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明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第三話 元宵節
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「酒の席で政の話とは、世捨て人どもは野暮なことをする」


 日除けを片手で持ち上げ、一人の男が姿を見せる。彼の後ろに広がる光の輪が、黒髪の毛先を透かして五色に煌めいていた。淡く影になった目元、薄く開いた瞼の下に猛禽のような眼がじっとこちらを見つめている。黒く濡れた瞳が、彼の凶暴さや狂気を覗かせるよう、時折紫に変じる。

 ──千伽だった。


「いい歳こいた大人が窓から入ってくるものではありませんよ」


 白狐さんはやんわりと口元を緩めて幼馴染を窘める。

 目を離せば暈けた陽光の中にすうっと透けて消えてしまいそうな彼と、瞼の裏にまで焼きつくような鮮やかな印象を持つ千伽が同い年で、誰も介入できない友情で結ばれた関係であるということが、未だに俺は信じ難かった。


「千伽様、祝您新年快乐ジューニーシンニェンクァイラー


 俺と翔は改まった挨拶をする。些か皮肉っぽかったかもしれない。未だに気楽な呼び名を許してくれる白狐さんとは異なり、朧家の当主である千伽は相応の、この国を支配する門閥貴族の扱いをしなければ容赦なく手が出る男だった。実際、俺はそれで殴られたことがある。


「何しに来たんですか?」


 一方で、司旦の方はかなり遠慮がなかった。彼を相手に踏み込んでもいい線を、長年の付き合いによって大きく緩められている。そういう風に見えた。

 千伽はふんと鼻を鳴らす。


「雛鳥どもが元気にぴちぴち鳴いているか見に来たんだ。先日死にかけたらしいじゃないか。え? 太學に入って何か月だ? この調子では上舎に入るより墓に入る方が早いかもしれんぞ」


「縁起でもない」


「お前たちがどうなろうと朧家は一切関与しないからな。まあ花くらいは供えてやるかね」


 掌を広げて見せた千伽は、かつて俺と翔の身の安全を保証すると条件付きで交わした約束がもう期限切れであることを仄めかした。驚きはないが、俺たちの存在が重荷に成り得るという実感は存外苦しかった。

 余計なことを言うなと白狐さんに睨まれた千伽は肩を竦め、当然自分も招かれたかのよう司旦の用意した敷物の上にどっかりと腰を下ろす。白狐さんは仕方なく、しかし慣れた風で酒と料理の準備をさせた。


「騒がしい一年になりそうだ」


 誰に言うでもなく突然そう呟いた千伽は、虚空をしばらく見つめ、さしあたり司旦が運んできた酒を注がせて軽く盃を持ち上げて見せる。

 それに応えた彼の幼馴染もまた同じ所作で盃を飲み干した。彼らが水のように空にする酒瓶ひとつで一体どれだけの値になるのか、思わず考え込んでしまう。


「千伽様が言うと不吉ですね」


 新年に憚られるような物言いも司旦は臆さない。「そろそろ落ち着いた一年を過ごしたいものですよ、俺は」


「この世捨て人どもが来てから平穏だった年があったか?」


 空になった盃で指され、俺と翔は委縮した。この男に、今あれこれ掘り下げられたくなかった。特に、水蛇や豊隆のことを気取られたくない。


「ええと、千伽様に訊きたいことがあったんですけど」


 矛先をずらそうとした俺の声は上擦っていたが、注目は集まった。目を細めた千伽の恐ろしく妖艶な表情に怯みながら、背筋を正す。訊きたいことがあるのは嘘ではなかった。


「千伽様のスコノスは想像を現実に変えますよね」


「然り」


「もし、もしもその気になれば、誰かから記憶を奪うことは出来ますか?」


 しんと辺りが静まり返り、俺は自分が一番新年に相応しくないことを言ったと悟った。そもそも千伽が持つ特異なスコノスの性質は朝廷の一部にしか共有されていない。ここにいる面子は、禁忌の重さを理解する数少ない秘密の守り手たちである。

