Ⅰ
翌日。元宵節の最終日である。祭りの期間、最も盛り上がる夜を控え、例によって自習に顔を出す学生は疎らで、俺と翔はがらんとした食堂の片隅に座っていた。昼前の斎舎内の食堂は、何やら他愛ない猥談で盛り上がっている数名のグループがある他まだ空いている。
俺たちは何だか浮足立っていた。先程、早めに食事を済まそうと自室から出た瞬間、待ち構えていたよう入り口で簡素に折られた手紙を渡されたときは飛び上がるほど驚いた。
「上舎の先輩が、お前らに渡せってさ」
使い走りにされた学生は面白くもなさそうにそう告げる。彼が足早に去っていくのを見送り、俺たちは何だか誰かに見張られているような居心地の悪さを覚え、その場で開かず食堂に入った。
「……」
木造の食堂は古く、壁際はひんやりとした空気が肌に張り付くようだ。俺は黙って、受け取った手紙を卓の上で引っ繰り返した。神経質な細い字で、妖怪先輩の名前が書いてあった。
「……何て?」
翔の目線に促され、俺は伝統的な形に畳まれた紙を開く。それは手紙というより、短いメモのような覚書だった。文面だけ見れば俺たちに宛てたものだとは気づけない。それが彼の狙いなのだろうと思った。
『今夜、昭文館は豁宿』
俺は翔に紙を手渡した。紙面をじっと睨む相棒の眉間の皺を見つめる。たった一文を何度も読み返し、翔は俺に手紙を返す。先輩の言葉がその場に浮いているように思えた。
「かっしゅく……」
どちらともなく繰り返す。馴染みのない言葉ではあるが、そこに込められた意図のようなものは窺えた。俺たちに顔を合わせることなくそれを伝えた先輩のそれを、単なる優しさや思いやりと呼んでいいものか。翔は呟く。
「豁宿というのは、宮中図書館の校官に障りがあって宿直できない日のこと……だよな」
「そうだな」
つまり、一晩図書館が無人になるということだ。実際のところ元宵節の期間のことだから意外ではなかった。今夜朝廷の人々は皆、こぞって都へ繰り出すのだろう。問題はそこではなかった。
俺たちが昭文館に所蔵されている禁書をどうにかして忍び込んで盗み見ようと画策していること。それを見透かしたかのように先輩が寄越した手紙を如何に受け止めるべきか、思考があっちへこっちへ忙しなく傾く。
「先輩は校官をやったことがあるんだったな。宿直の勤務表くらい、こっそり確認出来るものか」
恐らくそうなのだろう。声には出さなかったが、二人揃って心拍が小刻みになって、冷や汗をかいている。俺は落ち着きなく折り目の付いた手紙を引っ繰り返し、そのとき紙が二重になっていたことに気づいた。二枚目の紙にも短い文が、小さく綴られている。
『追記。昨夜、上舎の一階に飾られていた白磁の花瓶が割れていたらしい。地震?』
俺と翔は目を合わせ、肩を竦めた。折り畳んだ紙を懐に仕舞い、何も声に出さない。それが地震でないことはよく知っていたが、鎌掛けであろう先輩の追記に応える必要はないと思った。
食事を終え、俺たちは何だか口数少なく自室へと戻る。背中を押されていると前向きに捉えるべきか、悩ましかった。
そんなに俺たちは分かり易かったのだろうか。昨夜の秘密集会のときは次々と明かされる情報を受け取るのに必死で、どんな顔をしていたのか自分でも思い出せない。いちいち動揺していたのを深読みされていたのであれば、その勘はほとんど予知に近い。
或いは部屋に戻った後、先輩は独自に考えたのだろうか。俺たちが何をしでかすか、予想をしてみたのだろうか。いずれにせよ妖怪先輩が書いた一文は、俺たちの企てを的中させたも同然だった。懸念すべきことが幾つも浮かんだが、それを打破する方法はほとんど思いつかなかった。
「ともかく、だな」翔が手を叩く乾いた音が響く。「俺たちに出来ることは限られている」
そうやって翔が言えば悲観的に聞こえないのが不思議だった。俺は懐から取り出した先輩からの手紙を机に置き、ゆっくり思案する。正午の日差しが部屋の中を温めていた。
