表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第三話 元宵節
16/47




『天鷲の故事』。それは元宵節の起原となった物語である。


 あるとき天帝が大切にしていた霊鳥・天鷲を、人間の猟師が誤って矢を撃って傷つけてしまった。天帝は罰として地上を焼き払おうと考えるが、竈神(ソウシン)が機転を利かせる。竈神(ソウシン)は人々に夜通し提灯の火を灯し続けるように言い付けた後、天に赴き、既に地上を焼き払ったと天帝に報告する。天帝は一面に提灯の火が燃える街の様子を見て満足し、地上の人々は事なきを得た。

 以来、十二月二十三日は祭竈節(サイソウセツ)として竈神を祀り、正月十四日からの元宵節では街に提灯を灯し続け、竈神の知恵と一年の平安を願うことが都の伝統となっている。

 本来なら吉日であるところの元宵節。いつ足を挫くとも知れない暗闇を歩くような不安があったのは、六十余年前、影家の当主が片目を失った忌まわしい事件のその日だったためかもしれない。


 故事の通り、都一面に火が付いたような見事な提灯の夜を、俺と翔はそこそこに楽しんだ。弓矢の的当ての屋台で翔が本気を出しすぎて出禁になったことを除けば、いざこざに巻き込まれることも、二日酔いをすることもなかった。事が起こったのは十七日で、そのときになって俺たちはこの祭が平穏に終わることはないという予感が現実になったことを悟った。


「なあ……ちょっといいか?」


 昼過ぎ。ほとんど誰も参加しない自習の時間。例に漏れず、日が出て暖かい中庭で他の学生とどうでもいい五目並べや象棋をして暇を潰していたとき、声を掛けられる。上舎生の、思想史研究会の先輩だった。彼は明らかに俺の方を見ていたが、手招きして呼び寄せたのは翔の方だった。


「……」


 建物の裏の方まで回って見えなくなった二人のことを、東屋の下に残った俺はなるべく気にしないよう振舞った。深刻なことが起こった訳ではないと自分に言い聞かせ、石に字を彫った駒を進める。


(ジャン)


 王手である。俺の駒の動きに相手はじっと眉間に皺を寄せて考え込んでいるが、既に数手前からほとんど決着はついている。世捨て人だった頃、長遐でルールを教えてもらってから俺はこういう遊びだけはそれなりに強かった。

 ああ、と横で見ていた同舎生が息を吐き、相手は降参の意を示す。


「酔ってなければ強いよな」


「酔っていなければな」


 盤上を片付けつつ、俺は付け加える。「麻雀も酒が入っていなければもうちょっと勝てる気がするんだが」


「お前が素面で打ってるの見たことないよ」


 そうだっけ。そうだよ。軽口に軽口で返しながら対戦相手から勝ち金を巻き上げ、数えてから懐に仕舞う。手を突っ込んだ途端、そこに水蛇を入れておいたのを忘れて変な声を上げそうになった。

 斎舎に学生が戻ってから俺は再び水蛇とともに行動するよう心掛けていたが、やはり眠っているばかりで動こうとしない。表情を取り繕い、俺はさり気なく翔が連れていかれた先を見やる。


「……でさぁ、皓輝も翔も出るんだろ?」


「え、何? ごめん聞いていなかった」


「だから、今夜も都のどっかで飲むんだろ?」


 同舎生から顎でしゃくられたのは俺の少し膨らんで見えるかもしれない懐で、目線が集まらないよう俺はそっと手で覆う。


「ああ、まあ。でもこんな端金じゃあな」


「何だと、じゃあ返せ!」


 象棋の対戦相手がふざけて掴みかかってくるのを笑いながら避けて、雪を踏む音とともに顔を上げたそのとき、昼下がりの光の中に戻ってきた遠くの翔と目が合った。その瞬間、す、と胃の底が冷たくなったのを感じる。


