Ⅴ
彼の言葉を額面通りに受け取って理解するまで僅かに遅延があった。
「元七星なのに清心派なのか」
「日和見主義だって言っただろ? 二年前朧家の御君に脅されて仕方なく傘下に入ったよ。七星をクビになった大まかな要因は山火事騒ぎだけど、辞めた後も僕は武官として朝廷や枢密院に出入りするし、寄り掛かる柱は太いに越したことはないからね」
鐘方の御君の口ぶりは熾烈な派閥争いにまるで頓着していなかった。ただその時々に合わせて雨風を凌ぐ場所を探しているに過ぎないのだと、二年前に話したときも似たような感想を抱いたことを思い出す。
「大人しそうな顔をして強かな生き方をしている」
「綱渡りをしているのは何も僕だけじゃない。家を生き永らえさせるためなら小狡い手段も取るさ。この都は大義のために成り立っているんだ」
「……」
曖昧に頷く。大義という言い回しに内心ではやや面食らっていた。散々祀り上げられた研究会を素っ気ない紙切れだけで追放された件を含め、朝廷の各所で見られる大袈裟で芝居がかった思想のぶつかり合いを真に大義と呼べるのか分からなかったのだ。
阿諛追従を最上の処世術と心得る朝廷七十二吏たちの中に、現皇帝権力へ歯向かう気骨のある者などいないかのように思われた。あの傍若無人な千伽でさえ黙して語りたがらないのは、彼らにとって頂点に君臨する皇帝が如何に絶対的な力の象徴であるかを窺わせる。
清虚の都の水面下では貴族同士が婚姻でそれとなく手を組んだり、密かな険悪の不協和音を奏でたり、小さな火種が絶えずあちらこちらで燻っているが、今目の前にある事象を思えば皇帝の指先ひとつで全てが面白味のない独善に呑まれてしまうように錯覚する。
鐘方の御君とともに、道場内の暗がりに潜む神秘を見上げた。これも皇帝派の大義だというなら、俺はどうすればいいのだろう。
白い翼をもつ神鳥が目の前にいる。僅かに漏れる夕陽の斜光を受け、白銀の輪が鈍く輝いている。恐らく皇帝がこの道場の天井にまで届く格子状の檻を用意したのだろうが、その気になってこの巨体で暴れたら何もかもが粉微塵になるように思えた。
豊隆に相対するのは久し振りだった。思えば俺が豊隆と初めて心を繋げたのは、七星の首が起こした山火事の際、火の手から逃げきれずに祈ったことがきっかけだった。それから神明裁判で俺が豊隆を呼び出し、説明のつかない異質な関係が公に知られることとなったのだ。
そして今、元七星に手引きされて囚われの豊隆と対面している。奇妙な縁だった。豊隆が何故俺を選んだのか未だに分からないが、今振り返るとこの鳥は常に政治的な意味合いを以て、皇帝権力に近しいところから俺に付き纏っている。
豊隆の巨大な背に乗って空を飛んだことのある身として、薄汚れた地上の権威に囚われている姿には胸を打たれるものがあった。ただ、ここに来れば何か分かるやもという期待に反し豊隆はいつものよう俺に何も伝えないので、やはり絶対的存在の意を汲むのは不可能なのだという畏怖の手触りもまた生々しく思い出した。
天井の陰に隠れ、豊隆の首から上は見えない。それで良かった。神格の顔を見ればこちらが危ない。事実、こうして少し距離を空けていても檻から滲む冷たい気迫に、生理的な涙と悪寒がじわじわと込み上げてくる。
俺は鐘方の御君に向かい合った。重く圧し掛かる沈黙を人の声で乱さなければ自分たちの存在が潰されるように錯覚した。
「皇帝陛下はどうやって豊隆を捕まえたんだ?」
「さあ」
彼は肩を竦める。「陛下が神域を侵すのは珍しいことではないし、色々な自然霊を捕らえることで培った技倆があるのかもしれない」
皮肉なのか本気なのか分かりにくい言い方だった。年明けの密会で先輩が言っていたことを思い出し、飄々とした彼の態度に何だか苦言を呈したい気分になる。
「百歩譲って捕まえておくにしても、豊隆が枢密院の管轄なのはおかしくないか。手に余るだろう」
「どこだって手に余るさ」