***
「これ、何本に見える?」
水蛇の聴覚を通じ、翔の声はくぐもって聞こえる。まるで水の中に潜っているよう、俺の意識は浮上する泡に揉まれ、必要な情報を取り溢すまいと心の目を凝らした。
時折焦点が合わず、鮮明になったりぼやけたりを繰り返す視界にぴんと立てられた翔の指が映っている。二本、一本、五本、順番に見えるそれを記憶する。水蛇の口からそれを伝えることは出来ない。水蛇は声を持たない。
ほどなくして翔が戸を開けて自室へ戻ってきた。距離にして十メートルほど。廊下の隅に立たせた翔の元へ水蛇を送り込み、どの程度俺が操縦できるのか二人で試していた。既に日が暮れ、斎舎の中に学生はほとんど残っていない。
「どうだった?」
「二、一、五かな」
「正解」
安堵の息をつく。「初歩的な段階だがな」
俺たちは水蛇がどれだけ離れて行動できるのかまだ分かっていなかった。遠くに行けば操作が難しくなるのでは、という漠然とした感覚もただの憶測に過ぎなかった。今のところ、水蛇は俺の膨大な疲労感を代償に、それなりに直感的に動かせている。手足のように、と形容すると蛇に手足がないため奇妙な感じになるのだが。
「練習は程々に、深夜までに体力を残しておくのが得策かもしれない」
要はぶっつけ本番である。俺たちにしては危険な橋だが、実質的に昭文館へ忍び込むのは水蛇であり、こちらは飽くまでも遠隔操作であることを踏まえての判断だった。水蛇のことが万一発見されても、俺と結び付けられる可能性は低い。
するすると足元を潜り、床で揺蕩っている水の揺らぎを俺はじっと見つめる。外の気温が高いのか、屋根の雪が解け、絶え間なく落ちる雨垂れが壁越しに低い音を立てていた。
「もし何かあれば、俺が全責任を負う」
不意に翔がそんなことを言うので、俺は顔を上げた。さらりと吐いた言葉は、何故だか二人の間の沈黙を重くさせ、反応が遅れる。
「どうしてだよ」
「太學辞めようと思う」
「……」
肌にざらついたものを押し付けられたよう痛い。俺は何度か息を吸って、何とか上向きな声を出そうとする。先を聞きたくないが、聞くのが自分の役割だとも思う。「何で」
「向いていないなって、思った」
「……」
「それだけ」
翔は口許だけで笑った。俺は目線を彷徨わせ、自分の言うべきことや言いたいことを考え、そのいずれも的外れだと気づいた上で首を横に振る。
「そんなこと……」言葉が散らばってまとまらない。「だって、どうするんだよ」
「白狐さんには申し訳ないと思ってるよ。色々と迷惑掛けて、援助してもらったのに」
対して翔はまるで心をどこかに置いてきたような物言いだった。投げ遣りでいて、奇妙な朗らかさを含んでいる。希望をすっかり見失ってしまったかのように。
「だからこそ、決断するなら早い方がいいだろ? どうやって周りに埋め合わせをすればいいのかまだ分からないけど、こうやって浪費するには時間が足りないんだ、俺の人生は」
翔が自分の生涯について話すことは滅多になかったが、いつもどこか悲しげで明るい声を出すその癖のようなものを俺は今思い出す。
「……辞めて、どうするんだよ」
「世捨て人に、戻ろっかな」翔はくるりと背を向ける。「俺にはそれが一番似合いだろ?」
「白狐さんは、お前がそうなることを危惧していたんじゃないのか」
俺は言葉のひとつひとつに重心を置いた。
「あの神明裁判以降、俺たちはもう否応なしに影家に紐付けられている。学生生活が向いているとか向いていないとか、そんな悠長なことを議論している場合じゃなかった。そうだろう?」
影家の後ろ盾を得ると同時に、俺たちは自由を失った。この朝廷において、門閥貴族の一家に価値ある存在になるというのはそれだけのことを意味した。俺たちの身に何かあれば、影家は動かざるを得ない。だから、太學生になる必要があった。少なくとも世捨て人でいるよりも、容易に暗殺されにくい最低限の肩書が欲しかったのだ。
「皓輝はそれでいいと思ってんの?」
