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狂った世界に私はいらない、狂った私に世界はいらない  作者: 毒の徒華


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19/95

浮気した方が悪いでしょう?(3)




 デートから1日、俺はまた幸香に早朝に起こされた。

 まだ日も登るか登らないかという午前4時だ。眠気を振り払い俺はメッセージの内容を確認する。


【29回目:腕に3か所歯形をつけて写真を撮って私に送る】


 俺は自分の腕に噛みついてしっかり歯形を3か所つけた。それなりに強く、しっかり噛まないと写真に写る程には歯形が残らない。

 歯形をつけて、俺は幸香に写真を送った。これに何の意味があるのかは分からない。


 それからも夜中の2時や3時に連絡が来続けていた。その合間に他愛無い会話も少し挟まる。

 1か月程度どうってことはないと思っていたが、眠れないのは本当にキツイ。

 幸香に言われた通り、精神科の医者には「あれでは眠れない」と言った。目の下にクマができていて話もまとまらない俺を見て、医者は更に強い睡眠薬を処方してくれた。

 それを俺は1度も飲んだことがない。


【31回目:処方された睡眠薬を今日の21時に飲み、22時、23時、24時にそれぞれ『容疑者の告白』『デッドマン』『蛾』の映画の感想を私に8行以上書いて送る】


 全部ホラー映画だった。

 言われたとおりに処方された薬を21時に飲んだ写真を幸香に送り、事前に見ておいた映画の感想を幸香に送った。

 と、思ったのだが気が付くともう朝になっていてベッドの中で眠っていた。

 昨日の記憶がない。

 俺は慌てて目が覚め、一番に幸香へのメッセージを確認した。


「あれ……メッセージ送ってる……」


 24時のメッセージは、文章力もなにもあったものではない半ば支離滅裂で稚拙ちせつな文章を幸香に送っていた。

 まったく憶えていない。

 泥酔したときのように何も思い出せないのだが、確かに俺は幸香にメッセージを送っていた。

 しかし、よく眠れた気がして俺は目覚めが良かった。久々によく眠れた気がする。


 慢性の寝不足になって明らかに判断力が落ちたように思う。

 ちょっとしたことでも自分で判断するのが億劫になり、幸香に言われた通りのことをしてしまう。

 幸香を疑う余地なんて俺にはなかった。


 あと5日で30日経過となる。

 再び睡眠不足の状態になったときに、こんなメッセージが来た。


【34回目:手首を刃物で3回切る。傷の深さは指定しない】


 所謂いわゆる、リストカットというやつだ。

 これに対しては抵抗感が強かったが、今まで見てきたホラー映画では人間がぐちゃぐちゃになって死んでいくものばかりだったので、少し手首を切るくらいなんともないと俺は考え、言われたとおりにした。

 俺は家にあった包丁で左の手首をゆっくり、軽い力で切ってみた。しかし、包丁の切れ味が悪く、俺の手首からは血が出てこない。

 今度はもう少し強く包丁を押し当てながら包丁を引いた。

 ピリッ……とした痛みが手首に走り、俺は顔をしかめる。包丁をどかすと、ほんのわずかに俺の手首から血が出た。少しばかり滲む程度だったが確かに赤い線が手首に刻まれている。