鐘方の御君は少し馬鹿にしたよう口を窄めた。
「天文院の巫女たちが天災を恐れて傍に置きたがらなかったんだ。中書院もだんまりで、禁軍のところは敷地が足りないからここに回されてきたって訳。本当にいい迷惑だよ」
「あらゆる官公庁が盥回しにしたのか。壮大だな」
そこで俺はふと首を傾げる。官公庁と言えばもうひとつあったのではないか。
「翰林院はどうした?」
「噂だけど、皇帝陛下が敬遠したらしい。翰林院は陛下に最も近しい顧問だからね」
「何だ、結局畏れているんじゃないか」
俺の安堵したような言葉に彼は少しむっとしたかもしれない。神経質そうな細い眉を顰め、「影家の御君は何も教えてくれなかったの?」と問うてくる。
「……白狐様とは顔を合わせていない。迷惑がかかるから」
「殊勝なことだ」
俺は口を揉むように動かして、話題を変えようとする。付き纏う責任感の影に素知らぬ顔をしながら彼が背筋を伸ばしているのと同じく、俺もまた背負うものの重さから逃げられない立場にいる。互いにこれといった思い入れはないが、この場において分かち合える感情があると信じていた。
「〈第三天子〉について、お前は何か知っているか?」
間が開くと、沈黙が滑らかな質量を帯びて空間を圧迫する。この場で対話を続けると寿命か何かが削られるのではという考えがちらりと過った。鐘方の御君は、口を開く。
「噂になっている分だけ」それから問うた。「君はあれをどれだけ信じているの?」
「……」
言葉に詰まる。本音も建前も全てがいっぺんに喉に詰まったようだった。
「分からないんだ」
「じゃあ、誰も分からないよ。君が分からないのならさ」
俺は首を振る。
「誰もが期待しているほど、俺は豊隆にとって特別じゃない。偶々俺だっただけなんだ。ちょっとした神の気まぐれで世界の中心に置かれている。そういう感覚って分かるかな」
鐘方の御君は緩慢に瞬きをする。触れ合う睫毛の音さえ聞こえそうなくらい辺りは静まり返っていた。俺も彼も、豊隆の存在を、礼に反さない程度に無視しようと努めていた。
「理由はある。霊はちゃんと人を選んでいる。不可視であるというだけだ」
慎重に選ばれた彼の言葉は、重たい暗闇を更に重たくする。同時に、霊という語を口から発したときあまりぱっとしない彼の顔立ちに人を惹きつける何かが生まれた。俺はそれを見逃さないようじっと凝視する。
「認識の外で起きた事象に突然巻き込まれる感覚なら分かるよ。自然霊を使っていると、よくそういう気持ちになる」
言った後で、彼は俺の視線に気づいた。何? と言外に問う彼に、俺は小さく首を振る。長遐での山暮らしを長らく離れていたので、久し振りに目の当たりにしたそれが何なのか一瞬分からなかった。
吹けば飛びそうなくらい脆いのに、何故だか雲の上でも足をつけて歩いて行けるような──白狐さんが振り撒くどこか親しみ難い柔らかな気品とも、強引に何もかも奪っていく千伽の理不尽な魔性とも違う、奇妙な芯の強さ。人よりも自然の霊に馴染む性質。
風の中に春の泥の匂いを感じ取るよう、鐘方の御君の顔にそれを認めたとき、ようやく俺は彼が霊使いであることをちゃんと思い出した。そうだ、この男もまた翔のよう自然の霊に心を近しく置く体質なのだ。
「以前会ったとき、水霊を呼んでいたよな」あのとき沼地に現れた目のない怪物の姿を思い出し、少し身震いする。
「生まれたときからそういう素質があると気付くものなのか?」
「さあ」
真意を測りかねたよう彼が肩を竦めるので、俺はちらりと目の端で豊隆を捉える。
「正直に言って、俺は人間の力で御せない怪異の類が嫌いだ。許されるなら、関わらずに生きていきたい。だから豊隆とこうして一本の奇妙な糸で結ばれたときは驚いたし、今でも納得していない。何故俺なんだろう?」
自然霊は自然を愛する人間に懐くものだと思い込んでいたのだ。そういう才覚に溢れた翔を間近で見ていたから。世俗を離れ、信仰とともに山で生きる世捨て人が自然霊と心を通わせる──如何にも筋が通った話ではないか。
