっかり泥んでしまい、自分が幽霊にでもなったような心許なさがあるのだった。
ぱたぱたと奥から駆けてくる下働きの男がいなければ、俺はそこでいつまでも突っ立ったまま恥をかいたに違いなかった。
「貴方が待招者に召された者ですね」小走りに来て、上品に背筋を正した男が俺の目を見て言う。「学士様がお待ちです。辞令を交付致しますので早く階上へ」
「待招者……?」
何の説明もくれてやる気はないというきびきびした足取りに置いて行かれないよう、俺は困惑しながら二階へと案内される。
そこは幾らか小ぢんまりとした構造で、柱ごとに黒い竹の御簾が掛かって何人もの官吏が通路に向かい合うよう低い机に向かって書き物をしていた。間によっては銀色の火鉢を中心に机を円形に並べ、低い声で意見を交換し合っている集団も見られる。何やら香が焚かれ、室内はほんのりと煙たい。
御簾から垂れる房飾りに頭をぶつけないよう、俺はその役所の仕事風景の奥の奥へと促された。
後で知ったが、翰林学士とは翰林院付きの中で文学を司り、詔勅の起草を行う官吏らしい。そこは他に比べて広く、黒く透ける御簾の向こう、丸い意匠の飾り棚の前に燭台が並んでいる。巻物が収められた戸棚や吊るす形の筆置き、それから派手な木目の黒檀の机が一段高くなったところにひとつ配され、他に席はない。
半ば個室のようになった一間に、帽子を被った翰林学士その人が座って俺を待っていた。案内の下働きが脇に寄って、それから端の方にもう一人別の翰林がいることに気付く。文官にしては体格のいい男で、この真冬に裸足でいるので辛うじて方士──天学の宗教的な教えを実践する修行者──だと分かった。
「……」
全員の視線が一斉に向けられ、反射的に膝を折って拱手した。何もかもが分からなかったが、この中で俺が最下層であることは間違いない。叱られるような用件でないことを願いながら首を垂れ、沙汰を待つ姿勢になる。
「顔を上げよ」
翰林学士の厳かな声は見た目以上に老いていた。ゆっくりと首を戻すと、学士が机に広げていた菊色の紙を両手で持ち上げるのが見えた。
「この度、汝は翰林天文院に待招せしめられた。陛下直々の指名である。豊隆の後ろ盾があるとはいえその身に過ぎたる栄誉であることを努忘れず、職務に励むよう」
紙を受け取った翰林方士がまるで表彰するようそれを俺に手渡す。紙の端に翰林院でつくられた文書を証明する国璽が捺されていることに俺は目を疑った。されるがままに膝立ちで受け取って、筆で綴られた文面をじいっと睨む。
一文目には紛うことなき俺の名が記され、その隣にこんな文が続いていた。
靈臺待招に任命す。
「れ、れい……」
見たことも聞いたこともない字に吃る。画数が多すぎて半ば潰れているではないか。俺は正直に訊ねる。
「これ、何て読むんですか?」
「靈臺、だ」
「れいだい……たいしょう……」
覚束ない俺の声がどんどん先細ってゆく。
「とは、つまり何ですか……?」
文書はその後、奉嚢一粟だの銭二百五十だの続き、恐らく給料の話をしているのだと分かるが、俺は未だに自分がどういう状況に置かれたのか実感が湧いていなかった。方士が学士に代わって口を開く。
「靈臺とは、星読みや吉凶を陛下に奏す翰林院の官位だ。天文学や暦学を専門とする、翰林天文院に属する。そして待招とは、官位が空くのを待っている状態のことを言う」
「見習い、ということでしょうか」
「正確な意味は違う。見習いは正当な官途の中にあるが、待招者は朝廷の枠組みからやや外れた、特殊な立場にある」
重たいものが液体に沈んでゆくよう、俺は集中して意味を理解しようと努める。翰林院付きの“待招者”という地位に任命されたのだと、さしあたってその端の部分だけ掴むことにして、学士たちに向けて困惑した。
「お言葉ですが、俺は内舎生として太學に通って五か月しか経っていません。卒業は疎か一学問も修めず翰林院に召し抱えられるなんて──そんなこと有り得るのでしょうか?」
本来これは受け取る前に言うべきだったのだろうなという動揺が俺の存在をいよいよ場違いに際立たせた。衣擦れの音とともに翰林学士が立ち上がり、俺の元へ一歩踏み出す。
「待招というのは、正規の官位ではない。学歴や出自に関わらず、皇帝陛下の一存で与えられる翰林院内の位のひとつだ。禄は少し出るが、通常の試験や希望で異動することは許されていない」
給料は出る。しかし正規の官位ではない。見習いとも少し違う、曖昧で半端な立場であることが分かる。正規ではないという言い方にかなりの引っ掛かりを覚えながら、話を進める。
「つまり太學は辞めた、という扱いになるのでしょうか」
「その通り」
「ええと、具体的な業務内容は……?」
靈臺、という見慣れない字をもう一度読み、俺は疑問を呈し続けることに不安を覚えた。
「詳しいことは追って伝達するとのことだ。太學の斎舎の部屋を引き払う支度をするように」
はあ。俺は肯定とも否定とも取れないため息のような返事をするのが精一杯だった。それぞれの目線が鋭くなり、俺は取って付けたよう「拝命致します」と頭を下げて小さな声をより小さくする。どちらにせよ拒否権はなさそうだった。
それから釈放されたような心地で、翰林院の内階段を下りた。辞令書を広げて持ったままぼうっと歩いて、我に返って畳んで仕舞う。国璽の捺された菊色の紙をこうして懐に入れるのは人生で二度目だったが、まさか自分に宛てられたものを手にするとは夢にも思わなかった。
翰林院の建物から出て、明るい光の中に立ち止まる。屋外の冷気が耳や頭をじんじんと痛ませ、それだけが俺を現実に繋ぎ留めていた。後になってから取り留めのない疑問が泡のように浮かぶが、それをぶつけるべき相手がいない。
そのとき、性別の分かりにくい凛とした声が響いた。
「お前、一体どこで油を売っていたのですか」
「え?」
青緑色の切石の上を居丈高な足音が近づいてくる。白い陽光の下、癖のひとつもない長い黒髪が絹の透け布のように靡いている。思わず目を奪われるような華やかな宦官の着物、気の強そうな黒目が俺を睨みつけていた。
「皇帝陛下がお待ちです。今すぐ文徳殿へ向かいなさい」
万和だった。




