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明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第四話 潜入
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 深夜。静まり返った皇城の建造物の数々は海に沈んだ遺跡のように厳かだった。建物同士を無数に繋ぐ入り組んだ廊下は軒からずらりと金色の灯りが吊るされ、想定以上に明るい。元宵節の時期に合わせた飾りなのだろうか。ひとつひとつが生首のように揺れる影を伝い、透明な蛇が板間を張った透廊の下から首を出す。

 時間帯に見合わない奇妙な明るさと、祭りに浮かれた空気の高揚感。それなのに人影はどこにも見当たらない、不自然。初めて侵入した皇城の夜は、目が眩むほどの敷地の広さも相俟って何もかもがちぐはぐで、妖しげな夢に迷い込んだようだった。

 蛇は周囲を警戒しながら、目的地である昭文館へと腹這いで進んでゆく。視界の端に、瑠璃瓦の軒にしがみついた銀灰色の雪が映った。墨が染みたように空は黒ずんでいて、雪は降っていないがぴうぴうと寂しげな風の声が聞こえる。数日前の雪が解け残った皇城の中庭は、方形の中に架空の地形を描いたような吹き溜まりになっていた。


 空の上で凍り付いたような月が、白亜の壁を冴え冴えとした光の粒子で仄かに輝かせている。


 昭文館に忍び込むのは存外簡単なことだった。簡単すぎて誰かに騙されているのではないかと思ったくらいで、不定形の水の蛇が侵入することなど皇国の歴史上誰も想定していなかったに違いないと遠くにいる俺は己に言い聞かせなければならなかった。

 戸の隙間からにゅるりと形を崩して内部に入り、蛇の形を取り戻してから壁の隅に寄る。困ったのは真夜中の館内は灯りひとつなく、右も左も上も下も分からないということだった。手探りで──蛇に手はない──砂埃の溜まった壁際を行き惑い、本来校官がいるべき窓口に辿り着くまで随分時間がかかった。完全な暗闇に包まれたその場所を見て、ようやく妖怪先輩の寄越した手紙の内容が真実であったことを確かめられた。

 確認出来る限り、構造は史館とほとんど変わりない。であれば、二階へと続く階段が奥の方にあるはずだった。鍵の心配はしていなかった。木造建築では避けられないほんの僅かな隙間が、一ミリメートルでもあれば水蛇は容易く突破する。


 慎重に、しかし笑えるほど大胆に禁書区画への侵入は行われた。

 奥の閉架の更に突き当り、奇妙な顔つきの神の意匠を施された錠のある引き戸の中に階段は隠されている。それはここが土蔵であることを思い出すには十分すぎるほどの急勾配かつ簡素な造りで、梯子を立て掛けていると言った方が近い。

 水蛇は身体を伸ばしては縮めて、亀の歩みのよう一段一段を上がってゆく。欄干のある吹き抜けの階上に出ると、高いところにある窓から青い夜の陰影が差して、整然と立ち並ぶ二階の書架が幾らか見えるようになった。外の提灯の揺らめきが、冷たい月明かりが、降り積もった雪を伝ってここまで届いているのだろう。

 立ち入りを制限されているだけあって、一般書架とは異なり、書物のほとんどは木造の戸のついた重厚な書架に仕舞われている。中には見るからに重厚な彫金を施された錠前まで取り付けられ、所蔵されている書物の希少性が窺えた。

 ところどころ背の高い燭台が置かれているがどれも灯りは消えている。書架に取り付けられた鉤状の青銅飾りに薄っすらと積もった埃が、水蛇が起こした空気の揺らぎで舞い上がった。

 水蛇は音もなく、書架の間をゆっくり進んでゆく。目的の書物がどこにあるのか、そもそも噂程度でしかない禁書をどうやって探すべきか首を前後させながら考える。書架の戸にはひとつひとつ木の札が垂れ下がって、仄暗い灯りに照らされたそれを覗き込むと中の書物に関する簡易な目録らしいと分かる。

 端から順に見ていく他ないか、と長引きそうな作業に息をついたそのとき、突如眩い光が二階の暗闇を切り裂いて、その中に一人の人影を浮かび上がらせた。




 ***




 心臓が止まりそうになった。

 水蛇を通じて届けられる映像は、まるで海の底にいるよう揺らめいて、炭酸の泡が弾けるような不鮮明さが視界を乱す。寮の自室で水蛇を見送った俺は、距離が開くごとに少しずつ遠ざかってゆく意識の重なりを手放さないよう最大限に集中していた。

 人ならざる霊と心を近づけるのは久し振りだった。そして、それが自分に向いているとは思えなかった。翔ほど自然霊と相性がいい方ではない俺には、元がスコノスであるという生来の素質一点でこの状況を乗り切ろうとしている。

 まさか、昭文館の中で人に遭遇するとは思わなかった。館内に侵入した時点で宮中の夜を警護する見回りの目は掻い潜ったと油断していた。気が動転して俺の視界は寮の自室の内装に戻ってくる。


「どうした!?」


 異変を察知し、俺の両肩を掴んだ翔が眉を顰める。俺は声を振り絞った。


「誰か……いる」


 自分で言っておきながら俺の語尾は覚束ない。足音もなく、気配もなかった。戸を開ける軋みも錠前を回す音もなかった。本当にそれが生きた人間なのか信じられなかったのだ。




 ***




 蛇は咄嗟に書架の陰に引っ込んだ。闇に対抗するような灯が、空間を丸く切り取って天井にまで届いている。その中に、一人の横顔があった。

 誰かに勘付かれたのだろうか。計画時点で目を付けられていたかもしれないという心当たりはある。豁宿だったはずの校官が何かの都合で当直する気になった可能性もないでもない。いや──それでは、一切前触れもなく出現した説明がつかない。数秒の間に様々なことが脳を過り、思考が焼き切れそうだった。