 ――そんなに痛くない……ような……


 俺は再び手首に包丁を当てて、同じように包丁を引いた。

 3か所に切り傷を作った写真を幸香に送ると、すぐに返事が返ってきた。「頑張ったね。痛かったでしょう?」と。

 俺は強がって「そうでもないよ」と返事をした。


 次の日、俺は会社に行ったときにその傷を隠すのを忘れてしまった。

 それを見た会社の同僚は俺を心底心配した。それもそうだ。リストカット痕があれば誰だって心配するだろう。


「あぁ……別に……大丈夫」

「お前、最近変だぞ。眠れてるのか?」

「いや……結構寝不足かな」

「松原さんにフラれてまいってるのは分かるけど、しっかりしてくれよ」

「あぁ……そうだな」


 あと少しなんだ。あと少しでこの生活からは解放されるんだ。

 そうしたら幸香は戻ってきてくれる。

 俺も以前に比べてまともになったつもりだ。幸香に甘え切っていた自分じゃない。俺だって何とかできる。


 その日の夜中も幸香から連絡がきた。


【35回目:午前2時に睡眠薬を飲んで、午前3時30分に水1Lを飲む。トイレに起きる度に私に連絡】


 俺は幸香の言うとおりに2時に睡眠薬を飲んだ写真を送って、3時30分に水を1L飲んだ写真を送った。

 その後、俺はトイレに起きたはずだが覚えていない。朝起きてメッセージを見たところ、連絡はしていたようだった。


 あと4日。


【36回目:仕事終わったら連絡して】


 そう言われて俺は仕事終わりに幸香に連絡した。すると「会社の門の場所で待ってて」と言われた。

 言われたとおりに待っていると、幸香がやってきた。


「今日、彩人の家に泊まっても良い?」

「え? いいけど……幸香はいいの?」

「うん。抜き打ちチェックってやつ」

「全然いいよ。何にもやましいことなんてないし」


 俺は驚いたけど、幸香が家に来てくれることが嬉しかった。浮足立っていつもよりも多弁に幸香に話しかけてしまう。

 その様子を幸香は柔らかい表情で相槌を打っていた。

 まるで以前に戻れたような気がして、本当に俺は嬉しくて舞い上がった。


「部屋汚いけど……適当にしてて。お茶入れるから」

「うん」


 冷蔵庫にある麦茶をコップに注いだ。コップは幸香とお揃いで買ったもので、俺はそのコップで再び幸香とお茶が飲めるの事が嬉しかった。


「どうぞ」

「ありがとう。少し片づけたら? ゴミもそのままだし……」

「うーん……幸香を責めるわけじゃないけど、寝不足であんまりやる気にならなくてさ……」

「そう」

「幸香も寝不足なんじゃない? あんな夜中に連絡してきて」

「私は平気。夜更かしは得意だから」

「俺が失敗すると思った? 真夜中でもちゃんと返事出来てて凄いだろ」

「まぁね、こんなに持つとは思ってなかった。それじゃ、睡眠薬を飲んでくれる?」

「え? もう飲むの? あれ飲むと記憶なくなるんだよね。もうちょっと幸香と話してたいんだけど……」

「私も早く寝たいし。彩人は床で寝て。私は彩人のベッドで寝る」

「えー、一緒に寝てくれないの?」

「付き合ってない男とは一緒に寝ない。ほら、早く睡眠薬を飲んで」


 落胆したが、言われるがまま俺は睡眠薬を飲んだ。


 それから幸香と30分程度話したのは憶えているのだが、それ以降のことは例の如く覚えていない。

 気づいたら朝になっていた。

 俺は起きて辺りを見回すと、泊まると言っていた幸香はいなかった。それに、俺がベッドで眠っていて「あれ?」と思う。


 ――あれ……? 幸香、帰ったのか……?


 スマホを見ると幸香から連絡が来ていて、そのメッセージを見た時に俺は凍り付いた。


【いくら喧嘩だからって、殴るなんて最低。もう復縁しない】


 ――喧嘩? 俺が幸香を殴った? 全然記憶がないから分からない。でも待って、待って待って待って、今まで上手く言ってたのに、どうしてそんなこと……


 パニックになったが、俺は会社に行く準備をして慌てて会社へと向かった。真偽を確かめなければならない。

 本当に俺が殴ったのか? それを確かめたい。

 俺は会社について、朝礼が終わった後に慌てて幸香のいる部署へ向かった。幸香のデスクまで歩いて行くと、幸香は普通にデスクのパソコンに向かっていた。


「幸香、ちょっといい?」


 俺が後ろから幸香に声を掛けると、幸香は俺の方を振り返って睨みつけた。その頬にはガーゼのようなものがついている。

 それを見て、俺は目を見開くしかなかった。


 ――本当に俺が殴ったんだ……


「何の用ですか?」


 その声はいつもの声よりもずっと冷たい声だった。


「…………ごめん。覚えてなくて……」

「仕事中ですよ。自分の部署に帰ってください」

「……わかった。今日の仕事終わりに――――」

「もう関わらないでください」

「…………俺が悪かったよ。本当にごめん」

「聞こえなかったんですか?」


 そう強く言われて、俺は自分の部署に帰るしかなかった。

 信じられない気持ちでいっぱいだったが、あの顔のガーゼを見ればきっと真実なんだろうと思った。


 ――終わった……どうして殴ったりしたんだろう……


 俺は自分の右手を握りしめた。

 そして、何も考えられないまま俺は仕事に戻るしかなかった。




 ◆◆◆




 その日の夜、俺は幸香へメッセージを送った。


【殴ったのは本当にごめん。覚えてないのに謝られても全然心に腑に落ちないかもしれないけど、最低なことをしたと思う。でも、なんで喧嘩したのか、どんな喧嘩だったのか教えてほしい。幸香が嫌がることはもう二度と絶対しないから】


