Ⅳ
十二月初旬の課を乗り切った午後。俺と翔は妖怪先輩の自室に入り浸り、調べ物に勤しんでいる。
あの日以来、俺はどこへ行くにしてもなるべく水蛇を同行させるようにしていた。厚着する季節のため姿を隠すのは容易い。──大人しくしていてくれさえしたら。懐の下に生ける水を忍ばせて授業に出席したり、こうして妖怪先輩と過ごしたりするのは危険と隣り合わせだが、俺は少しずつ慣れようとしている。
長火鉢で焼ける木炭の音。乾燥した書物の紙の感触、饐えた匂い。俺はすんなりと読めるようになってきた孑宸語を目で追い、先輩が選んだ書物を淡々と消化してゆく。
異聞、奇譚、民間伝承。霊と人が交わる物語は多彩なバリエーションで各時代に散見された。俺たちが専攻する天学の正典『天介地書』にも実は数本の類似説話が収められている。
俺が特に関心を寄せたのは、各地方で伝えられてきた民族文学の記録集だった。これらが編纂されたのは、『天介地書』が国家事業として編まれた時期に前後している。
統一国家として孑宸皇国が成立した第二王朝時代、月辰族の支配が東大陸に広がるにつれ消えつつあった地方の異民族の文化を残そうという保護運動が起こった。文字を持たない民族や、特有の言語を持つ民族が内部で伝承してきた物語をこうして孑宸語で書き残したのもその一環だ。
「こういうの、長遐でも似たようなのを読んだな」
そう漏らすと、妖怪先輩は心から羨ましそうな顔をした。確か、元の世界とこの世界にどんな関わりがあるのか調べるためあの家の書庫の本を読み漁った時期があったのだ。結局は徒労に終わったので、またこうして民譚古譚に縋る日が来るとは思わなかった。
「記憶が正しければ、この辺なんかは見覚えがあるよな。内容は忘れたけど」
床に胡坐をかいた翔が、横に積まれた一連の叢書を目線で指す。椅子に腰掛けて俺たちが読むべき箇所に薄い紙を挟む作業をする先輩は、以前よりずっと打ち解けた様子で話しかけてきた。
「長遐で暮らしていたときも、本は読んだの?」
「白狐さん……じゃなくて、白狐様が博覧強記な方だったので、本は沢山ありましたよ」
翔は開いた頁にじっと目を落としながら答える。「そういえば、あの大量の本ってどうやって集めたんだろうな」
何の気なしに零された疑問が、俺の耳に残った。世捨て人の家にあった蔵書は、こうして思えば稀少な古書ばかりだった。大方白狐さんが蒐集したのだとばかり思っていたが、あんな辺鄙な場所まで本を運ぶのは容易なことではない。家ごと焼けてしまった今になって、俺はふとかつての疑問を思い出す。
──世捨て人の家は“何だった”のか。小さな霊域に守られたあの地に隠れるようにして、家を建てたのは誰だったのだろう、と。
「でも長遐は霊や悪霊がここよりもずっと身近にいたから、こういう本をちゃんと読んだことはなかったです。本よりも現実の方が余程現実離れしていたから」
「野生的な発想だなぁ」翔の言葉に、先輩は前歯の裏をちらりと見せる。
「ああ、ほらまた。持って帰ってくる系は類似の話が多いですよね。これ、どこが起源なんですか」
本の頁を見せる翔。妖怪先輩は一瞥し、それを語り継いできた異民族が地理的に交流のあった他の血縁集団を挙げ、異民族同士の交流と移動が民間伝承の伝播の一因になったと指摘した。
「つまり、君の言う持って帰ってくる系の伝承は、歴史的に見ると北方のこの辺りの異民族の記録が一番古い。他の民族との小競り合いや武力的な支配を経て、他の地域にまで広まったという仮説が立てられる」
「じゃあ、全国的に似たような怪異が起こったんじゃなくて、一部の民族が伝えてきた物語が文化的に受け継がれたっていうことなんですか?」