 夢を現実に変え、現実を夢に変える。それは明らかにスコノスの規格を超えていて、本人の気まぐれで一国が、世界が転覆しかねないほど巨大な力だ。実際に神明裁判で目の当たりにした全員は、それ自体を口にすることを恐れていた。

 長い沈黙があった。俺は叱咤されることを、最低でも千伽の機嫌を大いに損ねることを確信して身を固くしていたが、ゆっくりと口を開いた千伽はそのどちらでもなく、余計に不気味だった。


「記憶は物ではないからな。奪うという言い方は正しくないが、失わせることは出来る」


「……」


 千伽は長い人差し指を弾いて見せる。比喩だと分かっていても、そうやって指先ひとつで他人の認識を歪める千伽の力には薄ら寒いものを覚えた。


「要は脳みその記憶を守る部分をちょいと弾いてやればいい」


「ちょいと……ですか」


「私には造作もないことだが、他のネクロ・エグロに真似出来るとは思えんね」


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? 俺はそう声に出したかった。それを可能とする男がこの世に一人はいる。答えとしては充分に思えた。

 静けさが居心地悪い。脈絡ない俺の質問が宙に浮いていた。それぞれが俺の続きの言葉を待っていて、俺は継ぐ話題を持たなかった。翔が助けてくれなければもっと決まりの悪い思いをしたに違いなかった。


「そういえば最近、面白い民譚古潭を探しているんですよ」


 翔は水蛇のことは伏せたまま、書物を使って調べ物をしていることをそれとなく白狐さんに話して見せた。仲の良い先輩に誘われて妖怪譚を読み漁っている、というのが大筋で、書物を好む彼らから何か訊き出せないかという腹積もりも多少あっただろう。

 今のところ水蛇に関して目新しい発見はなかったし、その背後にいると思しき豊隆に関してはあの日以来一度も俺と接触していなかった。


「勉強熱心で何よりですね」白狐さんは勝手に感心している。「何か気を引くような物語はありましたか?」


「色々見つけましたよ。腹からすっぽんが生えてきた男の話とか、喉に猿が棲みついた女房の話とか」


「勉強に必要か? それ」


 思わず司旦が口を挟むのも無理はない。「寄り道ばっかして肝心の学業を疎かにしているんじゃないだろうな」


「まあまあ、そういう横道にこそ新たな学びが広がっているというものですよ、ねえ千伽」


 不意に手渡され、盃の底を覗き込んでいた千伽は「ん?」とどこか上の空で応えたあと「まあな」と言う。白狐さんは楽しげに笑っていた。


「千伽は昔からそういうのが好きでしたよね」


「昔はな」その物言いは素っ気ない。「今は好かん」


「子どものとき僕を怖がらせようと色々聞かせてくれたでしょう。あの怪談はよく出来ていました」


「あれの大半は私が即興でつくったやつだぞ」


 そう言うと白狐さんは人形のような目を丸くする。「ええ、嘘でしょう。初耳なんですけど」


「妖怪譚には古くから続く様式美というものがある。それに倣えば新たにつくり出すのは造作もない」


「確かに、あの手の物語にはお約束が多くありますよね」翔が相槌を打った。「“振り返ってはいけない”とか」


「“異界の食べ物を口にしてはいけない”とか」


 しれっと白狐さんが核心めいたことを口にしたので、俺も翔も内心で胃を掴まれたような動揺を味わった。千伽や司旦を前にして、この場で気取られるような真似をしなかったのは奇跡に近かった。


「ええと、長遐にもそういった怪奇ばかり書かれた変てこな書物がたくさんありましたよね」


「ああ、懐かしいですねぇ」


 語尾を間延びさせた白狐さんの言い方に、翔は傷ついたかもしれない。それは本当に、遠い昔に置いてきた過去に対する微笑だった。楽しい思い出。彼の中で、朝廷から追放されていた期間がそういう部分だけ切り取って消化されているのだとすれば、それはそれで救いではあるが、翔は複雑だろうとも思う。

