Ⅴ
ところどころついた舗装路の泥汚れを、人々や馬の足が無造作に踏み潰してゆく。道沿いに吊るされた小さな提灯に、木の台に乗った男が火霊を呼んで明かりを入れていた。ちょっとした混雑に流されながら歩く俺たちは、幸いそれほど目立ってはいないようだった。
指定されたいつもの店は、学生が屯しやすい歓楽街からやや離れ、その分太學から目を付けられにくいところにある。研究会で政治色の強い活動をする際はよく利用するらしく、俺と翔も決起会紛いの集まりを断り切れず一度だけ入ったことがあった。
道中の話題といえばやはり専ら陽国の件だった。研究会の上級生は自国が陽国と軍事的同盟を結んだ場合に起こり得る利点と問題について、火が点いたように話し合っている。
歩きながら器用に人波をすり抜け、時折零れる物騒な単語が人目を惹くのも気に留めず、その様子を見る限り漏れ出た秘密は既に公然のものとして扱われているらしい。明日には都中に広まっているだろう。
「どういう経緯かはさておき、これまで中立だとか何とか偉そうに言っておきながら急に掌を返して軍事援助を申し出るところが気に食わない。陽国はきっと、影家の一件でうちがイダニ連合国に後れを取ったことをちらつかせるだろうな。それが弱みになると信じている」
「大袈裟に考え過ぎじゃないか。影家にイダニの連中が潜入していたことで、平和呆けした貴族社会の脆さが露呈したのは事実だろ?」
「いやいや、分からないぞ。陽国の女王は狡賢いと聞く。突然下手に出てくるなんて裏があるに決まってる」
「ともあれ、あの陽国が重い腰を上げなければならないほどイダニの勢力が増しているなら、こちらも国防の仕組みを今一度真面目に論ずるときが来たってことだ。海があるからといって他人事じゃないぜ」
懐疑派の会長を中心に次々と意見が飛び交う。その後に続きながら妖怪先輩はいつものようにほとんど話には参加せず、彼が物理的な障壁となって俺も翔も矢に当たらずに済んでいる。内心では、早くこの時間が終わればいいと思っていた。
まだ噂の真偽も、同盟の具体的な項目も分かっていないのに学生が議論を進めるのは滑稽な気もしたが、とにかく彼らはそうしなければ内側から湧き上がるエネルギーを消費できないようだった。迸る好戦的な若さを、弁舌でぶつけ合っている。そして政治の世界において、その向こう見ずな熱意が何かを変える梃の棒になり得ることも確かだった。
「なあ、お前はどう思う?」
流れるように水を向けられ、妖怪先輩の背中が強張ったのが分かった。
「あー、ええっと、俺はそういうの、意見は言わないようにしている」
「何で?」会長の顔には明らかに非難の色がある。先輩は居心地悪そうに眉を寄せた。
「俺は自分で戦える訳でもなければ、外交問題に精通している訳でもないし、発言する資格がないと思っているから。ごめん」
沈黙が流れた。人々のさざめきの中、水墨を溶かしたような夜闇に点々と提灯の明かりが灯っている。濁った水路がその下をゆったり流れて、人通りの多い舗装路をのろのろ進む俺たちの影が水面に揺れていた。
「戦うってどういうこと?」
馴染みの上級生の一人が声を上げる。先輩が僅かに肩の力を抜いた。それでいて、深刻そうに俯いている。
「だってさ、陽国がうちに軍事援助を求めたのなら、いつか皇国民も戦争に行くことになるかもしれないだろ。資金や物資の確保だけが同盟の目的だとは限らない。イダニの力が拡大しているなら尚更、国民が巻き込まれることも視野に入れなきゃ」
「え、でもさ、別に俺らが戦争行くわけじゃないじゃん」
間髪入れずに返ってきたそのお道化た声と、疎らに上がった文官の卵たちのせせら笑いに、俺は蟀谷の辺りがずきずきと痛むのを感じた。
俺たちは全員、本当の戦争を知らなかった。戦争の当事者になることを想像も出来なかった。その言葉の恐ろしげな響きを、深刻に考えすぎだと嘲りの笑いで誤魔化すのが精一杯なのだ。
分からないから意見したくない、という妖怪先輩の気持ちは理解できる。しかしそれは白熱しすぎた場を悪化させないためのごく一時的な措置だ。沈黙して問題から距離を取ることは、結果的に何も解決しない。
