Ⅲ
思想史研究会にこれを報告するべきか? 俺と翔は即座に否とした。〈第三天子〉にまつわる伝承の真相は、この先どんなことがあれ共有されるべきものではないというのが俺たちの結論だった。
水蛇が苦労して探し出した禁書の内容はあとで改めて触れることにして、元宵節の最終夜、幻術まで用いて万和があの禁書類を閉架へ戻しに来たことの方が、俺たちの重要な証拠となった。
凪いだ水面に小石を落とすよう、例の噂の波紋は緩やかに、ごく自然に広まっていた。誰もが〈第三天子〉を話題に出すときは声を落としたが、その禁忌めいた響きは一層噂に信憑性を持たせた。黒々とした腐敗の影が清心派の足元にまで迫っている。まだ視界には入っていないが、その予感が余計に不穏なのだった。
一月半ばに、翔は療養という名目で授業を休むようになった。太學を辞めたいという意向を白狐さんに打ち明けたとき、まずは公的な休学という形でしばらく今の生活から離れてみてはと勧められるまま従ったのだが、例えそれが彼の純粋な善意だったとしても結局は問題を先延ばしにしただけだっただろう。
俺は変わらず天学の授業に出席し続け、一方で思想史研究会の活動からはなるべく遠ざかることで計画的な疎遠に持ち込もうとしていた。借りていた図書館の書物は全て返し、改めて礼に出向いた日を境に妖怪先輩にも会っていない。
まだその筋から有用な情報が流れてくる可能性がないでもなかったが、それ以上に俺と彼らの目的は大きくずれていた。濁を打倒したい訳でもなく、政治思想を論じた雑誌を発刊したり、集会をして何かを糾弾する行為は、徒に将来を妨げる瑕をつけるだけのように思えた。そして、ただその場にいるだけで渦中にされるのも億劫だった。
しかし、俺が新たな秘密を抱えたまま如何に目立たぬよう振舞っても、何の意味もなかったかもしれない。月が替わる前には〈第三の天子思想〉に関する伝承は幾らか改変された形で噂に尾ひれをつけ、更にそれを吹き飛ばす皇国史上類を見ない大事件が起こった。
皇帝が、豊隆を生け捕りにしたのである。
***
早朝、その報せを聞いたとき俺と翔はまだ眠っていた。研究会では幽霊同然でも、内舎の中で集まったり断り切れない飲み会に顔を出したりすることも全くない訳ではない。要するにまだ前日の酒が抜けていない状態でそれを聞かされた。
死ぬほど眠い頭にがらんがらんと大きな鐘を鳴らされたようで、言葉は頭蓋にただ虚ろに響いて面白いくらいどこにも吸収されなかった。
豊隆が捕まった。皇帝陛下が捕まえ、皇城まで運んだ。
「何が? 何だって? どうやって?」
白々と明ける空の下、天学の斎舎は口々にそうした混乱に包まれ、俄かに騒々しくなった。その情報を運んだのが一体誰であったのか、ともかくここに俺がいたから回るのが早かったようで、それから太學内で順番に爆撃されるようこの騒動はあちこちに延焼した。
「一体どういうことなんだ?」
朝の日課を終え、授業が始まる時刻になっても、学生たちはそこから一歩も進んでいなかった。理解しろという方が無理な話だ。一体誰がそんなこと予見できたというのか。
久しぶりに顔を出した翔の珍しさもあって、同舎生が机の周りに集まって俺が何か知らないか口々に問い質し、いつもより遅れて来た學諭でさえばらばらと席に着く学生たちを咎めるよりも先に動揺気味の一瞥を俺へ寄越した。
「……」
全てが、伽藍洞の頭の中を通り抜けていくようだった。どれだけ時間が過ぎたのかも定かでない。午前の聴講はいつの間にか終わり、まだざわざわと騒然としたものが残る学生たちの流れに沿って退室しようとすると「そっちじゃないぞ」翔に腕を掴まれる。食堂への廊下は真逆の方向だった。
「ああ、そうか」
俺は地に足がついてない心地で歩いてゆく。外の景色は曇り、昼から降り始めた雪は吹雪になって斎舎の屋根を軋ませた。物々しい一月の風の音を聞きながら、食事の時間も午後の間中も、俺はずっと触れる傍から崩れる脆い砂で思考を組み立て、無為に指の隙間からさらさら零れてゆくのを見送っていた。
一体どういうことなんだ。