「いや、そう結論付けるのは早い」先輩は気難しげに腕を組む。「そもそも怪異譚がどれだけ事実に基づいているのかって、現代を生きる俺たちには憶測するしかないし」
「さっきから言っている、持って帰る系って何だ?」
俺が口を挟むと、翔が手にした書物を見せてくる。それは異民族の伝承らしい、抜けが多く読みにくい語り部の記録だった。
「山や海辺を通って異界に入った旅人が、拾い物をするお話。お椀とか箸とか、後は貴金属みたいに高価な品を見つける場合もあるけど、ともかく何かしらの物を拾って自分の村に戻ると不思議と富に恵まれた、みたいなやつ」
「謂わば致富譚の典型だね」
先輩はその単語が言いたかったように割り込む。「長者伝説はどこにでもあるけど、拾う物が大抵平凡な道具であるところが面白い」
「それは何かが憑り付いているとか、曰く付きの品だったりするんですか?」
「そりゃあ異界から持ってきているから色々あるよ。後世では、福の神が宿っていたけど、やがて富に驕るようになったので見放され、没落するという教訓めいた説話にも派生している。真偽のほどはともかく、狐が憑いていたとされる盃が祀られている村を見たこともある」
「人ならざるものは、どうして人と関わろうとするんでしょうか」
考えるより先に、疑問が口をつく。着物の懐にいる水蛇を無意識に隠すよう腕を動かす。俺は、民間伝承や伝説の全てが事実であるとは思わなかった。しかし、時に事実と認めざるを得ないこともある。
俺がこれまでの自然霊との関わりを通じて得たのは、不条理の中に投げ落とされるような、右も左も分からない混乱だけだ。どうして、と人間が途方に暮れて問いかけても、霊たちは沈黙しか与えない。
「それはとても、哲学的だね」
大儀そうな口ぶりとは裏腹に、妖怪先輩の眼差しは穏やかだ。同じ問いかけをしたことがあるとその目が語っていた。答えが得られたのかは、訊ねるまでもない。
「神や霊の行動に何か理由があると思うのかい?」
俺は困って肩を竦める。理由のないただの気まぐれだと思いたくなかった。例え推し量るのが人間に不可能なことだったとしても。翔のスコノスの言葉が思い出される。「豊隆って本当に神なのか?」と。
「俺には答えられないな。今この世で最もその答えに近いのは、君なんじゃない?」
全てを見透かされた気がして俺は背筋を反らした。そうしなければ顔に出てしまいそうだった。先輩は俺と豊隆が微妙な関係であることを充分理解した顔で、手元の紙束を寄越してくる。
「はい、これ。役に立てばいいんだけど」
「あ、ありがとうございます」
それは作ると約束してくれていた図書館の蔵書目録だった。俺たちが求めている類の怪奇譚が収められた本が一覧に書き出されている。どうやら先日まで試験期間だったにも関わらず、実際に宮中図書館に足を運んで作成してくれていたらしい。
「幾らか漏れがあるかもしれないけど、俺が知っているものは全部入れてある。図書館に行ってその目録を見せれば俺の名義で借りられるようにしておいたから、自由に使って。校官には君たちのこと、俺のパシりの後輩ってことにしてあるから」
「なるほど、本当に助かります」
目録にはそこに収められた伝承がどういった内容なのか手書きのメモまで添えられており、俺たちは先輩の几帳面さと熱心さに恐縮しきりだった。パシりの後輩、と慣れない言葉を愉快そうに口ずさんだ翔が、ふと首を竦めるようにして訊ねる。
「あの、色々と良くしていただいて有難いんですが、どうして……その、こんなに俺たちを助けてくれるんですか?」
さすがの翔も不躾な質問だと気づき、途中で口籠る。濁した底に蟠る、言葉にならない淀みのようなものも俺には感じ取れた。
