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明後日の空模様 陽国編  作者: こく
第二話 思想史研究会
12/47

 



「またお前か」


 今日は、夢の中の意識がはっきりとしていた。俺は奇妙な静けさと暗闇に立っている。口に出してみて初めて、声が出ることに気付く。ただ、音は音として響かず、自分の聴覚で捉えられるだけだった。

 思うように身体を動かない。泥沼に足を捕られているよう、何かが俺を不自由にしている。いつも夢の中で感じる何者かの気配のせいか、俺自身が不自由であることを望んでいるのか。

 俺は声を出す。そうしていると、居眠りしているような断続的な意識の糸を一本に紡げるような気がした。


「豊隆も水蛇も心当たりがあるのに、お前だけは全然分からない。何故だ?」


 答えはない。そこだけがぽっかりと抜け落ちた空洞のように。そう、この夢はまるで暗闇に閉ざされた穴のようだ。以前の俺なら、気付きもしなかった空白。繰り返し悪夢として瞼に焼き付いて、ようやく気付いた喪失の痕跡。

 この暗がりは、ずっとここにあったのかもしれない。いつから? この世界に来た日から? 俺が産まれてから? それとも、もっと()()から──?

 分からなかった。思い出そうとしても、霧を掴むよう手応えがなかった。闇に身を委ねる。空洞は深く、暗闇は濃淡を帯びながら最後には何もかもが黒く塗り潰される。

 ああ、俺は忘れてしまったのだ。何かがここにあったのに、俺は全て忘れた。忘れていたことすら、今の今まで覚えていなかった。

 豊隆、水蛇、全ての人間関係の縁。これだけがあらゆる因果から切り離されていた。海に沈んだ幻の大陸の如く、深い深いところで眠っている。


 じゃあ、どうして今になって?


 俺は考えている。忘れたものは、忘れたままにした方がいいのではないか。記憶が削り取られたのには何か理由があるはずだった。不自然な空白は、誰かが俺の頭に手を突っ込んだ傷跡のようだ。手探りする度、見えない刃が手に当たる気がして胃の底が強張る。

 それでも俺は心のどこかで知りたいと思っている。好奇心でも、それが大事だと感じるためでもなかった。ぽたり、ぽたりと何か粘着質なものが迫っている。思い出さなければならない。ただ、盗まれたものを取り戻すために。




 ***




 俺が目覚めるまで、水蛇がうろうろと落ち着かないので翔は秘密を守ることに苦労したらしい。

 事件から丸二日が過ぎ、ようやく俺は医官院から出て齋舎に戻ることを許可された。太學生は官吏扱いであり、民間の医療機関に掛かるはずもなく、俺が運び込まれたことで襲撃事件はそれなりに朝廷でも騒がれたようだ。


「結構縫ったな」


 退院したとき、俺は他人事のように呟く。実際、怪我をした瞬間に何が起こったのか未だによく分からないので、実感が湧いていなかった。手の甲、腕と肩、そして首の下に幾つも入った裂傷には、まだ糸が残っている。

 恐らく翔のスコノスに噛まれたのだろう。それは比喩的な意味で、風を操るあのスコノスはとにかく素早いし、瞬きの間に俺を切り刻むのも容易かったはずだ。


「今日から査問会が始まるらしい」


 付き添いの翔の表情は暗い。査問とは事情聴取のようなものである。軽度の揉め事なら齋長の管轄だが、今回は傷害事件であるため太學側が官吏を交えて取り調べを行う。

 襲撃者は全て別の齋舎の内舎生で、上級生からの指示で俺と翔を襲撃した、という程度の噂は俺も聞いていた。いずれにせよ俺たちは被害者側で、往来のある場所でスコノスを出現させた翔の行動の是非を問われることになる。


「俺はそんなに心配していないよ。正当防衛として充分通る」


「……」


 口には出さなかったが、先輩たちも証言をしてくれるだろうと思った。医官院から聞いたところによると、事件当時居合わせた研究会の面子はかなり憤っているようだった。義に篤い彼らのこと、突然奇襲を仕掛けるなどという卑怯な行為を許すはずもない。

