Ⅰ
ぽたり、ぽたりと何かが落ちる。耳元で微かに聞こえる音が、夢の中に入り込んでくる。俺の意識は半分浮上しているが、まだ瞼がどこかに引っ掛かったよう乾いて開かない。
俺は夢を見ている。その自覚があるほど、何度も繰り返し見た景色だ。歩いているのに、地面の感触はない。暑くもなければ寒くもない。四方を占める濃密な闇は決して心地よいとは言えない空間ではあるが、さほど不愉快でもないのがまた不思議なのだった。
またここにいる。
夢の中で目を擦り、目覚める努力をする。現実でないと知りながら、俺はこの先の展開を怖れている。いつも俺の後ろに何かがいるのだ。確かに、背後に気配を感じるのにその正体が掴めない。嫌な夢だ。
肌の上が粟立って、じっと体を抱え込んでみる。背中に圧し掛かる空間の密度が増して、近付いたのだと分かる。早く目覚めてくれ、と俺は祈っている。
***
暗闇に滴が落ちていた。鼓膜に馴染んだその音を、俺は寝台の上で仰向けに捉える。霊廟に横たえられた死者のように。
鎧戸の隙間から灰色が差し、飾り気のない天井の影をぼんやりと浮かび上がらせる。室内の澱んだ静けさに、屋根を叩く雨音が混じっていた。
朝と呼ぶには早い時間である。体を起こし、頭痛にも似た夢の余韻を忘れようとする。よく覚えていないが、衣服に染みた汗の痕が肌に貼りついて、それが悪夢の感触と地続きに感じられた。
壁際に嵌め込んでいる簡易な羽板を外す。がたり、という音が狭い室内で一際目立って聞こえた。分厚いそれをそっと床に下ろして風を浴びる。十一月、東大陸の北東に位置する広寒清虚の都の外気は、目を醒ますには充分すぎるほど冷えていた。
「皓輝?」
不意に仕切りの向こうから名を呼ばれた。寝起きの小さな呻き声に続き、「寒い」と一言飛んでくる。隣で寝ている相部屋の住人の頭がちらりと見える。俺はごめんと謝って、羽板を戻した。鈍色の雨の気配だけが誰かのため息のよう室内に残った。
「もう朝?」
寝返りを打った翔がこちらを向く。異民族特有の色素の薄い目だ。そこだけが取り残された夏のよう鮮やかに青い。首を横に振る。早朝の点呼が始まるまで、あとひと眠りできるだろう。
起こしてごめん、と俺はもう一度言って立ち上がる。床が軋んだ。黒ずんだ天井の隅をじっと見つめていると、翔の視線を感じた。
「雨漏りしている気がする」
俺は子どもが言い訳をするように呟く。何に対する言い訳なのか自分でも分からなかった。翔は応えない。窮屈な寮の一室なのに、言葉が届いている感触が遠い。
「……」
実際そこは雨漏りをしていた。床の上がほんのりと濡れている。手近な拭くものを探し、ため息をつく。
気が散って、何をしたらいいのか分からない。このところ俺たちはずっとそんな調子だった。目の前の問題を難解に考えすぎて、いちいち立ち止まっては無言で苛立っていた。
前に進めないのか進みたくないのか、それすらはっきりしない。愚図愚図している自覚はあったが、明日のことを曖昧にしておかなければきちんと眠れなかった。
後でいいか、と声に出す。片付けるのは後にしよう。何もかもを先延ばしにしたい気分だった。俺は布団に戻るが、眠れないだろうと分かっている。
翔が寝台を大きく軋ませる。簡易な仕切りの向こうでうつ伏せから起き上がろうとしているのが見えた。翔もまた再び寝る気はなさそうだった。倦んだ眼差しを、固い枕の窪みに向けている。
しばらく沈黙が流れた。時折身じろぎする気配だけが鼓膜を薄っすら擦った。二人揃って何も言いたくないとき、時間をやり過ごすためいつもそうしているように。
「……寒い」
翔は、最近ではもうそれほど珍しくなくなった不機嫌な声でもう一度言う。俺は瞼を閉じていた。慰めのひとつも浮かばず、板についてきた物分かりのいい振りをするほかない。
「今日は試験だから休めないよ」