 床の上で微かに布が擦れ、幽霊の囁きのように響く。大量の書物がもたらす冷ややかな静寂が、灯の不安定な光によって目障りに乱されていた。


 努めて冷静になろうとする。暗幕を捲るよう、何もない場所から人間が現れるのを見たことがあるはずだった。この世には幻覚を司るスコノスがいる。身を隠し、人の目を掻い潜る子ども騙しのような術を使うネクロ・エグロの血筋が。

 俺は千伽がそこにいることを期待した。ほとんど直感したと言ってもいい。前後の脈絡はともかく、仄かに感じた、霧を吐くような音のない息遣いと、顔を伏せたくなる不可視の魔力はあの朧家の血を引く男を彷彿とさせた。

 しかし書架の間からすうと現れたのは、顔を見なければ名前を思い出せないような、或いは一目見ただけで逃げられないと悟るような、そういう存在だった。

 万和(マナ)。現皇帝の直属の宦官──そして、()()()()

 照らされた目元の中に、千伽との血縁を確信させる強さがある。相対する者を服従させる覇気、その片鱗。蝙蝠の目のようにぬらりと艶めく黒髪。顔立ちは端正で、その美しさが尚更高圧的に見えた。

 水蛇の視力を通じて見た万和の着物は、曲線の中に鳥類を描いた襟元の刺繍だけが浮かび上がっている。灯りを下げた色白の手は、辛うじて男だと判断できる骨格が見え隠れした。寒いのか、彼──便宜上そう呼ぶ──の吐く息は白い。

 何故、万和がここに。そう考えると心臓をぎゅうと赤ん坊に掴まれたような心地になる。不意に、先日の深夜の密会で困惑気味に目を光らせていた研究会の面々と、「朝廷の、あっち側」と暈した言い方をした妖怪先輩の声が蘇る。

 朝廷の濁──皇帝派が、「豊隆は〈第三天子〉である」という噂を流した。

 俺はそれを話半分に聞いていた。噂の元を聞き込みで辿るという作業に正確性があるとは思えなかった。しかし今、万和が今ここにいる意味について思い当たることはひとつしかない。


 万和は迷うことなく奥の方へと進んでゆく。水蛇の視点から見えるものはごく限られていた。着物の裾から覗く、真珠を嵌めた履き物。女のように伸ばした長い黒髪。するすると光を避けながら、書架を回り込んで後を追う。整然と立ち並ぶ書架と無機質な影の動きは、祖先の霊が眠る、石造りの墓標を思わせた。

 通路をひとつ挟み、床に引き摺る着物の裾を追っていると突然目の前に光が飛び込んできたので蛇は慌てて飛び退る。

 まるで待ち伏せされたかのように思えたが、重たい金属の錠が獣の歯軋りのように回り、引き戸が開く音が続いた。劣化して歪んでいるのか、戸に張られた櫨色の麻布が撓む。

 もし万和の視線が足元へ向けられていたら、と思うと胃の底が痛くなってくる。恐る恐る頭を床に這わせて様子を窺うと、その鍵付きの書架こそが目的の場所だったと分かった。万和が小脇に挟んでいた褪せた一抱えの書物が、それを証明していた。

 戸の中の書棚はほとんど空だった。万和は隅の方に残っていた数冊の本と巻物の横に、持っていた書物を背表紙の角をきちんと合わせて並べる。


「……」


 それから、戸を閉めて鍵を閉めた。一連の所作に無駄はなく、彼にとってここへ来ることは前もって決めていたのだろうということが窺える。水蛇はそこで首を伸ばして盗み見ることをやめた。

 息を潜めて蜷局を巻く希薄な霊の気配に、万和は気付かなかっただろうか。足元に気を配っていなかったのは幸いだった。彼の影は来た通りの道順で帰ってゆく。少なくとも、そうしたように見えた。衣擦れが途切れ、ふっと空間が暗闇に包まれる。


 ある地点を境に、万和は音もなく消えていた。夢から覚め、真夜中の部屋で一人取り残されている気分だった。俺が今見ていたものは現実だろうか、そういう疑いとも恐怖ともつかない不安定な感情が頭を占める。

 分からないことが幾つもあった。俺はそのひとつひとつを取り溢さないように努める。万和は皇帝直属の宦官、それなりに大きな権限を有していると思えば、彼が深夜ここに忍び込むような真似をしたのはあまりに不自然だった。

 俺は緊張していた。飲み会で酔っ払った先輩の口の端々から滲む軽口、或いは太學や朝廷でしばしば「そういうもの」として済まされ、白狐さんや千伽でさえ時には訳知り顔で看過する政治的な不正、腐敗と呼ばれるものが今目の前で起こったという実感がなかった。


 確かめなければならない。水蛇は顔を上げ、万和が閉めたばかりの書架を調べる。吊り下がった木札は裏返って読むのに苦労した。そこには年代と思しき四桁の数字が書かれているだけだった。

 蛇は体を崩し、戸棚の中への侵入を試みる。錠の有無は関係なかった。戸に張られた麻布は緩く、水蛇の前では無力に等しい。するりと入り込んだ書棚の中は、蛇にとって狭い小屋のように思えた。

 青暗い闇が乾燥した空気とともに満ちていた。万和が揃えた書物の数々が、陰のように浮かぶ。ずらさなければ題名も読めない。水蛇は疲弊した尾を不器用に使い、そのひとつをずるりと引っ張り出した。





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