こんなに特定の分野にのみ熱心に調べ物をしている俺たちに、彼は理由を訊ねたことも、怪訝な素振りを見せることもなかった。その不干渉な親切さが不自然で、そして同時に、疑心暗鬼になっている俺たちは自分たちを恥じてもいる。
「どうして、って」
彼の声は行き詰る。廊下からばたばたと騒々しい足音が近づいてこなければ、三人で相当気まずい思いをしたに違いなかった。
乱暴な音とともに、戸が開く。そこにいた人影が誰であるかを確かめるより早く、「集合!」と無造作な一声が降ってくる。叱りつけられたのかと身が竦む。
「え?」
「今夜、集合」
それからその人は初めて俺たちに目を向けたようだった。「ああ、何だ。お前たちもいたのか。丁度いい。今夜急遽思研で集まることになったから、いつもの店で、よろしく」
返事をする間もなく立ち去ってゆく。その後ろ姿は機械のようにきびきびとしていた。研究会で会長に並ぶほどの発言力を持つ先輩だった。俺たちは顔を見合わせる。
「飲み会の予定はなかったはずなのに」
「逃げられなくて残念だったね」
妖怪先輩は幾らかこの状況を楽しもうという寛容さを見せ、立ち上がる。示し合わせたかのように、窓の外から時刻を告げる太鼓の音が響いてきた。どこか寂しさを感じさせる鼓楼の調べに耳を傾け、彼は不器用に微笑む。
「勉学に励み、友愛を育み、父兄を重んじ、国に尽くせ、だよ。人付き合いも義務だ。そんなに辟易とした顔をするもんじゃない」
特に翔は思い切り顔に出ていたのだろう。彼の口調は説教めいていたが、心のどこかでは人付き合いを苦手とする者同士の無力な笑みを共有していた。彼はどう見ても、宴会に参加することを好む人間には見えなかった。
「先輩は、どうして思研に入ったんですか?」
翔の問いに、彼は自分で言った冗談に笑うような調子で答える。
「友達がいなくても何かと集まりに誘ってもらえるから、かな。あとは、妖怪の話が通じる後輩も出来る。さっきの問いの答えはこれで充分かい?」
「ああ、ええ、はい」意表を突かれた翔が何度も頷いている。「それは、ありがとうございます」
俺も翔も、すっかりこの内気で風変わりな先輩のことが好きだった。彼は少し照れたように前髪の下の額を指で掻いた後、顔を真面目に戻す。
「それにしても急に招集ってことは、やっぱりあの件のことかな」
「あの件?」
「陽国のあれ」
彼はゆっくりとこちらを交互に見て、眉を顰めた。「あ、もしかして、聞いてない?」
揃って首を傾げる。海の向こうの外国のことで急遽集められるような心当たりは一切なかった。
「何かあったんですか?」と深刻そうに訊ねる翔に、彼は窓の向こう、遠景の山脈に吸い込まれるような夕陽を一瞥し、椅子の背に掛けていた上着を取る。襟元の金糸の刺繍がきらりと光った。
「道中話すよ。ここしばらく、朝廷が色々と不穏なことになっているんだ。知っておいたほうがいいと思う」
まあ俺も又聞きなんだけどさ、と言う先輩の声は怪談を始めるような趣がある。
***
海を隔てた西大陸にあるという陽国──正式名はスラギダ王国──は、孑宸皇国とは長年微妙な関係だった。
過去に目立って敵対した歴史はない。しかし陽国は、代々中立という難しい立場を守り抜いた伝統から外交では一貫して消極的な態度を取っていることで知られる。
一応交易は行われているものの、陽国と正式に商業協定を締結したのは涼省のたったひとつの港に留まっている。風説によれば、陽国人が皇国民と親密になるのを防ぐための措置だと言うが、真偽は分からない。
『天介地書』によれば、この世で最初に創られたのは浅黒い肌を持つ陽国人だったという。実際に陽国の歴史は古く、彼らがこの世界における最古の文明を築いた民族であるという時系列は天学にも認められている。謎めいた秘密主義の国柄も相俟って、陽国はそうした古代史の夢想を誘う異国であり、皇国民にとって身近とは言い難い距離感のある交易国でもあった。
