Ⅳ
翌日、月に一度の私試の試験会場で俺は真っ先に退室した。答案は全て埋め、減点されるなら字が多少乱れていたところくらいだろう。頭の中は相も変わらず異様に静かで、妙な興奮状態が続いていた。
裏口から外へ出て、脇に寄せられた雪のせいでかなり狭くなった裏庭を歩く。目線を足元に向けると、地面の一部が陽炎のように揺らいでいた。鈍い曇り空の下、それはじっと目を凝らさなければ分からないほど雪の白さに泥んでいる。
「来い」
腕を伸ばす。伸びた頭が蛇の形になって、するりと這い上がってくる。氷よりも冷たい感触に立った鳥肌すら高揚をそっと煽るようで、俺は水蛇に鼻先を近づけた。
「それで、翔は何て?」
この水の霊は、日を追うごとに出来ることを増やしている。俺に視覚や聴覚を貸すのみならず、思念を読み取り、それを伝言として運ぶこともしてみせた。
昭文館の潜入以来、水蛇との間に意思疎通の緩やかな手応えを感じるようになった。そうして芽生えた主としての自覚が水蛇に何らかの成長や覚醒をもたらしたのだろう。精霊が精霊を従えるという歪さに付き纏う違和感は、今のところ遠のいている。
「……なるほど、豊隆は昨夜の内に衛士の兵寮付近に運ばれたのか。それは厄介だな」
肌に触れる冷たさの中に、水蛇の肯定を受け取る。豊隆がどこに捕らわれたのか調べた翔も同じ感想を抱いたに違いなかった。
孑宸皇国の軍政は枢密院という官庁が担っている。院内は二つに分かれ、中央を守るのが宮中三班、地方を守るのが衛士と呼ばれる。そして前者が内朝に屯所を構えるのに対し、後者の兵寮は皇城から離れた都中にあった。御時代に入ってから武よりも徳によって治める政治論が持て囃され、周辺地域との目立った内戦もなく、各地の警守を司る衛士の立場が低くなっている証左である。
兵寮の場所はおおよそ知っていたが、皇城から離れている分近づいたこともなかった。豊隆の巨体を収められる大きな建物が目標になるという程度では、水蛇を使っても忍び込めるかどうか。
豊隆のところへ行って、何かが出来るとは思えなかった。ただ答えに近づくにはそれが唯一の手段でもあった。あの神鳥は、あれほどの巨躯と天候を操る力を持った上で、自らの意志を以て人の手に捕まったのだろう。
何故。それを確かめたかった。
寒空の下、俺は幾つか案を巡らせる。白狐さんに頼るという手は真っ先に却下された。研究会ですら即座に手を切った俺の存在は、影家には荷が重すぎる。無理に兵寮敷地へ潜入するのは最後の手段として、俺がしばらく逡巡したのは、司旦に手引きしてもらえないかということだった。
今は影家の近習として復帰している司旦は、一時期七星という隠密隊に所属していた。それは表向き衛士を装いながら暗殺や諜報など朝廷の裏を暗躍する皇帝直属の特別な少数組織で、各人は数字を冠した仮名で呼ばれるなど徹底して素性が隠されている。
七星たちは、二年前の影家にまつわるごたごたの最中でほとんどが解雇されるまで一般的な衛士として見せかけの仕事をしていた。つまり司旦も都にある衛士の兵寮に出入りしていたはずである。俺の伝手はそれしかない。
しかし結局、俺は自分だけでどうにかする方法を選んだ。正確には自分たちだけで、だ。既に皇国の軍部から遠のいて貴族家の近習に収まった司旦にどれだけ力があるか分からなかったし、頼み事を口にするより先にまず罵詈雑言を浴びせられるであろうことは目に浮かぶ。
「仕方ないな」
俺はわざと声に出した。「いざとなったらここを辞めればいいか」
