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明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第三話 元宵節
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 重苦しく、埃っぽい空気が塊になったようだった。俺は少しずつ、二年前の影家の騒動の際、立ち寄った集落での一夜のことを思い出す。

 くすんだ天院の外壁、うらぶれた村の建物と人々の倦んだ眼差し。そして、彼らは集落に泊まった旅人を食べる食人鬼だったということ。その後に教えられたのだ。あそこは異端の豊隆信仰をしている集落なのだ、と。

 あのときは白狐さんを追うのに必死で、命からがら逃げた後はすっかりその集落のことなど忘れていた。思えばあそこは夕省と冴省の境に位置し、妖怪先輩の言う民間伝承が発見された場所と近しい。ほとんど一致していると言ってもいいのではないか。


「つまり……」俺の声は掠れている。「豊隆を第三天子とする民間信仰が、かつて時の皇帝によって弾圧された過去がある、と」


 周囲を見回すと、先輩方は一様に神妙な面持ちで頷いた。だがまだ分からない。翔が口を開く。


「噂、なんですよね」


 そう、と彼は小さな声で言う。


「君たちも知っての通り、神話というのは時代とともに流動する。誰かの都合で書き換えられ、削除され、口承は語り部によって変化する。“神鳥になった”という結末が大本の伝承に従っているのか確かめる術はない」


「問題は」会長が次を遮った。肝要なのはそこではない、と宥めるように。「元宵節の時期に前後して、その噂が都に流されたということなんだよ」


「はい?」


 思わず眉を顰めるような言い回しが、会長にはある。彼は静かに手を広げた。


「第三の天子思想は、朝廷にとって隠しておきたい過去の汚辱。今となっては口伝でしか内容を聞けないほど徹底的に記録から消されている。俺たちもそれが禁忌であるという暗黙の了解だけを教えられて育った。だけどここ数日になって、こいつが話した伝承内容に近しい噂がまことしやかに囁かれるようになっている」


「誰かが意図的に流したということですか? 何か証拠が?」


 翔の声が少し大きくなり、間が開く。会長が重々しく言う。


「違和感を覚えた研究会の何名かで、元宵節の騒ぎに紛れて噂の出所を探ってみた。まあ地味なやり方でね、噂を知っている人を回って、誰から聞いたか訊ねて遡ったんだ」


 それはかなり不毛な作業だったに違いない。同時に、元宵節の前半に都へ繰り出していた俺と翔はそんな話題を欠片も耳にしていないので、飽くまでも限定的な範囲で広まっている話なのかもしれないと思う。


「で、その出所っていうのがね」妖怪先輩は黒目を大きく見開き、言いにくそうに澱ませる。

「朝廷の、()()()()


「あっち?」


 方角を差したのかと思ったが、そうではないらしい。首の位置を戻した翔は困惑している。


「あっちって、どっちですか?」


 会長は口に入れてはいけないものを含んだ表情で呟いた。


「濁、だ」


「──……」


 清心の対岸。現在の皇帝派──勿論それは別称なので公の場で口に出されることはないが、はっきりと空気が硬直したのを肌に感じた。


「皇帝派が、豊隆は第三天子であるという風説を都に流す理由がよく分からないんですが」


「俺らもよく分からない」椅子に座った先輩が、水晶玉の前に座る占い師のような皺を眉間に寄せている。「お前なら分かるかと思ったんだ」


 びくりと肩を震わせる。顔に羽虫が触れたように。自分がこの場に呼ばれた理由が何となく掴めた気がした。豊隆の不随物であると見做されることに今更驚きはなかった。


「……いいえ」


 期待を長引かせないよう、俺は少し考えた後に応える。実際、何の心当たりもなかった。張りつめていた何かが少し緩んだのは気のせいではなかっただろう。


「そうか……」


 落胆する会長と周囲の面子に「すみません」と謝る。彼らは気にするなと目で言った。


「確かに俺たちは濁に対して先入観があるから、こういう話に対して前のめりになっている節はある。ただ──単なる風聞として聞き流すには、気がかりな情報も出ている」


 会長が視線で促したのは、輪の中に紛れていた一人の先輩だった。研究会の一員ではあるが、俺は会話したことさえない。「冴省出身だ」と隣の先輩が俺に囁いて、「こないだ実家に帰ったとき」という語り出しにどうにか付いてゆく。


