Ⅲ
「一体どうして俺が」
主人がいない前だと司旦の態度は露骨になる。
「学生の調べ物の手伝いなんざ、一介の近習のやることじゃないだろ。本当にあのお人好しは」
ぶつぶつと小声で文句を言いながら、それでも司旦は主のそうした無邪気な思い付きに振り回されることに慣れているようにも見えた。
俺も翔もやや委縮したまま、何も言わずに皇城内をついて歩く。悪いとは思いながらも、自分たちが厄介者であると認めるのもまた癪なのだった。
宮中図書館とは、実は複数の建物から成り、全てを合わせて館閣と呼ぶ。俺が想像する図書館に近しい施設から、希少な資料を集めた文書館のような区画、それから宮中秘蔵の書画や絵を蒐集する荘厳な美術館のような倉庫まである。それらは諸官庁の中で最も広壮と評されるほどらしい。
「司旦は、よく来るのか?」
俺は話題を継ぐ努力をする。果てしないほど広大な敷地を割き、一面に玉砂利を敷いた中庭にふんわりと雪が積もっていた。年明けの皇城は、祝福の空気も人の気配も雪の静けさに吸い込まれているようだ。
「たまに」
「近習もここの図書館を使っていいのか?」
翔の唐突な口の挟み方に、司旦はいちいち顔を顰めている。
「昔、勉強したいと言ったら俺も入れるよう白狐様が手配してくださった」
「何の勉強?」
「薬学や医学」
自分のことを掘り下げられるのを好まないよう、司旦は片手を振って俺たちの目線を南側の外に誘った。
雪を被った白亜の建物が光の中、眩く佇んでいる。屋根の傍の、鎧板を嵌め込まれた窓を除けば飾り気と呼べるものものなく、この警備の行き届いた皇城の中でも際立って質素で頑健な造りだった。
「あれが史館。宮中図書館と呼ばれる建物の中では最も大きい。所蔵はおよそ七万冊」
「すげ~」
ネクロ・エグロは歴史の長さの割に文字文化の発達が遅れている。それは彼らの持ち前の知能がもたらす生物学的な限界のためでもあるし、度重なる戦火で焼け、後世に書物を残す精神的土壌が失われていたためでもある。
御時代と呼ばれる現代に入ってようやく情勢が落ち着き、学問や芸術、文学といった文化が国内に根付き始めた。この田舎の地方図書館のようなこぢんまりした蔵書も、東大陸史という長い期間で見れば間違いなく最大規模なのだ。
「それからあっちが昭文館。主に、政治に必要な統計や記録が所蔵されている。それから貴重書や禁書の類もある」
「禁書って、例えばどんな本?」
司旦は肩を竦めるだけで、翔の質問には答えなかった。
「ここからは見えないけど、奥に集賢院と秘閣もある。まあ、お前らみたいな学生には縁がない場所だ」
ふうん、と俺と翔の相槌が重なる。そうして誰も通らない廊下から宮中図書館の外観をぼうっと眺めていたため、次の司旦の言葉を二人揃って聞き返さなければならなかった。
「で、今度は何を隠しているんだ?」
「は?」
「どうせまたろくでもないことを企んでいるんだろう。前に白狐様の名義を借りられないか訊いてきたときも怪しかったけどな、さっきの話を聞いて確信した。妖怪譚なんか調べて何する気だ?」
「……」
いや、別に。翔のもごもごした誤魔化し方はあまり上手くなかった。この影家で最も信用された近習はほとんど真実を見透かすような目をして、俺は内心でこれ以上引っ張ることは不可能だと悟る。
「白狐さんの差し金か?」
「そんな訳ないだろ。たまたまだ」
俺はそれが信じられない。まるで主人がそれとなく近習を接近させ、俺たちに探りを入れるよう促したのではないかと思いたくなる間の良さだった。司旦は異国的な顔立ちに無表情を貼り付け、少しだけ目を細める。
