Ⅰ
「ふうん、研究会は辞めたのか」
「辞めたというか、辞めさせられたというか」
二月に入ってすぐ、翔が風邪を引いた。幸い大した症状ではなかったが、心配した白狐さんが司旦を遣いにやって見舞いの品を斎舎まで持ってきた。司旦が文句を垂れながら調合したという何やら高じきな茶葉を火鉢の上で煮出しながら、俺は細々と近況を話している。
椅子の背もたれに腕と顎を乗せ、一通り聞いた後司旦は鼻を鳴らした。
「向こうから切ってくれたなら後腐れもしないだろ。結構なことだ」
湯気の出る急須を傾け、茶碗に注ぐ。薬の香りがふわりと辺りに漂った。
「そういう見方もあるか」
「未練が残るほど熱心に活動していたのかよ」
口調を鋭くされ、俺は小さく肩を竦める。茶碗を寝台まで持ってゆくと翔はまだ微熱が残る眼差しを天井に向けていた。うとうと目を閉じたり開けたりしているので、傍らに置いて自分の部屋の方へと戻る。
一年で最も冷え込む二月の休日。真昼の鈍色の光が床を淡く照らしている。時折廊下の方から誰かの物音が響くが、それが消えると斎舎内には圧迫感のない沈黙が満ちた。
「豊隆関係で朝廷は毎日大騒ぎなのに、ここは静かだな」
ぽつりと司旦が漏らす。前髪が零れて掛かった影が、異民族の顔立ちに独特の情緒を醸していた。
「揉めているのか?」
「色々なところがな。陽国の件もあるのに、新しい問題を次から次へと持ち込みやがって」
司旦は近習であって当事者でないというのに、主の心労を自分のことのように語るのは彼なりの忠義なのだろう。或いはただの心配症か。ともあれ、司旦が愚痴を口にするのは珍しい。
「現皇帝を散々野放しにしたツケなんじゃないか」
「清心がそれを払う道理はない」
「朝廷って思ったよりも泥船なんだな」
俺が呟くと、顔を上げた司旦が眦を強くする。「良くない」
「何が?」
「背負うものがない癖に辛口な苦言ばかり呈すのは狡い。学生運動の風に充てられたか?」
「そうかも」
俺は自分の口許に手を当てる。研究会を追放された件は努めて気にしないようにしていたはずが、知らず鬱憤を吐き出したくなっていたのかもしれない。咳払いをして話題を変える。
「そういえば、万和様っているだろ。以前神明裁判のときに会った、あの宦官」
俺のこうした切り替えはいつも人を警戒させる。万和、という名が耳に入った途端、司旦の薄い色素の瞳に澱んだものが交じった。どろりとしたそれは、今そういう話をしたい気分ではないという非難も含まれているだろう。
「あの人は千伽様の弟、なんだろう。皇帝直属の宦官らしいが、血縁が近しいのに兄弟で対立しあっているなんて何か事情があるのか?」
「万和様は現皇帝陛下の従弟でもある」
「は?」
俺の声は裏返りかける。
「知らなかった」
「朝廷の貴族じゃよくあることだ。あちこちで娘を嫁がせ合って婚姻関係を結んでいるし、一概に清心と濁のみで派閥が二極化している訳でもないからな。腹違いの兄弟がいない白狐様が珍しいだけなんだよ」
「朧家は厳格な清心派だと思っていたよ」
そう言うと、司旦の眼差しがより遠くを見るようなものに変わった。
「先代の女好きが祟ってな。亡くなった千伽様の父親があちこちの女にちょっかいを掛けて──いや、この話はやめておこう。今となっては濁との橋渡しが欲しかったのか分からないけど、とにかく現皇帝のいる望家から側室を娶って出来たのが万和様ってこと」
「どうして宦官になったんだ?」
今度こそ、司旦は椅子の背もたれから上体を起こしてまじまじと俺を見つめた。眉を顰め、それからため息をつく。
「万和様に嫌がらせでも受けたか?」
いや、そういう訳じゃない。嘘はついていないが、昭文館に忍び込んだ夜の後ろめたさが俺の否定を嘘臭くしていた。
「ただ気になっただけだ。他意はない」
「あっそ」司旦は肩を竦める。「万和様が宦官になった経緯は、朧家の闇だからな」
「闇?」
ゴシップ的な響きにつられて声を低くした。ぱん、と火鉢の中で音が跳ねる。司旦の目線が斜めに傾く。それは要約すると、こういう話だった。