「……」


 平穏には終わるまい。この一年も、元宵節も。粘着質な現実が、目を逸らし続けた不穏な予感が、俺の足首を掴んだ。




 ***




「幾らなんでもまずくないか?」


 斎舎の自室で俺は息を殺している。時刻は既に深夜を回り、都で遊び惚けている者たちを除いた寮の中は寝静まっていた。可能な限り問題を避けたい俺に対し、翔は頑として譲らなかった。


「駄目だ。今回ばかりは本気で切羽詰まっているらしい」


 昼間、斎舎の裏で翔がどんな話を聞かされたのか俺はほとんど知らない。白昼に聞きたい類の話ではないというのがその弁で、呼び出した張本人である先輩はあの後さり気ない風を装って俺に詫びた。

 本来は皓輝に、一番に話すべきなんだけど、今のお前に注目を集めるのはあまりに危険だから。

 それがどうにも以前の襲撃事件とは別の文脈のように思えて不吉だった。一体俺の知らないところで何が起こっているというのか。言葉少なく語りたがらない翔は、研究会から俺への短い言伝を預かっていた。


「深夜、上舎に集合」──。


 祭の期間は幾らか緩むとはいえ、寮生活は規則で縛られている。就寝時間の外出は厳禁だし、夜には門が閉じられて物理的に遮断される。そも、昼間であっても下級生が上舎に単身入ることは許されない。

 敷地内でこれだけ厳しい制約が課せられるのは、主に学生同士の風紀を乱す関係を抑止するためだ。毎夜の見回りは斎長が行い、不規則な日程で深夜に点呼が実施されることもある。

 都の馴染みの店や、使用記録に残る研究室であってはならない。真夜中、上舎の一室に忍び込む形でなければ話せない。

 そんな隠密じみた情報のやり取りに、俺は行く前から憂鬱なのだった。既に宮中図書館を利用するという目的は果たした訳で、研究会のためわざわざ危険を冒す必要はないのでは、と。


「せめて向こうの斎長に賄賂とか渡しておいてくれないかな」


「曲がりなりにも清心を信奉してるんだから、袖の下はまずいだろ」


 あっさりと論破され、俺は頭を掻く。火鉢の消えた部屋の中は寒く、これから上舎に侵入するまでの道のりを思えばなるべく時間を引き延ばしたかった。


「翔は、招集に従うべきだと思うのか?」


 確かに翔は乗り気ではなさそうだったが、こうした集まりに渋っていた頃に比べて今日は奇妙なくらい腹が据わっている。窮地に追いやられた際、是非善悪の判断を幾らか翔に委ねている俺としては有り難くないことだった。


「うん」と翔は頷く。眉間に皺を寄せ、漁師が海の向こうの嵐を見るように。


「避けられない問題だ」


「せめて主題を教えてくれないか?」


 相棒と目が合う。冬の寒さが骨身に染みる真夜中、初夏の青空を覗き込んだような、あべこべな気味悪さを味わう。翔は声には出さず、その口を動かした。

 ほ、う、りゅ、う。

 その時点で俺は他に選択肢がないことを悟る。同時に先輩があれだけ神経質になっていたことも、翔がやけに大人しく抵抗しなかったことも、全てが繋がった。

 仕方なく細心の注意を払いながら窓の羽目板を外し、ゆっくりと床に立て掛ける。目線の先の翔と頷き合った。すう、と吹き込む夜の外気が幽霊のため息のよう室内に満ちる。震えないよう、俺は大きく息を吸った。


「そいつ、置いていくのか?」


 首を伸ばして窓の外を窺うと、翔の指が何かを差す。その右手は俺の寝台の下に向けられていて、青白い雪明りの下、怪物の横顔のような陰になっていた。少し迷って、俺は短く肯定する。