 そう送った。

 すると、すぐに幸香から返事が返ってきた。


【浮気の動機についての喧嘩。最初は軽い口論だったけど、お互いの悪かったことを言い合ってたら彩人がキレて私を殴った。それだけ】

【ごめん……痛かったよね、幸香。治療費は俺が出すから】

【ちょっと腫れてるだけ。別に湿布貼っておけば平気】


 突き放されるような言い方をされて、俺は取り付く島もない状態だった。なんと返事をしていいか迷う。なんて言ったら許してもらえるのか、必死に俺は言葉を探す。


【こんなことしておいて、本当に悪いと思ってる。何度も何度もチャンスをくれとも言いづらいけど……それでも、幸香が許してくれるなら、俺、本当に変わるから……許してほしい。幸香は俺の全てなんだ】


 そう自分で言って涙が出てきた。情けない。暴力を振るってしまった自分が本当に情けなく感じる。

 俺が泣いていると、幸香から電話がかかってきたのでそれを慌てて取った。


「もしもし!?」

「っ……うるさい。大声出さなくても聞こえてるから」

「ご、ごめん……」

「もしかして泣いてた?」


 声が震えていた俺が泣いていたことも、幸香にはお見通しのようだった。


「…………うん。なんで幸香に酷いことしたんだろうって……俺、自分が情けなくて……っ……本当にごめん……すげー反省してる……」

「みたいだね」

「幸香……ごめん」

「そんなに反省してるなら、後の3日、私の言う事なんでも聞いてくれるよね?」

「それで許してくれるなら」

「そう。じゃあ最後の3日は電話か直接指示するね。じゃあ早速だけど――――」


 幸香は少しだけ黙った後、俺に新たな指示を出した。


「左手の小指の爪、剝がしてくれる?」

「え…………」

「それじゃ、剥がした後の写真、待ってるから」


 プツッ……ツーツーツー……


「爪……? 剥がす……?」


 俺は自分の小指の爪を見つめた。

 瞬時に幸香の見るようにと言ったホラー映画の映像がフラッシュバックする。その中に、爪を剥ぐシーンがあった。その話の中の人は爪を全て剥がされていた。

 それに比べたら小指の爪くらい、どうということはない。

 どうということは……。


 爪を自主的に剥がしたことがない俺は、爪をどう剥がしたらいいのか分からなかった。それでも、俺は剥がすことに対して抵抗はない。

 思いつくのはペンチだ。幸いにも俺の家にはペンチがあったはず。

 引き出しからゆっくりとペンチを取り出して、俺は自分の左手の小指の爪を掴む。

 こういうのはきっと、ゆっくりやる方が痛いはず。だから一気にやろうと、俺はそのペンチで思い切り爪が剥がれる方向に力を入れた。


 ブチッ……


 嫌な音がして、指先から燃えるような痛みを感じた。痛みで傷を確認することができない。

 うめき声をあげながらも俺は指から伝う血の感触だけは分かった。

 あまりの痛みに全身から冷や汗が噴き出している。

 痛みに悶えながら、俺は爪の状態を確認した。


 ――え……


 これだけの激痛であったにも関わらず、剥がれたのは爪半分で、後の半分はしっかりと根元にくっついている。それをペンチで再び挟み、剥がれる方向に向かって思い切って引き抜いた。

 爪というのはホラー映画のようには簡単にはがれなかった。

 気が狂うのではないかというほど激痛、苦痛があって、それでも俺はやりきるということしか頭にはなかった。


 ――幸香だって痛かったんだ。こんなのどうってことない……!