貴族の跡取りは余程特殊な事情がない限り長男が据えられるのがこの国の慣習である。朧家も例に漏れず、正室の子である千伽が次期当主として幼い頃から取り沙汰されていたのが、腹違いの弟である万和が産まれて少し事情が変わる。万和の母、つまり望家出身の妃が息子可愛さに朧家の座を欲しがったのだ。よくある後継者争いではある。朧家を濁の傘下に入れる、皇帝派にとっては千載一遇の好機でもあった。
しかし結局、千伽派か万和派かという内部の小競り合いは、先代の遺言によりきっちり慣習通りに落ち着き、更に今後千伽を脅かす存在になることを危惧して万和を宦官に落として朧家との繋がりを絶った。実子でありながら跡継ぎ問題はどこまでも冷酷に、自ら撒いた争いの種を拾って死んだ。それが千伽と万和の父だった。
「大きな分裂にはならなかったけど、遺恨は残った。人の上に立つ才覚を千伽様が誰よりも持っていたから、余計に」
司旦は嫉妬という言い回しをごく上品に表現した。火掻き棒を手の中で弄び、火鉢の中に立て掛けるのを、俺は黙って見つめている。
望家の妃がどれだけ息子の万和に賭けていたか、名付けからも窺える。代々数字を頭に付けるしきたりがある朧家で、幼少から並外れた才覚を発揮した千伽は名前も桁違いに“千”の字を与えられたが、腹違いの弟はそれを更に上回る“万”だった。数字の大きさは野心の大きさでもあった。
千伽が正式に当主の座に収まると、万和の母はしばらく半狂乱になった後、心身を弱らせて帰らぬ人になってしまう。所詮は後継者争いに敗れた大勢の側室の一人、千伽が仕切る家の中では肩身の狭かったであろう女に割かれる哀れみは少なく、遺言の紙切れ一枚で性別を失った万和が朧家を恨むのは当然の帰結であった。
「宦官にも様々な階級があるが、ほとんどは後宮の雑用係で、政治的な発言権を持つまで上り詰められる者はほんの一握りだ。万和様は執念で皇帝陛下の傍仕えにまで成り上がって、今は清心派と敵対している」
なるほどねぇ、と俺は喉の奥で唸る。万和のあの女のような顔立ちに宿る刃物じみた鋭さを思い出した。
「で、万和様とどこで会ったんだ?」
「会っていないよ」
司旦は椅子に座り直して脚を組む。「言うまでもないだろうが、あの方には気を付けろ。多分お前らも嫌われているだろうから」
「も?」
やや渋くなった表情を見るに、失言だったらしい。ちょっと手で遮るような仕草をした後、司旦は眉を寄せた。
「俺は万和様からえらく嫌われている。奴隷上がりというのが気に食わないらしい」
「へえ」
「とにかく」
これ以上居座ると何らかの信念に反すると思ったのだろう。司旦はすっと立ち上がる。
「豊隆を捕らえたのは大方万和様の入れ知恵だろう。万和様は今や宰相よりも発言力があって、為政の才のない皇帝を半ば傀儡にしているなんて噂も聞く。当然神を捕まえて終わりなんてはずはないから、今後の濁の動向には充分警戒しておけ」
「〈第三天子〉の噂の発端もやはり万和様なのかな」
「恐らくな」
分かっているならいい、という目をして、司旦は後ろ手を振る。影家に迷惑だけは掛けるな、と無言で気圧されるが、俺はそれに頷くだけの自信が持てない。司旦が座っていた椅子と、机の上に残された見舞いの品を見てため息をついた。
「気に食わねぇな」
突然声が降ってくるので、思わず飛び跳ねそうになる。仕切りの上からだらりと細い腕が垂れ下がり、いつの間にそこにいたのか翔のスコノスが顔を覗かせている。俺はそれと気づかれないよう力を抜いて訊ねた。
「何が?」
「あいつ。翔のことを滅茶苦茶に嫌っている」
めちゃくちゃ。その言い回しが大袈裟に思えて口の中で反芻する。司旦が俺や翔を嫌っているのは既知の事実ではないか。
「影家の負担になるから、司旦が俺たちを鬱陶しがるのは仕方がない。白狐さんが庇護下に置いてくれる限り、あいつがこちらに危害を加える心配は要らないんじゃないか?」
「そんな力関係の話なんざ興味ないんだよ」
唾を吐く仕草をして、一瞬空気に溶けて消えたかと思えば目の前に現れる。俺は瞬きを返す。
「俺以外の誰かが翔に執着しているのが気に食わない」
「執着ねぇ……」