翔が太學を辞めたいと漏らした本音が、この先現実になるかもしれない最悪の着地点の緩衝材になっている。最善でも最適でもないが、何も支払うものがなかった世捨て人の頃とは違い、そういう責任の取り方があると思うだけで少し気が楽なのだ。
それじゃあ行こう。俺の呟きに水蛇はのろりと首を擡げてみせた。
***
夕刻、俺は困っていた。予定が大幅に狂い、今衛士の兵寮の敷地内で立ち往生している。
斎舎の自室から水蛇を寄越すには距離がありすぎたため、一度戻って私服に着替えた俺は街中の人気のない路地から上手く事を運べないか画策していた。
問題は、俺の意識を乗せた水蛇が目的地へ近づくごとに怖気づき、進むのを渋り始めたことだ。本能の拒否感がしこりのように障り、門の付近で強張りが最高潮に達する。透明とはいえうろうろしていては誰かに見つかりかねない。これまで経験したことのない水蛇の尻込みは、付近から漂う冬の霧のような神気のせいだと何となく理解できた。
では、豊隆はやはりここにいるのだろう。
それで思い切って生身で侵入を試みたのは、少々大胆過ぎたかもしれない。衛士たちが出入りする兵寮はそれほど警備が厳重ではなく、人に紛れて門から入るのは簡単だった。皇城内部であればこうはいかなかっただろう。
万一見つかっても、適当な言い訳を並べて立ち去ればいい。そういう心構えだったのが、まんまと二名の見回りに見つかって誰何されている。
「身元を示すものを出せ。名は何だ? 一体何の用だ?」
俺は窮して口を閉ざす。相手がこちらを認識していないなら、正直に名乗るのが得策とは思えない。
都の南側に位置する兵寮は、地方警守の基幹らしく思ったより広大で、都が有事の際は全国の衛士がここに招集されるのだろう。そういう軍事力を肌で実感するには充分だった。
定規で引いたような方形の敷地に寄宿舎を配し、中央には遮るものがない平坦な中庭がある。目視で確認できる限り、外郭には鍛錬を行う道場のようなものが大小複数あって、奥には屋外の稽古場があるらしかった。
規則的に配された建物の窓は鎧戸で固く閉ざされている。明るい朱色や緑青色の塗装が剥がれ、木目が露わになっていた。太學の斎舎も古いと思ったが、兵寮はそれ以上に武骨な印象である。俺は気配を辿り、神鳥を収容できる程度の道場に当たりをつけて近づいたところを目敏く呼び咎められたのだった。
木造の段木の上、建物の周囲をぐるりと囲う回廊から見回せば、鉄を焼く炉のような冬の夕暮れが一層不吉に映る。押し問答する三人の影が、積雪がこびり付いた板間に延びていた。
「知り合いに会いに来たんです」
別に嘘ではない。豊隆が知り合いであるかはともかくとして、俺の前に立ちはだかる衛士たちに細い声で会話の糸口を見出そうとする。
「誰に会いに来たか知らんが、今闖入者を見逃す訳にはいかない。ぴりぴりしているんだ」
確かに、雪が積もった夕暮れの中庭に見える人影はどれも緊張していたり、落ち着きを失っていた。肌に触れる空気に痛みを感じるのは、寒さのせいだけではないだろう。彼らは頑なにその理由を言いたがらなかったが、聞くまでもないだろう。
深入りせず早めに切り上げるべきだったが、近づくほど寒気とともに肌をなぞる豊隆の気配にまた高揚し、踵を返すには少し惜しくなってしまった。仕方なく素直に謝って階段を降りようと思ったそのときだった。
「揉め事?」
背後から声が投げかけられた。焦るでもなく、咎めるでもないが、聞き取りにくい声。振り向いた俺は、そこにいた顔を見てしばらく思考が停止する。
──誰だ?