「どうせ寝ているだけで役には立たないだろう」


 何かが待ち伏せしているような、嫌な予感のする夜だった。

 二階の窓から抜け出し、建物沿いに中庭を横切って上舎の斎舎へ忍び込むのは、楽しい時間ではない。身を切る寒さの中、口から息を吐き出さないよう雪を踏む音だけを立てる。

 夜間になって氷の粒になった雪が青色の闇に沈み、足の裏でじゃりじゃりと苦しげに鳴いた。足跡が残りにくい雪でも、俺たちは時折振り返って消すことを怠らなかった。

 屋根に積もった雪が傘のようにはみ出した軒下をそうっと忍び、門へと向かう。どうやってここを切り抜けるのか? やり方は至って原始的だ。


「誰も見ていない」


「了解」


 隠れる場所のない門の前、視界不良な翔を先に行かせ、俺は背後を確認する。門を支える丸木の柱は、いつぞやの吹雪の跡か、或いは誰かがふざけて雪玉を投げたのか、白い雪がところどころこびり付いていた。高さはあるが、結局のところかつて山暮らしをしていた世捨て人の相手ではない。


「……いいよ」


 軽快に向こう側へ降り立った翔が声を掛けた。俺も翔のつけた足跡を消しながら辿り、雪山に片足を乗せ、それから柱に手を滑らせる。ひんやりと死人のような冷たい木の表面。再度後ろを振り返り、俺は一息に登って乗り越えた。月もないのに冴え冴えとした薄光に満ちた中庭の風景が瞼に焼き付いた。

 急いで坂を上って上舎の建物の陰まで走り、ようやく安堵の息を吐く。「斎長に見つかったら相当怒られるんだろうな」と思わず漏らすと、翔は赤くなった鼻先を奇妙に明るい曇った夜空へ向けた。


「別に除籍処分されてもいいよ」


「冗談でも笑えないことを言うな」


「冗談じゃない」


 その口調は何もかも上手くいかないと初めから諦めているようで、俺は目の前のこととは違った不安を覚える。


「頼むからあまり投げ遣りになってくれるなよ」


 そう囁くのが精一杯だった。息が空気に溶けてゆく。先輩の部屋はすぐそこだった。

 一階の角の倉庫が外側から空くよう閂が外されている。指示通りそこから建物の中に侵入し、誰もいない廊下と階段を慎重に進んだ。距離にして大したことのない道のりも、見回りと鉢合わせしないか警戒しながら進むと神経が磨り減った。


「ようやく来た」


 戸を開けると、薄暗い光の中にぎっしりと集まった研究会の面子にぎょっとする。会長の一人部屋の広さを感じさせない十数名の密集に怯み、その中に妖怪先輩の不安そうな面持ちを見つけて少し胸を撫で下ろした。

 数名に詰めてもらい、俺と翔はこの密会めいた輪の中に加わる。中心には火の消えかかった火鉢があって、その熱よりも男たちが集まった体温のために寒さは感じられなかった。

 ぐるりと周囲を見回す。人数の倍の数の目だけがやけに光っている。政治色の強い思想活動をしているとはいえ、名目上は研究会である。就寝時間を過ぎた斎舎の一室にこっそりと集まり、内密の話し合いの場が設けられるなど普通のこととは思えなかった。

 会長は自身の寝台の上に座り、椅子に腰掛けている先輩もいたが、ほとんどは床に直接座っている。「よし」と会長が小さく発し、全員がそちらを向いた。「話の途中だけど、皓輝と翔が来たからもう一度最初から話すぞ」

 ぱしり、と軽く手を重ね合わせた彼が言う。


「〈()()()()〉のことだ」


 呼ばれて来たものの、俺は未だに自分がどんな立場なのか分かっていない。何故だかその単語に身体が無意識に強張った。年末から心のどこかに引っかかっていた棘を、今再び深く突き刺されたように。


「第三……天子」


「知っているか?」


 訊ねられ、俺は緩慢に首を横に振る。長遐で読んだ書物の内容を思い出すのは億劫だったし、この場で〈第三天子〉という言葉は何やら禁忌めいた響きがあって、知らない振りをするのが賢明に思えた。