首の後ろを掻いて、司旦が持ってきた見舞いの品を手に取ってみる。身体を温める薬の入った茶葉や柑橘などの果物が数種類、紙に包まれた現金も入っていた。中身は確認せず、ふと司旦はこうした食品の中に毒を忍ばせようと思えば出来たのだろうと思う。
小さな林檎の表面の黄色交じりの赤さを光に映しながら、俺は考えてみる。
「司旦は、翔と自分が似ているから翔のことを嫌っているのかもしれないな。異民族で、白狐さんに救われた者同士、境遇が近い」
「翔のことが好きなやつも、翔のことが嫌いなやつも皆死ねばいいんだ。翔は俺だけのものなんだから」
しゃがれた声を出す彼女にほんのり穂先を向けられ、俺は苦し紛れに肩を竦めるのが精一杯だった。
「そう思うだろ、なあ?」
「俺は何も言わないよ。お前とは喧嘩したくないし、今の俺は本来の戦う力は皆無に等しい訳だし」
「取り戻そうと思わないの?」
小さく首を捻る。「その方法が分かるのなら苦労しない」
俺自身もまた、水蛇の存在のよう誰も先例のない領域にいる。そもそも失われたものを再び蘇らせることが可能かどうかを口に出すだけ無駄だろう。ついでに思い出し、俺は彼女に向き直った。
「そういえば、豊隆が何故俺を選んだのか、少し分かったよ」
「へえ、何でだ?」
「俺が一部の記憶を失っているから」
興味があるのかないのか表情では分かりにくい彼女に、鐘方の御君と道場で話したとき気付いたことを掻い摘んで話す。
「多分それは、スコノスだった時代に関する記憶だ。俺はコウキに仕えていた頃のことをほとんど覚えていない。人間の胎から産まれ直したとき何かの拍子で失ったのか上書きされたのか、とにかく自然とそうなったものだと思っていたが、最近になって違うと気付いた。誰かが俺の記憶を盗んだんだ」
「……」
翔のスコノスは零れそうなほど大きな眼球をぐるりと回し、黙って考えている。抜け落ちてほとんど残っていないまつ毛が冬の枯草のよう上向いて乾燥していた。人間と会話するよりも遥かに長い空白の時間を経て、彼女は飲み込んだものを平らに均してまとめる。
「要するに、記憶の欠落ゆえ豊隆に選ばれたということ?」
「推測だが、恐らく」頷いて、続けた。「それも、ただの欠落ではない」
積み重なったものを然るべき場所に収めて光に透かすと、思いがけない絵が浮かび上がる。もしかすると、もっと早くに気付くべきだったのかもしれない。
「俺がコウキと一緒に生きていたのは第二王朝の崩壊間際、そして御時代の始まりだったはず。月天子が行方を晦ませ、第三天子──星天子が夕省で孵った時期と被っている」
口に出した後で、翔と思考を共有するスコノスとはいえ皇国の年代表を覚えているか怪しいと思い直す。
「ほら、あの遺跡を覚えているか? ずっと前、翔がコウキに拉致されたときに連れて行かれたあの海辺の遺跡。幾つもの霊場が重なり合って地図上には記せない場所かもしれないが、あそこも夕省だった」
「そうだったっけ?」
「俺が忘れた部分に、全ての線が繋がる交点があったんだと思う。不都合があったから意図的に消されたとしか思えないんだが、どうだ?」
半分は壁に向かって話すつもりで、もう半分は同胞への理解を求めて訊ねてみるが、相変わらず彼女の反応は手応えが薄い。人の似姿をしながら人とかけ離れた生態を持つ精霊特有の空気感を目の当たりにしつつ、もしかすると翔や他のネクロ・エグロから見て俺もこんな風にどこかずれて映っているのではと考えてみたくなる。
「仮にそうだとして、誰にとって不都合なんだろう?」
独り言のような彼女の呟きは、確かに核心を突いていた。恐らくそれこそが肝要な部分なのだろう。俺の過去を知る者といえば、コウキ、綺羅と現状二名ほど名が上がる。いずれもイダニ連合国の執政官に就いている、皇国の敵対者だった。
「この二人に限らないにしても、直接訊けたら早いんだがな」
「訊きゃあいいじゃん」
「海の向こうだぜ」
声に出してみるとよりコウキたちから遠ざかった気がして、胸をすっと冷たい指で撫でられたような心地になる。そもそも綺羅に関しては、神明裁判後に牢獄から逃亡したきり、生死すら不明である。
「あのさぁ……」