そこまでは俺も翔も知っていた。実際に涼省の省都で陽国人を見たこともあった。陽国と聞いて浮かぶのはその程度のもので、特別な感慨がないという点において他の皇国民と大きな違いはなかった。
その陽国との関係が歴史的な転換期に差し掛かっている。一体どこから流れ出たのか、朝廷の内々でのみ知られていた秘密がまるで箱の内側を腐らせるように漏れ、太學の齋舎にまでひっそりと伝わっていた、らしい。
「陽国がうちと正式な同盟を?」
すれ違った他の学生がぎょっとこちらを見るので、声を重ねた俺と翔は慌てて肩を竦めた。懐に入れた水蛇がちゃぷんと微かに音を立てる。水蛇を連れて都へ外出するのは今日が初めてで、俺は内心気が気でなかった。
先輩に曰く、三日ほど前に陽国から外交使節が訪れたのが事の発端である。それは定例として両国間を行き来させているものではなく、小規模で、それも秘密裏に──というのは誇張で、実際はあまり目立たないように──やってきた。
皇国において、外交の定期行事は年明けに執り行われるのが恒例である。それを待たずして十二月に陽国の使節が来ている時点で異例のことだった。
「いや、まだ噂だから……」
小声で慌てる妖怪先輩は人目を気にする素振りを見せ、袖に手を入れる。
三人は先輩の名義で夜間の外出許可証を出したところだった。齋長に印を貰うのを待つ間、顔を突き合わせて小声で話す。上舎の廊下を行き交う上級生たちが、ちらとこちらに視線を寄越してくるのを俺と翔はどうにかやり過ごした。
「同盟って、具体的にどんな内容なんですか? 話題になるということは、これまでの条件を出し惜しみしているみたいな協定とは違うんですよね」
相棒に調子を合わせ、俺も疑問を口にする。
「内容が経済的なものなのか軍事的なものなのか、或いは他の何かなのか気になりますね。最近のイダニ連合国の動向に関する、国防の話だったりしませんかね?」
同盟という単語はこれまでの陽国の消極的な姿勢からは想像もつかない譲歩の響きがあり、切羽詰まった焦りのようなものも垣間見えた。先輩は「詳しくは分からない」と吃る。それから、よく動く黒目を彷徨わせ、一層声を小さくした。
「これは本当に一部にしか伝わっていない話だけど、イダニ連合国が急速に勢力を増しているから、それを危惧した陽国の女王がうちに軍事援助を求めた……みたいな」
「あ、え、本当ですか?」
ある種の願望を口にしただけなので、思わぬ図星に今度は俺が吃る番だった。
俺がここに在学している目的のひとつとして、イダニ連合国と接触する機会を窺っているというのが挙げられる。影家と神明裁判にまつわる騒動は、多くの皇国民にとってこれまで歴史の中にしかいなかった彼らを敵として再認識するに充分な大事件だった。そして俺にとって、自身の出生に因縁のある男がいる国でもある。
それでも海の向こうの異国のこと、幾ら朝廷の中枢の末端に食い込もうとこんなにも早くイダニ連合国の名を聞く機が訪れるとは思ってもみなかったのだが。
「おーい。お前たちも来たのか」
建物を出て坂道を下っていると、遠くでひらひら手を振られる。話し込んでいた俺たちはぎょっと顔を上げた。
「丁度良かった。一緒に行こうぜ。話したかったんだ」
会長とその周囲にお馴染の面子が太學の門の前で固まっているところだった。俺たちは顔を見合わせ、諦めたよう少し駆け足になる。
雪が降ったり止んだりする寒々しい夕暮れ。黒く澱んだ西の太陽がすぐ沈んで、その残り火が濡れた石畳に血を撒いたよう鈍く映っている。人々の影が行き交う中、先輩方の集団に追いつく俺の腹の辺りで水蛇が静かに蠢いた。