雪降る地平線が水で暈したよう夜に溶けてゆく。冬至を過ぎたとはいえ日没は早い。俺と翔は夕餉の時間帯に混み合う食堂を避け、身体が麻痺したような軽い空腹感と吐き気を抱えたまま自室への廊下を歩いていた。何かを食べたいという気力を実感できるほど、今日という一日に現実味が持てなかった。
「あ」
翔が足を止める。聞こえるか聞こえないかという小さな声に、俺は背後からそれを覗き込んだ。俺たちの部屋の戸に、折り畳まれた白い紙が挟まっている。薄暗い寮の廊下で、それは幽霊の手のように浮いて目立っていた。
引き抜くまでに幾らかの疑心と覚悟を決める時間があった。ようやく手を伸ばす気になったとき、昼夜問わず斎舎内に染みついた冬の冷気が背骨にまで達しようとしていた。
室内の明かりをつけ、俺は自分の椅子に腰掛ける。二枚に重なった紙の手触りもまた冷たい。一度翔と目線を合わせた後、それを開く。三つ折りにした後に端を折る、正式な手紙の形式だった。
「……追放通知書」
右端の一文を読み上げ、それだけで辛うじて身体に残っていた気力の全てが消えたように思えた。読むのが億劫になり、察した翔が上から覗いて器用にも逆さまに読む。
「思想史研究会、規範第十七条に基づき、一月三十日付で下記の違反者二名の追放を通知……」
視線を左へ進めずとも、そこに連なる名前が自分たちのものであると理解できた。日付は今日である。研究会に入る際に目を通した行動規範の文面を記憶から探ってみたが、何ひとつ思い出せなかった。
念のため言い添えておくと、第十七条では「研究会の活動を著しく阻害する不品行、不行儀な素行が認められた者は、上舎生三分の二以上の投票で追放できる」云々といった内容だった。いずれにせよここで思い出したところで何の役にも立たなかっただろう。
二枚目は一枚目の通知書の写しで、一番端に受領の証拠として俺たちの記名を必要としていた。俺はしばらく、三年かけて覚えた孑宸語の読み方を完全に忘れたようじっと通知書を眺める。研究会で主に書類の作成を任される、字の巧い先輩の顔が浮かんだ。丁寧に筆で綴られた書面は、前衛的で意味不明な抽象画のようだった。
研究会から除籍された。強制的に追放された。
真っ先に思い当たった、元宵節の無謀な昭文館への潜入が露見したのかという可能性はすぐに脳内で消去する。あれが見つかったはずがない。水蛇の存在が誰かに勘付かれたはずがない。
であれば──思いつくのはやはり豊隆のことだった。細かい経緯は分からないが、豊隆が皇帝の手中に収まったことで思想史研究会全体に不利益が被る事情があったのだろう。だから、この朝廷で最も豊隆と親密に結び付けられた俺が切られた。翔はついでに。
「……」
この数か月、何度も飲み会や集会で浴びてきた彼らの威勢のいい若さを思い返し、何の伝言もなくこれを寄越した温度差から、さしあたり事の深刻さを推し量ることにした。いちいち責めても不毛な感情が募るだけだ。学生運動が遊び同然なことなど端から司旦が指摘していた。今更落胆するほどのこともないではないか。
「どうして俺まで」
翔は子どもっぽく拗ねて空気を軽くしようとしたが、半端に途切れた。全てが磁力を以てひとつの中心に吸い寄せられていた。豊隆に──それが真か偽かも分からない〈第三天子〉に。
「研究会がこんなに早く動いたってことは、豊隆が捕まったっていうのはガセじゃないのかな」
机の端に寄り掛かった翔は、俺が普段使っている筆と石硯を棚から降ろしたのを見て眉を顰めた。「それ署名するの?」
「まあね」
長引かせる理由もない。指を汚さないよう墨を擦り、俺は翔の言葉を頭の中で繰り返す。研究会の素早すぎる動向は、例の話に嫌な比重をもたらした。何となく胃の入り口が締まるような感覚がある隣で、明日は試験なんだよなと妙に冷静な考えが同居していた。
そう、俺は冷静だった。追放通知書に同意の証として名を書き、乾かす隣で今月の授業内容を予習するため書物を開くくらい、頭の中心がしんと凪いでいるよう冷えていた。
「……翔は明日の私試も受けないんだろう? なら、お願いがあるんだけど」
乾燥した頁を指で摘まみながら、俺は翔を見ずに口を開く。灯りがゆらゆらと翔と俺の手元の影を壁に映していて、やがて相棒が小さくひとつだけ頷くのが見えた。