この場合どういう意見を持つのが正しいのか、孑宸皇国とスラギダ王国が同盟を結ぶことが、俺にとって吉と出るか凶と出るか全く分からなかった。
「というか、翔は?」
気まずさを振り払うような妖怪先輩の声に、俺は周囲を見回す。いつの間にか隣にいたはずの翔の姿が忽然と消えていた。
人混みで逸れたか、振り返ると少し離れた提灯の下で異民族の髪が明るく照らされていた。食べ物を売る店先の蒸篭から湯気が横切って、じっと路地の奥の暗がりを睨む翔の佇まいを見せたり隠したりする。俺たちを隔てるように歩いていた二人組の酔っ払いが通り過ぎたところで、翔はおもむろに顔を上げた。
「……あ、ごめん。何でもない」
こちらが訊ねるより先に翔は全部答えて、何事もなかったかのように合流する。先輩方もまた気にせず歩き始めたが、俺には何やら胸騒ぎのする一瞬だった。まるで、背骨を幽霊に撫でられたかのように。
十二月の都の夜は芯まで冷えるような寒さだというのに、翔の額は薄っすらと汗ばんでいる。何より浮かない表情をしているのが不穏の全てだった。
「体調悪いのか?」俺はこっそりと訊ねる。「そういえばお前は人混みが苦手だったよな。大丈夫か?」
「大分不愉快」
げんなりとした目付きで翔が呟いた。全く、歓楽街から一本外れた通りでも油断すると肩がぶつかる混み合いぶりで、特に祝日でもないのに都の人口の多さにはいつも驚かされる。
「でも、問題はそこじゃない」翔は調子を変えずに続ける。
そう、夜遊びするのは何も今日が初めてではない。翔はしきりに周囲を気にする素振りを見せ、その癖長い間黙っている。俺は声を低くした。
「何か気付いたことがあるなら教えてくれ。お前の勘は信用しているから」
「尾行されてる……かも」
自分でせがんでおきながら、俺は胃が引っ繰り返るような動揺を隠すことに苦労した。翔は誰かの目線を意識するよう、正面に向き直る。
「気のせいかもしれない。ちょっと人が多すぎて自信ない」
「……」
誰が? 何の目的で? 様々な問いかけが喉元を過り、それを口にすることの無意味さを悟って俺は黙った。俺たちは前を行く一団から数歩離れていたが、翔は何でもないことのように俺の背を押す。
「とりあえず、店に着くまで皓輝は先輩たちから離れないで」
翔の言葉遣いは淡々として、それが装われたものであることを俺は知っている。「今からでも齋舎に戻ったほうがいいんじゃないか?」
相棒は首を横に振った。
「尾行しているやつがいるとして、誰を標的にしているのか分からないから動きにくい」
耳打ちしたとき、久しく感じていなかった鉄錆のような匂いが鼻腔を突いて一瞬息が詰まる。翔の青褪めた横顔を見ていると、「暇で暇で死にそうなんだけど」と漏らした翔のスコノスのことを思い出さずにはいられなかった。
店に近付くにつれ、人の少ない閑散とした通りを歩くことになるだろう。それが良いことなのか悪いことなのか判断がつかない。濃密な香の煙のように漂い始めたスコノスの気配に触発されたのか、微睡んでいたはずの水蛇が懐の下で反応するのを俺はどうにか顔に出さないようにした。
***
その瞬間は突然やってきた。
辺りは暗く、俺たちは水路に高く架かった石橋を渡って店に入るところだった。古びた石段が設けられた橋はそのまま目的の酒楼の二階に通じ、前時代から増築を重ねた古い地区らしい街並みが見晴らせる。
錆びた欄干から覗き込むと、もうほとんど使われていない水路の澱んだところに菱と思しき浮葉の残骸が沈んでいた。歓楽街の賑わいは後ろに遠のき、この一帯はややうらぶれた雰囲気がある。
漏れ出る明かりに爪先を照らされ、先輩方が慣れたように戸を開く、その瞬間。翔が橋の欄干に踵を乗せて一息で屋根に飛び乗った。尾行されているかも、と告げられてから十分も経っていない。翔は素早かった。まるで巨大な鳥が飛び立つよう学生服の裾がはためき、ぎょっとした顔が幾つも見上げる。
咄嗟に俺は両手で彼らの背を押した。
「お気になさらず」笑顔を貼りつける。「先に店に入っていてください──」
何かが空中を切る音。「皓輝後ろ!」という声が屋根の向こうから飛んでくるのと、俺が振り向いたことによって相手の腕とぶつかり、何らかの鈍器の軌道が逸れるのは同時だった。全く、戦いにおける俺の勘というのは一向に成長が見られない。