「うわぁああああっ……!」


 ブチブチブチッ……


 ようやく爪を剥がし切った時、俺はあまりの痛みに涙が浮かんだ。左手をギュッと握り込み、ジタバタと床に無様に転がる。

 まだ痛い。

 それでも、俺はグロい状態になっているその左手の小指の写真を撮って、幸香に送った。


「あぁっ……ぁ……あああっ……」


 痛みに耐えながら、俺はどこかにあったはずの絆創膏を探す。

 血がまだポタポタと流れ落ちていて絆創膏がどうとかいう問題ではなかったが、一先ずティッシュで押さえて血を床に垂らさないように注意した。


「…………」


 俺の行動は全て予測済みのようで、幸香から「絆創膏じゃなくて、包帯の方がいい」とメッセージが来た。

 しかし、包帯は家にはない。今リストカット痕を隠すために使っている包帯で全部だ。指先だし、巻き方すらわからなかった。とりあえず俺は血が止まった頃に絆創膏を貼って動かさないようにした。


 ――大丈夫、あと3日……


 その夜、爪の痛みで俺はよく眠れなかった。

 幸香に黙って睡眠薬を飲もうか考えたが、睡眠薬の残りをいつも写真で送るように指示されていたので勝手に飲んだらバレてしまう。

 俺はただひたすら我慢するしかなかった。




 ◆◆◆




 次の日、会社に行ったものの、小指の痛みでパソコンは使えずに結局早退して皮膚科に行くことにした。


 医者にどうしたのかということを聞かれたときに「引っかけて剥がしてしまった」と説明したが、不意に手首の包帯を見られて不審がられた。


「お薬手帳を見ると睡眠薬を飲んでいる様ですけど、いつ頃から精神科に通っているんですか?」

「ここ最近です」

「何か心境の変化があったんですか? 手首の包帯を取っていただいてもいいですか?」


 言われたとおりに俺は手首の包帯を取って医師に見せた。


「彼女にフラれてしまって……」

「それで自傷行為を?」

「……まぁ、そんなところです」

「この爪、自分で剥いだんじゃないですか? 普通に生活していて、引っかけた程度で全部剥がれることは珍しいと思います。まして小指ですからね」

「…………」

「自傷行為癖があることは精神科の担当医は知っているんですか?」

「いえ……」

「言った方がいいですよ。イライラを抑える薬も出してもらえると思いますし」

「わかりました。ありがとうございます」

「爪の方はゆっくり生えてきますから、瘡蓋かさぶたなどは剥がさないようにしてそっとしておいてくださいね。塗り薬と痛み止めを処方しますから」

「はい」


 俺としても、俺を精神異常者のように見られるのは不本意だったけれど、医者がそう言うのも無理はない。

 痛み止めももらって、俺は少しの間小指の痛みからは解放された。


 そして夜になると幸香から電話がかかってきた。


「会社、早退したんだってね」

「うん。皮膚科に行ったんだ」

「医者にはなんて?」

「あー……上手く誤魔化せたら良かったんだけど、自分でやったのがバレてさ。通ってる精神科の医者に言えって言われた」

「そうだね。精神科の医者にそのことを伝えて。明日受診して爪を剥いだり、手首を切ったことを言って」

「それって入院とかさせられない?」

「その程度じゃ大丈夫。“希死念慮はありますか?”とか“死にたいですか?”って聞かれたら、“少しは”って答えておいて」

「そんなことして大丈夫なの? 医者を騙すって言うか……」

「騙すわけじゃない。ただ事実だけを言ってる。死にたいって少しも思わない人はいないでしょ? 希死念慮っていうのは、誰でも少しはもってるものなんだよ。死にたいって思ったこと、1回もないの?」