「白狐様の白髪には神性が宿るって、昔から祀り上げられてきたのは知ってるだろ。馬鹿馬鹿しいと思うし、そういうあやふやな運とか天命とか俺は信用していないけどな、ただ稀に、あの方は神様に護られているんじゃないかと信じたくなるときがある」
「……」
「この朝廷を生き延びてゆくには、有能でいるだけでは足りない。天に寵愛されるほど幸運でなければ、乗り越えられない」
幸運。それは紙一重で刃を交わすような危うい偶然の積み重ね。窓辺から漏れ出す冷気にぶるりと背中を震わせ、俺は口を噤む。
「運も実力の内ってやつか」
在り来たりな言い回しをした翔に、司旦は迫力のある舌打ちした。「それは勝ったやつが言う台詞だ。運は運。それ以上でもそれ以下でもない」
「そんなに怒らなくても」
「話を逸らすな。何のために“調べ物”なんかしている? 正直に言え」
「……」
俺と翔は揃って顔を見合わせ、その時点で秘密の存在を肯定しているも同然だったが、正直に言ってやる気はなかった。俺たちがどれだけ誠意を見せようと司旦の心が溶けることはないだろう。
「大したことじゃない」
「なら話せ」
「影家に害はない。ただの、人畜無害な好奇心だ」
ぴたりと司旦の動きが止まる。その色素の薄い異民族の眼光は刃物も斯くやという鋭さで、俺はこの場で斬り殺されるのかと思った。一触即発。主への忠心を苛烈に実行する司旦に対し、感情任せはこちらも負けず劣らず、短気と短気が顔を突き合わせているのだ。
「本当に?」
「勿論」
嘘だった。間近で凄まれていた割に平静を装えたと思ったが、司旦の目にどう映ったかは分からない。実際のところ水蛇が人畜無害なのは事実としても、その背後にいるであろう豊隆に関して何の保証もないのだった。
「──ふん」
鼻を鳴らした司旦はどう見ても納得した人間のそれではなかった。それでも引き下がったのは、俺の動揺を嗅ぎ取り、わざわざ脅すほどの甲斐がないと興が削がれたのかもしれない。或いは単に、翔の存在を留意し、一人で相手取るには分が悪いと判断したのだろうか。
ともあれ俺は、淡々とした振舞いの奥に潜む司旦の嗜虐性にぞっとしていた。それは全てのネクロ・エグロから時折感じる気質のひとつではあるが、司旦が俺たちに対して排外的に振舞う理由は、影家への過激な忠誠心だけだと思いたかった。
「まあ、いい」
司旦はくるりと踵を返す。「白狐様の心遣いだ。有難く案内されろ」
「……」
水蛇を斎舎に置いてきて良かったと心底思う。冬の寒さが深まるにつれ、体を水で構成された蛇の動きは目に見えて鈍り、眠っている時間が増えていた。日に一度新しい水を浴びさせてやると目を覚ますが、それ以外は大抵動くことを嫌うので最近は寝台の下に放置している。
幸運、というより悪運。
重厚な史館の木造扉を潜った先は、天井が高く、がらんとして薄暗い。高い窓から差し込む光が定規で引いたよう長く真っ直ぐ床まで落ちて、その中で細かな塵が揺らめいている。履き物を脱いで上がると、冷たい床の感触が直接伝わった。
「本だらけだな」
翔がそう声を殺すのも無理はない。七万冊の蔵書を鼻で笑った俺でさえ、物言わぬ人のよう整然と並ぶ書架に何となく気圧される心地がした。活字の本がびっしりと詰まった本棚から奇妙な目線を感じるのと同じく、手書きで綴られた書物や巻物なら尚更、そこに誰かの魂の息遣いを感じるのも不思議なことではない。
書架には古い梯子が立て掛けられ、皇城の敷地内であることを忘れるほど何もかも装飾に乏しい。光に目を細め、暗闇に吸い込まれそうなほど高い天井を仰げば、二階らしき吹き抜けと欄干があった。階段は見当たらなかった。
「あっちにいるのが校官。普段は筆写生もたくさんいるけど、一月上旬は人が少ないからな」
