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明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第三話 元宵節
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「──……」


 緊張が最高潮に達した、その瞬間。がたん、と大きな音が響き渡る。何か固いものが落ちたような衝撃。俺たちもびくりと一瞬浮いた。方角からして一階だった。斎長の足の向きが変わり、足早にそちらへと向かったのが灯りの動きから分かった。階段を下り、足音は聞こえなくなる。また暗黒と静寂が戻ってくる。

 俺たちはしばらく、窮地を脱したという実感が湧かなかった。そもそも下の階で、まるで見計らったかのように物音がしたことも、好意的に受け止めていいのか迷うところだった。再び斎長が二階へ見回りに戻るとも分からない。かといって下手に逃げ出す訳にもいかず、俺たちは誰も口を利かず、無為に時間を見送った。


「いなくなったか……?」


 ようやく、皆が恐る恐る顔を上げる。どれだけ経っただろう。もう廊下に人の気配は感じられず、ただしんとした奥行きが感じられるだけだった。


「皓輝、よく分かったな……」


 会長は詰めていた息を大きく吐き出した。同時に、空気が緩んだ。


「み……耳がいいので」


 それが下手な誤魔化しであることは俺が一番よく知っていたし、多分翔も気づいていただろう。助け舟となった不自然な物音も、心当たりを挙げろと言われたらひとつくらいあった。ただ、確信はなかった。


「とにかく──今日はこれで解散した方が、良さそうだな」


 異論はなかった。内臓が口から競り上がってくる危機感を味わったために、全員が細かなことを反芻し、追求する余裕がなかった。宙を舞っていた埃がまた落ち着くよう、先程の話題は沈黙の中に染みついていた。

 俺はまだばくばくと激しく脈打つ心臓のあたりに手を当て、息を吸う。そこに自分自身がいることを確かめるように。


「ねえ、あのさ」


 部屋の周囲、窓の外を窺い、各々が立ち上がろうと床に手をついた辺りでおずおずと口を開いたのは妖怪先輩だった。控えめに片手を上げている。


「あの……これは俺の個人的な憶測だけど、今になって〈第三天子〉に関する噂が秘密裏に流されたことと、雰王山で豊隆を捕まえようと試みたことは、偶然ではないと思う。間違いなく、繋がっている」


 それが共通認識であることを確かめるよう、ゆっくり首を動かす。何名かが頷いた。そうだ、俺は今更自分がこの場の主役、或いはその代理であったことを理解する。やり取りされた情報、噂話の中心は、雨を降らせる神鳥の存在、ただ一点だった。

 目配せされた会長が話題を引き継ぐ。綻んでよれよれになった集会でまとめ役になるのは己だと彼はいつも心得ている。


「皇帝陛下は──人の手で捕らえることで、豊隆の威信を穢そうとしているのかもしれない。神として信仰されるに値しないということを、証明したいのかも」


「……」


「〈第三天子〉について俺たちは詳細を知り得ない。だが、濁は確実に豊隆の存在を意識している。し過ぎていると言ってもいい。徹底的に、執拗に、何かを為そうとしている。もし、豊隆を貶めることで、影家を──再び地に引きずり降ろそうとしているなら」


 会長の声が掠れる。情動が極まって言葉が続かなくなったらしい。顔を上げた彼は爛々と燃えるような目をしていた。捕食者の本能、ネクロ・エグロの眼差しだった。


「──それは許し難いことだ。清心も濁も関係ない。絶対に、あってはならない。そんなこと、天が許すはずがないんだ……」


 水面に落ちるよう、苦しげな言葉が波紋になっていつまでも部屋の四方の暗がりに広がっている気がした。




 ***




 陰惨な上舎の建物を抜け出す途中、自室に置いてきたはずの透明な水の蛇が廊下の隅に蹲るようにしていたことに俺はそれほど驚かなかった。何となくそんな気はしていた。ただ、その意味を深く考えることは億劫だった。


「これ……こいつ。いつの間に」


 真冬の寒さに歯の根が合わない翔もまた、予想していたに違いなかった。霊に近しい生活の中で培われた、根拠のない勘のようなものである。そして翔は俺以上に、この水蛇に価値を見出していたのだろう。


「とにかく早く戻るぞ。話はそれからだ」


 刺すように冷たくなっている無抵抗の水蛇を掬い上げ、俺たちは早々に退散する。幸運なことに、斎長や他の学生に見つかることもなかった。

 自分たちの部屋に戻り、ようやく一息つく。窓の外はまだ暗く、闇が貼りついたよう夜明けは遠い。斎舎の二人部屋は、がらんと寂しく思えた。


「何が起こった?」


 翔が上目遣いに顔を覗き込んでくる。夜闇の中、青く濡れた二つの光が生気を宿している。俺は懐の水蛇をするりと床に逃がし、両手を擦り合わせた。皮膚が痺れるように痛かった。水蛇は緩慢な動きで寝台の下へ潜り込み、それきりになる。


「分からない……」ゆっくりと首を横に振る。「ただ……水蛇の目を通じて景色を見たような気がした。二階にいたのに、一階で見回りしている斎長の姿が見えたんだ、確かに」


「そうか……」


 水蛇は、置き去りにされたことに気づいて俺の後をついてきたのだろう。主人の危機を察知したのかもしれない。或いは、子が親を探して彷徨うように。ともあれ、この水蛇が俺に直感的な知らせをもたらし、見回りの目をすり抜けた。