 懸念すべきは、十二月は課や私試が前倒しになっており、過密な日程が査問会によって更に圧迫されるということである。

 事件は、いつかは起こることだった。影家の後ろ盾で入学した時点で、清心派から祀り上げられる一方、対立する勢力から俺たちが疎まれるのは予測がつくことだ。

 それに思想史の研究会は確かに俺たちに一目置いているようだが、全ての清心派の学生がそうであるとは限らない。今回は、入学当初から悪目立ちしていた俺たちを疎んじる多種多様な視線を黙らせるには充分すぎる一件となった。

 翔にとっては、社会に適合して生きていけるかもしれないというほんの僅かな自信を根こそぎ奪われた出来事でもある。まだその判断を下すのは早い、と宥めても、翔はもう自分を奮い立たせる気力がないようだった。


「俺で良かった、と思ってくれよ」


 翔が口を開くより先に俺は言う。包帯から露出した指の付け根の辺りに、縫うほどでもなかった切り傷の赤い線が覗いた。


「他の通行人や先輩方を傷つけていた方が危なかった。万一死人が出ていたら影家でもどうにも出来ないだろ。別に死ぬような大怪我じゃないし、今回は俺で運が良かった。それで済ませていい話だ」


 二人分の足音が廊下に響いた後、翔は力なく笑う。


「今日の皓輝は少し格好いいな」


「いつもの俺は少しも格好良くないのかよ」



 そうして十二月は慌ただしく過ぎて行った。襲撃事件は、三名の内舎生と首謀者として挙げられた一人の上舎生の除籍処分で幕を閉じた。「傷つけるつもりはなかった。脅すつもりだった」というのが彼らの供述だった。翔のスコノスの暴走は論点として長く注目された後、結局不問として解放された。

 肩が凝るような査問の期間に十日に一度の試験をこなし、研究会の先輩方に泣きついて月末の私試と作文を少しだけ手伝ってもらって、気付けばあっという間に年の瀬である。


「え? 明後日で今年終わり?」


 俺も翔も嵐が過ぎ去ったような自室を散らかしたまま、天井を見上げていた。試験の山は越え、他の学生たちはしんしんと雪が降る都を出て里帰りする時期である。借りてきた火鉢を二人で分け合い、俺は椅子に、翔は俺の寝台に座り、視線が合わない。


「一年が早すぎる」


「後半は怒涛の勢いだったな」


 九月に入学して、ようやく三か月。押し寄せる全ての試験を乗り越え、落第せずに済んでいる。俺たちは想定以上に密度の濃い学生生活を送っていた。上舎に進むにはあと最低一年はここにいなければならない。

 その先のことを思うと気が遠くなった。やめよう。来年の話をすると笑われる。


「こいつも想定外だったし」


 俺は足首に巻き付いている水蛇に目を向ける。蛇は火鉢の灰を覗き込むように、俺に尾を絡めながら首を伸ばしていた。

 あの夜の水蛇のことを俺は忘れていなかった。水の身体がばらばらになってでも何かしようとしていた不可解な動きを。これまで見せた動作の中で、明確な意思が感じられたという意味ではあの瞬間、初めて俺は水蛇を使役していると実感した。


「こいつについて分かったことが幾つかある」


 俺は片方の足を持ち上げ、水蛇が首を右往左往させるのを眺める。


「ひとつ、水蛇は俺を守ろうとしているということだ。橋から落ちたとき、自ら進んで俺の下敷きになろうとした」


「座布団の代わりにもならなかったけど」


 試験範囲を開いたままの教科書を無感情に一瞥し、翔が引き継ぐ。俺はそう、と頷いた。


「ふたつ目は、あまり役に立たないということだ」


「攻撃しようという気概は感じられたな。小便引っ掛ける程度の威力だったけど」


 翔のスコノスが暴走の片鱗を見せたとき、水蛇は全く俺の意志など介さず彼女の顔面に飛び掛かった。身を挺した一撃に殺傷能力は皆無だった。


「ただ、隙を突いてくれて俺は助かった、思わぬところで救われたな」


 翔が動物を可愛がるよう手を伸ばすと、蛇は首を内側に引っ込める。諦めて姿勢を戻した後、翔は脚の上に肘をついた。


「主人を守るという心構えは一丁前にあるらしい。うちの阿婆擦れ女より上等だぜ」


「俺は何も言わないよ」


 あの一件以降、翔とスコノスの間でどんなやり取りが交わされたのか俺は知らない。ただでさえ緊張感のある両者の関係が更に不穏になったのは明白で、そんなとき彼女の言ったことを思い出すのだった。「翔がここにいる意味はあんの?」と。