「そりゃ、なくもないよ」

「そういうこと」


 俺は次の日精神科に行って、幸香に言われたとおりのことを言った。すると、別の薬が処方された。


「この薬を飲み続けてください。効果が出てくるのは2週間後くらいからです。きちんと飲み続けてください」


 そう言われて薬を処方された。

 俺は相変わらず寝不足で、自分で判断ができない状態。

 幸香からは「今日は徹夜して」と言われ、俺は眠ることができなかった。ここにきて徹夜はかなりキツイ。


 そして、俺は最後の1日を迎えるのだった。




 ◆◆◆




「夜に私の家に来てくれる? これが最後だから。睡眠薬を全部持ってきて。23時くらいがいい」


 俺は徹夜明けで意識が朦朧とする中、幸香の家に向かった。


 眠い。全然意識がはっきりしない。歩きながら眠ってしまいそうだ。

 小指の爪が剥がれた部分がまだ痛くて。

 幸香の家に着いてあげてもらうと、俺は欠伸をしながら座った。


「睡眠薬、持ってきた?」

「あぁ。ほら」

「うん。じゃあ、それを飲んで。3錠飲んでほしい」

「3錠? いつも1錠だけど……」

「大丈夫。吐くほどじゃないから」


 俺は何も考えず、3錠睡眠薬を飲んだ。もう眠いのが限界に達しようとしていた。


「それで、最後の指示だけど…………」

「うん」

「このビルの屋上から飛び降りてほしい」

「え……?」


 いくら眠くても、俺はそれがおかしなことだってことは分かった。

 そんなことしたくない。いくらこのアパートが3階建ての低い構造だからって、屋上から飛んだら死んでしまうかもしれない。


「し……死んじゃうよ」

「大丈夫、下に低木があるから平気。足から行けばヒビか骨折程度で済む」

「俺は……飛び降りるなんて……そんなことできない」

「できないならここで話は終わり。もう二度と会わないだけ」


 素っ気なく幸香はそう言った。その言葉を聞いて俺は混乱して首を横に振る。


「最後の最後でそんな無茶言うなんて、復縁する気なんて元からなかったんだね」


 怒りや悲しみが湧いてくる場面なのかもしれないが、極度の眠気でそんな気力はなかった。


「別に、確実に死ぬような高層ビルの屋上から飛べって言ってるわけじゃない。私は覚悟を見てるの。なんでもするって言ったその言葉に偽りがないかどうか。死ねって言ってるわけじゃない。飛び降りてって言ってる」

「なんでもするって言ったけど……それは……」

「私を殴ってまで“俺はこんなに愛してるのに!”って言ってたのに、それは口先だけだったってことね」

「そんなことない! 幸香を愛してる。だから小指の爪だって剥いだんだろ?」

「爪を剥いだくらいで得意げにならないでくれる? 暴力を振るう人はね、本質的にそういう傾向がある人なの。普通の人ならどんなことがあっても暴力って手段は使わない。暴力っていうのは繰り返されるものなんだよ」

「…………」

「それに、本来なら殴られた時点で暴行罪、傷害罪で起訴されてもおかしくない。私が警察に通報しないのは、彩人がまた恋人になるかもしれないからだよ。でも、その気がないなら警察に行くことも視野に入れてる」