司旦が顎で示した先は、浅黒く彩色された天板の後ろに座る人影で、一際物がある割に整頓された様子から窓口の役割を果たしていると理解する。彼の背後には竹製の衝立で仕切られた閉架と思しき別室があった。どれだけの広さがあるのか判然としない。
ほとんど書庫のような構造のだだっ広いこの建物の中で、そこだけが唯一図書館らしい区画だった。更に言えば、俺たちの他に生きている人はこの人日節の翌日に当直を引き当ててしまった不運な校官ただ一人だった。
「……」
俺は衝立に半ば隠された閉架書庫への入り口をじっと見つめ、それから吹き抜けになった階上の方へと顔を向ける。「で、調べ物は」と司旦に訊ねられ「実は」と翔が弁明するのを黙って聞いていた。
「妖怪先輩が関連文献をあらかた借りてきてくれたから、ここに目ぼしい本は残っていないと思う」
「妖怪先輩って誰だよ。早くそれを言えよ」
何のためにここに来たんだよ。司旦の憤りも尤もだが、白狐さんの提案を上手く断り切れなかったとは言えず、俺たちは肩を竦める。
「なあ、昭文館や秘閣も似たような造りなのか?」
「造り?」司旦は眉を顰める。「何でそんなこと訊くんだ」
「だって変な構造してるじゃん。二階への階段がないし、窓が不自然に小っちゃいし」
翔の疑問に、司旦はああと声を漏らした。「盗人対策だよ。図書館の書物はしょっちゅう盗まれるからな」
「階段はあっちの閉架にあるのか?」
「そうだよ」俺の問いに司旦が答え、翔が何故だかがっかりした声を出す。
「何だぁ。隠し階段とかあったら面白いのに」
「それだと不便だろ。鍵をかける方が安全だし簡単だ」
俺はもう一度閉架書庫の入り口を見やる。開かれているから気づかなかったが、きちんとした扉があるらしい。校官と目が合った気がして、反射的に逸らす。
「昭文館も似たような構造だった気がする。他のは知らない」
「公蔵の書物を盗むとはなかなか恐れ知らずだな」
「随分前の皇帝が、図書館の蔵書を全て菊色の紙の書物に書き写そうという事業をやったんだけど、何やかんや頓挫して昭文館の開架図書を写しただけで終わったらしい。筆写や校正って見かけ以上に大変だからな」
へえと俺たちが声を揃えていると、司旦が大きくため息をつく。
「観光気分なら俺はもう帰るぞ。学生のお守りなんかやってられるか」
そう言われて、俺は内心でほっとしていた。この影家の近習、表向き手を繋いだつもりがうっかり寝首を掻かれかねない。
「じゃあな。せいぜい死なないよう上手くやれよ」
建物の外に出て、ひらひらと手を振って去っていく司旦を見送り、その軽口のようなものに不必要な重さを感じながら俺たちも太學の方へ足を向ける。
吐いた息は白い。雲ひとつない青空、太陽の光が欄干の影を床に落とし、その上を並んで踏んでゆく。
「明日になれば先輩たちもぼちぼち戻ってくるな」
それまでに借りた本を片付けたい、という心積もりがあった。翔はふいと外の方を見ている。
「元宵節まではどうせ自習ばっかで夜はお祭り騒ぎだろ」
明後日から授業は再開されるものの、十四日から都で開かれる元宵節を越すまでは新年ムードは続く。
貴族家から下賜される酒を好きなだけ飲める年に一度の国事、学生たちが羽目を外さないはずもなく、既に年越しの段階で一年分の飲酒をした気分の俺は戦々恐々としていた。
「……翔?」
ふと俺は振り向いて相棒の顔色を窺う。ああ、と翔は口だけで応えたものの、目はここでない遠くを眺めている。
「酒は控えたいな……」
新年。冬の冴えた外気の中、じわじわと水際が迫ってくる、嫌な焦燥感があった。何かあったという訳ではないのに、積み重なっていく事象はただ積み重なっていくだけで少しも減りはしない。俺たちは示し合わせたよう、問題から目を背けた。
「そうだな」
俺は翔に頷いて、宮中図書館を後にする。