 薄闇の下、全員の表情が緊張して、落ち着きなく瞬きをしたりしている。


「〈第三天子〉というのは、『天介地書』に記載されていない、三人目の天子に関する伝承のことだ。西大陸へ渡った〈日天子〉、東大陸でこの皇国を御創りになった〈月天子〉。その末の弟にあたるのが、歴史から抹消された〈星天子〉──天帝の三番目の子だよ」


 俺は口を結んで頷き、会長が続けるのを聞く。


「『天介地書』に載っていないと言ったが、その片鱗が一切ない訳ではない。天子が誕生する天地開闢説話は皆知っているよな? この大陸と人間を御創りになった天帝は、人々の願いに応え、国を建てる指導者として雰王山に三つの卵を産んだ」


 三つの卵。


 何故だかぞわりと首筋に鳥肌が立つ。初めて長遐で『天介地書』を読んだときには気づかなかった疑問を覚える。何故奇数なのだろう。陰陽の思想に基づいた天学は常に二元論で展開されるのに、ここだけが割り切れない。


「一番目の卵からまず〈日天子〉が、二番目の卵から〈月天子〉が孵った。だが三番面の卵はいつまで経っても孵らず、『私はまだこの世に産まれるべきではないと天帝が申しております。兄さまたちは疾く地上の人を導いて下さいませ』と宣い、言われた通り日天子と月天子は地上に降りた。そうして天子たちに導かれ、東大陸は統一へと進んでいく」


 最早授業でも扱わないような神話部分をなぞった会長の口調が一段低くなる。


「この三つ目の卵は、その後の『天介地書』には一切登場しない。第三の天子思想はここに着想を得て創作された、と一般的に考えられているが」


 会長の目はそのまま、輪の中にいる妖怪先輩へと向けられた。


「実は違う。そうだろ?」


「……」


 思わぬ人が話に加わったので俺は面食らったが、妖怪先輩にとってその指名は意外ではなかったらしい。彼はいつものぼそぼそとした話し方を更に掠れさせ、続きを引き継ぐ。


「そう。実は『天介地書』には収められなかった民間伝承の中に、卵のその後らしい話がある。俺たちが生まれるよりもずっと前、夕省の北の方でその伝承が“発見”され、一部の民衆による第三天子への信仰が加速し──当時の記録もろとも時の皇帝陛下によって焚書にされた」


「……つまり、それだけ皇帝陛下にとって都合が悪かった」


 誰かが呟くのを、周囲の顔が畏怖交じりに頷いた。翔が妖怪先輩の顔をそうっと窺う。


「その民間伝承っていうのは、一体どんな内容なんですか?」


「詳しいことは分からない」


 首を横に振られる。俺は記憶の奥底にある、何かの手触りに気づいた。夕省の北の端で、俺は第三天子にまつわる信仰について聞いたことがあったのでは? 今まで思い出そうとしなかったのは、それがあまりにもグロテスクで禍々しい色に塗られていたためかもしれない。


「宮中図書館に所蔵されているという言い伝えはあるけど、禁書扱いだからね」


「……」


 しかし、彼は何か知っているのだろう。そういう訳知りな沈黙があった。妖怪先輩はその顔ぶれを一瞥した後、わずかに苦笑いを浮かべてから顔を戻す。幾らか声は聞き取りやすくなっていた。


「僕が知っているのは伝承の一部だ。正確性に欠けるからあまり頼りにしたくないんだけど、仕方がない」


 ふ、と室内に静寂が満ちる。各々の呼吸の音が消え、妖怪先輩だけが生きている。まるで御伽噺でも始めるように、ここからが本題だ、と彼の口ぶりが言っていた。


「昔々、雷とともに天から卵が落ちてきて、貧しい農民が拾って帰ると人間の子が孵った。その子はやがて成長して大人になるが──あるとき、腋から羽が生じて神鳥になって飛び去ってしまった」


 妖怪先輩が俺の顔をちらりと見る。



「それが今の豊隆である、と」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