視野の端に残像が残るほどの素早さで、頑なだった二人の見張りがその場で膝をついた。両方の掌を捧げるようにして、その人物に敬礼している。
二重に驚き、再びその顔を凝視する。目を細めるようにして軽く首を傾けた、男の表情を。
特筆すべきものがない、当たり障りのない朴訥とした顔立ちだった。痩せた体躯にはやや不釣合いな宮廷服の裾を引き摺り、髪の毛はきっちりと古典的に結っている。身分の高そうな恰好に気取られ、本気で誰なのか分からなかった。
衛士の一人が、頭を下げた。
「鐘方の御君、廊下で騒いで申し訳ありません。此方の者が、ここに侵入せんと怪しい挙動をしていたものですから」
「侵入?」
男が俺の顔を意味ありげに正面からじっと見た。赤々とした残光が、彼の顔の半分にどす黒い陰影を刻み付ける。俺のことを見知っているという目つきに、かなり遅れて記憶が蘇った。内気そうな振る舞いが彼を若く見せていたが、よく見ればそうでもないということが分かった。
──三ノ星。
思わず、声に出しそうになるのを抑える。その代わりに瞠目し、何故彼がここに居るのかと動揺する。
隠密隊七星の三番手を名乗る彼が、関を介さない方法で領境を越える手引きしてくれたのは二年前のことだ。あのときは互いに事情があって、素っ気なく別れたきりとなっていた。
以来、特に親しみもないまま遠い記憶として置き去りになっていたが──どうやら無事に生きていたようだ。宮廷服に身を包んだ彼は、湿地で会ったときより幾分堂々として見える。
三ノ星は瞬きをして、真意を確かめるようこちらを覗いた。この目立たない男を味方と取るべきか分からず、目線を伏せる。膝をついた方がいいのかもと思うが、咄嗟に身体が動かなかった。
彼はさして思案する様子もなく、自身の痩せて骨ばった顎に指を沿わせる。
「……お通しして」
「え?」見張りと俺の声が重なった。
何を言われたのか分からなかった。三ノ星は重たげに瞼を伏せる。
「僕の知人だ。早くそこを退いて」
不意に冷たい刃を押し付けるような言い方に、俺は立ち尽くしてしまったが、見張りたちは慌てたように左右に道を開け、道場の扉を開ける。
「……え、あの」
「さあ、どうぞ」
三ノ星が俺の背を押すようにして、促す。ちらりと窺うが、彼は前を見据えたまま表情を消していた。
「自然に振舞って。顔を見られないように」
そう無声音で囁かれたとき、俺の背筋に悪寒が走る。恭しく頭を下げる見張り番に見送られ、俺は道場の戸を潜り、三ノ星とともに暗く重厚さを帯びた空気に足を踏み入れた。
「……」
ぎい、と下手な楽器のような音を立て、後ろ手に扉を閉める。人知を超えた存在を閉じ込めておくには、戸も壁も滑稽なくらい薄っぺらに思えた。「人払いを」と三ノ星が淡々と告げるのを、俺は現実味がないまま聞いている。
古びた木造建築特有の、息が詰まるような埃の匂いが冷気とともに重く満ちている。天井は高く、深い底なしの穴を覗き込んだようにすら錯覚した。薄暗い室内はよく見渡せないが、太い柱の向こう、従僕らしき影がぱたぱたと駆け、やがて動くものの気配が遠くに消える。出入り口の戸が閉まる。
ただ目の前にはとてつもなく巨大で、言葉では表し難い、静かな神の威圧感がある。俺たちは少しの間、黙った。
「この時間帯は人の出入りが少ないんだ。それでも長く退けておく訳にはいかないからね」
彼は奇妙に鷹揚な調子でこちらを向く。暗闇に包まれた道場内、月辰族らしい肌の白が灰色に曇っていた。
「──久し振りだね、世捨て人」
「……」
物静かな眼差しが、神気に侵され潤んでいる。俺はしばらく言葉を失い、じっと目で窺うことしか出来ない。彼に助けてもらうほどの貸し借りがあっただろうかと思い出そうとするが、頭が上手く働かなかった。
「もしかして──」
まず何から手を付けて良いものか、両方の人差し指で相手を差してみる。「偉い人?」
「これでも一応、凉省の鐘方を治める家の当主なんでね。朝廷でそこそこ顔は通っているつもり」
「七十二吏だったのかよ。道理で」
この国の政に携わる七十二の席は、八家の当主を除いた文官武官六十四名で構成される。それらには中小貴族の血を引くものも多い。彼が口にしたその家名は俺でも知っていた。
「鐘方には行ったことがある。青緑色の石造りが美しい街だった」
三ノ星はゆっくり時間をかけて瞬きをしただけだった。言われ慣れているのだろう。
「先に言っておくけど、僕はもう七星ではないから三ノ星とは呼ばないように」
「じゃあ、何と呼べば?」
俺の間抜けな問いに彼は肩を竦める。君は一体何を聞いてきたんだと呆れられたようだった。咳払いをして俺は声を低くする。
「……鐘方の御君」
「何かな」
「手引きしてくれたことには感謝するが、何故俺を助けた?」
鐘方の御君は緩やかに目を細めたようだった。その女のような笑い方に、冷淡な嘲りと大人の愛嬌が同居していた。
「君が畏まる必要はないよ。清心に恩が売れる」