 今ここで口に出すのは得策でなくとも、いつかは翔に行き先を訊ねなければならないのかもしれない。そのときが来たら、人生を有効に使うよう忠告するだけの資格が自分にあるのか考えねばならないだろう。

 その足音はほとんど聞こえなかった。戸の傍で動く人の気配と、「ありがとう」というはにかんだ声が聞こえて俺たちは同時に顔を上げた。

 こちらが口を開くより早く、水蛇が懐の中に潜り込む。流動する尾が隠れ切るのと、「入ってもいいかい?」という妖怪先輩の声が聞こえるのは同時だった。


「どうぞ」


 取り繕って背筋を伸ばしたのは、わざとらしかったかもしれない。どの道、先輩は気付かなかっただろう。

 何せ彼は両手に書物を抱え、戸の隙間に足を差し込もうにも粗暴な仕草に慣れていないのかあたふたと戸惑い、翔が手伝ってようやく積み上げた書物の一番上が落ちずに済んだという有様だった。


「や、やあ。お疲れ様。ここにいるということは、私試は落ちずに済んだんだね」


「お陰様で、助かりました」


「俺は大したことしていないよ。過去問の記憶は他の連中の方がしっかりしてたから」


 彼の謙遜はいつもの調子で、俺がほとんど腕で薙ぎ払うようにした机の上に、その危うげに積まれた書物を置いて一息ついた。立てかけたまま放置していた筆の一本が音を立てて床に落ちる。


「先輩、これは?」


「図書館から借りてきた。ほら、前に作った目録のやつ、きっと忙しくて行く暇もなかっただろ? 俺はこれから帰省しなきゃいけないし、年末年始は図書館も閉まるから今の内に持って来ようと思って」


「わざわざ運んできてくれたんですか?」


 恐縮する俺たちに「お節介だったらごめん」と彼は慌てて付け足す。お節介であるはずなどなかった。彼の言う通り、例の騒動から今日に至るまで目の回る忙しさで、調べ物のことはすっかり後回しになっていたし、年末年始に宮中図書館が閉館することも頭から抜け落ちていた。

 椅子を立って席を勧めるが、断られる。


「目録に載せていなかったけど、関係ありそうな民話が収録されている本も幾つか混じっているよ」


「ありがとうございます」


「礼には及ばない。こう見えて優秀だから私試は余裕だったんだ」


 彼はそこで言葉を切り、「嘘。今月はマジでヤバかった」とお道化た後、綺麗な歯並びを見せた。


「まあ全員無事に通過して良かったよ。君たちが補習を受けようものなら、思研全員が帰省しないでここに残る勢いだったから」


「そんな、大袈裟な」


「みんなちょっと責任感じてるんだよ」妖怪先輩は袖の中で自分の手首を触る。「君たちが目をつけられていることを知りながら、色んな活動に連れ回していただろ。軽率だった」


「……」


 俺も翔も黙り込んでしまう。一般的な学生として扱って貰うのは本意だった。しかし多くの学生の目はそうではなかったし、俺たちは初めから特別扱いされなければ危険が身に及ぶような崖際に立っていた。


「俺たちは、もう思研には行かない方がいいですか?」


 首を窄めるようにして翔が言う。研究会に入ることはあれほど渋っていたのに、排除されると思うとそれはそれで寂しいのだ。先輩は慌てて手を振る。


「別にそういう訳じゃないんだ。君たちが来たいときに来ればいい。何も変わらないよ。ただ、反省しているんだ」


 彼は小さな声で続ける。


「ああ見えて悪い奴らじゃないんだよ。ちょっと君たちには鬱陶しく感じるかもしれないけどね」


「理解しています」


 短く応える。勧誘してきた会長や、他のメンバーの顔が過る。悪い奴ではない。


「まあ何が言いたいかというと、良ければ俺たちを頼ってね。試験の手伝いくらいなら出来るし」


 はい、この話はお終いとばかりに先輩は軽く手を広げて話題を変えた。廊下の方から、大きな荷物を引き摺る音が通り過ぎて行った。既に両隣の部屋の同舎生は昨日今日の間にいなくなり、齋舎全体ががらんと空になったように感じた。