どよめきと、何だ何だという困惑や野次が店の入り口から聞こえる。妖怪先輩が戸の段差で躓き、ちょっとした将棋倒しが起こったので余計に混乱が増したようだった。
「──……」
直撃は避けたものの、心臓が早鐘のように脈打つので耳が痛い。欄干の一部が崩れている。俺はよろめいて敵の姿を捉えた。こちらも動揺していたが、相手はもっと動揺していた。
それが救いだった。
顔立ちは若い、ように見える。及び腰になって逃げるべきか戦うべきかの判断に迷った相手は、棍棒に似た簡素な武器を手ごと俺に蹴り上げられ、何が起こったかまだ理解できていない。俺は相手の胸倉と二の腕に掴みかかるが、相手の抵抗する腕力が強かったことが致命的な想定外となった。
ぐえ、とか言葉にならない呻き声が互いの口から洩れた。俺は相手の着物の胸元と右腕を押さえ、相手は左手で俺の襟元を、もう片方で俺の手首を掴み、ぎりりと締め上げられる。拘束に慣れている動作ではなく、パニック特有の力任せだったが、その分掴み合ったまま互いにびくとも動けない。
脚だ、と酸素が足りない脳が命じている。かつて翔が世捨て人だった頃つけてくれた稽古のことを思い出す。急所を打てば、力量や経験で負けている相手を倒すことが出来るかもしれない。逆転の隙を生めるかもしれない。
永遠に感じられた一秒の膠着、俺は鳩尾を狙って膝蹴りを入れようとする。途端に体勢を崩し、獣のような唸り声を上げた相手に力負けした。激突とともに、背中で欄干が嫌な音を立てた。
落ちる。錆びた金属の破片。目を見開いた相手の顔。緩慢とした重力の中に放り出され、それでも俺はその胸倉を掴んだまま地獄に引きずり込むだけの判断力があった。自分の懐からするりと水蛇が抜け出していたことには気が付かなかった。
悲鳴が上がったのはどこからだったか。落下の痛みと衝撃で方角も分からなくなる。強かに地面に打ち付けた腰から下が動かない。大した高さの橋ではないにしても、打ち所が悪ければ或いは、という落ち方だった。
思わず悪態をつく。俺の上で伸びている相手をどうにか押し退けると、その若い男が俺たちと同じ太學生の着物を着ていることに今更気付いた。その意味を考えるのは億劫だった。
石橋の上がざわついている。研究会の面子と、騒ぎを聞きつけたらしい店の主人と思しき顔が見える。俺はよろよろと不器用に立ち上がろうとして、はたと呟いた。
「……水蛇?」
懐にいたはずのそれがいない。代わりに地面に不自然な水溜りが点在し、それが水蛇の残骸、というか飛び散った身体の一部であると数秒かかって理解する。慌てて周囲を見回すと、俺の脚の下にあった小さな水の塊が蛇の頭となって持ち上がった。呼んだか? と。
そのまま何事もなかったかのように、再び水が集まって蛇の形を形成する。何だよ、とため息が出る。水蛇が先輩たちから見えていないか角度を気にする俺は、何故落下と同時に水蛇が勝手に抜け出ていたのか考えもしなかった。
「おい、大丈夫か──?」
ばたばたと足音がして、会長たちが通路をぐるりと回って階段を降りてくる。まだ終わっていない。開いた俺の口から言葉が出ることはなかった。目の前を黒い影が横切り、水路の中で派手な水飛沫を上げた。橋の上にまで届くほど高々と上がったそれに、ぎゃあと上から声がする。
続いてもう一人、屋根から投げ飛ばされる。濁った水が勢いよく俺の頬にかかった。激しく波打つ水路の中では、二人の見知らぬ太學生が折り重なるようにして目を回している。生きているのか死んでいるのか、とにかく生きていることを祈るしかない。
酒楼の屋根の上、軒先の瓦を踏む足先がはみ出る。触れたら指が切れそうな気迫に俺でさえ少し怯んだ。翔は武器を手にしていなかったが、それがなくても充分だったのだろうと窺える。
馬鹿だな、と俺は襲撃者たちに少しだけ同情した。彼らは、夜目の利かない翔の体質など全く知らずに屋根で待ち伏せしていた違いない。地の利も数の有利もあってないようなもの。例え目が見えなくとも、如何にも戦い慣れていなさそうな学生を一人で相手にするのは翔にとってそう難しいことではなかったのだろう。