「うちの家のお抱えの猟師が、雰王山の神域へ入る麓の山道で、皇帝陛下の御旗を付けた杖隊を見かけたらしい。冴省では年末結構この話題が持ちきりで、でも年が明ける頃には厳重に箝口令が敷かれた」


「でも、珍しいことじゃないんだろ?」誰かが口を挟む。


「ああ──実は、今の皇帝陛下が戴冠してから、そういうのは頻繁に見られるようになった」


 隣の翔の頬が僅かに青褪めて見えたのは雪明りのせいだけではなかっただろう。俺たちは声には出さず、雰王山で孟極(モウキョク)という霊獣に襲われたときのことを思い出した。

 あのとき一緒にいた司旦は言ったのだ。「一頭の孟極を狩れば全ての孟極が復讐すると言われるほど執念深いんだよ」と。

 本来大人しい孟極が俺たちを襲ったのは奇妙だった。その先を語りたがらなかった司旦のことも。ちらりと窺うが、翔の目は真剣な光を浮かべたまま真っ直ぐと何もない床を射抜いている。


「……」


「それで」先輩の声は震えていた。「聞いちゃったんだ」


「何を?」


「皇帝陛下は、豊隆を捕まえようとしている──って」


 その瞬間、声にはならない無音のどよめきが室内を揺らした。そんな馬鹿な。先輩方が目を見開き、各々の言葉を、或いは祈りの定型文を口々に閉じ込める。俺は激しい耳鳴りとともに、現実が遠ざかっていくのをぼうっと眺めていた。

 ()()()()()()()

 あの巨大な神を、まるで野山の獣を狩るような調子で形容したのは間違いなく自然界への侮辱だった。怒りすら湧かなかった。脳の奥に白熱した何かが灯り、それが理性的な思考を高温で溶かしていく。焦点が合わず、全てがぼやけて崩れてゆく。そんな感覚だった。


「それ……事実か?」


 皆を代表して、会長がこれ以上ないほど重々しく訊ねる。ぎざぎざとした刃物で胸のあたりを削られるような、嫌な感触を味わったのは俺だけではないだろう。先輩は小さく頷いた。それが全てだった。


「……馬鹿な」


 誰かが言った。それ以上言葉が続かず、沈黙が空間を圧迫する。ようやく会長が、何かを言わなければという責任感から口を開いたが、尻すぼみに声が小さい。


「……神だぞ、豊隆は。人の手で穢していい存在じゃない……」


「……」


 全員がそれに同意していた。冴省出身の先輩が深刻な陰を顔に落とし、低い声で言う。


「皇帝陛下が自然の霊を攫うのは珍しいことじゃない。この中には知っている人もいるよな?」


 翔が何か言いかけたが、注目が集まった途端に黙り込んでしまう。もし踏み留まっていなければぎょっとするような大声が出ただろう。

 俺は何だかぼうっとしていた。思い出すのはやはり孟極のことで、仮にあのとき遭遇した孟極の仲間が同じように狩られていたのだとすれば──そうした自然霊の乱獲が皇帝の意によって行われているのだとすれば。込み上げるのは、怒りではなく憐れみだった。それを咎めるべき臣下が不在であるという現皇帝への憐れみ。


「──……」


「で、でも」妖怪先輩は幾らか励ますような声を出す。「まだ豊隆が捕まったと決まった訳じゃない、よね?」


「そ──うだな」


 先輩は頷いている。そうであってほしいという願望がかなりの感情を占めていたが、否定の声は上がらなかった。そもそも豊隆を捕まえるなど、あの巨体をどう押さえ込むのかという問題も含め現実的とは思えなかった。上手くいくはずがないと喉まで込み上げるものを飲み下す。

 先輩方が思う以上に、そして俺が知っているよりも遥かに、神というのは人間の思考では捉えきれない異質な存在なのだ。或いは──俺は再びその疑問を心の中で一文字ずつなぞる。丁寧に、呪文を唱えるように。