不意にこちらに顔を近づけた翔が問う。「本当に、心から?」
「……」
口を開きかけ、途中で詰まる。間近にある異民族の不思議な目が、上っ面の感情を拭っていった。俺は翔と鏡合わせに瞬きをして、先回りをする。
「……俺の合理的な説得は聞きたくない?」
「皓輝だって、俺がこういう生き方向いていないって分かっていたんだろ」
「──そうかもな」
青い瞳に映る自分の姿を逆さまに見て、俺は少し反省した。様々な損得勘定を経た上で、自分の正しいと思う方向が翔にとって最適だなんて、少し自惚れすぎだ。この翔という男が俺とは正反対の価値を重んじていることなど最初から知っていたはずなのに。
顔を離した翔が小さくため息をつく。
「ごめん。俺、ずるい言い方ばっかりだよな。無責任だって怒ってくれていいよ」
「俺が司旦ならブチ切れているだろうな」
「目に浮かぶ」
力なく笑った後、ようやく翔は張り詰めていた表情を少し緩めた。
「俺の頭でも頑張って色々考えてみたけど、きちんと覚悟が決まった訳じゃないんだ。責任、なんて俺の人生から一番程遠い言葉だったし」
うん、と相槌を打った俺はぎょっと体を仰け反らせそうになる。翔の頬に滴が伝った跡が光っている。そこから次々と涙が伝って、乾いた唇の端が震えていた。
「でも、もう無理。頑張っても頑張っても毎日苦しいだけなんだ。こんなの……もう辞めたい」
戸惑った手は結局宙を掴んで、ゆっくり下に戻る。俺は動揺していた。こんな風に泣く翔を今まで見たことがあっただろうか?
沈黙の中、翔の透明な涙が止め処なく溢れてぱたぱたと床に落ちる。俺の足元の水蛇が顔を擡げ、滴が降ってくるのに合わせてびくりと首を引っ込めていた。
「……分かった」俺はゆっくり首を横に振る。
「もう無理するな。責任なんて負わなくていい。お前がそんなに辛いなら、何もかも放り出して逃げていい」
「……」
「長遐だろうがどこだろうが、ここじゃない場所で生きていく方法なんて幾らでもあるだろ」
そっと屈んで翔の顔を下から覗き込んだ。青色の目がそのまま溶けてしまいそうなほど濡れている。ごめん、と言いかけて、それが自惚れな見当違いに思えて飲み込む。少し躊躇った後、俺は小さな声で付け足した。
「お前の好きに生きればいいんだよ。白狐さんならきっと分かってくれる」
翔が無言のまま子どものように頷くのを見て息を吐く。山の上にいるよう空気が薄く感じられた。俺は自身の腕を掴んで無意識に摩る。無責任、という言葉を反芻し、それが今の自分そのものだとようやく気付く。
「皓輝は、どうする?」
ひとしきり泣いて、幾分落ち着いた頃に翔がおもむろに訊ねてきた。俺は火鉢で湧かした湯で飲み物を淹れながら、言葉を探す。
「──俺は、まだ何も決められない」
なるべく正直に答えたかったのは翔のためだった。
「ずっとこの国の朝廷に縛られて生きる気はない。ただどこへ行くにしても、やり残したことがないようにしたい」
湯飲みの片方を翔へ差し出し、呟く。「一応、白狐さんへの義理もあるしな」
「お前らしい」
「ここまで影家と持ちつ持たれつの関係になるとは思っていなかったよ」
経済的、政治的。様々な表と裏の援助を思えば確かに俺たちは影家なしには生きていけない境遇に置かれているが、一方で清心派が豊隆の説得力で持ち直し、その信仰が影家の威信と結び付けられている現状、俺たちもまた影家の礎を背負わされている。持ちつ持たれつとは聞こえはいいが、それなりに泥沼でずぶずぶな関係ではある。
「やり残したこと、ねぇ……」
俺たちは示し合わせたよう足元の水蛇を見た。同時に豊隆のことも頭に過っただろう。しかし二人で顔を見合わせてみても、まるで少しずつ足場が沈んでいくような不安感があるだけで、真に自分たちのやるべきことがこれなのか自信が持てなかった。
「──何かあれば、俺に全部被せればいい」
翔が念を押すようにそう繰り返しているのを、俺は黙って聞いている。