翔のスコノスは腰に腕を当てたかと思えば、億劫そうに片方の目を細めて不格好な表情になる。薄い唇を歪め、珍しく何か言うのを躊躇している。目線をやると、彼女は大きく息を吐き出した。
「いい加減、人間ぶるのやめたら? 上手くやってるつもりかもしんないけど、肩身狭そうだよ、お兄さん」
「……」
反射的に口を開いたものの、否定も肯定も出来ない。俺は長い間、なるべく己が人間でないことを忘れるよう努めて生きていた。この世界に来たばかりの頃は特に、人間でなくなることに途轍もない嫌悪感があったのを覚えている。母さんが俺に捺した、人間の成り損ないという烙印が現実になるのが心底怖かったのだ。
だが今はどうだろう。母さんへの執着を手放した訳ではない。ただ、時間が経ってみて激しい拒絶感はいつしか、ある意味で安心という柔らかなものに変質していた。自分はもう母さんのために人間として頑張らなくていいという安堵。元の世界には戻らないだろうと諦め、感情を客観視できるようになった今、確かに俺が人間という肩書にしがみ付く理由はほとんどないのかもしれない。
「──もう少し、これを続けてみるよ」
俺は、彼女とは目を合わせずに低く言う。
「習慣として身に付いた思考を根底から崩すのは、多少なりとも抵抗があるものなんだよ。人間なら誰でも。俺がスコノスとして生きようと思ったところで、今のところ事態が好転する訳でも、西大陸へ渡れる訳でもあるまいし」
「やってみたら意外と簡単に辞められるかもよ。お兄さんは人間じゃないんだから」
翔のスコノスは陰になった寝台の方を気にする素振りを見せた。首を戻し、隙間だらけの歯を出して笑う。漏れ出す呼気が生温かく室内に馴染んだ。
「そんでいつか俺と勝負してね。三千年前の人型スコノスなんてそんな稀少なもの、滅多に喰えないんだから」
「何だよ、結局それが目的かよ」
血走った彼女の眼を一瞥し、首を振る頃には既にスコノスは姿を消していた。俺がコウキと生きていた正確な年代は分からないが、三千年は言いすぎなんじゃないかと言いそびれてしまった。
輪郭のない不明瞭な呻き声が聞こえ、寝台の方で翔が寝返りを打っている。布団の端がもぞもぞという動きに合わせて揺れている。
「……誰と話してるの?」
まだ眠っていると思ったので、存外はっきり聞こえた翔の声に俺は驚いた。
「別に、何でもないよ」
「俺のスコノスが、また余計なこと言った?」
「……」
ゆっくりと歩み寄る。鼠の鳴き声のような高い音を立てて床が小さく軋んだ。半分だけ顔を覗かせた翔の両目は、微熱もあって言いようのない曖昧な感情が垣間見える。
「拗ねるなよ」
「……」
「スコノス同士で話していただけだ。取らないよ」
複雑な愛憎関係にある翔は自身のスコノスに対し、嫌いと公言しながら独占欲のようなものを見せることがある。ただ、それを指摘されると大いに機嫌を損ねるのだが。
翔のことが好きなやつも、翔のことが嫌いなやつも皆死ねばいい。彼女の過激な言葉は、写し鏡である翔の根底にある思想でもある。俺はちょっと笑う。
「何もそんなところまで似なくても」
「怒った」
布団に埋めた口をもごもごとさせ、翔は背中を向けてしまった。白狐さんがお茶を持ってきてくれたよ、と言い損ね、ほとんど湯気の消えた茶碗を持って俺は椅子に戻る。また起きたときに淹れ直すか、と。怒ったと口で言いながら、大方寝起きゆえ面倒くさい絡み方をしたかっただけなのだろうということを俺は分かっている。
冷めた薬茶を飲みながら、考える。西大陸へ行きたい。行かなければならない。本当はこんなまどろっこしい官僚社会の階段など上らず、一足飛びにコウキの元へ行きたい。
翔のスコノスに指摘され、太學に入ってからずっと付き纏っていた停滞の空気にすっかり飽きている自分に気付いた。とは言っても、そう易々と西大陸へ政治的に接触し、ましてや渡航する機会が来るなら苦労はしないんだよと心の中で語りかける。俺のやっていることは間違っていないし、彼女の言うこともまた真であるというだけなのだ。
──しかし予想に反し、機会はすぐに巡ってきた。まるで誰かが待ち構えていたかのよう歯車が回り出し、俺は翌月には西大陸の土を踏むことになる。