 豊隆は、本当に神なのだろうか。

 今この瞬間も第三天子の噂は都で広まっているのだろう。想像すると、沸騰した湯が鍋の縁で泡立つような感覚が走った。思わずぎゅうと両腕を掴む。


「皇帝陛下は、一体何のために……」


 警鐘。誰かの声を遮って、俺は突然立ち上がりかけた。天井から繰られた糸に引っ張り上げられたかのように。頭の中がそのまま分裂してふわりと意識だけが浮き上がる。

 ──視界が暗闇に溶け、じわり、砂を含んだほこりの匂いが口の中に満ちた。何故俺は床に倒れているんだ。真っ先に思ったのはそれだった。真夜中のしんとした暗がりの中、俺は腹這いになっていて、咄嗟に立ち上がろうとして自分の腕がないことに気づく。

 手足がない。なくなっている。

 さあっと血の気が引くのと、「おい、どうした皓輝?」と耳元で声が聞こえるのは同時だった。はっと我に返ると俺はさっきと変わらず会長の部屋の床に座っていて、複数の見慣れた顔が俺を覗き込んでいる。手も足もある。広げた両方の掌を交互に見やる俺の額に冷や汗が浮かぶ。


 今のは一体。


 考える猶予もなく、また意識が飛ぶ。周囲の先輩方からすれば俺ががくりと項垂れて白目を剥いたので相当恐ろしかっただろう。

 暗転した後、俺の意識は冷気が留まる廊下の隅にいた。それが上舎の一階の廊下だと分かったのは、つい先程翔と通ってきたためだ。

 背後は突き当りになっていて、前方へ続く床板の先が薄ぼんやりと明るくなっているお陰で辛うじて立体感が掴める。首を目一杯伸ばして周囲を見回すと、ぽつんと暖色の明るい光が向こうで蠢いていた。あれは、火だろうか?

 俺は懸命に、ゆらゆら虫のように揺れるその光を目で追った。自分がどうなっているのか、光の正体を考えるよりもまず、この奇妙な心理状態を維持することに必死だった。明け方の夢のように、曖昧な映像の手触りにどうにかしがみ付く。

 そうしなければならない、という使命感は、光がただ不規則に動いている訳ではないということに気づいた瞬間はっきりと形になる。上下に揺れながら、少しずつ斜めに上昇している。弱々しい灯りを支える、人間の手がある。

 階段を上っている。


 俺は自分を取り戻そうとする。「静かに──」途切れ途切れの声は、正しく自分の口から出たものだろうか。「誰か来ます」


「え? 何だって?」


「静かにっ」


 声が跳ねるのを必死で抑えた。「見回りが来ます……」


「……」


 一同は静まり返る。俺は上へ下へと目まぐるしく動く視界を留めようと顔を擦った。自分は今どこにいるのか、彷徨った手首を翔が掴んでくれなければもっと酷く混乱しただろう。一階と二階を行き来する意識が徐々に落ち着き、意識が肉体に戻った代わりに張り詰めるような緊迫感がやってくる。

 ぎし、ぎし、と階段の向こうから軋みが近づいてきた。耳を澄ませなければ感じられないほど微小な、誰かの気配。皆で話していればまず気づけなかったであろう、恐らく上舎生の斎長の見回り。

 俺はゆっくりと首を持ち上げる。寝台の上、会長の強張った表情が見えた。それから順に、それぞれ息を殺す先輩方の顔を見回す。

 かたかた、身体が小刻みに震え出した。忘れていた寒さを急に思い出したかのように。口から洩れる呼吸が、心臓の音が、耳の奥の脈拍が、必要以上に大きく感じられた。俺は瞬きさえも出来なかった。時間の流れが、遅い。

 斎長がこの部屋の前へと差し掛かる。戸の下の隙間から手持ちの灯りが零れ、俺たちの足の陰をくっきりと映す。それが少し斜めに移動した。


 戸を開けられたら終わりだった。部屋に全員が隠れる場所はなく、身動きすら満足にできないのだ。




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