「年末年始はここにいるんだよね?」


 はい、と翔が答える。「先輩は実家に帰るんですね」


「気は向かないけど」


 そうしてむくれると、彼は両親や親戚が煩わしい年頃らしく見えた。良家の子息ともなれば新年の挨拶回りも重労働なのだろう。帰るべき故郷のない俺と翔は、年末年始の休みを齋舎で慎ましやかに過ごす予定だった。


「今年はなかなか波乱だったけど、来年は楽しく過ごせる一年になればいいね」


 先輩はちらりとまだ取れていない俺の腕の包帯を見て、しきりに瞬きを繰り返した。「帰る頃には治ってるかな? 快気祝いに何か買ってきてあげるよ」


「本当ですか? 酒以外でお願いします」


「分かった」彼は声を上げて笑った。「酒以外ね」


 そうして妖怪先輩は帰省のために去っていった。彼との出会いは決して劇的な予感のするものではなかったが、俺と翔の学生生活に何かをもたらしたようだった。今年一年を振り返るとき、彼のはにかんだ笑みの一枚はきっと欠かせないだろう。


「何か面白い発見があったら教えてね。过个好年(グオーグハウネン)!」


 良いお年を。簡略な決まり文句を残し、俺たちも応える。彼の足音が聞こえなくなってしばらくしてから、俺は「あ」と呟いた。


「何?」


「先輩に訊きたいことがあったんだ。忘れていた」


 頭を掻く。翔は「来年でいいじゃん」と寝台に寝転ぶ。


「大事なこと?」


「そうでもない」多分、と付け足す。「店の前で襲われたとき、気になることを聞いた。〈第三天子〉という言葉に心当たりはないか?」


「聞いたことあるかも」


 翔はあまり関心がなさそうだった。というより、あの夜のことは悪夢として早く忘れたいのだろう。


「長遐にいた頃、本で読んだ気がするなぁ。皓輝の方が詳しいんじゃないか?」


「そうだな。俺も読んだよ」内容はよく覚えていなかった。蟀谷を指で抉るように刺激するが、断片的な伝承しか出てこない。


 天学の正典『天介地書』において、天子と呼ばれる人物は二名登場する。この孑宸皇国を創った〈月天子〉、海の向こうに渡って皇国と敵対した〈日天子〉。第三天子とは文字通り、認められていない“三番目の天子”の存在を主張する思想、だったはずだ。


「あー、そんな感じだった気がするな」翔は両腕で目元を覆っている。「それが何かあった?」


「罵倒として使われたことが気になった」


 そして先輩たちはその言葉を使うことを阻止していた。俺にとっては過去調べ物をしていた際に流し読みした民間伝承のひとつで、巡り巡って敵意とともに自分に向けられるとは思いもしなかったのである。それが引っ掛かっていた。


「白狐さんに訊いてみれば?」


 翔は平坦に言う。年明け、俺たちは影家の正邸へ挨拶に出向くことになっていた。正確には呼び出された。襲撃事件のこともあったが、白狐さんは学費援助をしてくれるパトロンであり、進捗の報告は然るべき義務だ。

 俺は椅子の背に顎を乗せる。懐からはみ出た水蛇が、埃っぽい空気を身体に透かしている。


「いや、やめておく」


「何で?」


「憶測だけど、新年のめでたい席で話すような話題じゃない」


 ふうん。翔は相槌を打って、それきり寝転がったまま黙った。寝息が聞こえ始めるのも時間の問題だった。そこ俺の寝台、と言いかけ、やめる。

 年の瀬、訳もなく一年を振り返りたくなるが、そこに思考を費やすのも膨大で億劫に思えた。机に積み上げられた多種多様な本の山を一瞥し、俺はそれを崩す作業に専念することにする。




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