だが現実はそうではなかった。鐘方の御君は僅かに声音の温度を下げる。
「僕は君と豊隆の間にある繋がりをよく知らない。それは君自身を除いて誰にも理解できない領域のものだ。ただ仮に君を広義の霊使いとするなら、君の言う通り霊を愛する気持ちの有無なんてまるで関係ない。そんな能天気な話じゃないっていうのは分かるだろう?」
頷く。そうだ、自然の霊たちは理不尽なのだ。分かっているはずなのに時々俺はそれを忘れる。
「幼い頃から霊たちと触れ合えた僕だって、霊使いに必要な素養なんて未だに分かっていない。ただ何となく確信しているのは、それはどちらかというと不足なんだよ」
「不足?」
「霊使いたる者は、いつでも何かが欠けているんだ」
俺は一瞬呆気に取られて黙った。時間をかけて瞬きをして、怪訝そうにしている彼の顔をまじまじと見つめる。
「昔、霊使いに憧れる少年に、今と同じ話をしたことがある?」
「あるかも」鐘方の御君は鼻を触った。「それがどうかした?」
「いや、何でもない」
宿命的だった。宿命的。巨大な無音に威圧された場において、そんな大袈裟な言い回しもぴたりと食み出さず空間に溶け合っている。年季の入った佇まいの霊使いの存在も、不可視の神秘を加速させていた。
以前の俺ならば気にも留めなかっただろうが、豊隆を中心とした運命の輪を明確に捉えたのはこの瞬間だったと思う。偶然などではない。全てが用意された歯車のよう噛み合い、着実にひとつの方向へ進んでいる。
では、妖怪先輩が掻き集めた書物からではいまいち得られなかった答えが、ここにあるのだろう。
「これは初心者からの質問だと思ってくれていいんだが、霊から視覚や聴覚を借りるというのは、霊使いでは普通のことか?」
彼は少しその質問に意表を突かれたような顔をした後、「普通だとは思わないけど、たまにあるかな」と答えた。
「君はそういう体験をしたの?」
「まあね」
嘘にならない程度に濁しながら、俺は水蛇の存在をいつまで隠し通せるのだろうと心配になる。
「強く心が通い合った霊は、時に様々な力を貸してくれる。彼らの力が物理の制約の外によって生まれるものなのか、気まぐれによってもたらされるのか、それぞれの霊の個性によって能力が違うのか、誰にも分からない。霊と人の関係は大抵、ごく個人の体験の範囲に留まるから霊使いの間でも共有しにくいものなんだ」
書物から似たような事例が見つけられなかった理由は、これで充分に思えた。
水蛇の出生は、俺が介入したことで起こった自然界の例外のようで、実はそうした例外自体霊が相手では珍しくないことなのかもしれない。民間伝承の中で語られる霊は支離滅裂で、法則性など見つけようがなかった。能力に関しても、汎用的な部分で幾つか分かち合える点があるにしても、他の事例と比較することにさして意味などないのだろう。
こういう言い回しが適切かは分からないが、霊と人の関わりは珍しい病気の症例のように既存の時間軸から常に外れて構築されてゆくのではないだろうか。そう腑に落ちてしまえば、水蛇のことについて今後あれこれ頭を悩ませる必要はなさそうだった。
「それが聞けて良かった」俺は彼に向かい合う。「悩みがひとつ解消された」
そろそろ道場を出るべきかもしれない。冬の日没は早く、周囲には人気が感じられないが、ここの暗闇は生きるものから何かを奪ってゆく。肉体の内部にある、温度を持った確たる質量を。
俺は、踵を返しかけた彼に問いかける。
「──じゃあ、最後にこれも七十二吏ではなく、一人の霊使いとして答えてほしいんだが」
鐘方の御君はぴたりと動きを止めた。長い髪が、重力に晒されて揺れる。
「一見下らないものの中に大義があると言ったな。ならお前はこれも大義と見なすか?」
「……」