「え…………嘘……だよね……?」

「嘘じゃないよ。逮捕されたら会社も解雇されるし、私とも寄りを戻せない。もう後には引けないんだよ」


 真剣な顔で幸香はそう言った。まるで、鈍器で頭を殴られているかのような衝撃が走る。

 逮捕……ニュース……裁判……刑務所……俺の人生の終わり……。

 背水の陣という言葉が俺の頭を支配してくる。

 飛び降りなければ俺は社会的に死ぬ。飛び降りれば俺は物理的に死ぬかもしれない。

 社会的に烙印を押されるよりは飛んでしまった方が軽く済む。その考えから、俺は飛ぶ決断をした。


「分かった……飛ぶよ……」

「すぐに救急車呼んであげるから。その前にスマホ貸して?」


 俺は意識がなんだか朦朧としてきた気がする。黙って俺は幸香にスマホを渡した。それを幸香は5分程度操作する。何か、しきりに確認して見ているようだ。

 そして再び俺にスマホを返してくる。


「何したの?」

「浮気してないかチェックしただけ」

「してないよ」


 目が半開きになり、開けているのも困難になってきた。


「ほら、早く屋上に行って。睡眠薬で意識が朦朧としてきたでしょう?」

「うん……わかった……すぐに救急車呼んでね」

「大丈夫、一緒に行ってあげるから」


 促されるまま、俺は屋上への階段を上り始めた。


 足元がおぼつかない。


 何もないところでコケるようなこともあった。


 なんだか幸香の声がすごく遠く感じる。

 何か言っているのに理解ができない。


「もう少しだよ」


 俺は屋上の扉を掴んで、よろよろと歩く。


「ほら、そこにフェンスが途切れている場所があるでしょう? そこから飛ぶの」


 ふらふらと俺はその場所へと向かった。


 下を見ると結構高くて怖い。


 大丈夫。


 足から落ちれば骨折くらいで済む。


 と、思ったのだが俺は足がもつれてよろけた。


 その拍子に俺は足からではなく、頭から落ちた。




 ◆◆◆




「すみませんね、来ていただいて。最後に会っていたあなたに確認したいことがありまして」

「はい。大丈夫です」


 警視庁、取調室。

 刑事は私――――松原幸香に対していくつか質問を投げかけた。


篠村彩人しのむらあやとさんが屋上から飛び降りて死亡した件についてですけど、篠村さんは最後、あなたに対して“今から死ぬ”ってメッセージを送っていますね」

「はい……“いまどこにいるの?”と返事を返したときには返事が返ってきませんでした」

「篠村さんは何か兆候はありませんでしたか?」

「私と別れてから……様子はおかしかったです。不眠症になったみたいで精神科にも通ってたようですし、手首を切ったり…………爪を剥がしたりしてました」

「なるほど。爪を剥がすなんてかなりですね。よほどショックだったようだ」

「まさか自殺するとは思いませんでした」

「あなたは篠村さんに暴力を受けたことがあったようですね」

「はい……喧嘩になった際に殴られました」


 私は左頬を抑えながら刑事に向かって返事をした。


「以前にもあったんですか?」

「いえ。その時が初めてでした」

「警察には相談しなかったんですか?」

「はい。それほど深手ではなかったですし。1度は許そうかと思いまして」

「別れた原因はなんだったんですか?」

「彩人の浮気です。私が振りました」

「その件で、篠村さんを恨んでいたということはありますか?」

「…………そうですね。裏切られて悲しかったですし、酷く落胆しました。でも、憎んだり、恨んだりとかはないです」

「そうですか。まぁ、彼の携帯のメッセージを拝見させていただいたんですけど、特に不審なことはありませんでしたし、自殺だとは思いますが念のためにお話を伺いました。すみませんね。これだけのことでご足労いただきまして」

「事件の可能性もありますから、仕方ありませんよ」


 刑事の取り調べはそれだけで終わった。


 簡単だ。


 私の送ったメッセージを復元することができれば、私がした自殺教唆が表向きになっただろうが、私と彩人がやり取りしていたアプリは過去の会話履歴が復元できないアプリだ。

 一部のメッセージを消してしまえば私と彩人は普通に会話していたことになる。

 不自然にならないように私は最後に彩人のスマホを借りた時に消しておいた。検索履歴も不自然なものは一通り目を通して削除しておいたし、彩人の携帯から何か証拠が出ることはない。


 彩人は私にフラれて明らかに異常行動をしたように刑事に思わせることができた。

 刑事も精神科の医師には確認を取っただろう。そのときに彩人が多少なりとも「死にたい」と言っていた記録も残っている。

 それに、検死解剖でも彩人からは睡眠薬の成分が検出される。それも、それなりに強い睡眠薬だ。睡眠薬服用時の朦朧状態で判断能力の低下で突発的に起きた事故とも、自殺とも捕らえられる。

 睡眠不足は判断能力の低下を引き起こす上に、睡眠の妨害は古典的だが効果的な拷問方法だ。彩人の場合は全く眠らせなかったわけではないので、睡眠断絶に起こるような妄想症状もなかった。

 ただ、作戦は成功。

 睡眠不足で判断能力が落ちた彩人は私に見捨てられるんじゃないかとどんどん不安になっていって、最終的に屋上から飛び降りた。

 殴られたって言うのは嘘。罪悪感を植え付ける為に私は自分の顔を自分で殴った。

 睡眠薬による健忘で彩人は記憶がない状態。騙すのは簡単だった。


 ちょっとした心理ゲームだ。

 人間は小さい要求から初めて、徐々に大きな要求をしていくとその要求を飲みやすくなるらしい。ピアスや歯形は全て自傷行為に慣れさせるため。タトゥーを入れさせようかともと思ったけど、それは明らかに不自然だったのでやめた。ホラー映画を見せたのも、自傷行為をさせやすくする為。

 以前ネットニュースで見つけた海外で流行った自殺ゲームを真似て、自分なりに彩人を操ってみたが、思ったよりも上手くいった。


 私は達成感でいっぱいだった。


 なんで私がそこまでして彩人を死に追いやったかって?


 そんなの簡単な理論だよ。


 浮気した方が悪いでしょう?




 END




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