戦いが始まる
三月七日、西側の隣国であるローデリア王国の軍勢が、両国国境であるグラン山脈の南端にあるイリヤ渓谷を越えて、ラミリア王国に侵入してきた。
両国というだけでなく、現在はアトラティス大陸の覇権を握ろうと各国の間で戦闘が頻繁に発生していて、今回のもそれだといえる。ただ、今回はローデリア王国の軍勢が一万を超える大軍であり、ラミリア王国も迎撃に一万を超す軍勢を派遣するとあって、大規模な会戦となりそうだった。
司令官はケイロス殿下で、王の代理として軍を指揮して現地へと向かわれる予定だ。
ご無事でお帰りになりますようにお祈りしております、と伝えると、笑顔を見せてくれた。
「大袈裟だな……危なかったら逃げて帰るさ」
「そのようなことを仰ると、怒られますよ?」
今夜は、月下美人を摘みに来ている。
忙しい王弟殿下に、時間が欲しいと伝えると、この日のこの時間しか空いてなかった。薬草摘みを諦めようとしたけど、一緒に行こうと言ってくれて、夜の森を二人で散歩している。もちろん、周囲には兵士たちが護衛としてついていたけど、花を摘む泉のあたりは、わたしたち二人だけだった。
「戦争があるから、研究予算がついているのはわかっていますが、複雑です」
わたしの言葉に、ケイロス殿下は頷き、花を摘んで籠に入れてくれた。
二人で、地面にしゃがみこんで花を摘んでいると、おかしく感じて笑ってしまう。
「どうした?」
「申し訳ありません……大の大人が二人で花摘みを……おかしくて」
「は……はははは」
「ふふふふふ」
二人で笑いあい、花摘みを終える。
わたしが籠を抱えようとすると、彼が持ってくれた。
泉に浮かぶ月と星たちを見て、次に夜空へと視線をあげる。
美しい星降る夜に、わたしは大きく息を吸った。
ケイロス殿下の匂いがする。
……忙しくて、お風呂をさぼっているなとわかった。
「殿下、お忙しいのはわかりますが、せめて二日に一度はお風呂に入ってください」
「……臭い?」
「臭く……いえ、臭いですね。加齢臭がします」
「……そういう時、臭くないですよ、と言うのが気遣いというものだろう?」
「わたしは、ご本人のためにと言いたくないことを申したまでです」
「出征の準備で追われていてね……帰ったら入ろう。馬車の中は臭くなかったか?」
「馬車の中、お香で香りがつけられていましたから」
王弟殿下は、馬車の前で佇む老人を眺め、「爺の仕業だな」と呟く。
わたしは、爺と呼ばれる人の名前を知らないことに気付いた。
「あの、あちらの方のお名前は? わたし、知りません」
「ああ、何度か会っていたから知ってるものだと……レドリックだ。父上の参謀として長く働き、今は俺の補佐をしてくれている」
王弟殿下が籠を持ち、馬車へと歩こうとするのを、わたしが彼の袖をつかむことで止める。
「どうした?」
「……もう少し、星空を見ていたいです」
「ああ……いいよ」
二人で、夜空を眺める。
ケイロス殿下が、星々のことをいろいろと話し始めた。
わたしは、その声が心地よくて、星空を見上げたまま、涙を流す。
神様、どうかこの人が、無事に帰ってきますように。
泣いたことがばれないようにしないと……。
わたしは、うつむいて言う。
「……殿下、帰りましょう」
声の震えを懸命におさえたけど、ばれた。
「どうした? 甥がまたなにかを言ってきたか?」
「いえ……違います」
「大丈夫か?」
王弟殿下が、わたしの顔をのぞきこむ。
わたしは、両手で顔を覆って隠した。
「リオーネ?」
わたしの名前を呼んでくれた王弟殿下の声がとても優しくて、わたしは我慢していた嗚咽を漏らしてしまった。
「リオーネ? 嫌な目に遭ったなら隠さずに教えてくれ」
「嫌です……」
「あ、すまん。近かったか?」
「ケイロス殿下が……戦に行ってしまうのが……嫌です」
「……リオーネ」
「嫌です。わたし、嫌です……行かないで……行かないでください」
わたしは、恥をさらして泣き続けた。
王弟殿下は、わたしの肩を抱き、馬車へと連れていってくれる。
泣き止まないわたしをケイロス殿下が抱きしめたまま、馬車は動きだした。
彼は司令官として、戦に行く。
行ってしまう。
- We're through. -
三月二十二日。
研究室に、王子がやって来た……。
「リオーネ、叔父上がいないから寂しいだろう? どうだろう? 庭を散歩しないか?」
「申し訳ありません……」
「いろいろと噂になっていることを気にしているのか?」
違います。
もともと嫌いなんです。
わたしは、ぶ厚い資料を閉じて、席から立つと王子に深々と頭をさげた。
「わたしは仕事がありまして……この研究をしないといけないのです」
「君は変わってるね? 女がそんな研究をしたところで幸せになることができるとでも? 君の幸せは僕の隣にいることだよ、リオーネ」
気持ち悪い! そして気色悪い!
ここで、フメルス部長が席を立つと、わたしと王子の間に立つ。
その距離で、王子の顔を見たら目がつぶれますよ……。
「なんだ貴様?」
「……殿下、もうおやめください。貴方のおこないがどれだけ周囲に迷惑を与えているか、お考えになったことはありますか?」
「な! 貴様、無礼な!」
「リオーネはただの研究者です。魔導士です。殿下にふさわしいお相手は、諸侯のご令嬢さま方に、あるいは異国の姫さま方にいくらでもおられるでしょう」
王子は、顔を真っ赤にすると、フメルス部長を睨みつけ、部屋を出ていく。通路で待機していた騎士の人たちが、王子の形相に驚きながらも慌てて追いかけていった。
「部長、ありがとうございます。でも、よかったのですか?」
「……許せなくてね、自分が」
「……」
「嫌がる君を、目の前にして助けもしなかった……変な噂を広められ、容姿だけは金をかけて立派なご令嬢たちに嫌がらせをされる君は、でも研究は真面目に取り組んでいる……そんな君の上司であることが、恥ずかしくない自分でいたかったんだ」
「部長……」
「君は悪くない。悪いのは、あの馬鹿どもだ。気にするな……仕事に――」
部長の声を止めたのは、部屋に戻ってきた王子だった。
王子は、手に剣を持っていた。
それを取りに行っていたのか!
騎士たちが、王子が剣を抜いた瞬間、飛びかかって止める。
「殿下! お待ちを!」
「なりません! なりません!」
「人を! 人を呼べ!」
フメルス部長は、騎士たちに取り押さえられている王子を前に、わたしに言った。
「気にせず、仕事をしよう」
……部長、すごいです!