見上げた先には、人の手で作られた馬鹿げた檻と、中で大人しく翼を畳んでいる神鳥がいる。何故皇帝がこんな真似をしたのか、それこそ最も下らないことのように思えた。理由を考えることさえ道理に反することだ。
鐘方の御君はやはりゆっくりと瞬きをして、心なし濃くなった神気をやり過ごしている。神や霊の前で嘘をついてはいけないというのは俺たちがよく知る自然の理だった。
「……この鳥が第三天子であるなら、然り」
ようやく開かれた口から出た答えがよく分からない。意味を咀嚼しようとして時間をかける。
「第三天子なら、この扱いは妥当だと?」
「違う。豊隆が本当に第三天子ならば、自らの意志で檻に捕まり身を窶すだろう。僕が言いたいのは、豊隆自身の大義についてだ」
それが意外な言葉だったので、ちょっと口を噤む。豊隆自身の、と彼は言った。神の意が人知を超えていることなど彼は俺よりも理解しているだろうに、珍しい言い回しだった。
昭文館に忍び込んだ夜に読んだ伝承のことを思い出す。深く訊ねる代わりに俺は「そうか、豊隆の大義か」と呟いた。少なくとも、朝廷内の派閥争いをそう呼んだときよりは納得していた。
「だが実際問題、こんなことをして只で済むとは思っていないんだろう?」
彼は分かりにくく、口の端を持ち上げる。小さなえくぼの陰が生まれる。
「泥船に乗る気はない。だからこうして清心に擦り寄っている」
「結構な大義だ」
俺の皮肉など受け止める気はないようで、鐘方の御君は肩を竦めただけだった。恐らくこの男は、突如地盤沈下して皇城ごと陥没して滅んでもどうにか自分だけでも生き延びる道を探すのだろう。生き汚いとも言うが、その正直な性根は不快ではなかった。誰にも期待しないというある種の開き直りが、彼なりの大義なのかもしれない。
「僕はもう行くよ。君も長居せず早く帰るといい」
瞬きをして、現実に返ったように答える。
「……分かった」
また会えるといいな。そういう次を保証する言葉はこの場に相応しくない。彼はきっと、俺個人と深い関わりを持つことは望んでいないだろう。彼は静かに踵を返す。
「君が滞りなく出られるよう計らっておく」
「恩に着る」
鐘方の御君はまるで俺の心を見透かしたよう、小さく微笑んだ。感謝などする必要はないという自虐的な微笑だった。影が横切り、さらさらとした衣擦れの後に扉が軋む音がやけに大きく響く。再び静寂が訪れたとき、俺はたった一人で真っ暗な道場に取り残された。
すう、と肺に空気を入れる。息を吸えば吸うほど胸が詰まるような感じがした。暗闇が肉体の内側に入り込み、指先まで染まってゆく。善でも悪でもないが、そういう心身を蝕む類の闇だった。
「──豊隆」
俺は数歩檻へ近寄り、名を呼ぶ。音が霊を帯び、静謐な神気の膜を圧す感覚がある。空間が緩やかに撓み、波打ってから均一な暗黒が満ちた。
「お前は、本当に第三天子なのか?」
豊隆の顔つきが、今なら見える。白銀の羽毛がほんのりと輝き、その猛禽のような嘴が淡い虹色の光を帯びていた。しかしそこから読み取れるものはない。感情の揺らぎも、野性的な表情もない。ただ宇宙の空間の歪みに手を突っ込んだような、何も掴めない壮絶な虚無感だけがあった。
──ああ、どうして今まで気づかなかったのだろう。
痺れるほどの緊迫感のせいですぐにそれと分からなかった。この神や霊を初めとする、超自然的な存在と触れ合うときの奇妙な空間の奥行きと、方角を見失ってしまうような暗闇を最近どこかで経験したと思ったのだ。
何度も何度も斎舎で繰り返し見た、あの夢。
俺はそっと、心の中の欠陥にそっと手を宛がう。誰かが何かを奪った喪失の痕跡。目を瞑って自己を見つめると、深い底なしの穴に小石を放り込んでいるような気分になった。俺は豊隆と向かい合ったまま、意識の片鱗が穴に吸い込まれる無音の風切り音にじっと耳を澄ませていた。
これが俺の不足ならば、豊隆は俺に何をもたらすのだろう。或いは、更に何かを奪うのだろうか。