 それで、思わず言葉を継いでしまったのは俺の浅慮だった。


「白狐さんは、長遐が懐かしくなることはありませんか?」


 そのとき、壁と同化するように立っていた司旦の顔が、主の方へ向けられた。手の中の盃を弄ぶ千伽の眼差しもまた、幼馴染をさり気なく意識しているように思えた。何らかの磁力が宙に収束して、一瞬時間が止まる。


「さあ、どうでしょう?」


 白狐さんの声だけが明るかった。冬の真昼の日差しのように、無邪気ですらあった。


「僕にとって、ここが帰るべき故郷ですから」


 その言葉を聞いたとき、この人に同じ話題を振ることは二度とないだろうと悟る。もう彼の中で引き摺るべき感傷はなく、長遐の出来事はひとつの章として完結してしまっているのだ、と。

 翔は岩か何かに変わってしまったように黙っていて、俺はそちらに首を動かすことが出来ない。帰るべき故郷。代わりに俺は心の中で反芻する。そんな場所が、俺にもあるだろうか、と。

 色褪せた記憶にさあっと痛々しいほど鮮やかな色彩が差す。俺はなるべく後ろを振り向かないように生きてきた。それを直視するのが辛かった。三年も経ってようやく、少しだけ思い出せるようになっていた。


 もう、戻らないのだろうと思う。人間の世界で生きた十五年のこと──。


 冬でも強い陽射しで白くなったコンクリートの街並み、浜辺と海の向こうに見える江の島をバスの窓からぼうっと眺めたこと。そういう懐かしい風景と、熱気を帯びたアスファルトの地面の感触、毎日のように通った図書館。

 この三年の間に何もかもが心に焼き付いた夢の記憶のように、遠くなってしまった。俺はあそこには戻れない。

 だが、せめて妹の光だけは、悲嘆に暮れているであろう両親の元へ帰さねばならない。何年経とうと、どんな手段を使ってでも、例え本人が望んでいなくとも。母さんには、光が必要だ。

 それだけで、俺がこれを使命と呼ぶ理由には充分だ。


「……」


 俺の沈黙に何か思うところがあったのだろう。白狐さんのゆったりした瞬きは、その瞼に留まった蝶々が翅を動かすようだった。「ねえ、皓輝くん」と、彼の優しい口調は長遐にいたとき俺をよく咎めていたときそのものだ。


「焦って生き方を決める必要などないのですよ。あなたはまだ若くて、何でもできるんですから。光ちゃんのことはともかくとして、たまには横道に逸れてみてもいいのでは? ひとつの目的に向かって突き進むことだけが人生ではないのですよ」


「……はい」


 その慰めを、少なくとも表向き素直に受け取れるくらいには、俺は成長していた。例え俺にそうする気が一切なくとも、彼の言っていることは理解できた。思えば、彼が与えてくれる優しさに明確な溝を感じたのはこの瞬間だったかもしれない。


「ああ、ほら」いいことを思いついたという顔で白狐さんが司旦に目を向ける。


「お二人の調べ物を手伝ってあげてはどうですか?」


「は?」


 びくりと司旦の肩が強張ったのがここからでも見えた。「司旦、調べ物は得意でしょう?」と続けた彼の声にまるで悪気はなさそうだった。千伽は黙っていたが、関心はなさそうだった。


「嫌ですよ。どうして俺が」本音を言って憚らない司旦に、白狐さんは主人らしく眦を細くしてみせる。


「宮中図書館の使い方ならあなたの方が詳しいでしょう? 多くの分野に興味を持つのは学生として望ましいことです。皓輝くんと翔はこれから視野を広げてゆく若者で、あなたは人生の先輩なんですから、教えてあげられることがたくさんあるはずです」


「……」


 ね? とやんわり同意を求めるように首を傾げられ、静寂は、結局のところ諾だった。司旦は時にぎょっとするような文句を言いつつ、主の命令に従うのが近習の本懐と心得ているのだった。

 俺と翔は何となく、口を挟む余地すらない。彼の“提案”に不自然な重みを感じたのは、彼がもう長遐の世捨て人ではなく、影家の当主となったからだろうか。

 はっきり言えるのは、俺と翔と司旦の取り合わせは、白狐さんが思うほど楽しいものではないということなのだが。




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