唖然とする視線に晒されながら、翔は信じられないほど軽妙に着地した。軽妙すぎる。瞬間、俺はぞっとした。上手く立ち上がれない。地面に手をつき、這うようにして俺は脚を伸ばした。後のことも先のことも考えなかった。こちらに目もくれず、倒れている襲撃者たちに直進する翔の足首を引っ掻けて転ばせた。噎せ返るような血の匂いが周囲に満ちていた。
「──やめろ!」
喉を突き破る、翔の絶叫。俺は飛び上がって、その前のめりになった身体目がけて体当たりをする。「殺すな!」と。
俺たちが制止したのは、勿論彼女だった。翔を突き飛ばした次の瞬間、彼女は翔の肉体を離れて自由になる。長い髪が尾羽のように宙を舞った。人型スコノスの、飢えた満面の笑み。生温い風。対峙したことのある俺でさえ背筋が総毛立ち、足が凍りつく。ただ無我夢中で宙を手で掻いた。
鋭い痛みが走る。構わない。何が何でも止めようとする。ここは都で、俺たちはもう法の外で生きる世捨て人ではなかった。視界が引っ繰り返り、何をされたのか思考が追いつかない。頭を打った衝撃でぼんやりした真上で、翔のスコノスが大声を上げた。
「うぎゃっ、何だこれ!?」
その顔面に掛けられた、バケツ一杯にも満たない蜷局を巻いた水。隙が生じて、それが彼女の自由を終わらせる。気付けば濃密な血の匂いは遠のき、激しく呼吸する翔がその場で跪いているだけだった。
翔の精神力が勝った。今回は。
俺はもう一度呼ぶ。「水蛇?」と。
──いる。返事は聞こえなかったし、再び身体はばらばらに飛び散っていたものの、俺はしっかりとその気配を心の中心に捉えた。大きく息をつき、辺りに滴下する血が自分のものでないように感じながら起き上がる。
一帯はとにかく騒然としていた。研究会の先輩たちがおっかなびっくり水路から学生を引き上げている。襲撃してきた彼らはすっかり翔のスコノスの壮絶さに意気消沈しているように見えた。心の中でスコノスを飼い慣らしてきた彼らにとって、翔の故郷の人間を虐殺してきた彼女の気迫は全くの未知のものに映っただろう。本物の人殺しの気迫だ。
基本的に、軍人以外の一般人が街中でスコノスを出すことは禁止されている。基本的には。今目の前で起こった事件が、その例外になり得るのか俺には自信がなかった。
「ねえちょっと、大丈夫!?」
駆け寄ってきたのは妖怪先輩だった。騒動の中こけたようで、服の膝の辺りが汚れている。
「先輩、無事ですか?」
「君のが重傷だよ」両肩を掴まれる。
「血がつきますよ」
「動かない!」
目の前で叫ばれて口を噤む。俺が平然と立っていることに彼は腹を立てているようだったが、こういうとき怪我をした当人の方が冷静だったりするものだ。おまけに興奮状態が収まらず、痛みはあるもののどこが痛いのか判然としない。
怒りながら錯乱する妖怪先輩に無理矢理上着を被せられ、その上質な織物がじわじわと血で汚れていくのを感じつつ、俺は水路から引き上げられた学生たちに足を向ける。ざわめきが近付いてきて、都の警護に携わる衛士が呼ばれたのだと何となく分かった。
泥水に沈められた二名が、研究会の先輩方に半ば引き摺られている。俺を襲った一人も意識を取り戻したらしい。
「こいつ文学の齋舎のやつじゃん」「内舎生の下っ端が一体何のつもりだよ」と口々に声が聞こえる。ようやく翔が立ち上がってこちらに並んだとき、相手は捨て台詞を吐くところだった。
「豊隆なんか遣いにしていい気になりやがって」
見ず知らずの若い学生が、歯茎を見せている。俺は何だかその言葉が骨の隙間を通り抜けていくように錯覚した。
「たかが世捨て人が侠客気取りか。〈第三天子〉のことも知らない癖に」
彼らを囲んでいる誰かが慌てている。黙らせろ、と言ったようだった。自分の声が遠くで聞こえた。
「──第三、天子?」
音が丸い輪のようにくぐもっている。近くにいるはずの翔の声が聞こえなくなっていく。
後で聞いた話では、俺はそこで貧血を起こして倒れたらしい。後頭部と奥歯の付け根に響く衝撃のとき、先輩の上着を汚して申し訳ないな、という気持ちと、第三天子という言葉にある棘のような引っ掛かりの感触だけが心に残った。