「助けた、つもりだったんだろうな」


 俺はその言葉を噛み締めるように言う。翔は間を開けて頷いた。


「霊使いは、心を通わせた自然霊から様々な力を借りることが出来るらしい。俺は経験がないんだけどな」


「視覚を借りたということか」


 俺は寝台の下の黒い陰影をじっと見る。自分の足がそれを踏んでいて、少しずらしてみるが水蛇はもう顔も見せなかった。翔は椅子に腰掛け、背もたれに崩れ落ちる。「なんか、疲れた」と吐き出し、天井を見上げていた。

 色々なことが頭を駆け、俺はのろのろと火鉢を点け直すことにする。このままだと寒すぎて寝付けないだろう。頭蓋の中では海波が轟くよう、思考が飛び交っていた。


「豊隆は、何のつもりで」言葉が上手く続かない。俺も疲れていた。


 気怠げに首を回した翔がこちらを見る。続けて何を問われるか、俺は分かっていた。


「何も異変は感じなかったのか?」


「……何も」


 豊隆の身に何かあれば、何らかの形で俺にも伝わるはずだ。その方程式がまず間違っているのかもしれない。しかし俺にはやはり、豊隆と自分を繋ぐ精神的な紐帯を一方的に信じるほかないのだ。


「皓輝が何も感じなかったんなら、心配するほどのことではないのかもしれない。そもそもあんなデカい神鳥を捕まえようなんて馬鹿げている」


 だが、如何にも現皇帝が考えそうなことではないか。


「〈第三天子〉についても結局憶測ばかりだもんな。本当に、濁、から噂が流れたのか、真偽がはっきりしないと何とも言えないし」


 翔はその単語を口にしにくそうに言った。確かにその通りだ。翔の言うことはよく理解できる。それなのに、どうしてこうも胸騒ぎがするのか。第三天子、と小声で繰り返し、何か置き忘れたような気分になるのをここで打ち明けるべきか俺は迷う。


「俺に何が出来るだろう」


 何かしなければならない。そういう義務感を声に出すと、多少気持ちが落ち着く。現実でまだ何か起こった訳ではない。ただ手を拱いているだけで、いつの間にか坂道を転がり落ちるのは避けなければならなかった。俺は目を瞑る。見えない相手と象棋を打つように。


「〈第三天子〉に関する文献は、禁書として宮中図書館にも所蔵されているんだよな」


「らしいね」


 半分瞼の下がった翔が相槌を打ち、「え?」と目を見開く。暗闇と睨み合っている俺の横顔から全てを理解し、「本気で?」と声を潜めた。俺は曖昧に頷く。自信があるとは言えなかった。


「……皓輝が言うなら、勝算があるんだろうな?」


 翔は先日見学した図書館の内部の構造を思い出しているに違いない。盗人対策を敷かれた、あの堅牢な建物を。


「ごめん。勝算らしいものがある訳じゃない。ただ、出来ることといえばそれしか思いつかなかったんだ」


「影家の力を借りるのは、まずいよなぁ」


 腕を組む翔の言い方は、どちらかというと俺の意を汲んだようだった。そうだ、濁が豊隆を意識しているということはすなわち、その後ろ盾を得た──そういうことになっている──影家及び清心を意識しているということに他ならない。俺たちがこの件で影家に接触するのは得策ではない。

 火鉢に温められた空気を嗅ぎながら、俺は考える。何もかもが憶測と噂でふわふわと宙に浮いている現状、そうまでして危険を背負う必要があるのか。もし見つかれば今夜の秘密集会の比ではない、一発で退学処分ものだろう。

 う、と声が出る。足首に冷たい表面が触れ、一気に鳥肌が立った。下を覗き込めば、いつの間にか首を伸ばしていた水蛇の平たい顔がある。蛇はするすると動いて俺の足にまとわりついた。長い体躯が伸び縮みする度に、光の欠片が頭から尾までを行き来する。


「お前はやる気なんだな」


 答えはないが、俺には分かる。俺は初めて、この奇妙な水の精霊未満のものと心が通じ合ったような気がした。水蛇に自我はなくとも、精神的に或いは物理的に、主へと衝き動く本能はあるらしかった。


「こいつの視覚を借りられるなら、図書館に忍び込むのも不可能ではないかもしれない」


 検閲により禁書となった、しかし資料の保存として図書館の奥に残された〈第三天子〉に関する文献。今俺たちに手が届きそうなのはそれくらいしか思いつかなかった。

 かなり危険な賭けにしても、他の望みは雲を掴むようだった。確実に、盤面は不利に傾いている。先手を打たれているのは分かるのに、俺たちは何も知らない。


「まずは準備を」俺は呟く。「水蛇の力で、どこまでやれるか。昭文館まで警備の目をすり抜けられるか、本当に文献は実在するのか──」


 指折りで数え、何度も反芻する。蛇は俺の思考に呼応するよう、じっと床に留まっていた。もしこいつが豊隆に遣わされた存在なら、俺は命じられているのかもしれない。こいつを使え、と。




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